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第四章 シアとアイリス
その9 大公妃セシーリアの離宮にて
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9
エルレーン公国、大公妃セシーリアの離宮。
離宮の内装は、セシーリアの出身地であり未だに領主として統治している自治領スール・アステルシア風に仕上げられている。
スール・アステルシアから運び込まれた大理石をふんだんに用いた、荘厳な建築。
高い天井、吹き抜けを多用し、風通しのよい建物だ。
ただし警備まで解放的というわけではない。
幾重にも関門をもうけ、精鋭の護衛騎士たちが昼夜を問わず詰めていて、人の出入りに監視の目を行き届かせている。
スール・アステルシアは、南のアステルシアという意味の地名である。かつて遙か北方に存在していた古王国アステルシアの子孫が移り住んで開拓したという由来による。
その末裔たちにとって、セシーリアは今も、これからも、絶対の君主なのだった。
大公妃セシーリア。
スール・アステルシアの女領主であると同時に大公の正妃。
そして公嗣フィリクスと、ルーナリシア公女の生母である。
彼女はエルレーン公国公立学院に留学して、現在の大公フィリップと出会った。
生まれながらに決められていた婚約者……レギオンの第三王子……を捨てて、恋を取った、という。
セシーリアとフィリップの婚姻のいきさつは、学院で芽生えた世紀の恋愛として巷の噂になり詩、歌、演劇として上演されるまでに至った。
彼女がスール・アステルシアの領主となり、そのまま持参金として嫁いだ時には、エルレーン公国及びレギオン王国ばかりか、このエナンデリア大陸中が騒然とした。
いまだレギオン王国にも深い繋がりを持っており、二つの国にとどまらず広く権勢を誇る女傑であるが、やり手であるという噂とは裏腹に、四十歳という年齢を感じさせない若々しい美貌。濃い緑の瞳はエスメラルダの輝きに例えられる。
よく手入れされた豊かな黄金の髪は大公妃にふさわしく高く結い上げられて、大公が贈ったエスメラルダの耳飾りが映え、白い肌を引き立てる。
離宮に仕える者たちは、スール・アステルシア及びエルレーン公国全土を探しても他に追随を許さないであろう、精鋭揃い。剣や魔法の腕においても、また、その見目麗しさにおいても、である。
側近から下働きに至るまで、セシーリアは全員の顔、素性、背後関係を熟知しているのであった。
『自分の身は自分で守るものよ』
彼女の名言の一つである。
しかし、この日。
大公妃だけが座る椅子に、腰を下ろして。
セシーリアは何度目かのため息をついていた。
「待っている時間は長く感じるものだこと」
つぶやいた、
そのとき。
シャン!
静まりかえった離宮の中に、小さな鈴の音が響いた。
離宮の床がまるで水面のように見えて、銀色のさざ波が同心円状に広がる幻が出現した。
次に、銀色の魔法陣。
魔法陣の中心に降り立ったのは、白い、素足のつま先。
続いて、細いけれども引き締まった足首に、銀の薄板を重ね、鈴を連ねたアンクレットが揺れて、すずしげな音を立てた。
漆黒の衣が、夜のとばりのように降りかかる。
全身に真っ黒な衣をまとい、下の方だけ緩く三つ編みにした長い黒髪、魔力を溢れさせている青い瞳は、抜けるように白い肌との対比が鮮やかに目に飛び込んでくる。
素足で離宮の中心、大公妃の『座』ほど近くに現れたのは、長身の、美青年だった。
見る者の魂を虜にしないではいない、危険な微笑みを浮かべて。
「ため息とは、穏やかではありませんね、セシーリア」
とたんに、セシーリアの表情が明るくなる。
椅子から立ち上がって、身を翻す。
現れた青年に、片膝をついて、大公妃の身分に許された最上級の敬意をあらわした。
「カルナックお師匠様! お待ちしておりました」
「約束の刻限に少し遅れました。申し訳ない」
「とんでもございません。お忙しいところ、ご足労いただき、ありがたき幸せに存じますわ」
「……セシーリア。かしこまった公的な物言いは、疲れませんか。そろそろやめにしましょう」
