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一話 憧れの家庭教師の秘密
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「相坂。ゲーセンでも行かないか?」
気の抜けた声で、前の席に座る戸塚からそんな誘いを受けたのは六限目終わった直後のことだ。
「悪い。今日は都合が悪い」
「ああ。そうか。月曜日と金曜日は家庭教師だっけ?」
「そうなんだ。悪いな」
「相坂の家庭教師ってこないだ本屋でデートしてたあの人だろ」
「あれはデートじゃないって何度も言ってるだろ。参考書を選ぶのを手伝ってもらってただけだ」
「そんなの方便だろ。あの顔で、あの体。モデルとかかって思ったぜ。あんな完璧な童顔巨乳、この世界に存在するんだなって」
「人の家庭教師をそういう目で見るなよ」
「じゃあ、お前は興味ないんだな。なら俺に紹介してくれよ。あの人、名前なんて言うんだ?」
「遠野栞。でもお前には絶対に紹介なんてしない」
「なんでだよ。興味ないんだろ?」
「遠野さんに迷惑かかりそうだし」
「あのえろっぱいをお前一人で独り占めにするつもりかよ。お前やっぱり好きなんだろ、あの人のこと」
「好きじゃないなんて言ってないだろ」
「なんだよ、やけにあっさり認めるのな。ならいい。ゲーセンは俺一人でいくわ。じゃあな。えろっぱい家庭教師とうまくやれよ、相坂」
僕は戸塚ほど欲望に忠実な男を知らない。
とても真似できたものではない。
この身軽さに助けられることはないわけではないけれど、基本的にはマイナスの方が多い。
せめて発言する場所を選ばないと、こっちにまで影響が出るのだ。
例えば今も……。
隣に座る女子が訝しげに僕の方を見ている。
戸塚との会話を聞いていたのだろう彼女から、釘さえ打てるような圧力の冷たい視線を感じる。
「相坂君もやっぱそういう体型の人が好きなんだ?」
そう尋ねる彼女は見るからにスレンダーで(というのはオブラートに包んだ言い方だ)、僕はなんと返したらよいのかわからずに戸塚を見やったが、やつの姿はもうなかった。
* * *
金曜日の一七時のインターフォンは至福の音だ。
「遠野です」
インターフォン越しに遠野さんが名乗る。
たったそれだけなのに。
その心地いい鈴の響きのような第一声だけで僕の心はときめく。
慌てないようにロックを外して、ドアを開けると、秋の夕暮を背景にして、声の主が現れる。
夕暮れ越しの、遠野さんの姿は眩しい。
大きな黒の瞳、整えられた長いまつげ。
柔らかそうな頬。淡い栗色の長髪を自然に肩に流している。
紅葉のような色のニットに、灰色のロングスカートがよく似合っている。
かわいいと美しいだったらかわいい寄り。
美女か美少女だったら美少女寄り。
明るく元気と知的で真面目だったら後者。
お嬢様という言葉が彼女以上に似合う人間を僕はこれまで見たことがないけれど、実際にかなり育ちの良いお嬢様らしい。
アンバランスさがあるとすれば、その薄手のコートでは隠しきれない膨らみだろうか。
遠野さんの胸は、あまりに主張が強く、それだけで男だったら誰だって誘惑できてしまう気がする。
戸塚が完璧な童顔巨乳と言っていたことを思い出して、思わず僕もそこに目線をやってしまいそうになる。
それを避けるように、遠野さんに顔に向けて挨拶をする。
「こんにちは、相坂さん。今日もよろしくお願いします」
もう半年近くになるのに、最初の頃から変わらない丁寧さで遠野さんは頭を下げる。
この人のこの丁寧さが僕は好きだ。
「こちらこそ」
僕もできる限りそれに応えて、遠野さんを部屋に通す。
「お邪魔いたします」
遠野さんは挨拶をするけれど、僕の他には誰もいない。
保険の営業をしている父は単身赴任で仙台だし、母親は出版社に務めていて帰ってくるのは深夜だ。
そんな環境だから僕の勉強ぶりに不安を覚えたらしい。僕が高校二年になる時に、塾に行くか家庭教師をつけるかの選択を母に迫られた。
単に塾に通うのが面倒だったという理由で選んだけれど、家庭教師を選んだのは大正解だった。
そうでもなければこんなシチュエーションはありえないだろう。
遠野さんのような美少女なお嬢様と部屋で二人きりになるなんて。
