渋茶片手につれづれと

宮ノ上りよ

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第一章 嵐は突然やって来る

1-3 慶びに哀しさが水を差す

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 その晩。
夫や子ども達が二階のそれぞれの自室へ引き上げた後、風呂から上がった菜々美は居間で涼みながら、物思いに耽っていた。
夕方からここまでの数時間のことが、未だ頭の中で整理し切れていなくて。


 先月からパート勤務を始めた職場を定時で退社して、帰宅途中のバスの中でスマートフォンを見たら
『沙織』
『メグ』
珍しい名前がふたつ、受信メール一覧に並んでいた。
ふたりとも中学校の同窓生で吹奏楽部の同期女子だが、共に地元を離れていて、同期会の前後以外で日頃やり取りを交わす事は殆どない。
『ななと青山は知ってたよね?』
『何であの二人!』
タイトルだけでは何の事か見当もつかないメールを順に開いたら、どちらも菜々美と夫の有智の双方を宛先にしたもので。

 ――何、これ。

 ふたつの本文を読んで、頭の中が真っ白になった。
言い回しはそれぞれ微妙に異なるものの、要旨は全く同じだった。

 『赤池と芙美子が結婚って』
『いつから付き合っていたの?』

 ――ハル、が?

 結婚……って。
芙美子と?

 いつから……付き合っていたの?

 『ラッパ戦隊なら事情聞いてるよね?』
……聞いてない。

 『もし差支えなければ教えてもらえたら有難いです。』
私が……訊きたいよ。

 だって、何も聞いてないもの。
芙美子からも。
……ハル、からも――。

 呆然としながら辿り着いた自宅の玄関の郵便受けに、葉書が一枚届いていた。
『青山有智様』『菜々美様』とパソコンで印刷された表面に差出人の名はなくて。
裏返したら、背広姿と薄いグリーンのスーツの、よく知っている顔がふたつ並んで微笑んでいる
その上部に
『Just Married』
のロゴが控えめな色合いでかかっていて。
写真の下の白い欄に、見た事がない東京の住所と並んで
『赤池春久』『芙美子(旧姓 杉下)』
ふたりの名が連名で記されていた。

 西に傾いた陽の眩しい光に照らされた、ふたりの笑顔を。
玄関前に佇んだまま、菜々美はぼんやりと眺めていた。
 
 『私共はこの度結婚し新生活をスタート致しました。まだまだ未熟な二人ではございますが』
印刷されている結婚報告の定型文以外に、ひとことの添え書きもない。
伝わって来るのは、ふたりが結婚して東京に新居を構えたということ。それだけ。

 ――なん……で。

 何で、話してくれなかったの。
どうして――ハル。


 誰よりも。
他の誰よりも、幸せになって欲しいと思っていた、大切な『戦友』。

 昔から皆とわいわいはしゃぐのが大好きで、いつも大勢の友人達に囲まれて楽しそうに笑っていて。
でも時折、何もかもが煩わしいという風にふっとひとりになりたがる。
そのくせそういう時はいつも、人恋しさを横顔に滲ませて。

 そんな彼の複雑な思いを、内にそっとしまい込んでいる淋しさを、理解して側で受け止めてくれるひとがいればいいのに、いつかそういうひとに出会えたらいいのに、と。
ずっと思っていた。

 そんな彼の横に。
小学校以来の大切な友が、寄り添っている。
揃って、晴れやかな笑顔で。

 幸せそうなふたり。
でも。
良かった、と慶びたい気持ちを

 ――何で?

 そのひとことが、凌駕する。


 ここに転居してきたばかりの頃に、東京から春久が所用で帰省するついでにと訪ねて来てくれた。
三年半ぶりの再会に、あれこれと話が弾む中で。
結婚を考えるような相手などいないと、確か言っていた。

 あれからまだふた月も経っていない。
なのに。

 知らない相手だったらまだしも、芙美子は部活同期。おまけに菜々美も有智も同じ小学校以来の親しい仲だ。
それを、事前に何のひとこともなく、同期全員に一斉に出した葉書で知らせてくるなんて。
しかも葉書を目にする前に、先にそれを読んだ他の同期の口から知らされる、なんて。

