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第一章 嵐は突然やって来る
1-6 そんな奴じゃない、と
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昨夜。
有智が風呂から上がった時、菜々美はスマートフォンを充電器にセットしていた。
『ハルにメールしてがつんと言ってやったよ』
と、いたずらっぽく笑うのに少しほっとしながら、先に休むと言って二階の寝室に上がった。
夜中にふと目を覚まして、横に菜々美がいない事に気づいた。
枕許の目覚まし時計で一時半を回っている事を確認すると、有智は起き出して廊下に出た。
階段の降り口から階下を覗くと、居間の閉じられたドアの隙間から灯りが洩れていて。
降りようかとしばし迷った末に、足音を忍ばせて寝室に引き返した。
眠れない程に思い悩んでいるのかと案じながらも、今はそっとしておいてやった方がいい、と。
自分に言い聞かせているうちに睡魔が降りてきてうつらうつらしかけていたら、ドアが開く音に意識を引き戻された。おそらく二時は過ぎていた頃だろうか。
隣に身体を横たえた菜々美に、有智は敢えて気づかぬ態を装って、そのまま眠りに落ちた。
そして今朝。
有智が五時過ぎに目が覚めた時には、既に菜々美の姿はなかった。
起きて台所を覗いたら、朝食の支度をしながら菜摘の部活動用の弁当を作っていた。
おはよう、と声を掛けたら、振り返って
『おはよ。随分早いのね?休みだしゆっくり寝ててもいいのに』
少し驚いたような顔をした後、にっこり笑った。
朝食の後、菜摘に弁当を持たせて送り出して。
洗濯をしながら智希や有智を督励して家中を軽く掃除して。
智希が出掛ける際には友達と食べるようにと菓子を袋に入れて持たせて。
昼食の後片付けをして。
いつもと同じように家事をこなし、何事もなかったかのように淡々と振る舞っている妻。
けれど。
どこか、何か、違和感が否めない。
今こうして、並んで何気なく茶を啜っていても。
「やっぱり、そういうことなのかな」
不意に。
横にいた菜々美が、口を開いた。
「何が?」
唐突な言葉に、有智は庭先から妻の顔に視線を転じた。
「ハルにとって私達って、もうその程度ってこと、なのかな」
「その程度ってこと?」
意味が解らず問い返すのには、応えず
「大体、四十近くにもなっていつまでも戦友とか約束とかってのにこだわってるなんて、子どもじみてるのかもね」
空に向けた眼差しを、眩しげに細めて。
「結婚したこと、他の同期よりも先に知らせてくれなかった位で怒るって、いい年して大人気ないにも程があるよねぇ」
有智に語るというより自身に言い聞かせている風に呟く菜々美は、淡く笑っていた。
「また一緒にラッパ吹こうとか年取ったら一緒に縁側で渋茶飲んで昔話しようとか、こっちが一方的に思ってるだけでハルにとってはもう大した事じゃ」
「何言ってんだよ!」
自嘲するような妻の言葉が聞くに堪え難くて、思わず有智は強い語調で遮った。
「あいつと俺達、子どもじみてるとか大人気ないとか今更そんな事気にするような他人行儀な付き合いしてきてないだろが!」
「……」
空を見上げている菜々美の頬を、涙がぽろりと転げ落ちた。
「そもそも昔っから俺より渋茶にこだわってたのも、また三人で一緒にラッパ吹こうって言ったのも、ハルなんだぞ?」
――そうだ。
あいつがそう、言ったんだ。
『いつか三人でまたラッパ吹こうな!』
中学を出る時も。
四年前、三人で夢を叶えた時も。
そう、ハルが言ったんだ――。
二十数年前、有智と菜々美は揃って笹並中学校に入学した。
小学校の鼓笛隊で一緒にトランペットを吹いていて、中学でも続けようと共に吹奏楽部に入って。