遠野さんが支度をしている間、僕は二人分のコーヒーとお茶請けのお菓子を用意する。
そうして僕の部屋にあるローテーブルに互いに向かい合って座る、というのがいつもの流れだ。
コートを脱いだ遠野さんは薄手のニット姿で、胸の膨らみが自然と際立つ。
健全な男子高校生として目の前のその膨らみは夢とか憧れそのものだった。
いけない妄想が捗りそうで、カップを置く手が少し震える。
遠野さんは僕がそんなことを考えているとは夢にも思っていないのだろう。
真面目な顔つきで、何冊かのノートを取り出して準備を整えている。
「今週は確か日本史と数学の小テストがあったんですよね。どうでしたか?」
「日本史は満点でした。ちょうど先生に教わったところが出まして」
「そうですか。それはよかったです」
「ただ数学でいくつか解けない問題があったのでそこを教わりたくて」
「わかりました。じゃあ、その疑問を解決してから、世界史にしましょう。それでよいですか?」
遠野さんは少なくとも僕が出会った中ではもっとも丁寧に勉強を教えてくれた人だ。
将来教師になりたくて国立の教育大学に通ってらしいけれど、まだ大学一年生なので専門的なことは教わっていないはずだ。
家庭教師のアルバイトも初めてということで、母親は最初は警戒していたが、面接に現れた遠野さんの真摯でひたむきな態度にぜひにと頼んだ。
実際に僕の学校での成績もずいぶんと伸びた。
遠野さんのためにという気持ちで勉強時間も増えたけれど、それ以上に彼女の教え方はうまい。
「小さなことでも、わからないことがあったら何でも聞いてくださいね。一度わからないって諦めちゃうと、それが癖になってしまいますから」
遠野さんはことあるたびにそう言ってくれた。
僕はそれまでわからないというのは恥ずかしいということだと思っていたけれど、遠野さんに教わり始めてからはむしろわからないと言えないことの方が恥ずかしいことだと思うようになった。
そしてわかるようになると、彼女はまるで自分のことのように喜んでくれるのだ。
僕はそんな遠野さんの姿を見るにつれて、彼女に惹かれていた。
「ここまでは大丈夫ですか、相坂さん? 少し早かったでしょうか」
「大丈夫です。やっぱり先生は教え方がうまいですね」
「そんなことないですよ」
「いえ、勉強ができない人の気持ちがこんなにわかってくれる先生は他に見たことなくて。どうしてでしょう?」
遠野さんは都内でも有数の学力を誇る中高一貫の女子校に通っていたらしい。
勉強ができる人はできない人の気持ちがわからず教えるのが苦手というのはよくあることだと思うけれど、遠野さんには全然あてはまらない。
「私にはそんなことはできませんよ」
「でも、実際すごくわかってくれているように思います」
「もしそうだとしたら、相坂さんの気持ちをすごく考えているつもりす。私が教えるのは相坂さんですから、相坂さんに伝わらなかったら意味がないので、相坂さんのことを想像して、授業とかノートとかつくっているんです。それがうまくいっているならすごく嬉しいです」
遠野さんは細い指で頬をかく。
心なしか頬が紅潮している。
反則的なかわいさに僕は思わず胸がぎゅっとなる。
好きという一言だけで片付けるのが嫌になるほど、僕は遠野さんに好意を抱いている。
もちろん、できる限り表に出ないようにしている。
遠野さんはあくまでも家庭教師で、仕事としてここに来ているのだ。
そうじゃない関係を望めば、彼女を傷つけるかもしれない。だからプライベートなことには基本的には踏み込まないようにしている。
『恋人はいますか?』
もちろん、遠野さんみたいな人だったらいないわけないのだけれど、僕は何度そう尋ねようと思ったかわからない。
そんなことを訊くのは一線を越えているような気がしてできるはずもない。
だから先々週、参考書を見にいきたいと誘ったことは(それを快く受けてくれたことも含めて)、奇跡的なことだった。
まさか戸塚のやつに目撃されるとは思わなかったけれど、あの一日だけの幸福感で勉強なんていくらでもできるような気にさえなった。
「先生はすごくいい教師になれると思います」
それは僕の率直な感想だ。
「いえ。おそらく私はあまり良い教師にはなれないと思います」
