渋茶片手につれづれと

宮ノ上りよ

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第一章 嵐は突然やって来る

1-1 それは一枚の葉書から

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 定時を知らせる軽やかなメロディがオフィス内に流れ始める。
机上のノートパソコンで書類を作成していた有智ありともは、顔を上げて壁にかかっている時計を見た。
一時間もあれば仕上がるかな、と思いながら、足許に置いたビジネスバッグからスマートフォンを取り出して電源を入れる。

 春先に大阪から故郷にUターン転職して、二ヶ月余り。
新しい職場の仕事にも雰囲気にも、かなり慣れた。
ゴールデンウィークが明けたあたりから徐々に任される仕事が増え、まだ定時退社が原則の試用期間中ながら上司に許可を得て残業する日がぼつぼつと増えて来た。
今日は金曜日。週明けにはおそらく別の仕事が入って忙しくなるので、今やっている事は今日のうちに片付けてしまおうと。
帰宅が少し遅くなる旨、妻にメールするつもりでメールアプリのアイコンに触れかけて。

 ――何だ?

 アイコンの右肩に表示された受信メール件数の異様な多さに、有智は目を丸くした。
普段はDM等も含めて多い時でも十件を超える事は滅多にない、が。

 二十件、って――?

 首を傾げながらアイコンをタップして、受信メールボックスを開くと。
所々にDMを挟んで、久し振りに見る懐かしい名前が一覧に並んでいた。
スクロールしてざっと確認したら、DMを除いて十数件、全て中学校時代に所属した吹奏楽部の同期からのメールで。
『驚いた!』
『あの二人何時から?』
『おまえらは聞いてたんだろ?』

 意味不明なタイトルの羅列の中、ひとつだけ無題のメールが目に留まった。
送信者名のみ
『菜々美』
と。

 ぽつんと表示された妻の名を、有智はしばしぼんやりと眺めた。
普段、彼女が無題にする事はない。メールの内容を要約した一文を入れるか、他愛のない用件でも『今日も暑いね』『仕事忙しい?』等、必ずひとこと入れてくる。
ひとからもらう分には何とも思わないらしいが、自分が出す場合は
『何かそっけないかなってどうしても気になっちゃって。まあ気にし過ぎなんだろうけれどね』
笑いながら言っていた。

 いつもとは違う妻のメールが気になって。
もしや同期からの大量のメール到来と何か関係があるのではと、とるものもとりあえず開いてみた。

 『今帰ったらハルと芙美子から結婚しましたって葉書が来てた。そんな話聞いてないよね?』

 本文はたったのふたことだけ。
だが。
その短い文面の意味を掴みかねて、有智は首を傾げた。
しばし考えて。

 ――同期で結婚報告が被るって、凄い偶然だな。

 そう、解釈した。
『ハルと芙美子』――共に部活同期のふたりから『結婚しましたって葉書』が同時に舞い込んだということかと。
多分他の同期にも今日、同様に葉書が届いたのだろう。ならば皆が驚くのも無理はない。
それにしても。

 『そんな話聞いてないよね?』
文末のひとことに目を落としながら

 ――聞いてない。

 俺も、何も聞いてない。
結婚、なんて。

 ハル、この間何も言ってなかったのに――。

 春先に数年ぶりに会った、中学校以来の『戦友』の笑顔を思い浮かべて。
有智はひどく複雑な思いに捉われた。

 この春から東京勤務になったからと、赴任先のニューヨークから帰国して久々に帰省したその足で、大阪から転居して来たばかりの自分達を訪ねてくれた。
三人で久闊きゅうかつを叙し来し方の思い出や互いの近況を様々語り合う中、話の流れで結婚云々に言及した記憶はあるが、返って来た反応からするとそんな予定も相手もない様子だった。

 もしかしたら、あいつお得意のサプライズ、って奴か?と。
思ってはみたものの、胸の中がもやもやする。

 あの時実は既に結婚が決まっていたのに、敢えて黙っていたのか。
それとも、付き合っている相手はいたがあの後すぐに結婚が決まったということか。

 いずれにしても。
戦友の俺や菜々美ななみにも黙ったまま葉書で事後報告って、水臭いにも程があるだろう、と。
釈然としない思いで、他の同期からのメールを開いて。

 ――は……あ?

