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第七章 アイリス六歳

その45 叫んでいるのは誰?

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         45

「それにアイリスは、ぼくの婚約者だ。うふふ。楽しいな。どこへだって連れて行ってあげる。きみはまだ館の外に出たことなかったんだよね。世界はこんなに広いのに…………かわいそうだね」

 かわいそう、だって。
 どの口が言うの? そう思ったけれど。
 不思議なことに。
 人間のことなど何も考えていない残酷な存在に、あたしはほんの一瞬だけ、優しさを感じてしまった。理解なんか絶対にできないけれど。

 ふいに薬指が熱くなった。
 指輪が柔らかな緑の光を帯びていたの。

 あたしの誕生石のエメラルドをはめ込んで精霊白銀を指輪にしてエステリオ叔父さまが贈ってくれた婚約指輪。
 お父さまとお母さまがお仕事でいない夜、怖い夢を見てあたしが泣いていたら子ども部屋にやってきてなだめてくれた、絵本も読んでくれた……エステリオ・アウル叔父さま。
 あたしと同じ『先祖還り』で、前世からの縁がある、かけがえのない人。
 涙が……あふれてきた。
「返して、あたしの許婚なの!」

「おかしいな」
 セラニス・アレム・ダルは、首をかしげた。
 目の端から一筋の涙が、こぼれ落ちていた。

「胸が苦しい……アイリス、きみを見ていると苦しくなる。ぼくは面倒くさいのは嫌いだから首を折って殺せばいいんだ、簡単なことなのに……でも、そしたら……きみは、どこにもいなくなってしまうんだ」

 涙をこぼしているのは、アウルだ。
 セラニスの中に閉じ込められている、あたしの、エステリオ・アウル。

「この感覚は……身体を持つ前には、なかった。縛られているような感じが」

 セラニスは、自分の薬指にはめている銀色の指輪に目をとめた。
 あたしとアウルを繋いでいる、かすかな結びつきに、気がついた。
「これは……なんだ?」
 苛立たしそうに外そうとする。
 けれど、指輪はびくとも動かない。

「それは契約の指輪だよ。だから一生、外れない」
 答えたのは、一切の前触れもなくこの場に現れたカルナックお師匠さまだった。

「今夜のためにエステリオ・アウルに用意させておいたのだ。コマラパが立会人となって、アイリスとエステリオ・アウルに指輪を交わしておくようにさせた」

「そんなものに、なんの意味がある?」

「おまえには理解できないだろうが。人には、愛情というものがあるのだ」

 カルナックお師匠さまとサファイア=リドラ、ヴィーア・マルファさん、マクシミリアンくんが、いた。
 涙が出るほど嬉しい、援軍。
 ……嬉しいけれど、来て欲しくはなかった。
 他の魔法使いたちのように、みんな、きっと、死んでしまう。
 糸が切れたマリオネットみたいに倒れて。

「カルナックお師匠さま! コマラパ老師さまは、来るなって……危険だって、おっしゃったのに」

 コマラパ老師の、最後の言葉だった。
 だけどカルナックさまは、唇の端をかすかに持ち上げて、小さく笑った。

「それで引き下がるような私ではないことくらい、コマラパはよく知っているさ」
 そうおっしゃって。
 サファイアさん、ヴィーア・マルファさん、マクシミリアンくんを制した。
「きみたちは私が許すまではここに控えているように。あいつを刺激してはいけない。倒れている人たちにも近づかないようにしなさい」

「なあんだ、誰かと思えば。五百年前に、ぼくの器になるはずだった人間じゃないか」
 セラニスは笑った。
 あたしの首にかけていた手を放してそこらへんのテーブルの上におろして、カルナックお師匠さまと向き合った。なぜ、あたしを自由にしたのかは、わからない。たぶん、邪魔だったのだ。

 こうして相対したところを見ると二人は全く違うのに、なぜか、似ているような気がした。
 鏡に映った像のように。
 ただし鏡像は対極にある。
 鮮やかな赤い髪と暗赤色の目をしたセラニスと。
 漆黒の髪と淡青色の光を目に宿した、お師匠さまと。

「あいつは不老不死を望んだ。レギオン王国を出て新しい国を興すと言って。血族すべてを殺して『魔眼』に捧げ。器に用意したのは、唯一愛していた、いたいけな末の男子。つまり、きみだったよねカルナック。ああ、違うか。あのときはまだカルナックという名じゃなかったねえ。……レニウス・レギオン?」

