渋茶片手につれづれと

宮ノ上りよ

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第一章 嵐は突然やって来る

1-7 物思いの強制終了

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 その晩も。
深夜になっても、菜々美は寝室に来なかった。

 いつもと同様に妻より先に風呂に入って二階に上がった有智は、明日も休みなので多少夜更かししてもいいかとベッドに横になって本を読んでいたが、次第にうつらうつらして何時の間にか寝入ってしまった。
ぼんやりと目が覚めた所で室内を煌々と照らしたままの灯りに気づいて、しまった、と起き出して。
慌ててリモコンで常夜灯に切り替えながら枕許の時計を見たら、二時を少し過ぎていた。

 もし妻がここまでの間にいちどでも二階に上がって来ていたら、必ず消灯しているはずだ。
今日もまた、眠れないままずっと階下したにいるんだろうか。


 夕食後寛いでいる所へ、有智と菜々美の双方を宛先にした春久からのメールが来た。
笑顔の顔文字がふたつ並んだタイトルの下の本文は
『ユーチもななもメール有難う。夏には芙美子と二人で帰省する。事情はその時に話すから。』
そう書いた後、一行空けて
『色々有難うな。』
と結ばれていた。
一読した有智は、何とも言えない思いに駆られて首を傾げた。
何だろう、何か足りない。
事情は帰省した時に話すと明言している、けれど、何かが。

 『ハル、解ってないんだね、私達の気持ち』

 すぐ横で自身のスマートフォンを見ていた菜々美が、ぽつりと呟いた。
『解ってたらまず『ごめん』じゃないの?』

 それか、と。
違和感の正体が、はっきりと見えた。

 互いに、春久に書き送ったメールの文面を見せ合って。
『なぁにこれ?ふざけんな馬鹿野郎友達失くすぞって、そのまんま書いちゃったんだ?』
そんな大人気ない事書かないって言ってたのに、と菜々美がくすくす笑っている横で、彼女のスマートフォンの画面一杯に改行なしで書き連ねられた本文に目を走らせた有智は、文末の一文に胸を突かれた。

 『ハルにも春が来たね。芙美子と二人で幸せになってね。』

 メールは読みやすいようにと適宜改行を使い文意が変わる所で行を空け、内容も出来る限り簡潔にまとめるよう常に心掛けている妻にしては珍しい程、改行も行空けもせずに率直な感情をそのまま書き連ねていて。
それでも締め括りに記したのは、心からふたりを祝福する言葉。
しかも意識したのかどうか、『ハル』に『春』を掛けて。

 この手のダジャレは子どもの頃からの菜々美の得意技だ。
何かにつけて口にするその都度、有智は『またかよ』と呆れながら冷ややかにあしらってきた。
最近は娘が我先に『お母さんまた?寒いよ』と辛辣な反応を返している。
だが、今は。
くだらなさに寒くなるのとは明らかに違う、けれど、心の底からしんと冷える思いがした。

 菜々美のメールの大意は、有智のそれと殆ど大差ない。
あまりの水臭さを詰りつつ、ふたりの幸せを祈っている、と。
それに対する春久の反応がこれ、というのは。

 ――解らないのか、ハル。

 俺達がどれだけ怒っていて、どれだけショックを受けているか。
いや、俺はいい。
菜々美が。

 こいつらしくない感情丸出しの長文メールを叩きつけたことを、どう思っているんだ。
中身を読まなくても改行なしの字だらけのこの文面だけで、気づくことはないのか。

 昔からズボラでアバウトな癖に、ここぞって時には人の気持ちをすぐに察して気を遣って。
なのに。
何でこんな時に、菜々美の気持ちに気づかないんだよ――。

 『有智?』
メール画面を凝視したまま黙っているのを気にしてか、横から顔を覗き込んできた妻に
『ああ、おまえ相変わらずだな、って思って』
取り繕うように笑みを向けながら、有智はスマートフォンを返した。
『何が?』
『がつんと言ってもオヤジギャグで締めてる辺りがな』

『まあ、折角のお祝い事なのに怒るだけじゃ何だしね』
こちらのスマートフォンを返して寄越した菜々美が
『全くしょうがないよねハルってば』
ふぅ、とひと息ついて。
『こうなったら夏にその事情とやらをがっつり聞かせてもらおうね』


 ――笑いながら言っていた、けれど。

 ベッドに仰向けに寝転がって、常夜灯のオレンジ色の光を見上げながら。
有智はついさっきの妻の表情を思い返していた。
笑顔に、諦めが漂っていた。

 そうして相変わらず訳が解らないままに。
謝罪のひとこともない春久の心情を量りかねて、夏まで語られる事のない彼の『事情』を、ひとりあれこれと忖度しているんだろうか。

 ――何で、だ。

 ベッドから起き上がって。
寝室を出た有智は、足音を忍ばせて廊下を歩いた。
階段の降り口から覗いた階下の居間に、昨日と同様に灯りが点いているのが、閉じたドア越しにも判る。

