エンディング目前の半透明な令息と、60日の寄り道を

杏野 いま

文字の大きさ
上 下
64 / 76
第五章 半透明な愛を知ってから

64.夜会と呪われた令嬢(9)

しおりを挟む
 カルマンから目を逸らすことなく、ララはテオドールに体を差し出した。
 顔の正面に迫っていた拳を左に避ける。無駄な動きを全くしない。
 避けられると思っていなかったのか、怒り狂っていたはずのカルマンが間の抜けた声を漏らした。

 テオドールのおかげで打たれることなく捜査局に帰れる、とララが安堵した、次の瞬間。
 空振った勢いで前のめりになったカルマンの右腕を、テオドールが掴んだ。

(ま、まさか)
 
 嫌な予感がする。
 ララは避けられれば充分だったのだ。しかし、テオドールは違ったらしい。

「触りたくないんだがな」

 ドレスの裾が踊るように揺れる。テオドールは愚痴りながら、軽やかにカルマンの足を払った。ララが動きを認識した時には、すでにカルマンが宙を舞っていた。
 彼は背中から床に叩きつけられ、呻き声をあげる。テオドールは素早く体の方向を変えると、カルマンの顔面に拳を振り下ろした。――が、拳はカルマンの鼻の先で止まった。
 真っ青になったカルマンを、テオドールは真顔で見下ろす。
 
「二度と近付くな」

 腹の底が震えるような声だった。
 立ち上がったテオドールに体を返され、浮遊感が消える。床を踏みしめたララは、五秒後、両手で顔を覆った。

「テオ、……やりすぎです」
「どこがだ」
「全部です」
「正当防衛だろ。それに君、俺から愛されてるなら他のやつからどう思われても良いって言ったじゃないか」

 確かに言った。だからこうして人前で会話しているのだ。けれども大の男をぶん投げる許可はしていない。
 周りを見てみてほしい。事情を知らない者たちが口を半開きにして固まっているではないか。状況についてこられたのは捜査官だけだ。

 青ざめたままのカルマンの腕をジャスパーが掴み、無理やり立たせる。

「ちょっとあんた。転んだだけなのにいつまで寝そべってんの」

 事実が捻じ曲げられている気がしなくもないが、ララにとってはその方がありがたいので突っ込まない。

「自分が勝手に呪われてるくせにララのせいにしちゃって」と、カルマンの傷口に塩を塗りたくるジャスパー。

「最終的に暴力に訴えるところがさらに残念ですね」と、傷口を増やすヒューゴ。

「おまけに負けちゃってるしねぇ」と、追い打ちをかけるアルバート。

「ほーんと、ララの婚約者って」

 捜査官は揃って、令嬢たちがうっとりするような笑みをカルマンに向けた。

「クズよねぇ」
「クズですね」
「クズだよぉ」

 満場一致だったため、十年間名ばかりの婚約者として過ごしたララは、乾いた笑い声を出すしかなかった。――ああ、捜査局に帰りたい。

 早急にこの場を収めようと、そばで様子を見ていたシアーズ侯爵に頭を下げる。

「夜会を台無しにしてしまい申し訳ございません」
「全面的にカルマン卿に問題があると認識している」
「寛大なお心に、感謝いたします」
「彼を捕らえないのか?」
「難しいかと」

 ジャスパーが見せてくれた記録は、暴力の回数や内容の証明にはならない。捜査官たちは承知の上で今回の騒動を起こしたはずだ。カルマンを捕えたかったのではなく、彼の本性を明るみにすることが目的だった。

「カルマン卿は貿易業を営んでいらっしゃいますので」
「あー、……残酷だな」

 シアーズ侯爵の言葉の通りだ。カルマンにはこのやり方が一番効く。
 罪に問われず解放されたところで、貴族たちは彼の行いを許しはしないだろう。すぐに王国中に噂が広まるはずだ。
 信用を失うことはカルマンにとって、生きる術をなくすのと同義なのだ。

「私はもう、カルマン卿の婚約者ではありませんので」
「どうなろうが興味はない、と」
「はい」
「だが君のご両親は、そうは思っていないようだ」

 ララはビクッと肩を揺らした。シアーズ侯爵の視線を追うと、そこには両親が立っていた。
 父も母も、呆然としている。

「今のは全部……事実、なんだね」

 感情を失ったような父の声に心をえぐられる。カルマンとの関係を打ち明けられなかったことへの、激しい後悔が押し寄せる。

 迷惑をかけたくなかった。自分のことで苦しんでほしくなかった。
 だがその気持ちが今、両親を傷つけている。

「……申し訳、ございません」

 ララが瞼を伏せると、父が小さく息を吐いた。

「すまないロックフェラー卿。少し、力を貸してくれるかい?」
「僕?」
「君は力が強いと聞いた」
「カルマン卿を押さえるんですか?」

 アルバートからの問いに、父はゆるゆると首を振る。

「押さえておいてほしいのは私だ。そうしなくては」

 ――私はその男を殺してしまうかもしれない。

 空気が凍る。あまりの迫力に息を呑んだ。今の発言は、本当に父の口から出たものだろうか。
 父の隣にいる母は表情を変えなかった。父から離れ、どこかに向かう。

 母が足を止めると、乾いた音が響いた。
 頬を押さえるカルマンは、自分の身に起きたことが信じられないようだった。ララだって信じられなかった。
 母――ミランダ・オルティスが、カルマンを平手打ちしたのだ。