志望したトランペットパートで、他の小学校から来た春久と出会った。
所属パートが正式に決まった後、顧問の先生を通して三人一緒にトランペットを購入した。
有智と菜々美はゴールド、春久だけがシルバーで楽器の色は違ったものの、メーカーが同じなので楽器ケースは三つとも全く同じ物で、並べるとどれが誰の物か見分けがつかなくて。
私に任せて、と言った菜々美が程なく用意してきたのが、それぞれの苗字にちなんだ色のプレートにそれぞれの名前のイニシャルを刻んだキーホルダーだった。
『赤池』の赤に『春久』のH。
『青山』の青に『有智』のA。
『村崎』の紫に『菜々美』のN。
レッドとブルーとパープル、まるで戦隊みたいだ、と。
誰からともなく言い出した『ラッパ戦隊』。
何時とはなしに互いを『戦友』と呼び合って。
菜々美特製の渋い冷茶を三人で飲みながら
『三人でジーサンバーサンになっても縁側で渋茶を啜って部活の思い出を語るのが将来の夢なの』
大真面目に言う菜々美に、何十年先の事だよ!と突っ込みながらも、有智も春久も異を唱えた事はいちどもなかった。
毎日くだらない事でふたりで言い合いになっては他のひとりが止めて。時には三人で揉めて収拾がつかなくなって。
よくもそんなに喧嘩のネタがあるものだと、先輩や同期、後輩にまで笑われた。
人一倍負けず嫌いな所も三人同じで。
トランペットの腕前も勉強も、他のふたりには絶対負けたくないと、それぞれが必死に頑張った。
過ぎていく日々がただ楽しかった、三年間。
卒業直前の吹奏楽部の送別会で、三年生がひとりずつ前に出て挨拶をした際。
らしくない程に神妙で手短に挨拶を終えた春久に、ハルそれだけ?有り得ない!と菜々美と有智が突っ込み、最後は真面目に決めるつもりだったのに台無しにされたと怒った春久が後に続くふたりの挨拶にそれぞれ茶々を入れて引っ掻き回して。
しんみりとした雰囲気が吹っ飛んで音楽室中が笑いに包まれる中
『ラッパ戦隊は最後まで、いやこれからも不滅です!』
未来に向けて宣言するように、菜々美が高らかに告げた。
散会後、三年間並べていた三つのトランペットの楽器ケースを、三人で楽器庫から持ち出した。
菜々美が三人の記念にと買い揃えてくれた、それぞれの楽器の色に合わせた精巧な作りのトランペットのキーホルダーを、プレートの横に付けて。
『いつか三人でまたラッパ吹こうな!』
春久の言葉に、有智も菜々美も頷いた。
『ああ』
『絶対、ね』
それから、二十数年。
東京の高校から大学へと進んだ春久は外資系の会社に就職して、以来国内外を飛び回る多忙な日々を送るようになり。
同じ高校から偶然同じ京都の大学に進学した有智と菜々美は、共に大阪で就職して程なく付き合い始め、やがて結婚して。
それぞれの状況がめまぐるしく変化していく中、それでも『ラッパ戦隊』はずっと変わらなかった。
年を重ねるにつれて一同に会する機会が少なくなっても、会えば中学時代のノリそのままに子どもじみた喧嘩を繰り広げ大人気なく張り合い、酒を酌み交わすような席でも相変わらず渋茶で乾杯し合った。
何年経っても、どれだけ離れても、そんな風にずっと。
そして。
四年前の夏。
卒業する際に三人で交わした約束を、ついに果たした。
笹並中学校吹奏楽部創部三十周年の記念事業の一環として、初めてのOBコンサートが開催されて。
春久と有智と菜々美はステージの上で並んで、かつて最高学年として出場した吹奏楽コンクールで初の県大会金賞受賞に輝いた『アルヴァマー序曲』を吹いた。
中学卒業後、三人がそれぞれの事情でトランペットから遠ざかって、何年も経っていたけれど。
卒業後二十年を経てようやく巡って来た千載一遇の機会に、何としても三人で吹きたい、と。
