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第二章 アイリス三歳『魔力診』後
その1 エルレーン公嗣フィリクスの回想
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死を覚悟した。
といえば聞こえはいいが、ようは意識が薄れてきて寒くなって、ああ死ぬんだと思っただけのこと。
倒れている敷石の冷たさに凍り付く。
空腹と渇きに耐えかねて口を付けた杯に注がれていた毒が口中を喉を焼いて。のたうち回ったあげく、体力も残っていた僅かな魔力も尽きた。もはや身動き一つ叶わぬ。
どうしてこんなことになったのか。
原因はわかっていた。身内の勢力争いだ。
公嗣の座が、それほど魅力的なのだろうか?
しかし神もなんと無慈悲なものだろう。せめて死を前に、うめき声さえ出せない、オレに、救いを。まぼろしでもかまわないから。
目の前が暗くなってきた。
その、ときだった。
シャン!
澄み切った鈴の音がした。
薄暗い中に、白い素足のつま先が現れた。
続いて、足首。細いワイヤーに小さな銀の鈴を連ねたアンクレットをつけた、左の足首だけが先に現れた。
トン。と、つま先が床についた。
また、鈴が鳴る。
その足首を覆い隠すかのように、真っ黒な衣の裾が降りてきた。
身体をすっぽり包み込む長衣。
長衣の上に纏うのは漆黒のローブ。
背の高い人物がいた。
闇色の衣と、床まで届く長い黒髪。黒い、長い杖を携えて。
うち捨てられていたオレを、その、ひんやりと青い目は、遙か高みから見下ろして。
かすかに、ため息をついた。
夜のような、長く黒い髪。月のような、白い肌。長身に纏うのは、闇の衣。
神々しくも禍々しい、少なくとも「ヒト」ではない。そんなありきたりの存在であるはずがなかった。
「純金の髪と金茶の瞳。やたらと華美なその色合いは私の好むところではないが。それは先祖の所業であってお前のせいではない。こんなところで親族に毒を盛られて失われてしかるべき生命ではない。フィリクス・アル・レギオン・エナ・エルレーン。今一度、手を伸ばせ。その生命の水をすくいとるがよい」
手を出せと言われて、オレは手をのばそうとしたが、ぴくりとも動かない。
身に巡る毒のせいだ。
そのひとは身を屈めて、オレの目を覗き込み。
白い指先で、頬に触れた。
「この程度の毒など、お前の先祖は、ものともしなかったぞ。気に入らないが、たいしたヤツだった……」
触れられたところから、清冽な水が流れ込んできた。
そう、感じた。
水流は体中をかけめぐりきれいさっぱり猛毒を洗い流していったのだ。
このとき、オレは恋に落ちた。
※
エルレーン公国首都シ・イル・リリヤ、貴族街の中枢に、大公の領分と呼ばれる土地がある。
それ自体が一つの街ほどの大きさ。
この中に、執務を行う広い公邸があり、同じ敷地内の離れたところに私邸が幾つかある。それぞれの館は回廊で繋がっている。
私邸の一つに、大公の公嗣(あとつぎ)と目されるフィリクス・アル・レギオン・エナ・エルレーンの居住する館がある。名前の中にレギオンと入っているのは、大公家の血筋が元々レギオン王国の王族であり、かの王国にルーツを持っているからである。
この夜、フィリクスは疲れていた。とある、気の進まない行事に参加していたためだ。
私邸とは言いつつ、公的な執務の書類に目を通す。
「やれやれ、休憩も何もあったもんじゃない」
ぶつぶつ呟く。
「公嗣さまご自身のせいですよ」
傍らに控えている補佐役のケインが歯に衣を着せない言葉を吐く。
「民の生活を知ることが重要だ、とおっしゃって。どこでも気ままにすぐお出かけになりますから」
「おまえ最近、オレに遠慮無いな」
「主人を見習っております。以前、おっしゃられたとおりに」
心なしか得意げにケインは答えた。
金髪、金目の主人に対して、彼は黒髪に黒い目だ。普段から信用できない人間に囲まれているフィリクスが慎重に見定めたのである。
どこかで、鈴が、鳴った。
通常の、鈴ではない。
その音は、この地上のみならず、精霊界へも響く。
微かでありながら、音波を広げていき、周囲を浄化していく作用を備えているのだ。
「待ち人がご到着です。殿下」
ケインの顔が、輝いた。
※
「やあ、呼びつけてすまないね」
にこやかに迎えたのだが。
「ちょっとでもそう思うなら、夜中に呼びつけるのは避けてもらいたい」
迎え入れられた客人は、明らかに不機嫌だった。
「急で申し訳ないが、少しばかり確認をしておきたくて。うちの『シア』の『魔力診』の宴は早々に退出したというのに、同じ夜に催されていた、あちらの家の令嬢に、ご執心だと小耳に挟んだのでね」
この私邸の主人。フィリクス・アル・エナ・エルレーン公嗣の顔から、一見軽薄そうだった笑みは消えていた。
「忌憚のない意見を聞かせてくれないか、カルナック。人払いはしてある」
「よけいなことを」
長い黒髪の、魔法使いは、いやそうに呟いた。
「おまえと二人きりになどならぬ。それでなくとも、無責任な噂で迷惑している」
死を覚悟した。
といえば聞こえはいいが、ようは意識が薄れてきて寒くなって、ああ死ぬんだと思っただけのこと。
倒れている敷石の冷たさに凍り付く。
空腹と渇きに耐えかねて口を付けた杯に注がれていた毒が口中を喉を焼いて。のたうち回ったあげく、体力も残っていた僅かな魔力も尽きた。もはや身動き一つ叶わぬ。
どうしてこんなことになったのか。
原因はわかっていた。身内の勢力争いだ。
公嗣の座が、それほど魅力的なのだろうか?