 昨日はこの位の時間には寝室に来た。
でも、今日はまだ。

 そんなにも。
昨日も、今日も。

 ――何で、だよ。

 居間のドアを見降ろしながら、しばしそこに佇んでいた有智だったが。
何かに突き動かされるように、ゆっくりと階段を降りて行った。

 ドアノブを静かに回して、ドアを開けると。
しんと鎮まった居間の中、パジャマを着た菜々美がこちらに背を向けてひとり、座っていた。
「菜々美」
呼びかけた刹那、肩先がぴくりと揺れた。
「なぁに?まだ起きてたの?」
微かな笑い混じりの声が、肩越しに問いかけてくるのに
「本読んでて何時の間にか寝ちまって。目が覚めたらおまえがいなかったから」
そう応えると。
「ごめんね。もう少ししたら私も寝るから。先に休んでて」

 背後を窺うようにしながらも、こちらに顔を向けて来ない妻が、だがほんの僅か鼻を啜る音を有智の耳は聞き逃さなかった。

 「眠れないのか?」
応えは、ない。
「昨夜もろくに寝てないだろ?」
「……」

 沈黙に、訳もなく苛立ちが募った。

 つと歩み寄って、座卓の上に置かれた手を掴んで。
「ちょっと来い」
「え」
「いいからちょっと」
軽く上に引っ張ると、菜々美は思いの外素直に立ち上がった。

 居間をしなに、有智は入口の壁際にある室内灯のスイッチを切った。
一瞬で辺りが闇に包まれる中。
有智は菜々美の手を掴んだまま、階段を上って行った。


 手を引かれるままに、菜々美は夫の後をついて歩いた。
このまま放っておいたらいつ眠るか判らないから、強制的に二階に連れて来たんだろうか、と。
余計な心配をかけてしまった事を申し訳なく思いながら、夫に軽く肩を押されて常夜灯がうすぼんやりと照らしている寝室へ足を踏み入れる。
ドアが閉まる音に重なって。

 カチャリ。

 ――え。

 刹那、背後からきつい力で抱きしめられた。
「そんなに眠れないんなら」
耳許に落ちて来る、掠れ気味の低い声。

 ドアの鍵を掛けるのは、夫婦にしか判らない合図。
言葉にしなくとも、触れている身体がはっきりと、意思を伝えてくる。

 思わずちいさく身じろぎしたら
「……嫌?」
小声で、問われた。

 ――もし、嫌だと言ったら……?

 無理を強いられたことは、これまでいちどもない。
誘われて拒んだことも、覚えている限りない。
いつも、夫はこちらの様子からある程度気持ちを察した上で、押すか退くかを考えてくれる。
でも。
今そういう気分かと問われたら……正直、微妙だ。

 何よりも、長い時間泣き腫らして充血しているであろう目を見られたくない。
薄闇の中でも近々に顔を合わせたら、おそらくはっきり判ってしまう。
でも。
嫌、と口にするのも、何となくためらわれて。

 「……顔、見られたく、ないの」

 呟くようにそう言うと、身体に回っている腕がやや緩んで。
パチン、と乾いた音と共に、室内が真っ暗になった。
おそらく有智が後ろ手で室内灯のメインスイッチを切ったのだろう。

 再び背後から伸びて来た手が、パジャマのボタンを外すのが判った。
曖昧な意思表示は拒否ではなく『顔を見なければいい』と解釈されたらしい。
気持ちが状況についていかないまま、ボタンを全部外されて前をはだけられて。
ソフトブラをたくし上げた両手に、露わになったふたつの膨らみを鷲掴みにされた刹那
「……っ」
久々の感覚に、菜々美は思わず顎を反らせた。

 この前こんな風に触れられたのは何時だったか。
子ども達が成長するにつれて、夜睦み合うことは少なくなっていった。
出来れば三人目が欲しい、そう思いながらも、菜摘や智希が遅い時間まで起きていることが多くなったここ一、二年は機会を持つのが難しくなった。
間遠になった分、たまの折の感覚が恥ずかしい程に鋭敏になった気がする。
今も。

 胸の隆起を撓めた指が、双の尖端を軽く摘み上げる。
喉の奥から嗚咽が洩れかけて、菜々美は慌てて手で口を塞いだ。
右の胸から手が離れた、かと思ったら、パジャマの右側の襟をぐっと肩まで引き下ろされて、首筋にかかる髪を掻き上げられて。
「……欲しい」
ちいさく、だがはっきりと意思を示す言葉を耳許に落としてきた唇が、うなじに触れる。
左胸の頂を指先で軽く幾度も弾かれて
「あ……」
菜々美は僅かに仰け反った。
それが、夫への応え。

 背後の有智が、菜々美の身体を前へ押し出すようにして。
二、三歩歩いて、ふたりでベッドに倒れ込んだ。
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