それぞれがブランクを超えるための努力を重ねた末に、年来の夢を共に叶えた。
終演後の楽屋で、卒業以来久々に並べた三つの楽器ケースを眺めながら
『いつか三人でまたラッパ吹こうな!』
卒業当時そのままに、そう言った春久。
『ああ』
『絶対、ね』
有智も菜々美も、同じように頷いた。
終わることのない、夢の共有。
『ラッパ戦隊』はずっと、不滅だと。
何時かジーサンバーサンになったら三人で、縁側で渋茶を啜りながら、来し方の思い出を語り合うのだと。
それは今でも、三人共通の思いだと。
信じているから。
だから――。
「ハル、また三人でラッパ吹こうなって、中学出た時とまんま同じことOBコンサートの後で言ってたの、忘れたのか?」
空になった茶碗を丸盆の上に返しながら、穏やかに有智が問いかけるのに
「……ううん」
涙を滲ませた目を細くして、菜々美が首を横に振った。
「この間ここで一緒に渋茶飲んだ時だって、おまえが昔サイン帳に書いたことまでちゃんと覚えていただろ?」
「……うん」
OBコンサート以来四年振りに再会を果たした、二ヶ月前。
以前は菜々美に事ある毎に渋茶をねだっていた春久が、何時の頃からふっつりと渋茶と言わなくなった事をずっと気にしていた菜々美が、もう忘れてしまったのかと訊ねたら
『何言ってんだよなな。忘れる訳ないだろが』
あっさりと、春久が言った。
菜々美が何時でもどこでも三人揃うと渋茶を出し、果ては自身の結婚披露宴にまで水筒で渋茶を持参した事を、昔から何かにつけて自分が渋茶を催促していたせいかと気にして。
以来、自重して自分からは言わないようにしていただけだと。
『忘れようにも忘れようがないって。なな、サイン帳にも書いてただろ』
卒業する時、有智と春久のサイン帳に菜々美が書いた
『ジーサンバーサンになっても縁側で渋茶すすって語れる友達でいようね』
その言葉を、春久はさらりと暗唱してのけた。
『何時の間にかおまえの夢だか自分の夢だか判らなくなってたし』
ユーチだってそうだろ?と振られて、ああ、と有智も頷いた。
春の陽だまりの中。
三人で、この縁側に並んで。
『ジーサンバーサンにはまだまだだけど、予行演習って事で』
乾杯して、渋茶を啜りながら。
変わらない夢を確認した。
菜々美の膝の上で、僅かに茶が残っている茶碗が、ちいさく揺れている。
目を細めて空を見上げて、泣くまいとしているのが判る、けれど。
抑え切れない涙が、目尻から頬を伝って、落ちて行く。
『また一緒にラッパ吹こうとか年取ったら一緒に縁側で渋茶飲んで昔話しようとか、こっちが一方的に思ってるだけでハルにとってはもう大した事じゃ』
本心からそう思って言った訳じゃない、と。
有智には、判っていた。
春久の意図がさっぱり掴めない状態で。
菜々美も、苦しいのだろう。
それでも彼を責めるよりも、大切な戦友の幸せを祝福する事を最優先にしたくて、自分達が些細な事にこだわり過ぎているだけなんだと敢えて思い込もうとしているのか。
そんな風に自らを傷つけて苦しんでいる妻を、見るに忍びなくて。
茶碗を丸盆に戻して、指先で目頭を押さえた菜々美から視線を逸らして。
「今度の事はきっと、何か訳があったんだと思う」
「……」
「あいつの事だから」
自分に言い聞かせるように、有智は言った。
「ハルはズボラでアバウトな所、昔っから全然変わってない」
「……」
「けど、昔っから友達に対していい加減な事をする男じゃない」
出会ってからここまでの二十数年の間に、色々な事があった。
『ラッパ戦隊』の仲だって、必ずしもずっと順風満帆だった訳じゃない。
けれど。
その点では昔から一貫して、有智は春久を信じていた。
だから、今回の事もきっと。
くすん、と。
ちいさく鼻を啜った菜々美が、左の肩先に寄りかかって来て。
