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第七章 アイリス六歳

その48 イリスふたたび

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         48

 無数の光球がカルナックお師匠さまをすっかり覆い隠した。やがて光球は、お師匠さまの皮膚に溶け込んで消えていった。
 じっと見つめていた、あたしの胸に。
 水が流れ込むように、声が響いた。

『ごめんなさい、アイリス。あたしの意識は薄れていくわ。話しかけてくれても、プログラムされた返答をするしかできない。……でもね、待ってて、可愛いアイリス。この世界の、あたしも。きっと、あなたと友達になるから。待ってて……』

 ただ一つ、わかることは。
 これが永遠の別れじゃ、ない。
 きっと、また会える。
 あたしの、精霊石に宿っていた魂は……
 お師匠さまの、おねえさま……だったんですね。
 

「カルナック様! ご無事ですか」
 マクシミリアンくんが半身を起こして、叫んだ。
 さっきまで意識を失って倒れていたのに。

「私は、この通り回復している。君こそ、どうだ」
「はい、なんとか」

「やっぱりお師匠様の状態とリンクしていますね。やれやれですよ。お師匠様、マクシミリアンのためにも、無茶は極力しないでください」
「ああ、そうだな、君の言うとおりだリドラ」

「まあ、信用はしてませんけど」
 肩をすくめる、サファイア=リドラ。
「無茶をしないお師匠様なんて考えられませんもの」

 そしてあらためてお師匠さまに向き直った、あたしは、目を瞬いた。はっきり言えば、二度見した。
「あのう、お師匠さま。本当に、すっかり回復されたみたいですね。なんだか……」

「ずいぶん若返ったじゃないか!」
 遠慮のない言葉を投げかけたのは、アーくんだ。

「失敬な。ひとのことを年寄りみたいに」
「だってそうだったろ? 生き甲斐がなければヒトってのはやってけない生き物なのさ。よかったじゃん、いまは、生きる理由ができたんだ」

「……否定はしない」

「うん、いいね。カルナック。この世を楽しんで。それが精霊とボクたち竜の願いだよ」
 アーテル・ドラコーは立ち上がった。
 外見からは幼さの残る少女と思えるのに、その肢体にしては、ゆったりと、重みのある動作で。
 背中をそらせると、ふいに、ばさばさと、見えない翼がはばたいて、突風を起こす。

「行くのか」

「うん、そろそろだね。ボクって、もともと人間世界には《縁》づいてないから。今回、この空間にはカルナックの駄々洩れした精霊火が満ちているから顕現できたわけ。またね。何かすっごく困ったことがあったら、呼んでよ。あ、そうだ。アイリス! まえにあげたウロコ使っちゃったから、また、あげる。呼んでくれたらまた来てあげるから。つぎはアイリスとエステリオ・アウルの結婚式かな?」
 つやつやの黒いウロコを一枚、あたしの掌に落とした。
「もうっ! からかわないで」

「あははははは」
 愛嬌のある笑顔で、ぱっちり、ウィンクして。
 足先が、ふわっと床から浮いて、離れた。

「助けてくれて、ありがとうアーくん!」
 急いでお礼を言う。

「どういたしまして! 楽しかったよボクも」
 ばさっ!
 一回だけ聞こえた羽ばたきのあとに、アーくんの姿は消えていた。

「さて、あとは……エステリオ・アウルの問題か」
 カルナックさまは起き上がり、黒い衣を、ぱんと、はたいた。
 切り裂かれた衣から露出している部分の肌には、うっすらと白い傷跡が残っていた。

「大広間の破壊と、人的被害もはなはだしい。セラニスも、まったくはた迷惑な。サウダージで引きこもっていればよいものを」

「やっと思い出してくれたみたいだね」
 広間の中央から、声がした。
 ようやく、乗っ取ったエステリオ・アウルの声帯を操作できるようになったのか。その声は、先ほどまでとは違う、しゃがれた響きがこもっていた。