「……十年間も娘の痛みに気付けないような、哀れな母親が言えたことではないけれど」

 カルマンを睨み付ける母を見て、ララは思い知った。

「あなたは恥を知りなさい」

 自分が両親に、深く愛されていたことを。
 
「わ、私にこんなことをして、どうなるか……」

 カルマンの動揺は手に取るように伝わってきた。人には散々暴力を振るってきたのに、自分は打たれたことがなかったらしい。

「妻は何ひとつ間違えていない」
「こ、この私に手を上げたのですよ?」
「ああ、素晴らしかったね。惚れ直したよ。私の妻は、自分の宝のためなら男相手でも勇敢に立ち向かえる。だから次は、私の番だ」

 父の琥珀色の瞳が、鋭く光った。

「もう君に、この国で商売はさせない」

 ララにはその言葉が、死刑宣告より恐ろしく聞こえた。
 気圧けおされたカルマンが無様に尻餅をつく。口をぱくぱくと動かしてはいるが、言い返すことはできないようだ。

 ――父の怒りを、初めて見た。
 ――母の怒りを、初めて見た。

 立ち尽くすララの背中を、テオドールがそっと押す。言葉はない。ただ、優しかった。
 今聞かねば、また後悔する。進まねばならない。進みたい。

「……お父様とお母様は、なぜ、船を造り続けるのですか」

 声を絞り出すと、両親が顔を見合わせた。

「国や人を繋げる船が、好きだから……ですよね?」

 昔聞いた時、そう言っていた。国が繋がれば新たな発見があり、人々の感性が豊かになる。造船業はそれを手伝う仕事なのだと。

「あー……あれはね、建前なんだよ。嘘ではないんだけど、大半はどうでも良いというか」
「他に、大切な理由があるのですか?」
「うん。……船を造り続けることは、私とミランダの希望だったんだ」

 こちらに伸びてきた父の手が、頬に触れた。傷つけたくなくて触れられなかった、大好きな骨ばった手。
 撫でられただけで何かがこみ上げてきて、唇を噛む。

「いろんな国の人と繋がれば、いつかどこかで、ララと同じ体質の人に出会えるかもしれないだろう?」

(全部、私のためだった)

 守られていた。
 離れて暮らしていても、他の家族と形が違ったとしても、両親はいつだって自分の味方だった。
 ララは右手で母の手を、左手で父の手をとる。

「何度も、……消えてしまいたいと、思いました」

 両親の指先に、ぎゅっと力が込められた。

「辛いことも、たくさんありました。痛くて、情けなくて……。どうして私は普通になれないんだろうって。どうして私のせいで、お父様とお母様を苦しめてしまうんだろうって」

 後ろめたさから、耐える道しか残っていないのだと思っていた。間違えていた。

「でもこの体質のおかげで、私は人の心を知りました」

 孫の未来を守ろうとするサーシャの心を知った。両親を励まそうと足掻くアンジーの心を知った。
 もし霊が見えなければ。話せなければ。
 テオドールの心を知らぬまま、この生を終えていただろう。

「私……今の自分が好きなんです。この体質も含めて。だから――」

 皆に好かれなくても良い。ただ大切な人の隣を、背筋を伸ばして歩きたい。

「お父様、お母様。……私にこの力を授けてくださって、ありがとうございます。お二人の娘として生まれたことが、私の人生で、最初の幸福です」

 握った手に、温かい雫が落ちる。
 
 母の涙を見たのは、これが二度目だった――。
しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

どうやらお前、死んだらしいぞ? ~変わり者令嬢は父親に報復する~

野菜ばたけ@既刊5冊📚好評発売中!
ファンタジー
「ビクティー・シークランドは、どうやら死んでしまったらしいぞ?」 「はぁ? 殿下、アンタついに頭沸いた?」  私は思わずそう言った。  だって仕方がないじゃない、普通にビックリしたんだから。  ***  私、ビクティー・シークランドは少し変わった令嬢だ。  お世辞にも淑女然としているとは言えず、男が好む政治事に興味を持ってる。  だから父からも煙たがられているのは自覚があった。  しかしある日、殺されそうになった事で彼女は決める。  「必ず仕返ししてやろう」って。  そんな令嬢の人望と理性に支えられた大勝負をご覧あれ。

