渋茶片手につれづれと

宮ノ上りよ

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第一章 嵐は突然やって来る

1-2 いちばん言いたかったこと

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 後の事は帰宅してからだ、と。
オフィスに戻って仕事の続きを始めようと思いながらも、有智の中では何とも割り切れない感情が解消しきれないまま、ぐるぐると渦を巻いていた。

 春久と芙美子の結婚は、同期の誰もが寝耳に水の椿事だったのだろう。
連名の結婚報告葉書を手にした殆どの同期が真っ先に考えた事は。
『ラッパ戦隊のふたりなら事情を知っているはず』
有智の許に届いたメールの全てが、そういう前提のもとに書かれたと判る内容だった。
表現の僅かな違いはあれど、皆
『詳しい事を教えて欲しい』
という点は同じで。
これまで有智が個人的なやり取りなどした事がない女子も何人か、有智と菜々美双方を宛先にしたメールを寄越していた。
おそらく女子のメールは菜々美の方に集中しているのだろう。

 だが、有智も菜々美もこの件に関しては皆と全く同じ状況だった。
だから、詳細を教えろと言われても、何も答えられることがない。

 そのことが、ひどくもどかしい。

 ――何故、ハルは俺達に何も知らせてくれなかったんだろう。

 百歩譲って、知らない相手との結婚だったらまだ納得の仕様はあった。
今回もお得意のサプライズかよ、と。
それでも水臭いという思いは否めなかっただろうが。

 だが、相手はよりによって部活の同期。
しかも。
芙美子は有智と菜々美にとっては同じ小学校出身の、幼馴染とも言うべき古い友人だ。
だったら尚更、事前にひとこと知らせてくれてもいいだろうに。

 ――そもそもハルと杉下が、何で?

 結婚どころかふたりが付き合っていたことすら、全くの初耳だった。
外資系企業に勤めている春久は海外勤務が数年に及ぶ事もあって地元に帰って来る事など滅多にない。一方の芙美子は大学卒業以来地元で働いている。
そんなふたりの間にどんな接点があって、結婚にまで至ったのか。

 春久と芙美子が共にいるというだけなら、今までにそういう事は沢山あった。
中学校の同窓会に吹奏楽部の同期会やOB会、おまけに有智も菜々美も中学校三年時のクラスがふたりと一緒だった事から、卒業以来何度か開催されたクラス会でも都度顔を合わせていた。
菜々美が芙美子と親しい事から、『ラッパ戦隊』の三人が個人的に集う場に彼女が居合わせるという事もしばしばある。

 だが。
ふたりがふたりだけで特に親密そうにしていた場面など、記憶の底を浚えても、何も……。

 ――あ。

 ふっと。
ふたりが並んで手を振っていた情景が、有智の頭の隅を掠めた。
『ユーチ!』
『ハル?杉下?何で?』

 今と同様に。
何でこのふたりが?と首を傾げた場面が、あった。

 駅のコンコースで。
大阪から帰省して来た有智が新幹線ホームから改札口へと降りて行く途中、前方からよく知っている声に綽名あだなで呼ばれて。
驚いて顔を上げたら、改札口の向こうに春久が芙美子と並んで、立っていた。

 もう随分と前の事だ。
子ども達が生まれた頃だから、十年以上は経っている。

 娘が生まれた時か、息子の時だったか。
海外勤務から東京に戻ったばかりだった春久が、里帰り出産で実家にいた菜々美に出産祝いを届けるためにわざわざ有休休暇を取って日帰りで訪ねてきてくれた。
週末を妻や子と過ごすために大阪から新幹線に乗った有智は、春久来訪を知らせる妻のメールと前後して春久から『今から東京へ戻る』とメールをもらった。
ニアミスで会えない事を残念に思っていた所へ、まさかの春久だけではない、何故か芙美子までそこにいたのに、一瞬ぽかんとして。
『ハル?杉下?何で?』

 ――あの時は、確か。

 東京へ戻ろうとしたハルが駅で杉下と偶然会って、久し振りだったんで話がはずんで。
気がついたら結構時間が経っていたから、ついでにサプライズのつもりでふたりで俺を待っていたと、ハルが言っていた。

 もしかして、あの頃から付き合っていた、って事か――?