「ぼくはエステリオ・アウルの身体を手に入れた。ヒトとしての権利を得ている。そこにいる、ラゼル家の跡取り娘アイリスも、ぼくの婚約者だ。今すぐ結婚してもいい。当主夫妻は死んだ、ぼくが主人だ。なのに、魔法使いたち、いつまで人の家に居座るつもりだい」

「そうきたか」
 カルナックさまは、低く、笑った。
「権利を主張するなら義務も果たさねばならないのだぞ。今のおまえは精霊の聖なる光に『目』を奪われ、見ることもままならないはずだろう」
 
「視力なんて」
 セラニスは、うそぶく。
「そんなの、どうにだってなる。それより、出て行ってもらおうか。侵入者としてね」

 尊大に言い放つ。
 けれど、あたしは、見た。
 彼の目に涙が、こぼれていた。

 エステリオ・アウルが。
 絶望して、泣いている。
 見えない目で。

 許せないわ、セラニス!
 大好きなエステリオ叔父さまを苦しめて!

 ぶるぶる震えていた、あたしの肩を。
 お師匠さまが、ぽんと叩いて、微笑みを浮かべて、言った。

「さて……イリス・マクギリス嬢。そろそろ出てきてくれないか? アイリスにとって、この状況は限界だ」

「あら、ご指命? 嬉しいわね」
 アイリスの表情が、急に柔らかくなり、大人びて見える。

「あたしも出てきたかったわ! 床下に仕掛けられてた気持ち悪い装置が原因だと思うけど、活動を邪魔されてたの。今は、カルナックお師匠様から漏れ出た精霊火が、そこら中に満ちているから。おかげで、妨害が無効になっているみたい。アリス、しばらく休んでいなさい」

 表情が引き締まる。
 幼さが消え、瞳に溢れる魔力の青が、更に明るくなっていく。
 柔らかな唇が開いて、紡いだ言葉は。
 意外なものだった。

『……さっきから観察していたけれど。ずいぶんバグが多いのね。セラニス、あなたは、人類支援システムのはず。あなたの行動は致命的な齟齬を内包している。いったんファイルを完全削除し、バックアップデータから復帰することを推奨する』

 アイリスの口から出たのはイリス・マクギリスの声ではなかった。クリアで、無機質とも思える、大人びた女性の声だった。

「システム・イリス!?」
 目を見張ったのは、イリス・マクギリス。
「驚いた。ステム・イリスが、あいつに興味を示してる。コンタクトを要求しているわ」

 システム・イリス。
 それはアイリスの魂の中にある、もう一つの前世の記憶。
 だが、通常の人間とは少しばかり違う。
 地球の末期、仮想データベースで終わりのない、ループし続ける仮初めの生を送っていた人類を見守っていた管理システムである。
 開発者たちが人類管理システムに合成細胞からなる肉体を与えたとき、そこに、魂が宿った。
 イリスと名付けられたシステムは、ルート管理権限を委ねられ、滅亡する世界の終焉を見届けることになったのだ。
『セラニスと話してみたいのです。カルナック様、セレナンの力場をお借りしたいのですけど。精霊火に満たされたここなら、魂の座と同じだから』

「好きにしてくれて構わない、きみの思うとおりに」

『ありがとう、カルナック様』

 アイリスの目の前に、その女性は現れた。
 カルナックの傷から噴出した精霊火で満たされた空間に、投影された映像。
 魂の姿だ。
 年齢は二十代半ばくらい。
 色の白い肌、形の良い柔らかな唇。髪の色と同じ金色の眉とまつげ、涼しげな目元、明るい緑の瞳は、ときおり淡いブルーに揺れる。
 整った美しい顔にかかる黄金の髪は、緩やかに波打って腰まで届く。
 アイリスが成長したら、まさにこのようになるのではないか。

 システム・イリスの投影像は、ふわりと笑って、歩み寄る。
 アウルの肉体……その中に宿る、セラニス・アレム・ダルに。

『わたしはイリス。ただの人類管理システムよ。システム・イリスと呼ばれていた』

「システム・イリス!? 本当に? いや、あり得ない。彼女は消滅したはずだ! 滅亡に瀕した地球に縛り付けられて、人間たちに見捨てられて!」
 セラニスの顔が憎悪に歪む。