 『ラッパ戦隊なら事情聞いてるよね?』

 同期から来たメールの一文が、きりきりと胸を抉る。
聞いてない。
有智だって多分、聞いてない。
聞いてたら絶対、教えてくれるはずだから。

 そうだ。
有智に、知らせなくちゃ――。

 バッグからスマートフォンを出すと、メールが五件入っていた。
もしかしたら他の同期からかもしれない、が、今はそれよりも。

 夫のアドレス宛ての新規メール作成画面に、思いつくままに文章を打ち込んで。
確認のために読み返す。

 『今帰ったらハルと芙美子から結婚しましたって葉書が来てた。そんな話聞いてないよね?』

 視線が文末まで追ったところで『聞いてないよね?』の文字が歪んで、霞んで。
ぱた、と。
画面上に、雫が落ちた。

 ――聞いてない。

 ラッパ戦隊、なのに聞いてない。
何も知らない。

 どうして――。

 一瞬だけ固く瞑った目を、開いて。
滲んだ涙を拭って。
菜々美は、送信ボタンを押した。

 メール送信後の画面が、自動電源オフで真っ黒くなるまで。
菜々美は画面上に落ちた一粒の水滴を、凝視していた。

 この時間じゃまだハルは帰っていない。
メールじゃなくて直接、事情を訊きたい。

 ――あ。

 もしかしたら、芙美子なら。
東京に引っ越してまだ日が経っていないから、再就職もまだかもしれない。
だったら、家にいるかも。

 スマートフォンを振って、水滴を振り落としながら。
菜々美は玄関の鍵を開けて、家に入った。
上がり框に荷物を置くとそこに座って、再びスマートフォンを操作する。

 数回の呼出音が途切れて。
『……もしもし』
『ちょっと芙美子!あれ!どういう事なの一体!』

 こういう電話がかかって来る事は想定していたのだろう。
いつも快活ではきはきしゃべる友が
『ごめんねなな』
第一声からひどく萎れた調子で、謝罪を口にした。
『ホントはもっと早くに知らせたかったんだけど、葉書が着くまで絶対黙ってろってあかい……』
赤池、と言いかけたのを
『春久が』
芙美子が言い直すのと
『何よそれ!』
菜々美の中でぷつんと何かが切れたのとが、同時だった。
『ハルってば何考えてんのよ!』
『……』
『だってハル、この間ウチに来た時何も言ってなかったのよ!』
行き場を失っていた感情が、爆発する。
『芙美子だって今まで全然!サプライズとかフェイントとかハルの得意技だけどこんなのって酷い!酷過ぎる!水臭いじゃない!何でもっと早くに教えてくれなかったの!何時そっちに行ったの!ってかそもそも何時から付き合ってたのよっ!』

 矢継ぎ早に言葉を繰り出しているうちに、目から涙が溢れて来た。
何で私、こんなことしてるんだろう、と。

 事前に話してもらえなかったことが口惜しくて、それを芙美子に詰問している自分がひどく情けなくて。
何よりも。
『葉書が着くまで絶対黙ってろって、春久が』
その対象に、自分や有智も含まれていることが、哀しくて。

 悲鳴に近い菜々美の問いに、ええと……と戸惑ったような芙美子の呟きが返って来て。
『付き合い始めたのは三月の終わり』
『はぁああぁ?』

 耳から入って来た言葉が脳に届く前に、即座に声が反応してしまった。
三月の終わり――それって。

 『ななと青山に会いに行ったんだよね、春久』
『え、あ……うん』
『実は私、その後で春久と会う約束してたの』

 一体どういう事なのかと。
混乱する菜々美に
『とりあえずちゃんと説明するから……聞いてくれる?』
電話の向こうの芙美子が、遠慮がちに問うてきた。
『……うん』
そう返しながら、菜々美はすん、と鼻をちいさく啜った。


 芙美子はゆっくりと順を追って、経緯を語ってくれた。
春久とは大分前からメールのやり取りがあって、たまにふたりで会う機会もあったが、あくまでも同期同士の関係の範囲内の事で、互いに個人的に付き合っているとかいう認識ではなかったと。
だがいつの間にか、互いに相手に惹かれていて。
互いの気持ちを確かめ合ったのが三月の終わり、春久が帰省してきて有智と菜々美を訪ねた後に、ふたりで会って話し合った時だった。
翌日、双方の両親も交えて話し合い、慌ただしく結婚の段取りがまとまって。
挙式も披露宴も行わず、四月の芙美子の退職を待って婚姻届を提出し内々だけで食事会を済ませ、そのまま新婚旅行に出発した。
そして帰宅してから今まで、東京の新居の整理に追われていたので、皆に知らせるのが遅くなってしまったのだと。