 思ったものの。
そこからここまでの記憶を辿ってみても、覚えている限りふたりの間にそんなそぶりは皆無で。
やはり春久が言っていた通り、あれはただの偶然だったと考えた方が良さそうだ。

 ――だったら。
一体何時から付き合っていたんだ、あいつらは――。

 春久はこれまでずっと、浮いた話など何もない、というスタンスだった。
学生時代は何人かと付き合っては別れてを繰り返していたようだったが、就職してからはあまりに忙しすぎて特定の女性と付き合う暇などない、と、いつもぼやいていた。
その度に誰かしら
『特定の女性はいないけれど不特定の女性と付き合っている』
というオチじゃないのかと突っ込んでは、俺を何だと思ってるんだ!と彼を怒らせていた。

 ほんの二ヶ月前に会った時も、相変わらず結婚など考える相手も余裕もなさそうな様子だった。
だが。
今結婚報告の葉書を送って来る位なら、少なくとも二ヶ月前の段階で『相手も余裕もない』という事はないだろうが、と。

 また波立ちかけた心を、ひとつ大きく息をして、抑えて。

 『ごべ、ん……って』
『はが、き……づぐま、でっ……だまっ……てろ、て』

 つい先程の、酷い鼻声の妻の科白を、頭の中で反芻する。

 芙美子もまた、有智や菜々美には先に知らせるべきだったと思っているのだろう。
だから菜々美に
『ごめん』
と謝って来た。
そして。

 『葉書着くまで黙ってろ、て』

 それ以降は何を言っているのか全く聴き取れなかったが。
改めて考えてみて、そのひとことだけではっきり判ったことがある。

 ――ハルは意図的に、俺達に事前に知られないようにしていたんだ。
わざわざ杉下に、葉書が着くまで黙っていろと緘口令まで敷いて。

 さっきまでは、苛立ちと怒りで何も考えられなかった。
けれど。
頭の中を整理して、余分な感情を排除して。
残った思いはただひとつ。
『何故?』
その一語に尽きた。

 ――何故だ?

 サプライズがやりたいという理由だけでこんな真似をしたらどういう事になるか。
そんな事が想像出来ない程、あいつは馬鹿じゃない。

 じゃあ、何故だ?

 何か、敢えてそうせざるを得ない理由があったってことか。
ハルのことだから、きっと。

 だとすれば――。

 それが何なのか、何故なのかは判らないが。
今、怒るよりも先に自分がしなければならない事は。

 スマートフォンの時計を確認すると、残業開始前の休憩時間終了までまだ五分程間があった。
これからする事を、一応菜々美には伝えておこうと。
有智は再び、通話履歴画面を開いた。


 『残業時間に私用電話なんかしていいの?』
電話に出た妻の第一声は、まだ幾分鼻声ながらも、いつもと同じ明るい調子だった。
まだ休憩時間内だから、と言って
「大丈夫か?」
案じる有智に
『うん。ナツとトモが帰って来たから』
ちいさく笑いながら、菜々美が言った。
「トモもこんな時間か?いつもより遅くないか?」
娘の菜摘よりふたつ下の息子・智希ともきは、一学期から有智と菜々美もかつて通った市立笹並北小学校に転入した。大阪の小学校で野球部に所属していたのでこちらでも早速入部したのだが、市内でも上位の強豪校で練習が厳しいらしく、毎日へとへとになって帰って来ると菜々美から聞いていた。
『何か今度の試合のレギュラー決めで五年から誰が入るかで随分揉めてたらしくて』
「あいつは流石に入れないだろ?入部したばかりだし」
『うん、俺関係ないから揉めてるの横で黙って見てるだけで気が楽だったって笑ってた』
「何だそりゃ」

 誰に似たのかおおらかで妙に能天気な息子のことを、いつものように楽しげに語る妻に、少しほっとして。
「今な、ハルに電話してみたんだけど出なくて」
残り少ない休憩時間を気にしながら、本題を切り出す。
『やだ当たり前でしょ!何やってるの!』
電話の向こうでぷぷっと噴き出す気配がした。
『ハル、この時間じゃまだ仕事中じゃないの?』
笑い声と共に
『貴方も相当頭に血が上ってるのねぇ?』
返って来た言葉に、まあな、と苦笑しながら。

 「で、とりあえずメール入れようと思うんだけど」
『なぁに?ふざけんな馬鹿野郎友達失くすぞ、って?』
「ぶ!」
今度はこっちが噴き出した。
「んな事書くかよ大人気ない」
笑いながら軽くいなして。
「とりあえずおめでとう位は言ってやらなくちゃな、戦友なんだし」
「……」