「わかりましたわ。懐かしき公立学院の学び舎におりました昔通りに。お師匠様の弟子として」
顔を上げ、華やいだ笑みを浮かべるセシーリア。
「おまえたち、下がって、ここへは誰も近づけないようにして」
人払いをして側仕えたちを下がらせる。
大公妃としては異例中の異例のことである。
「お師匠様。先日、わたくしの不詳の息子、公嗣でありながら味方の少ないフィリクスの後ろ盾となるとおっしゃいましたわね。そのために、ご自分をエルレーン公国の『公妾』として広く流布してかまわないだなんて……正気でいらっしゃいます?」
「ああ、そのことかい? 大丈夫、正気だよ」
カルナックは笑った。
「いったいどういうことですの。わたくしだけ真相を知らないなんて、ひどいですわ。フィリップもフィリクスも、普段は口が軽いくせに、今回はいくら問い詰めても漏らしませんのよ」
「フィル坊やには条件付きで口止めをしたのでね」
カルナックは美しい顔に悪戯っぽい笑みを浮かべた。
フィル坊やとはエルレーン大公フィリップのことである。
「どんな条件なんですの」
「話してもいいけれど。そしたら君も、私を裏切ることはできない。共犯になってもらうよ」
「まあ、もちろん望むところですわ!」
セシーリアの目が輝いた。
「ずっと申し上げていますでしょ。わたくし、カルナックお師匠様のお役に立ちたくて、レギオンの王子を袖にしてフィリップを選んだのですわ!」
「冗談だよね?」
軽く、引く。カルナックだった。
「もちろん、本気ですわ」
セシーリアの目は笑っていた。
「レギオンの第三王子は、先祖の血筋を鼻にかけた、いけ好かない自信過剰男でしたしね。フィリップは、それに比べたら可愛げがあったのです。捨て犬みたいで」
エルレーン公国、大公妃セシーリアの離宮。
離宮の内装は、セシーリアの出身地であり未だに領主として統治している自治領スール・アステルシア風に仕上げられている。
スール・アステルシアから運び込まれた大理石をふんだんに用いた、荘厳な建築。
高い天井、吹き抜けを多用し、風通しのよい建物だ。
ただし警備まで解放的というわけではない。
幾重にも関門をもうけ、精鋭の護衛騎士たちが昼夜を問わず詰めていて、人の出入りに監視の目を行き届かせている。
スール・アステルシアは、南のアステルシアという意味の地名である。かつて遙か北方に存在していた古王国アステルシアの子孫が移り住んで開拓したという由来による。
その末裔たちにとって、セシーリアは今も、これからも、絶対の君主なのだった。
大公妃セシーリア。
スール・アステルシアの女領主であると同時に大公の正妃。
そして公嗣フィリクスと、ルーナリシア公女の生母である。
彼女はエルレーン公国公立学院に留学して、現在の大公フィリップと出会った。
生まれながらに決められていた婚約者……レギオンの第三王子……を捨てて、恋を取った、という。
セシーリアとフィリップの婚姻のいきさつは、学院で芽生えた世紀の恋愛として巷の噂になり詩、歌、演劇として上演されるまでに至った。
彼女がスール・アステルシアの領主となり、そのまま持参金として嫁いだ時には、エルレーン公国及びレギオン王国ばかりか、このエナンデリア大陸中が騒然とした。
いまだレギオン王国にも深い繋がりを持っており、二つの国にとどまらず広く権勢を誇る女傑であるが、やり手であるという噂とは裏腹に、四十歳という年齢を感じさせない若々しい美貌。濃い緑の瞳はエスメラルダの輝きに例えられる。
よく手入れされた豊かな黄金の髪は大公妃にふさわしく高く結い上げられて、大公が贈ったエスメラルダの耳飾りが映え、白い肌を引き立てる。
離宮に仕える者たちは、スール・アステルシア及びエルレーン公国全土を探しても他に追随を許さないであろう、精鋭揃い。剣や魔法の腕においても、また、その見目麗しさにおいても、である。
側近から下働きに至るまで、セシーリアは全員の顔、素性、背後関係を熟知しているのであった。
『自分の身は自分で守るものよ』
彼女の名言の一つである。
しかし、この日。
大公妃だけが座る椅子に、腰を下ろして。
セシーリアは何度目かのため息をついていた。
「待っている時間は長く感じるものだこと」
つぶやいた、
そのとき。
シャン!