 あたしは、ぎくっとした。
 もしかしたら、さっきセラニスがヒューゴーお爺さまに話していたのは、カルナックさまのことだったの?
 胸が騒ぐ。
 レニウス・レギオン……?
 初めて聞く名じゃない気がした。
 どこで? いつ? 誰から……?
 このときの、あたしには、思い出せなかった。
 忘れたはずのことなんて、知るはずないのだから。
 どうしたのかしら。
 お師匠さまとエステリオ叔父さまが協力して作ってくれた、精霊石をはめ込んだ精霊白銀のお守りブレスレットが光を放っている。青白い光が漏れ出して……水みたいに、床に流れ落ちていく。
 ……あれ?
 この青白い光がどんどん床に落ちて水たまりみたいになっているのに、誰もわからないの?
 あたしの他には?
 
「おやセラニス、悠長におしゃべりなどしている暇があるのか? こうしている間にも要請を出しておいた大公閣下の私兵か都市警察が、はせ参じてくるとは思わないのか」
 カルナックさまは煽っている。

「面白い冗談だねえ。この都市の警察組織なんて役に立つわけないだろ。昔もそうだったよね。魂を壊すためといって、きみもずいぶん酷い目にあったじゃないか。人間って、残虐だよな。あれには、ぼくも呆れたよ」
 低く、しのび笑う声。
 悪意に満ちて。

「そもそも、おまえが父を唆したのだろう?」

「あそこまでやれなんて言わないって。死んじゃったら器としては使えない。ぼくだって、あまり損傷の激しい器に入るのは気持ち悪いんだから。惜しかったよ。使えないと思って放置していたら、セレナンに取られちゃうんだもんなあ。あんなにひどく損なわれた身体に、精霊火を入れて生き返らせるなんて反則だよね」

「おまえが言うか?」
 カルナックお師匠さまの周囲に、精霊火スーリーファの青白い光球が集まり始めた。
 その姿が、霞むほどに。

 セラニスは鼻白む。
「一度死んで。セレナンが生き返らせてから。きみは前世を思い出した。ぼくにはよく理解できないけど。きみこそ本物の魔女だ。カオリ」

 その名前を耳にしたとき、マクシミリアンは、衝撃を受けた。
 魔女、カオリ。
 彼は、確かにそれを知っていたから。

「カルナック様! だめだ、それ以上、そいつに近づかないで!」
 控えているように言いつけられていたのに。マクシミリアンは我を忘れて駆け寄ろうとし、隣にいたサファイア=リドラに肩をつかまれた。
「お師匠様には深いお考えがあって、なさっておられること。迂闊な行動を起こせばかえってお師匠様の身を危うくしかねない」
「でも」
「わたしだって我慢しているんだ」
 低い声で、呟く。いつもの彼女の口調ではなかった。
「ルビーを……ティーレを倒すなんて」
 はっとして、マクシミリアンはサファイア=リドラの顔を見上げた。
 その隣にいるヴィーア・マルファも、兄エルナトが倒れているのをを見ている。非常な決意で、動かずに待機しているのだ。

「レニウス・レギオン……魔女カオリ。カルナック。セレナンが生き返らせてから、きみは、ぼくの掌握できない力の流れを構築し、政治に干渉し、手に負えない魔法使いたちを育てあげた。なんのために?」
 セラニスの声に、苛立ちが混じりはじめた。

「おまえが不老不死を与え、力を与えた、災厄を生み出す存在。ガルデルの統治するグーリア帝国から、私の愛する世界を守るためだよ」

「愛? なにそれ?」
 再び、セラニスは疑問を発する。

「おまえにはわからなくても、おまえが今、憑依している身体の持ち主には、わかる。その証拠に、まだアイリスを守っている。本来のおまえなら、少し反抗されれば、すぐ殺していたはず」

「そんなことあるもんか!」
 セラニスは明らかに動揺した。

 そのとき。セラニスにも予想できなかったことが、起こった。
 彼の意思ではないように、アウルの手が、動いて。
 テーブルに乗せていたあたしに、顔を近づけた。
「愛してる」

「叔父さま!?」
 離れる直前、耳元で囁いた、優しくあたたかい声は。

 次の瞬間に、くぐもった呻きになった。

 エステリオ・アウルが『覚者』の装備として持っていた、儀式用の銀色のナイフが。
 ありえない場所に突き出ていた。

 尖った刃の先端が、彼の喉を破って。首筋の後ろに、突き出ている。
 ほとばしり出る血は、鮮やかな赤。

「あああああああああああああああああああああああ!」

 叫んでいるのは誰?

 喉が切れて、血を吐いて。叫んでいるのは、

 あたし。

「アウル!」


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