婚約破棄からの断罪カウンター

F.conoe
ファンタジー
冤罪押しつけられたから、それなら、と実現してあげた悪役令嬢。 理論ではなく力押しのカウンター攻撃 効果は抜群か…? (すでに違う婚約破棄ものも投稿していますが、はじめてなんとか書き上げた婚約破棄ものです)

記憶喪失になった嫌われ悪女は心を入れ替える事にした 

結城芙由奈@2/28コミカライズ発売
ファンタジー
池で溺れて死にかけた私は意識を取り戻した時、全ての記憶を失っていた。それと同時に自分が周囲の人々から陰で悪女と呼ばれ、嫌われている事を知る。どうせ記憶喪失になったなら今から心を入れ替えて生きていこう。そして私はさらに衝撃の事実を知る事になる―。

私の初恋の男性が、婚約者に今にも捨てられてしまいそうです

結城芙由奈@2/28コミカライズ発売
恋愛
【私の好きな人が婚約者に捨てられそうなので全力で阻止させて頂きます】 入学式で困っている私を助けてくれた学生に恋をしてしまった私。けれど彼には子供の頃から決められていた婚約者がいる人だった。彼は婚約者の事を一途に思っているのに、相手の女性は別の男性に恋している。好きな人が婚約者に捨てられそうなので、全力で阻止する事を心に決めたー。 ※ 他サイトでも投稿中

【完結】もう…我慢しなくても良いですよね?

アノマロカリス
ファンタジー
マーテルリア・フローレンス公爵令嬢は、幼い頃から自国の第一王子との婚約が決まっていて幼少の頃から厳しい教育を施されていた。 泣き言は許されず、笑みを浮かべる事も許されず、お茶会にすら参加させて貰えずに常に完璧な淑女を求められて教育をされて来た。 16歳の成人の義を過ぎてから王子との婚約発表の場で、事あろうことか王子は聖女に選ばれたという男爵令嬢を連れて来て私との婚約を破棄して、男爵令嬢と婚約する事を選んだ。 マーテルリアの幼少からの血の滲むような努力は、一瞬で崩壊してしまった。 あぁ、今迄の苦労は一体なんの為に… もう…我慢しなくても良いですよね? この物語は、「虐げられる生活を曽祖母の秘術でざまぁして差し上げますわ!」の続編です。 前作の登場人物達も多数登場する予定です。 マーテルリアのイラストを変更致しました。

公爵令嬢アナスタシアの華麗なる鉄槌

招杜羅147
ファンタジー
「婚約は破棄だ!」 毒殺容疑の冤罪で、婚約者の手によって投獄された公爵令嬢・アナスタシア。 彼女は獄中死し、それによって3年前に巻き戻る。 そして…。

悪役令嬢を陥れようとして失敗したヒロインのその後

柚木崎 史乃
ファンタジー
女伯グリゼルダはもう不惑の歳だが、過去に起こしたスキャンダルが原因で異性から敬遠され未だに独身だった。 二十二年前、グリゼルダは恋仲になった王太子と結託して彼の婚約者である公爵令嬢を陥れようとした。 けれど、返り討ちに遭ってしまい、結局恋人である王太子とも破局してしまったのだ。 ある時、グリゼルダは王都で開かれた仮面舞踏会に参加する。そこで、トラヴィスという年下の青年と知り合ったグリゼルダは彼と恋仲になった。そして、どんどん彼に夢中になっていく。 だが、ある日。トラヴィスは、突然グリゼルダの前から姿を消してしまう。グリゼルダはショックのあまり倒れてしまい、気づいた時には病院のベッドの上にいた。 グリゼルダは、心配そうに自分の顔を覗き込む執事にトラヴィスと連絡が取れなくなってしまったことを伝える。すると、執事は首を傾げた。 そして、困惑した様子でグリゼルダに尋ねたのだ。「トラヴィスって、一体誰ですか? そんな方、この世に存在しませんよね?」と──。

毒を盛られて生死を彷徨い前世の記憶を取り戻しました。小説の悪役令嬢などやってられません。

克全
ファンタジー
公爵令嬢エマは、アバコーン王国の王太子チャーリーの婚約者だった。だがステュワート教団の孤児院で性技を仕込まれたイザベラに籠絡されていた。王太子達に無実の罪をなすりつけられエマは、修道院に送られた。王太子達は執拗で、本来なら侯爵一族とは認められない妾腹の叔父を操り、父親と母嫌を殺させ公爵家を乗っ取ってしまった。母の父親であるブラウン侯爵が最後まで護ろうとしてくれるも、王国とステュワート教団が協力し、イザベラが直接新種の空気感染する毒薬まで使った事で、毒殺されそうになった。だがこれをきっかけに、異世界で暴漢に腹を刺された女性、美咲の魂が憑依同居する事になった。その女性の話しでは、自分の住んでいる世界の話が、異世界では小説になって多くの人が知っているという。エマと美咲は協力して王国と教団に復讐する事にした。

処理中です...