静まりかえった離宮の中に、小さな鈴の音が響いた。
離宮の床がまるで水面のように見えて、銀色のさざ波が同心円状に広がる幻が出現した。
次に、銀色の魔法陣。
魔法陣の中心に降り立ったのは、白い、素足のつま先。
続いて、細いけれども引き締まった足首に、銀の薄板を重ね、鈴を連ねたアンクレットが揺れて、すずしげな音を立てた。
漆黒の衣が、夜のとばりのように降りかかる。
全身に真っ黒な衣をまとい、下の方だけ緩く三つ編みにした長い黒髪、魔力を溢れさせている青い瞳は、抜けるように白い肌との対比が鮮やかに目に飛び込んでくる。
素足で離宮の中心、大公妃の『座』ほど近くに現れたのは、長身の、美青年だった。
見る者の魂を虜にしないではいない、危険な微笑みを浮かべて。
「ため息とは、穏やかではありませんね、セシーリア」
とたんに、セシーリアの表情が明るくなる。
椅子から立ち上がって、身を翻す。
現れた青年に、片膝をついて、大公妃の身分に許された最上級の敬意をあらわした。
「カルナックお師匠様! お待ちしておりました」
「約束の刻限に少し遅れました。申し訳ない」
「とんでもございません。お忙しいところ、ご足労いただき、ありがたき幸せに存じますわ」
「……セシーリア。かしこまった公的な物言いは、疲れませんか。そろそろやめにしましょう」
「わかりましたわ。懐かしき公立学院の学び舎におりました昔通りに。お師匠様の弟子として」
顔を上げ、華やいだ笑みを浮かべるセシーリア。
「おまえたち、下がって、ここへは誰も近づけないようにして」
人払いをして側仕えたちを下がらせる。
大公妃としては異例中の異例のことである。
「お師匠様。先日、わたくしの不詳の息子、公嗣でありながら味方の少ないフィリクスの後ろ盾となるとおっしゃいましたわね。そのために、ご自分をエルレーン公国の『公妾』として広く流布してかまわないだなんて……正気でいらっしゃいます?」
「ああ、そのことかい? 大丈夫、正気だよ」
カルナックは笑った。
「いったいどういうことですの。わたくしだけ真相を知らないなんて、ひどいですわ。フィリップもフィリクスも、普段は口が軽いくせに、今回はいくら問い詰めても漏らしませんのよ」
「フィル坊やには条件付きで口止めをしたのでね」
カルナックは美しい顔に悪戯っぽい笑みを浮かべた。
フィル坊やとはエルレーン大公フィリップのことである。
「どんな条件なんですの」
「話してもいいけれど。そしたら君も、私を裏切ることはできない。共犯になってもらうよ」
「まあ、もちろん望むところですわ!」
セシーリアの目が輝いた。
「ずっと申し上げていますでしょ。わたくし、カルナックお師匠様のお役に立ちたくて、レギオンの王子を袖にしてフィリップを選んだのですわ!」
「冗談だよね?」
軽く、引く。カルナックだった。
「もちろん、本気ですわ」
セシーリアの目は笑っていた。
「レギオンの第三王子は、先祖の血筋を鼻にかけた、いけ好かない自信過剰男でしたしね。フィリップは、それに比べたら可愛げがあったのです。捨て犬みたいで」
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