 そこに書かれていたことに、有智は目を疑った。

 まさか、と。
愕然としながら微妙に震える指先でスマートフォンを操作して。
立て続けに数人分のメールに目を通して、今度こそはっきりと事態を把握した。

 ――何だよ。
ハルと杉下すぎしたが結婚、って。

 何なんだよそれ――!

 『おまえらは聞いてたんだろ?』
「聞いてねぇよ!」
たまたま開けていたメールのタイトルに低い声で鋭く突っ込みながら、有智は席を立った。


 人気のない廊下の片隅で、履歴から日頃掛け慣れた携帯番号に向けて発信する。
呼出音がすぐに途切れて。
『……あり、とも……っ』
妻の声が耳に入って来た。
口調と鼻を啜り上げる音で、泣いていると判った。それも、かなり。
「菜々美……」
電話越しにも悲嘆が痛い程に伝わって来て、何をどう言ってやればいいのかと迷ったものの
「他の奴からもメール来てたけど、マジなんだな?」
取り急ぎ確認しなければならないことを、声を励まして有智は妻に問うた。
「葉書、何て書いてあるんだ?」
『ちょっと、待って、ね』
やや間を置いて。
『わた、し……どもは、ごのたび……っげ……っこ……んし……』
しゃくりあげながら、菜々美が葉書を読み始めた。
涙交じりの棒読みで、酷い鼻声でごにょごにょと喋る合間に鼻を啜り上げる音やひっく、ひっくと嗚咽が混じって。
聴き取りにくかったものの、よくある結婚挨拶の定型文そのままの文言らしいというのはどうにか理解出来た。
初めて聞く東京都内の住所の後
赤池あかいけ春久はるひさ芙美子ふみこ、旧姓杉下』
ふたりの名まで読み上げた菜々美に
「他に何か書いてないのか?添え書きとか」
問うと、ない、とぼそっと返って来て。

 「今芙美子にでん、わ……」
「杉下に電話したのか?」
「ん……ごべ、ん……って」
「ハルの事は?何か言ってたか?」
「はが、き……づぐま、でっ……だまっ……てろ、て」
話している端から新たに涙が込み上げてきたのか、だんだん何を言っているのか殆ど聴き取れなくなってきて。
「判った」
これ以上無理に喋らせても辛いだけだろうと
「今日はどうしても残業外せないからもう少し時間がかかるけど、出来るだけ早めに帰るから、後でちゃんと話そう、な?」
有智が言うと、電話の向こうで菜々美が泣きながら
『わか、った』
ちいさく返してきた。
「他の奴から来てるメール、もう一度ちゃんと読み返してみるから。何か判るかもしれないし」
『……ん』

 電話を切って。
スマートフォンの電源をオフにしようとした有智の目に、待受画面の家族写真が映った。
大阪のマンションを引き払う際、ここの最後の思い出にと、ベランダに出て親子四人で自撮りした写真だった。
大阪平野に向かって緩く拡がる街並みの遠景をバックに、最近背が高くなりつつある娘と息子が少しかがんでピースサインを出している後ろで。
微妙に仏頂面の自分とは対照的に、横で楽しげに笑っている妻。

 『……あり、とも……っ』
屈託のない笑顔に、今の今まで聞いていた涙声が重なって。
「……っの野郎!」

 沸々と込み上げてきた怒りが、つい口からこぼれ出た。

 何考えてんだ。
菜々美を泣かせるような真似しやがって――!