左手を肩に回して、そっと抱き寄せながら。
有智は妻の頭を、右の手でぽんぽん、と軽く、叩いた。
有智が風呂から上がった時、菜々美はスマートフォンを充電器にセットしていた。
『ハルにメールしてがつんと言ってやったよ』
と、いたずらっぽく笑うのに少しほっとしながら、先に休むと言って二階の寝室に上がった。
夜中にふと目を覚まして、横に菜々美がいない事に気づいた。
枕許の目覚まし時計で一時半を回っている事を確認すると、有智は起き出して廊下に出た。
階段の降り口から階下を覗くと、居間の閉じられたドアの隙間から灯りが洩れていて。
降りようかとしばし迷った末に、足音を忍ばせて寝室に引き返した。
眠れない程に思い悩んでいるのかと案じながらも、今はそっとしておいてやった方がいい、と。
自分に言い聞かせているうちに睡魔が降りてきてうつらうつらしかけていたら、ドアが開く音に意識を引き戻された。おそらく二時は過ぎていた頃だろうか。
隣に身体を横たえた菜々美に、有智は敢えて気づかぬ態を装って、そのまま眠りに落ちた。
そして今朝。
有智が五時過ぎに目が覚めた時には、既に菜々美の姿はなかった。
起きて台所を覗いたら、朝食の支度をしながら菜摘の部活動用の弁当を作っていた。
おはよう、と声を掛けたら、振り返って
『おはよ。随分早いのね?休みだしゆっくり寝ててもいいのに』
少し驚いたような顔をした後、にっこり笑った。
朝食の後、菜摘に弁当を持たせて送り出して。
洗濯をしながら智希や有智を督励して家中を軽く掃除して。
智希が出掛ける際には友達と食べるようにと菓子を袋に入れて持たせて。
昼食の後片付けをして。
いつもと同じように家事をこなし、何事もなかったかのように淡々と振る舞っている妻。
けれど。
どこか、何か、違和感が否めない。
今こうして、並んで何気なく茶を啜っていても。
「やっぱり、そういうことなのかな」
不意に。
横にいた菜々美が、口を開いた。
「何が?」
唐突な言葉に、有智は庭先から妻の顔に視線を転じた。
「ハルにとって私達って、もうその程度ってこと、なのかな」
「その程度ってこと?」
意味が解らず問い返すのには、応えず
「大体、四十近くにもなっていつまでも戦友とか約束とかってのにこだわってるなんて、子どもじみてるのかもね」
空に向けた眼差しを、眩しげに細めて。
「結婚したこと、他の同期よりも先に知らせてくれなかった位で怒るって、いい年して大人気ないにも程があるよねぇ」
有智に語るというより自身に言い聞かせている風に呟く菜々美は、淡く笑っていた。
「また一緒にラッパ吹こうとか年取ったら一緒に縁側で渋茶飲んで昔話しようとか、こっちが一方的に思ってるだけでハルにとってはもう大した事じゃ」
「何言ってんだよ!」
自嘲するような妻の言葉が聞くに堪え難くて、思わず有智は強い語調で遮った。
「あいつと俺達、子どもじみてるとか大人気ないとか今更そんな事気にするような他人行儀な付き合いしてきてないだろが!」
「……」
空を見上げている菜々美の頬を、涙がぽろりと転げ落ちた。
「そもそも昔っから俺より渋茶にこだわってたのも、また三人で一緒にラッパ吹こうって言ったのも、ハルなんだぞ?」
――そうだ。
あいつがそう、言ったんだ。
『いつか三人でまたラッパ吹こうな!』
中学を出る時も。
四年前、三人で夢を叶えた時も。
そう、ハルが言ったんだ――。
二十数年前、有智と菜々美は揃って笹並中学校に入学した。
小学校の鼓笛隊で一緒にトランペットを吹いていて、中学でも続けようと共に吹奏楽部に入って。
志望したトランペットパートで、他の小学校から来た春久と出会った。
所属パートが正式に決まった後、顧問の先生を通して三人一緒にトランペットを購入した。