「そんなことないです。少なくとも僕にとっては一番です」
「そう仰っていただけるのはうれしいのですが、実は私は人があまり得意じゃないんです。そのあまりくだけて話すのとか、自分のことを話すのとか苦手で。だから将来のことも悩んでいるんですよ。本当に教師になるのがいいのかって。ごめんなさい。相坂さんにこんな暗い話をしてしまって。さあ、続きをやりましょう」
遠野さんにそんな悩みがあるということは想像したこともなかった。
僕から見れば遠野さんはほとんど完璧な人だった。
僕は少しでも先生の気持ちが軽くなればと思って、
「少なくとも僕は先生の丁寧さがすごく好きです」
「ありがとうございます。そう言っていただけるのは嬉しいです」
その後の授業はいつも通りだった。
遠野さんの授業は二十一時までの四時間だ。
授業が終わって玄関で見送る頃には、もうすっかり空は真っ暗になっていた。
「今日はいろいろありがとうございました。相坂さんの言葉とても嬉しかったです」
来たときと変わらず遠野さんは丁寧に頭を下げる。
秋の夜空に向かっていくその後ろ姿さえ愛おしく思う。
追いかけてそのその姿を後ろから抱きしめたくなる。
そんな衝動に駆られる。
もちろん、そんなことはできるはずはないけれど。
僕は自分の昂った感情をやり過ごすためにリビングで一人悶々としていた。
もし遠野さんとの関係が進んだら。
もし彼女を抱きしめることができたら。
あの体に触れることができたら。
想像というよりは妄想のたぐいだ。
自分でも嫌になるぐらいに率直な想像だ。
好意はどうしようもなく身体とくっついている。
いけないとわかっていても、僕はその妄想に浸っていた。
だから、その妄想の当人である遠野さんから電話がかかってきたのには驚いた。
『相坂さん。その申し訳ないのですが、鞄を忘れてしまったようで。お部屋にあるか確かめてもらえませんか?』
『ちょっと待ってくださいね』
リビングから自分の部屋に移動するとなぜ気づかなかったかと思うぐらい部屋の真ん中に、遠野さんの黒のトートバッグがあった。
『ありました。届けますよ』
『いえ、それは申し訳ないので取りに伺います。あっ』
『どうかしましたか?』
『今から荷物が来るのを失念してまして……』
『やっぱり僕が届けましょう』
『申し訳ないですが、お願いしてもいいですか?』
『大丈夫です。九時半までにはつくと思います』
『ご迷惑かけ申し訳ありません』
いえいえと言って電話を切る。
遠野さんの鞄をそのまま持つのは躊躇われて、紙袋に入れる。
それを持って、上着を羽織って家を出る。
遠野さんのマンションは徒歩で五分ほどだ。
一度月謝を渡しそびれたときに訪ねたことがある。
一般的な大学生の住まいの相場が僕にはわからないけれど、おそらくはかなり良い部類だろう。
真新しい十階建てのマンションである。
エレベーターで十階まであがり、右の角部屋が遠野さんの部屋だ。
ちょうど荷物が届いたところのようで、配達員とすれ違った。
インターフォンのボタンを押す。
返ってくる遠野さんの声に対して、名乗る声が緊張で少し声が上る。
扉が開くと甘い香りがした。
先ほど会ったばかりだというのに、遠野さんの姿が目に入るだけで嬉しくなる。
僕が犬だったら尻尾をぶんぶん振っているだろう。
「どうぞ」
鞄の入った紙袋を遠野さんに手渡した、そのタイミングだった。
蛾のような虫が視線に入る。
遠野さんの視界にも入ったのだろう。
遠野さんは短く悲鳴を上げて手渡した紙袋を落とした。
トートバッグの中身があたりに散らばる。
化粧ポーチとハンカチ、本。
遠野さんは化粧ポーチとハンカチを、僕は裏返しに落ちた本を手に取る。
それを表にして遠野さんに手渡す。
僕はその時点では、何が起きたのかわかっていなかった。
ただ、遠野さんの顔が真っ赤になるのがわかった。
「きゃあああああああああああああああ」
聞いたことのないような遠野さんの悲鳴が、辺りに響いた。
僕はその声にびっくりして、手にしている本を見た。
ライトノベルかなと思った。
でも違った。
ジャケットには高校生ぐらいの女の子が描かれているが、そのシャツのボタンは半分ほど外され、ショーツが丸見えの構図で物欲しそうに顔を赤らめている。