 僅かな沈黙の後。
「そうだね。戦友だもんね」
返してきた言葉が、微かに揺れた。
また何かが込み上げて来たのだろうか、ちいさく鼻を啜る音が聞こえた。

 戦友なのに何故、という思いが、菜々美の中にはあるのだろう。
自分の中にもあるから、解る。解り過ぎる程に。

 またざわめきかけた気持ちを、それでも抑えて。
「おまえからもメールしてやれよ、とりあえず」
そう言うと、うん、とちいさな声が返って来て。

 『でももうちょっと後にするよ。今じゃ何書くか判ったもんじゃないし』
「そっか、じゃ俺先に出しとくな」
『あ、だったらひとつだけ伝えて欲しいんだけど』
「何?」
『芙美子には絶対アバウトな事するな、したら絶対許さない、って』

 鼻を軽く啜り上げながらも、決然と言い放った妻に
「怖いなおまえ」
くくっと笑いながら言った。
『当たり前でしょ。こういうのは最初が肝心なんだから、がつんと言っておかなくちゃ』
「まあ俺も同感だけどな。杉下は俺達の小学校以来の友達だし」
『うん。だからそれだけはきっちり伝えてね』
「判ったよ」

 電話を切った後。
残り少ない休憩時間を気にしながら、有智はメールソフトを立ち上げた。
『いい加減にしろドアホ』
手早く打ったタイトルの後に怒りのマークを選んでボタンを押したら、力が籠り過ぎたかいくつも並んでしまった。
冷静になったつもりが、既にタイトルから感情剥き出しだ。
だがそんな事を気にしている余裕はない。

 『おまえのズボラっぷりとアバウトさは昔からよく判ってたつもりだけど今度という今度は愛想が尽きた。サプライズにも限度ってものがあるだろうが。ふざけるのもいい加減にしろ。今にマジで友達失くすぞ。』

 一気にそこまで打って。
ざっと読み直して、有智は苦笑した。
何の事はない、さっき菜々美に言われた
『ふざけんな馬鹿野郎友達失くすぞ』
をオブラートで包んだだけじゃないか。
しかもそのオブラートはどうやらあちこち破れているようだ。

 とにかく落ち着こうと、目を瞑って。
ひとつ大きく、深呼吸をして。

 目を開けた有智は、本文の続きを打ち始めた。
『夏にでも同期招集して盛大に祝ってやるから、絶対ふたりで出席しろよ。』

 『祝う』の文字が一瞬『呪う』とだぶって見えて。
次を打とうとした手が止まる。
確かに『いわう』と打ったはずだよな、と思いながら目を凝らして見て、錯覚だったと確認してほっとしたものの。

 ――待てよ。
そう言えば。

 昔、呪ったことあるんだよな、ハルのこと――。

 今まで忘れるともなく忘れていた、高校の頃の記憶が、不意に鮮やかに脳裏に甦った。

 中学卒業後、東京の難関私立高校に進学して地元を離れた春久が、都会での慣れない暮らしや今までと勝手が違う学校生活、思うように上がらない成績に戸惑い疲れていた所に、失恋まで重なって、ひどく落ち込んで。

 ――確か、ハルの十六歳の誕生日だった。

 ちょうど日曜日だしこっちから訪ねて行って元気づけてやろうと、菜々美とふたりでケーキとプレゼントを持って上京した。
ハッピーバースデーと歌おうとしたら、ヤローの歌なんか祝いじゃなくて呪いだと言われて。
じゃあ大いに呪ってやる、って、わざと音程を狂わせて歌ってやった――。

 二十年以上前の他愛もない思い出の一コマに、ふ、と笑みを誘われて。
流石にハルはもうそんな事は覚えていないだろうと思いながら。
スマートフォンの画面上のカーソルを『祝』の所に持って行って、『呪』に書き換えた。
そして。

 『杉下には絶対アバウトな事するな、したら絶対許さない、ってウチの怖い奥さんから厳命。』

 ついさっき妻から言付かった科白をそのまま打ったところで、不意に何とも言えない感慨が胸の奥から込み上げて来た。

 何故黙っていた、という疑問は解消されないままで。
腹ただしさも収まらない、けれど。

 生涯の戦友が、生涯の伴侶を見つけた。
相手は自分達も昔からよく知っている幼馴染で、大切な同期のひとりで。

 そのことが、ただ嬉しくて。

 『俺からも小学校以来の杉下の友人として同じ事を言わせてもらうのと、』
しみじみと優しい心持ちで
『追伸。』
と続けた後に。

 『おめでとうハル。ふたりで絶対に幸せになれよ。』

 祝福の言祝ことほぎを、指先が素直に紡ぎ出していた。

 敢えて読み返さずに送信ボタンを押すのと同時に、休憩時間終了を知らせる軽やかなチャイムが廊下に響いて。
スマートフォンの電源を切りながら、有智はオフィスに戻って行った。
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