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第七章 アイリス六歳

その41 動脈を流れる血よりも赤く

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                    41

 転移魔法陣に入るとき。
 人は、不思議な幻を見ることがある。

        ※

 ふと気づくと、マクシミリアンは銀色の光に満たされた、何もない空間を歩いていた。

 前方にいるのは、背の高い少女だった。
 十七、八歳くらいだろう。
 白い木綿地に青い小花柄のワンピース姿で、薄い肩には生成りリネンのショールを掛けている。
 まっすぐな豊かな黒髪が腰までを覆っている。

 少女は振り向いて、澄んだ黒い瞳を、驚いたように大きく見開いた。
 花が咲いたような満面の笑みを浮かべる。
 見る者の心をとらえないではいない、美しい少女だった。

「こんなところにいたの? ずいぶん探しちゃったわ!」

 嬉しそうに笑う、少女。
 何の屈託もない笑顔がまぶしくて、彼は目を細めた。

「ずっと一緒にいるって約束した」

 少女は彼の手をとって、ぎゅっと握りしめる。

「忘れないで。……くん。わたしより先に死なないで」

「約束する。オレはずっと、一生、きみのそばにいる」

         ※

 けれども遠い約束は、遙かな昔に滅びた白い太陽の彼方に潰えた。

 覚えているのは、泣いている彼女の顔だった。
 地面に、じかに座り込んだ彼女は、夥しい血を流して倒れている、彼の頭を、いとおしげに抱いて。

「うそつき。……ウソツキね君は。わたしより先に死なないって約束したのに」
「ごめん……」
 しゃべろうとしたら、血が、のどに詰まった。
 こんなはずじゃ、なかったんだ。
 街の喧騒。
 近づいてくるパトカーのサイレン。
 クリスマスソングが街に流れていた。

「ママもパパも、充くんまでいなくなったら。わたしは世界を呪う、魔女になるわ」

(だめだ、カオリさん。そんなこと考えちゃいけない)
 だれか、助けて。彼女を。

《助けてあげようか?》

(だれ? ううん誰でもいい。助けて、カオリさんを)

《ふうん。いいけど。じゃあ、きみの魂は、もらってもいいよねえ?》
 見えない腕が彼の胸を突いて、尖った指が、今にも皮膚に突き刺さりそうだ。

 心臓が、ずきりと傷んだ。
(だめだ。カオリさんは、オレが守るんだ。魂は、やれない。もう、とっくに……彼女のもの、なんだから)

 オレは誓う。
 今度は。今生こそは。

「ずっと、あなたのそばにいる。絶対に、あなたより先に死んだりしないと誓う」

 未来永劫に。たとえ死んで魂が消滅したとしても。
 あなたのそばを、離れない。

 やがて
 視界が暗転し、周囲は暗闇に閉ざされる。
 そこに、長い銀髪をたなびかせた一人の少女が降り立った。年頃は十三歳ほどに見えた。
 だがヒトにはありえないほどに、神々しい気をまとっている。

『よくやったわ、充。危機を乗り越えたのよ』

 言われてもぴんとこない。
 だが、彼自身の、致命傷だった傷が消えていた。

『あんな偽物の口車にのっては、不幸にしかならないわ。おめでとう、甘い毒に抗いしヒトよ。ご褒美に、あなたをずっと待っていたヒトと会わせてあげる』

 再び、あたりは夜明けのような薄明に包まれた。

「リトルホーク?」
 十歳を少し越えたくらいに見える華奢な少女が、満面の笑顔で、立っていた。
 長い黒髪を二つに分けて三つ編みのお下げにした、つややかな黒い瞳の少女。袖のない真っ白なワンピースを着て、彼の手をとる。
「待ってたんだよ。ずっと、ずっと待ってた。この姿のままで。だって成長していたら、おれのこと誰だかわからなくなってるかもしれないもん」
 少女は彼の手を持って、柔らかな頬におしあてた。

「濡れてる。泣いたのか? ルナ」
「……ばか。誰のせいだよ」

「オレのせいだな。ごめん。このままで、いよう」
 彼は少女を抱きしめる。

「もう離さない」
「離さないで、もう二度と」

 彼はわかっていた。これは夢で幻で、ほんの一つ瞬きすれば、消えてしまうんだろうって。

『いいえ幻なんかじゃないわ。これから、あなたたちが叶える夢なのだから』
 小さな鈴を振るような澄んだ声で、銀髪の少女が、微笑む。
『ここは魂の奥津城。ヒトは現世に戻れば出れば忘れてしまうさだめだけれど。覚えていて。小さい鷹。すべてを見て歩くといいわ。遠くを見通すその目で。リトルホーク……早く、育って。大きくなってね』

          ※

 わっ、と、周囲の喧噪が耳に飛び込んでくる。
 膨大な音の洪水。
 膨大な映像。

 床に足をついた瞬間に、いきなり感じる、自らの体重。
 現実の肉体との「魂」のずれに、こらえきれずにマクシミリアンは体勢を乱して床に膝をついた。

「マクシミリアン! だいじょうぶか」
 差し伸べられた、白い手。
 顔を上げる。憧れる人の、彼にしか見せない優しい顔が、目の前にある。

「はい。だいじょうぶです。カルナック様」

 カルナック、マクシミリアン、リドラ、ヴィーア・マルファは、転移魔法陣を通じて、大広間の裏手に設けられた控え室に出た。
 会場から、騒ぎが聞こえてきたが、やがて、静まりかえった。
 控え室から出てすぐのところに、アイリスたち、ラゼル家一同のテーブルが設置されているはずだ。

 その瞬間、そこで見た光景は、信じがたいものだった。

 ラゼル家の当主マウリシオと妻アイリアーナは、テーブルの脚の方に倒れていた。
 まわりには、コマラパ老師、ティーレ、エルナト、魔法使いたちがことごとく伏している。全員がぴくりとも動かないため、生死のほどはわからない。
 招待客たちも、皆が倒れて、気を失っているのか死んでいるのかも定かではなかった。

 奥のテーブル席にはアイリスとエステリオ・アウルがいるはずだった。

 だが、そこにいたのは。

 動脈を流れる血よりも赤い髪を逆立て、暗赤色の瞳をした背の高い青年だった。
 アイリスを両手で持って高く掲げている。
 精霊の特別な加護を受けた白いヴェールで、害意を持つ持たないにかかわらず何ものからも守られていたはずなのに、ヴェールはアイリスの足もとに落ちてしまっていた。

 今にも手が『うっかり』滑って、アイリスの首を絞めて殺しそうな、剣呑な空気があった。
 その青年は、エステリオ・アウルの体つきや容貌をそのまま写し取ったかのようであり、髪と目の色合い以外はそっくりな姿をしていた。

「離して! エステリオ叔父さまを返して!」
 アイリスが悲鳴をあげる。

「だーめだよ、捕まえた! アイリス。きみはもう、未来永劫に、このぼくのもの!」
 赤い髪と暗赤色の瞳の青年が、愉快そうな笑い声をあげた。
 ただ、その声は、青年のものではない。音域が、高い。
 幼い少年のような声だ。

「ねえ知ってた? この身体は本来、ぼくのために用意されていた空っぽの器だったんだよ。エステリオ・アウルが四歳になったときに、念入りに魂を壊しておいて、祭壇に捧げさせたのさ!」

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