有智と菜々美はゴールド、春久だけがシルバーで楽器の色は違ったものの、メーカーが同じなので楽器ケースは三つとも全く同じ物で、並べるとどれが誰の物か見分けがつかなくて。
私に任せて、と言った菜々美が程なく用意してきたのが、それぞれの苗字にちなんだ色のプレートにそれぞれの名前のイニシャルを刻んだキーホルダーだった。
『赤池』の赤に『春久』のH。
『青山』の青に『有智』のA。
『村崎』の紫に『菜々美』のN。
レッドとブルーとパープル、まるで戦隊みたいだ、と。
誰からともなく言い出した『ラッパ戦隊』。
何時とはなしに互いを『戦友』と呼び合って。
菜々美特製の渋い冷茶を三人で飲みながら
『三人でジーサンバーサンになっても縁側で渋茶を啜って部活の思い出を語るのが将来の夢なの』
大真面目に言う菜々美に、何十年先の事だよ!と突っ込みながらも、有智も春久も異を唱えた事はいちどもなかった。
毎日くだらない事でふたりで言い合いになっては他のひとりが止めて。時には三人で揉めて収拾がつかなくなって。
よくもそんなに喧嘩のネタがあるものだと、先輩や同期、後輩にまで笑われた。
人一倍負けず嫌いな所も三人同じで。
トランペットの腕前も勉強も、他のふたりには絶対負けたくないと、それぞれが必死に頑張った。
過ぎていく日々がただ楽しかった、三年間。
卒業直前の吹奏楽部の送別会で、三年生がひとりずつ前に出て挨拶をした際。
らしくない程に神妙で手短に挨拶を終えた春久に、ハルそれだけ?有り得ない!と菜々美と有智が突っ込み、最後は真面目に決めるつもりだったのに台無しにされたと怒った春久が後に続くふたりの挨拶にそれぞれ茶々を入れて引っ掻き回して。
しんみりとした雰囲気が吹っ飛んで音楽室中が笑いに包まれる中
『ラッパ戦隊は最後まで、いやこれからも不滅です!』
未来に向けて宣言するように、菜々美が高らかに告げた。
散会後、三年間並べていた三つのトランペットの楽器ケースを、三人で楽器庫から持ち出した。
菜々美が三人の記念にと買い揃えてくれた、それぞれの楽器の色に合わせた精巧な作りのトランペットのキーホルダーを、プレートの横に付けて。
『いつか三人でまたラッパ吹こうな!』
春久の言葉に、有智も菜々美も頷いた。
『ああ』
『絶対、ね』
それから、二十数年。
東京の高校から大学へと進んだ春久は外資系の会社に就職して、以来国内外を飛び回る多忙な日々を送るようになり。
同じ高校から偶然同じ京都の大学に進学した有智と菜々美は、共に大阪で就職して程なく付き合い始め、やがて結婚して。
それぞれの状況がめまぐるしく変化していく中、それでも『ラッパ戦隊』はずっと変わらなかった。
年を重ねるにつれて一同に会する機会が少なくなっても、会えば中学時代のノリそのままに子どもじみた喧嘩を繰り広げ大人気なく張り合い、酒を酌み交わすような席でも相変わらず渋茶で乾杯し合った。
何年経っても、どれだけ離れても、そんな風にずっと。
そして。
四年前の夏。
卒業する際に三人で交わした約束を、ついに果たした。
笹並中学校吹奏楽部創部三十周年の記念事業の一環として、初めてのOBコンサートが開催されて。
春久と有智と菜々美はステージの上で並んで、かつて最高学年として出場した吹奏楽コンクールで初の県大会金賞受賞に輝いた『アルヴァマー序曲』を吹いた。
中学卒業後、三人がそれぞれの事情でトランペットから遠ざかって、何年も経っていたけれど。
卒業後二十年を経てようやく巡って来た千載一遇の機会に、何としても三人で吹きたい、と。
それぞれがブランクを超えるための努力を重ねた末に、年来の夢を共に叶えた。
終演後の楽屋で、卒業以来久々に並べた三つの楽器ケースを眺めながら
『いつか三人でまたラッパ吹こうな!』
卒業当時そのままに、そう言った春久。