 芙美子の話に所々ちいさく相槌を返しながら黙って耳を傾けているうちに、菜々美は冷静さを取り戻していた。
『せめてななとか佐奈さなにだけでも先に知らせたかったんだけど……怒られても仕方ないと思ってる』
本当にごめんなさい、と。
今まで聞いた事がないようなひどく改まった口調で、芙美子が謝って来た。

 ――佐奈にも……知らせなかったんだ。

 部活同期の佐奈は、中学校以来の芙美子の唯一無二と言ってもいい程の親友だ。
彼女にも春久との結婚を黙っていたという事に、菜々美は唖然とした。
だがそれは、芙美子の意思ではない。

 全ての元凶は、芙美子に口止めを強いた、春久にある。

 『まあ、いいわ』
ふう、とちいさく溜息をついて。
『ハルが黙ってろって言うのに芙美子がこっそり教える訳にはいかないものね』
芙美子が悪いんじゃない、と自分に言い聞かせながら
『でも、前からメールやり取りしてたとかふたりで会ってたって辺り、今度詳しく事情聴取するから覚悟しておいてね。あ、勿論ハルも一緒にだから、ってかハルにはウチに来た時に何も言わなかった事とか芙美子に口止めした事も含めて、特に厳しく追及させてもらうからって伝えてね』
厳かな調子で、菜々美は言った。
『はい解りました』
神妙な口調のちいさな応えが、電話の向こうから返って来た。


 芙美子との電話を終えた後。
暮色に染まる薄暗い玄関先で座り込んだまま、菜々美は手にしたスマートフォンに視線を落としていた。

 『春久』と。
今まで彼を『赤池』と苗字で呼んでいた芙美子が、はにかむように何度も口にした名の響きが、何とも初々しくて。

 ――幸せそうだね、芙美子。
本当に良かった。

 ……ハル、も――。

 心から、ふたりを祝福したいのに。
でも。

 『もっと早くに知らせたかったんだけど、葉書が着くまで絶対黙ってろって……春久が』

 ――何で?

 ここに訪ねてきてくれた日から今まで、二ヶ月近く。
何で黙っていたの、ハル。
何で芙美子にまで、口止めしていたの。

 なん、で――。

 頬を、ひっきりなしに涙が伝う。
何で、と心の中で繰り返す度に、両目から噴きこぼれるように涙が溢れて来て。
ただただ、哀しくて。
 
 突然。
手の中のスマートフォンが震動で電話着信を伝えて来た。
霞む目に映ったのは、今いちばん縋りたいひとの名。

 スワイプして耳許に持って行って。
『……あり、とも……っ』


 定時と同時に菜々美のメールに気づいて即座に電話を掛けてきた夫の声に、心のたがが緩んで、涙が止まらなくなって。
とにかく現時点で判っている事を伝えようとしたものの、自分でも何を言っているのか判らなくなる程酷い状態で
『出来るだけ早めに帰るから、後でちゃんと話そう、な?』
仕事がまだ残っている夫に、気を遣わせてしまった。

 電話を切った後、スマートフォンを見たらメール着信数がさっきよりも増えて十件になっていた。
全て同期からで、そのどれもが有智と菜々美が先に情報を掴んでいるだろうという前提で
『詳しい事を教えて欲しい』
と記されていて。
ひとつひとつ読む度に、泣けた。


 ――何で、だろう。

 何で私や有智に、先に教えてくれなかったんだろう。
芙美子にわざわざ口止めまでして。
私達だけじゃない。佐奈だって今頃どんな気持ちでいるか。
何で芙美子にまで、そんな酷いことをさせたんだろう。

 子ども達が学校から帰って来て。
ふたりが夕飯を食べ終わった頃に夫が帰宅して。
遅い夕飯を共にした後、後片付けをして。
順に入浴を済ませた三人が、それぞれ自室へ引き取った後、最後に風呂に入って。

 夕方からここまで、毎日繰り返していることをいつも通りにこなしながら、ずっと頭の片隅で考え続けていた。
でも、さっぱり解らない。

 ――ハル、何で?

 心の中の問いかけが、とっくに収めたはずの涙をまた、じわりと目許に滲ませる。
と、その時。
階段が微かにきしむ音を、耳が捉えて。
菜々美は慌てて目を拭った。

 階下へと降りて来た足音が、こちらに向かって来て。
カチャ、とドアが開く音と共に
「……お母さん?」
パジャマ姿の菜摘が、ドアの隙間からこちらを覗き込んできた。
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