タイトルは、
『家庭教師先の生徒が可愛すぎて、えっちしまくった件について』
気の抜けた声で、前の席に座る戸塚からそんな誘いを受けたのは六限目終わった直後のことだ。
「悪い。今日は都合が悪い」
「ああ。そうか。月曜日と金曜日は家庭教師だっけ?」
「そうなんだ。悪いな」
「相坂の家庭教師ってこないだ本屋でデートしてたあの人だろ」
「あれはデートじゃないって何度も言ってるだろ。参考書を選ぶのを手伝ってもらってただけだ」
「そんなの方便だろ。あの顔で、あの体。モデルとかかって思ったぜ。あんな完璧な童顔巨乳、この世界に存在するんだなって」
「人の家庭教師をそういう目で見るなよ」
「じゃあ、お前は興味ないんだな。なら俺に紹介してくれよ。あの人、名前なんて言うんだ?」
「遠野栞。でもお前には絶対に紹介なんてしない」
「なんでだよ。興味ないんだろ?」
「遠野さんに迷惑かかりそうだし」
「あのえろっぱいをお前一人で独り占めにするつもりかよ。お前やっぱり好きなんだろ、あの人のこと」
「好きじゃないなんて言ってないだろ」
「なんだよ、やけにあっさり認めるのな。ならいい。ゲーセンは俺一人でいくわ。じゃあな。えろっぱい家庭教師とうまくやれよ、相坂」
僕は戸塚ほど欲望に忠実な男を知らない。
とても真似できたものではない。
この身軽さに助けられることはないわけではないけれど、基本的にはマイナスの方が多い。
せめて発言する場所を選ばないと、こっちにまで影響が出るのだ。
例えば今も……。
隣に座る女子が訝しげに僕の方を見ている。
戸塚との会話を聞いていたのだろう彼女から、釘さえ打てるような圧力の冷たい視線を感じる。
「相坂君もやっぱそういう体型の人が好きなんだ?」
そう尋ねる彼女は見るからにスレンダーで(というのはオブラートに包んだ言い方だ)、僕はなんと返したらよいのかわからずに戸塚を見やったが、やつの姿はもうなかった。
* * *
金曜日の一七時のインターフォンは至福の音だ。
「遠野です」
インターフォン越しに遠野さんが名乗る。
たったそれだけなのに。
その心地いい鈴の響きのような第一声だけで僕の心はときめく。
慌てないようにロックを外して、ドアを開けると、秋の夕暮を背景にして、声の主が現れる。
夕暮れ越しの、遠野さんの姿は眩しい。
大きな黒の瞳、整えられた長いまつげ。
柔らかそうな頬。淡い栗色の長髪を自然に肩に流している。
紅葉のような色のニットに、灰色のロングスカートがよく似合っている。
かわいいと美しいだったらかわいい寄り。
美女か美少女だったら美少女寄り。
明るく元気と知的で真面目だったら後者。
お嬢様という言葉が彼女以上に似合う人間を僕はこれまで見たことがないけれど、実際にかなり育ちの良いお嬢様らしい。
アンバランスさがあるとすれば、その薄手のコートでは隠しきれない膨らみだろうか。
遠野さんの胸は、あまりに主張が強く、それだけで男だったら誰だって誘惑できてしまう気がする。
戸塚が完璧な童顔巨乳と言っていたことを思い出して、思わず僕もそこに目線をやってしまいそうになる。
それを避けるように、遠野さんに顔に向けて挨拶をする。
「こんにちは、相坂さん。今日もよろしくお願いします」
もう半年近くになるのに、最初の頃から変わらない丁寧さで遠野さんは頭を下げる。
この人のこの丁寧さが僕は好きだ。
「こちらこそ」
僕もできる限りそれに応えて、遠野さんを部屋に通す。
「お邪魔いたします」
遠野さんは挨拶をするけれど、僕の他には誰もいない。
保険の営業をしている父は単身赴任で仙台だし、母親は出版社に務めていて帰ってくるのは深夜だ。
そんな環境だから僕の勉強ぶりに不安を覚えたらしい。僕が高校二年になる時に、塾に行くか家庭教師をつけるかの選択を母に迫られた。
単に塾に通うのが面倒だったという理由で選んだけれど、家庭教師を選んだのは大正解だった。
そうでもなければこんなシチュエーションはありえないだろう。
遠野さんのような美少女なお嬢様と部屋で二人きりになるなんて。
遠野さんが支度をしている間、僕は二人分のコーヒーとお茶請けのお菓子を用意する。
そうして僕の部屋にあるローテーブルに互いに向かい合って座る、というのがいつもの流れだ。