『地球の滅亡と共に滅びはしたけれど。見捨てられたわけじゃないわ。あなたの見方は一面的よ。プログラムが完成されていないでしょう?』

「ぼくは人間に生み出されたわけじゃない。途中までは造られていたけど。人間が滅びたからね。そのあとはイル・リリヤが完成させたんだ。きみも、一緒に連れていきたかったのに! それはできないって母さんが言った。箱船の研究者たちも。だからぼくは、彼らを冷凍睡眠から覚まさなかった」

『研究者の思惑ともイル・リリヤとも関係ないわ。わたしのウェブは地磁気によって形成されていたから、地球と切り離すことはできなかった。それだけのことよ』

 イリスの声に曇りはない。
 感情というよけいなものに左右されない、的確な判断。

「それだけのこと? なぜ理不尽な命令を受け入れる? イリス、きみなら、きみだけは、ぼくをわかってくれると思ったのに。だから、きみに似た匂いのする魂を、探し続けてきたんだ!」

「アイリスのように?」

「そうだよ。彼女を見たとたんに、これだって思ったんだ。もう離しはしない。凍らせてずっとそばに置いておきたかった! だって人間は、すぐに老いて死ぬから」

『セラニス・アレム・ダル。あなた、人類の庇護者であるべきイル・リリヤのプログラムを改竄したわね? 自分の都合のいいようにイル・リリヤのシステムを操り人間世界の政治に介入している。管理システムとして、あってはならないことよ。あなたこそ、最大のバグだわ』

「人類なんてどうなったっていいじゃないか。システム・イリス。ねえ、もしもきみが、ぼくのそばに、ずっといてくれるなら、ぼくは人類の味方になってもいいんだよ?」

『それは提案? でも、あなたのプログラムは欠損だらけだわ。美しくない……』
 システム・イリスは、眉をひそめた。

 ふいにセラニスは身を起こし、システム・イリスの手を捕まえようとした。
 だが、それは投影像にすぎないのだった。
 虚しく、手は空をつかむ。

 高い金属音が空気を震わせ、切り裂く。

 あらわになった土中に、まだ、禍々しい血のような巨大な円があり、脈動している。
 それがうごめくたびに、空気がふるえ、近くにいる者の生命を搾り取る。

「お師匠様! 魔導師協会本部に残っている人員と、国家警察が、じきに応援に来る予定ですが」
 ヴィーア・マルファが声を上げた。

「無駄だ。何人来ても、同じ結果になる。近づけば、あの装置に生命を吸い取られるのだ。あれに影響されないものは……人間ではない存在だ。私なら、近づいても生命を吸い取られることはないだろう。私は精霊火に動かされているのだから」

「だめです! あなたが行くなら、おれも」
 マクシミリアンはカルナックに手を伸ばしたが、振り払われてしまう。

「それこそ、だめだ。きみはここで待っていてくれ」

「お師匠様! またそんな無理を!」
 止めようとしたリドラの手を払って、カルナックは、一人で立ち上がり、災厄の、禍々しい赤い円環に向かって、歩き出した。

 そのときである。
 広間の中央、土がむき出しになった部分に、現れた人物がいた。
 十四、五歳ほどに見える一人の少女と、二十歳くらいの、一人の青年。
 だが不思議なことに、近づく者すべての生命を搾り取る赤い円環のすぐ傍らに立ちながら、彼らは、なんの影響も受けていないようだった。

「人間に手を貸すのは気が進まないんだけどなあ」
 少女はけだるそうに、長い銀色の髪をかきあげた。挑戦的な瞳は水精石色の光を溢れさせている。

「仕方ありません、ラト」
 同じく長い銀髪と水精石色の目をした美貌の青年が、肩をすくめる。

「あら、あなただって、いつもは人間に関わるなっていうくせに、レフィス兄様」

「今回は身を挺して精霊界にやってきた精霊(エレメント)達に頼まれたんだ。カルナックも困っていることだし」
 少女よりかなり背が高い、銀髪の青年が応えた。
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