しかし神もなんと無慈悲なものだろう。せめて死を前に、うめき声さえ出せない、オレに、救いを。まぼろしでもかまわないから。
目の前が暗くなってきた。
その、ときだった。
シャン!
澄み切った鈴の音がした。
薄暗い中に、白い素足のつま先が現れた。
続いて、足首。細いワイヤーに小さな銀の鈴を連ねたアンクレットをつけた、左の足首だけが先に現れた。
トン。と、つま先が床についた。
また、鈴が鳴る。
その足首を覆い隠すかのように、真っ黒な衣の裾が降りてきた。
身体をすっぽり包み込む長衣。
長衣の上に纏うのは漆黒のローブ。
背の高い人物がいた。
闇色の衣と、床まで届く長い黒髪。黒い、長い杖を携えて。
うち捨てられていたオレを、その、ひんやりと青い目は、遙か高みから見下ろして。
かすかに、ため息をついた。
夜のような、長く黒い髪。月のような、白い肌。長身に纏うのは、闇の衣。
神々しくも禍々しい、少なくとも「ヒト」ではない。そんなありきたりの存在であるはずがなかった。
「純金の髪と金茶の瞳。やたらと華美なその色合いは私の好むところではないが。それは先祖の所業であってお前のせいではない。こんなところで親族に毒を盛られて失われてしかるべき生命ではない。フィリクス・アル・レギオン・エナ・エルレーン。今一度、手を伸ばせ。その生命の水をすくいとるがよい」
手を出せと言われて、オレは手をのばそうとしたが、ぴくりとも動かない。
身に巡る毒のせいだ。
そのひとは身を屈めて、オレの目を覗き込み。
白い指先で、頬に触れた。
「この程度の毒など、お前の先祖は、ものともしなかったぞ。気に入らないが、たいしたヤツだった……」
触れられたところから、清冽な水が流れ込んできた。
そう、感じた。
水流は体中をかけめぐりきれいさっぱり猛毒を洗い流していったのだ。
このとき、オレは恋に落ちた。
※
エルレーン公国首都シ・イル・リリヤ、貴族街の中枢に、大公の領分と呼ばれる土地がある。
それ自体が一つの街ほどの大きさ。
この中に、執務を行う広い公邸があり、同じ敷地内の離れたところに私邸が幾つかある。それぞれの館は回廊で繋がっている。
私邸の一つに、大公の公嗣(あとつぎ)と目されるフィリクス・アル・レギオン・エナ・エルレーンの居住する館がある。名前の中にレギオンと入っているのは、大公家の血筋が元々レギオン王国の王族であり、かの王国にルーツを持っているからである。
この夜、フィリクスは疲れていた。とある、気の進まない行事に参加していたためだ。
私邸とは言いつつ、公的な執務の書類に目を通す。
「やれやれ、休憩も何もあったもんじゃない」
ぶつぶつ呟く。
「公嗣さまご自身のせいですよ」
傍らに控えている補佐役のケインが歯に衣を着せない言葉を吐く。
「民の生活を知ることが重要だ、とおっしゃって。どこでも気ままにすぐお出かけになりますから」
「おまえ最近、オレに遠慮無いな」
「主人を見習っております。以前、おっしゃられたとおりに」
心なしか得意げにケインは答えた。
金髪、金目の主人に対して、彼は黒髪に黒い目だ。普段から信用できない人間に囲まれているフィリクスが慎重に見定めたのである。
どこかで、鈴が、鳴った。
通常の、鈴ではない。
その音は、この地上のみならず、精霊界へも響く。
微かでありながら、音波を広げていき、周囲を浄化していく作用を備えているのだ。
「待ち人がご到着です。殿下」
ケインの顔が、輝いた。
※
「やあ、呼びつけてすまないね」
にこやかに迎えたのだが。
「ちょっとでもそう思うなら、夜中に呼びつけるのは避けてもらいたい」
迎え入れられた客人は、明らかに不機嫌だった。
「急で申し訳ないが、少しばかり確認をしておきたくて。うちの『シア』の『魔力診』の宴は早々に退出したというのに、同じ夜に催されていた、あちらの家の令嬢に、ご執心だと小耳に挟んだのでね」
この私邸の主人。フィリクス・アル・エナ・エルレーン公嗣の顔から、一見軽薄そうだった笑みは消えていた。
「忌憚のない意見を聞かせてくれないか、カルナック。人払いはしてある」
「よけいなことを」
長い黒髪の、魔法使いは、いやそうに呟いた。
「おまえと二人きりになどならぬ。それでなくとも、無責任な噂で迷惑している」
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