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(二)

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「誰か! 誰か来てくれ」
 トキオは叫んだ。
 辺りは一面の雪。
 大雪のため朝練にやって来る生徒はおらず、トキオの声は空しく白い世界に吸収される。
「誰も、いないかな」
 トキオは、ため息を吐く。
「あっ」
 トキオは短く声を上げた。
 遠くで影が、動いている。
 濃紺の影だ。
 やがてそれは近づき、次第に大きくなり、人間の形に変化した。
 濃紺の作務衣を身にまとい、スコップを担いだ男が、駆け寄って来ていた。
「井中君か…」
 井中カオル。トキオと同僚の社会科教師だった。
 長身にして、痩躯。切れ長の大きな眼の上に、緩やかな弧を描いた眉。エネルギッシュな日焼けした頬の真ん中に、筋の通った美しい鼻が聳え立っている。
 優れた身体的特徴とは裏腹の、やや年期が入ったよれよれの作務衣に、トキオは眼をやった。
(こうして改めて見ると、不思議な男だよな……。作務衣で授業してる教師なんて、日本中探しても他にはいないよな)
 じっと見上げるトキオの前で、カオルが口を開いた。
「どうした」
 低音だが、よく通る声だ。
 頭に、雪が薄く積もっている。校内のどこかで、雪かきをしていたところらしい。
「見ての通りだ」
 トキオは、横たわる男子生徒に眼を向けた。
「今朝は体育館の鍵開け当番でな。ここを通りかかった時には、元気だったんだが……。鍵を開けて戻って来たら、倒れていた」
「君のクラスの深田善機君だな」
 カオルはスコップを足元に置き、善機の前で腰を下ろした。
 善機の首筋に触れ、耳を口元に近づける。
「脈拍も呼吸も、まあまあ普通だな」
  カオルは立ち上がった。
「いずれにせよ、気を失っている。救急車を呼ぼう」
「おう」
 トキオがポケットから、スマホを取り出した時だ。
「待って」
 背後から、甲高い声が聞こえた。同時に、ツンと鼻をつく香水の香りが漂う。
「二階堂先生…」
 二階堂春菜。二年次に善機の担任だった、英語教師。トキオやカオルより三歳年上だ。
 雪の日にもかかわらずスカートが短い。春菜は金縁の眼鏡に手をやり、眼鏡の奥のやや釣り上がった眼で、トキオを見下ろした。
 尖った顎を引くと、両耳に付けたプラチナのイアリングが、僅かに揺れる。
「救急車なんか呼ぶと、たちまち生徒達に拡散して不安感を与えてしまう。今は受験シーズンでしょ。静かに運んだほうがいいと思うわ」春菜は、眼鏡を押し上げた。「すぐ近くの宿村病院。あそこの先生に私もお世話になっている。まだ診療時間前だけど、事情を話せばすぐに診て貰えるわ。私の車で行きましょう」
「いいんですかね。普通の車で……」
 言いかけるトキオを一瞥もせず、春菜は背を向けた。
「加賀美君は、歩いて来て。善機君を後部座席に寝かせたら、乗せる余地、ないわ」