『ああ』
『絶対、ね』
有智も菜々美も、同じように頷いた。
終わることのない、夢の共有。
『ラッパ戦隊』はずっと、不滅だと。
何時かジーサンバーサンになったら三人で、縁側で渋茶を啜りながら、来し方の思い出を語り合うのだと。
それは今でも、三人共通の思いだと。
信じているから。
だから――。
「ハル、また三人でラッパ吹こうなって、中学出た時とまんま同じことOBコンサートの後で言ってたの、忘れたのか?」
空になった茶碗を丸盆の上に返しながら、穏やかに有智が問いかけるのに
「……ううん」
涙を滲ませた目を細くして、菜々美が首を横に振った。
「この間ここで一緒に渋茶飲んだ時だって、おまえが昔サイン帳に書いたことまでちゃんと覚えていただろ?」
「……うん」
OBコンサート以来四年振りに再会を果たした、二ヶ月前。
以前は菜々美に事ある毎に渋茶をねだっていた春久が、何時の頃からふっつりと渋茶と言わなくなった事をずっと気にしていた菜々美が、もう忘れてしまったのかと訊ねたら
『何言ってんだよなな。忘れる訳ないだろが』
あっさりと、春久が言った。
菜々美が何時でもどこでも三人揃うと渋茶を出し、果ては自身の結婚披露宴にまで水筒で渋茶を持参した事を、昔から何かにつけて自分が渋茶を催促していたせいかと気にして。
以来、自重して自分からは言わないようにしていただけだと。
『忘れようにも忘れようがないって。なな、サイン帳にも書いてただろ』
卒業する時、有智と春久のサイン帳に菜々美が書いた
『ジーサンバーサンになっても縁側で渋茶すすって語れる友達でいようね』
その言葉を、春久はさらりと暗唱してのけた。
『何時の間にかおまえの夢だか自分の夢だか判らなくなってたし』
ユーチだってそうだろ?と振られて、ああ、と有智も頷いた。
春の陽だまりの中。
三人で、この縁側に並んで。
『ジーサンバーサンにはまだまだだけど、予行演習って事で』
乾杯して、渋茶を啜りながら。
変わらない夢を確認した。
菜々美の膝の上で、僅かに茶が残っている茶碗が、ちいさく揺れている。
目を細めて空を見上げて、泣くまいとしているのが判る、けれど。
抑え切れない涙が、目尻から頬を伝って、落ちて行く。
『また一緒にラッパ吹こうとか年取ったら一緒に縁側で渋茶飲んで昔話しようとか、こっちが一方的に思ってるだけでハルにとってはもう大した事じゃ』
本心からそう思って言った訳じゃない、と。
有智には、判っていた。
春久の意図がさっぱり掴めない状態で。
菜々美も、苦しいのだろう。
それでも彼を責めるよりも、大切な戦友の幸せを祝福する事を最優先にしたくて、自分達が些細な事にこだわり過ぎているだけなんだと敢えて思い込もうとしているのか。
そんな風に自らを傷つけて苦しんでいる妻を、見るに忍びなくて。
茶碗を丸盆に戻して、指先で目頭を押さえた菜々美から視線を逸らして。
「今度の事はきっと、何か訳があったんだと思う」
「……」
「あいつの事だから」
自分に言い聞かせるように、有智は言った。
「ハルはズボラでアバウトな所、昔っから全然変わってない」
「……」
「けど、昔っから友達に対していい加減な事をする男じゃない」
出会ってからここまでの二十数年の間に、色々な事があった。
『ラッパ戦隊』の仲だって、必ずしもずっと順風満帆だった訳じゃない。
けれど。
その点では昔から一貫して、有智は春久を信じていた。
だから、今回の事もきっと。
くすん、と。
ちいさく鼻を啜った菜々美が、左の肩先に寄りかかって来て。
左手を肩に回して、そっと抱き寄せながら。
有智は妻の頭を、右の手でぽんぽん、と軽く、叩いた。
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