コートを脱いだ遠野さんは薄手のニット姿で、胸の膨らみが自然と際立つ。
健全な男子高校生として目の前のその膨らみは夢とか憧れそのものだった。
いけない妄想が捗りそうで、カップを置く手が少し震える。
遠野さんは僕がそんなことを考えているとは夢にも思っていないのだろう。
真面目な顔つきで、何冊かのノートを取り出して準備を整えている。
「今週は確か日本史と数学の小テストがあったんですよね。どうでしたか?」
「日本史は満点でした。ちょうど先生に教わったところが出まして」
「そうですか。それはよかったです」
「ただ数学でいくつか解けない問題があったのでそこを教わりたくて」
「わかりました。じゃあ、その疑問を解決してから、世界史にしましょう。それでよいですか?」
遠野さんは少なくとも僕が出会った中ではもっとも丁寧に勉強を教えてくれた人だ。
将来教師になりたくて国立の教育大学に通ってらしいけれど、まだ大学一年生なので専門的なことは教わっていないはずだ。
家庭教師のアルバイトも初めてということで、母親は最初は警戒していたが、面接に現れた遠野さんの真摯でひたむきな態度にぜひにと頼んだ。
実際に僕の学校での成績もずいぶんと伸びた。
遠野さんのためにという気持ちで勉強時間も増えたけれど、それ以上に彼女の教え方はうまい。
「小さなことでも、わからないことがあったら何でも聞いてくださいね。一度わからないって諦めちゃうと、それが癖になってしまいますから」
遠野さんはことあるたびにそう言ってくれた。
僕はそれまでわからないというのは恥ずかしいということだと思っていたけれど、遠野さんに教わり始めてからはむしろわからないと言えないことの方が恥ずかしいことだと思うようになった。
そしてわかるようになると、彼女はまるで自分のことのように喜んでくれるのだ。
僕はそんな遠野さんの姿を見るにつれて、彼女に惹かれていた。
「ここまでは大丈夫ですか、相坂さん? 少し早かったでしょうか」
「大丈夫です。やっぱり先生は教え方がうまいですね」
「そんなことないですよ」
「いえ、勉強ができない人の気持ちがこんなにわかってくれる先生は他に見たことなくて。どうしてでしょう?」
遠野さんは都内でも有数の学力を誇る中高一貫の女子校に通っていたらしい。
勉強ができる人はできない人の気持ちがわからず教えるのが苦手というのはよくあることだと思うけれど、遠野さんには全然あてはまらない。
「私にはそんなことはできませんよ」
「でも、実際すごくわかってくれているように思います」
「もしそうだとしたら、相坂さんの気持ちをすごく考えているつもりす。私が教えるのは相坂さんですから、相坂さんに伝わらなかったら意味がないので、相坂さんのことを想像して、授業とかノートとかつくっているんです。それがうまくいっているならすごく嬉しいです」
遠野さんは細い指で頬をかく。
心なしか頬が紅潮している。
反則的なかわいさに僕は思わず胸がぎゅっとなる。
好きという一言だけで片付けるのが嫌になるほど、僕は遠野さんに好意を抱いている。
もちろん、できる限り表に出ないようにしている。
遠野さんはあくまでも家庭教師で、仕事としてここに来ているのだ。
そうじゃない関係を望めば、彼女を傷つけるかもしれない。だからプライベートなことには基本的には踏み込まないようにしている。
『恋人はいますか?』
もちろん、遠野さんみたいな人だったらいないわけないのだけれど、僕は何度そう尋ねようと思ったかわからない。
そんなことを訊くのは一線を越えているような気がしてできるはずもない。
だから先々週、参考書を見にいきたいと誘ったことは(それを快く受けてくれたことも含めて)、奇跡的なことだった。
まさか戸塚のやつに目撃されるとは思わなかったけれど、あの一日だけの幸福感で勉強なんていくらでもできるような気にさえなった。
「先生はすごくいい教師になれると思います」
それは僕の率直な感想だ。
「いえ。おそらく私はあまり良い教師にはなれないと思います」
「そんなことないです。少なくとも僕にとっては一番です」