「こちらの車。葉巻の香りがしませんか?」
運転する春菜の横で、カオルが呟くように言った。
 大通りに面して、〈宿村病院〉の看板がかかった五階建ての建物がある。隣接する駐車場に、青い車体のワゴン車が入って行く。
 後部座席に善機が横たわり、寝息をたてている。
「葉巻? 私は全然、匂わないけど」左へハンドルを切りながら、春菜が答える。「私、葉巻なんて吸わないし……。かなり香り強めの香水してるから、鼻につくんじゃない?」
「そうですかね? 香水とは異質な匂いと思いますが」
 春菜は答えず、ブレーキを踏んだ。
 運転席側のドアを開ける。
「着いたわ。宿村院長に話つけて来る。井中君は善機君の様子を見てて」
 春菜が雪の降り積もった車外に出た。
 病院の三階角に、個室の病室がある。
 窓際に置かれたベッドに、善機が横たわっていた。
 意識は戻らず、昏睡したまま。顔面に人工呼吸器。左腕に点滴の管が付けられた状態だ。
 ベッドの周りをトキオ、カオル、春菜が囲む形で立っている。
 その中心で、四十がらみの女性が善機の手を握った状態で椅子に座り、涙を浮かべていた。
 善機の母沙智子を、トキオが連絡して呼び寄せたのだ。
 ベージュのジャケットに身を包み、首からネームプレートを下げている。職場から大慌てで駆けつけた様子が見て取れた。
 ふいに、病室のドアが開いた。
 白衣を身に着けた白髪の老人が入って来る。病院の院長、宿村玄蔵だ。
 頭は総白髪だが、背筋がピンと伸びて、頬に赤みが差している。好々爺然とした風貌だ。
「レントゲンの結果が出ました」
 老眼鏡を額の上に上げ、手にしている写真を凝視する。
「まずは、チョコレートの包装材や乾燥剤などを誤って呑み込んだ可能性を考えたのですが……。喉に詰まっているものはありませんでした」
 ベッドの周りの面子を見回しながら、穏やかに続ける。
「当然ながら有効な治療を施すには、患者さんが何故このような状態になったかの原因を解明することが不可欠となります」
 宿村は沙智子に眼を向けた。
「ご子息は、心臓の持病をお持ちでしょうか。状況からしまして、心臓発作の可能性はございます」
 沙智子は顔を上げ、首を振った。
「いいえ。この子は幼い頃から、全くの健康体で……。たまに風邪をひく位で、大きな病気とは全く縁がございません」
 宿村は頷き、続けた。
「食品アレルギーはございましたか。今回召し上がったと思われるチョコレートに何らかの原因物質が練り込まれていたとも考えられます」
「アレルギーもありません。陸上競技をやっていたものですから、栄養バランスを考えてどんなものでも偏りなく食べさせておりましたが、アレルギー反応を起こすことはありませんでした」
「と、なりますと……」宿村は咳払いを一つした。「お母様、ならびに先生方には、ショッキングなことを申し上げなければなりません」
「ショッキングな、こと?」
 トキオが眉を寄せた。
「患者さんは、何らかの毒物を盛られた可能性を考えざるを得ません」
「まさか……」
 沙智子が立ち上がった。
 顔面が、蒼白になっている。
「ウチの子に限って、そんなことは……。明朗快活で、友達思いの優しい子です。他人に恨みを買うようなことは、あり得ません」
 宿村は眼を伏せた。
「お気持ちはよく、わかりますが……。私としましては、原因を特定いたしませんと、治療を進められませんので」
 うなだれて座り直す沙智子の横で、カオルが懐に手を入れた。
「検証の材料はあります。善機君が食べたチョコレートの残りです。砕け散っていたのを回収して来ました」
 小さなビニール袋に入った、茶色の断片を眼前にかざす。
「随分、準備いいわね。いつの間に回収したの」
 春菜が眼を瞠る。
「二階堂先生が車の準備をしてくださっている間に、拾い集めました。現場の写真も撮ってあります」
 トキオが補足する。
「井中君はライフワークで、野外観察というのをやってましてね。観察の七つ道具をいつも携帯しているんです」
「七つ道具?」
 カオルが、無表情で答える。
「標本回収用のピンセットにビニール袋。虫眼鏡に双眼鏡。方位磁石など。これらを常に持ち歩いています」
「へえ。そうなの」
 黙ったまま眼を向けている沙智子に、トキオが言った。
「お母様。この男、作務衣なんか着てますがれっきとした教師です」
 カオルの作務衣の袖を、ぐいぐいと引っ張る。
 沙智子は、頬をこわばらせたまま、口元だけ笑みを作った。
「授業中いつも作務衣姿の面白い先生がいらっしゃるって、かねがね善機から聞いておりました。月に一度、野外観察ということで街中を自由に見て回る授業があるって」
(担任の僕より、印象深いみたいだな)
 場所柄、笑う訳にはいかない。トキオは、心の中で苦笑した。
「お母様」春菜が、沙智子の方を向く。「もし……」
 沙智子が眼を上げる。
「もし、チョコレートに毒物が盛られていたとしたら、殺人未遂または傷害の罪に当たると思います……。その場合、警察に被害届を出されますか?」
「はい。そのようにさせていただきます」
 カオルが手にしていたチョコレートの標本を、沙智子に差し出した。
「こちらの標本は、お母様にお預けいたしましょうか? お母様から警察にご提出していただき、分析をご依頼されたほうがよろしいかと」
「ありがとうございます。善機のことはしばらく、宿村先生に見ていただいて……。私は早速、警察にご連絡を入れてみます」
 沙智子が、椅子から立ち上がった時……。
「待ってください」
 トキオが懐に手を入れた。
「もう一つ、重大な手がかりがあります」
 一枚の名刺サイズのカードを、沙智子の眼前に掲げる。
「善機君が倒れたまま、握っていたものです。これは善機君の筆跡でしょうか」
「はい。善機の字だと思います。ですが……」沙智子は首を傾げた。「『有難や……』って、何のことですの? 善機はこんなひどい眼に遭ってますのに、何でありがたいんですか」
 沙智子の眼に、怒りとも困惑ともつかぬ、震えるような色が浮かんだ。


 
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