 指先が、家族の写真を荒く払い消した。
受話器のアイコンをタップして、通話履歴を大きくスワイプして。
『赤池春久』
ふた月程前に電話でやり取りした戦友の名に、忌々しい思いで触れた。

 携帯番号の横に表示された発信アイコンを押す。
数回繰り返した呼出音の後
『ただいま電話に出る事が出来ま』
抑揚のない応答メッセージの途中で切り、リダイヤルする。
呼出音の後の、ただいま、で即切って、また掛けて。

 苛々と同じ動作を数回繰り返した後。
この時間だとハルはまだ仕事中だ、と。
残業が日常茶飯事の相手が今の時間帯に私用で電話に出られるはずがない事に、有智はようやく思い至った。

 ――何やってるんだよ俺。

 すっかり冷静さを欠いていた事を自嘲しながら、スマートフォンの画面をホームに戻すと、新着メール通知が表示された。またしても部活同期の男子からだった。

 先に軽く読んだ分と新たに来た分も含めて、同期からの全てのメールにざっと目を通したものの、どうやら皆葉書に書いてある事以上の情報は何も掴んでいないようだった。
それどころか。
『葉書に何も書いてなかったけど、おまえらは詳しい事ハルから聞いてるだろ?』
『何時からあいつら付き合ってたんだ?』
『結婚式とかやったのか?』
逆にこちらが詳細を知っているはずだという前提で、探りを入れるような文言がどのメールにも入っていて。
『他の皆も寝耳に水だったみたいだけどラッパ戦隊なら事情聞いてるよね?もし差支えなければ教えてもらえたら有難いです』
送信先に有智と菜々美双方のアドレスが並んでいる、同期女子からのメールの文面に、きり、と胸を抉られる思いがした。

 ――『ラッパ戦隊』だから。
皆、俺達がハルから先に話を聞いていると、当然のように思っている。

 誰から見ても、俺達はそういう仲なんだ。
誰に言われなくても、俺も菜々美もそう思っていたんだ。
おまえもそうだろうと、疑う事もなく思っていたんだ。

 俺達はただの同期、ただのラッパパートの仲間じゃない。
『ラッパ戦隊』だから。
『戦友』だから。

 なのに。
何でだよ、ハル――。


 ささくれ立つ心を鎮めようと、瞼を閉じて、深呼吸して。
目を開けた有智は、受信メールの一覧を改めて慎重に見直した。
同期男子の半数以上の名が並ぶ中に、こういう時に当然あるはずの名が見当たらない。

 時計を見て。
この時間なら部活も終わった頃だろうか、と。
電話帳から
『鈴木啓太』
の名を拾い出して、発信アイコンを押した。

 同期の啓太けいたは現役時代に部長を務めた事から、今も同期の中心的存在だった。吹奏楽部OB会では有智達の期の代表幹事として運営に携わり、数年おきの同期会も彼が幹事としていつも皆に声を掛け取りまとめてくれていた。現在は母校である市立笹並ささなみ中学校で教鞭を取る傍ら、吹奏楽部の顧問として後進の指導に当たっている。
有智の娘の菜摘なつみがこの春笹並中学校に入学して、つい先日吹奏楽部に正式入部した。
娘を通じて部活の様子を多少は聞き知っているので、もうそろそろ音楽室から職員室に戻っている頃合いでは、と思ったのだが。
数回鳴った呼出音の後に切り替わったのは用件録音を促すメッセージだった。
まだ早かったか、と電話を切って、メール画面に切り替えて。

 『忙しい時間に電話やメールしてごめんな。ハルと杉下の結婚の件、多分家の方に葉書が届いていると思う。帰宅したら何時でもいいから折り返し電話して欲しい。』

 手早くそう打って、送信ボタンを押して。
「あ」
件名を入れ忘れた事に、有智は気づいた。
妻を見習って、という訳でもないのだが、有智も普段からメールのタイトルは必ず自身の言葉で入れるのが常だった。
さっきの自分同様、啓太が無題のメールを見たらやはり不審に思うのではないか、と。

 ――俺も相当動揺しているってこと、だな。

 スマートフォンから目を上げて。
ふぅ、と、有智は溜息をついた。
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