「そう仰っていただけるのはうれしいのですが、実は私は人があまり得意じゃないんです。そのあまりくだけて話すのとか、自分のことを話すのとか苦手で。だから将来のことも悩んでいるんですよ。本当に教師になるのがいいのかって。ごめんなさい。相坂さんにこんな暗い話をしてしまって。さあ、続きをやりましょう」
遠野さんにそんな悩みがあるということは想像したこともなかった。
僕から見れば遠野さんはほとんど完璧な人だった。
僕は少しでも先生の気持ちが軽くなればと思って、
「少なくとも僕は先生の丁寧さがすごく好きです」
「ありがとうございます。そう言っていただけるのは嬉しいです」
その後の授業はいつも通りだった。
遠野さんの授業は二十一時までの四時間だ。
授業が終わって玄関で見送る頃には、もうすっかり空は真っ暗になっていた。
「今日はいろいろありがとうございました。相坂さんの言葉とても嬉しかったです」
来たときと変わらず遠野さんは丁寧に頭を下げる。
秋の夜空に向かっていくその後ろ姿さえ愛おしく思う。
追いかけてそのその姿を後ろから抱きしめたくなる。
そんな衝動に駆られる。
もちろん、そんなことはできるはずはないけれど。
僕は自分の昂った感情をやり過ごすためにリビングで一人悶々としていた。
もし遠野さんとの関係が進んだら。
もし彼女を抱きしめることができたら。
あの体に触れることができたら。
想像というよりは妄想のたぐいだ。
自分でも嫌になるぐらいに率直な想像だ。
好意はどうしようもなく身体とくっついている。
いけないとわかっていても、僕はその妄想に浸っていた。
だから、その妄想の当人である遠野さんから電話がかかってきたのには驚いた。
『相坂さん。その申し訳ないのですが、鞄を忘れてしまったようで。お部屋にあるか確かめてもらえませんか?』
『ちょっと待ってくださいね』
リビングから自分の部屋に移動するとなぜ気づかなかったかと思うぐらい部屋の真ん中に、遠野さんの黒のトートバッグがあった。
『ありました。届けますよ』
『いえ、それは申し訳ないので取りに伺います。あっ』
『どうかしましたか?』
『今から荷物が来るのを失念してまして……』
『やっぱり僕が届けましょう』
『申し訳ないですが、お願いしてもいいですか?』
『大丈夫です。九時半までにはつくと思います』
『ご迷惑かけ申し訳ありません』
いえいえと言って電話を切る。
遠野さんの鞄をそのまま持つのは躊躇われて、紙袋に入れる。
それを持って、上着を羽織って家を出る。
遠野さんのマンションは徒歩で五分ほどだ。
一度月謝を渡しそびれたときに訪ねたことがある。
一般的な大学生の住まいの相場が僕にはわからないけれど、おそらくはかなり良い部類だろう。
真新しい十階建てのマンションである。
エレベーターで十階まであがり、右の角部屋が遠野さんの部屋だ。
ちょうど荷物が届いたところのようで、配達員とすれ違った。
インターフォンのボタンを押す。
返ってくる遠野さんの声に対して、名乗る声が緊張で少し声が上る。
扉が開くと甘い香りがした。
先ほど会ったばかりだというのに、遠野さんの姿が目に入るだけで嬉しくなる。
僕が犬だったら尻尾をぶんぶん振っているだろう。
「どうぞ」
鞄の入った紙袋を遠野さんに手渡した、そのタイミングだった。
蛾のような虫が視線に入る。
遠野さんの視界にも入ったのだろう。
遠野さんは短く悲鳴を上げて手渡した紙袋を落とした。
トートバッグの中身があたりに散らばる。
化粧ポーチとハンカチ、本。
遠野さんは化粧ポーチとハンカチを、僕は裏返しに落ちた本を手に取る。
それを表にして遠野さんに手渡す。
僕はその時点では、何が起きたのかわかっていなかった。
ただ、遠野さんの顔が真っ赤になるのがわかった。
「きゃあああああああああああああああ」
聞いたことのないような遠野さんの悲鳴が、辺りに響いた。
僕はその声にびっくりして、手にしている本を見た。
ライトノベルかなと思った。
でも違った。
ジャケットには高校生ぐらいの女の子が描かれているが、そのシャツのボタンは半分ほど外され、ショーツが丸見えの構図で物欲しそうに顔を赤らめている。
タイトルは、
『家庭教師先の生徒が可愛すぎて、えっちしまくった件について』
応援ありがとうございます!
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