隣の女

如月

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第一章 彩子

8話

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 林道へ向かう前にサービスエリアへ寄った。彩子がトイレに行く間、喫煙所で煙草を吸いながら、雅之の不安は極まって、胸を締め付けられるほどになっていた。死体を埋めるところを誰かに見られたら、もはや言い訳は通用しないのではないか。実際協力すると言ってしまった。このままでは本当に共犯者になってしまう。そんな焦りから、ある誘惑がそわそわと、彼を落ち着かなくさせていた。

 いっそこのままバックレてしまおうか。

 ところが、あの動画を思い出した。彼はこの卑劣な脅しを憎んで、苛ただしげに煙草を灰皿に突っ込んだ。そして車に戻ると、席に着いたとき、助手席のダッシュボードに置かれた彩子のスマホに気がついた。用心深い彼女にしては意外だった。彼の中の彩子のイメージは、その都度変化し、怪物のように見えることもあれば、卑劣な犯罪者に見えることもあり、今のように、ただの傷つきやすい女に見えることもあった。だから少し後ろめたい気持ちで、意識を集中し、ロックを解除するときの彩子の指の動作を思い出した。彼はスマホに手を伸ばしたが、窓から駐車場を歩く彼女の姿が目に入り、手を引っ込めた。

 戻って来た彩子は助手席に座ると、だしぬけに「瀬川くん、やっぱり帰ろう」と言った。
「え、どういうこと」
 エンジンスイッチへ伸ばした手が止まった。
「林道に向かわずに、アパートに帰ろうって言ったのよ」
「いきなりどうしたの」
「頭を冷やして考えたの。やっぱりこれ以上瀬川くんを巻き込むのはどうかと思うから。瀬川くんは何も見ていない。この件には一切関わらなかった。そういうことにしよう」
「いや、でも、林道へ行くのを止めてどうするの」
「ゴミ捨て場に捨てる。怖いけど、仕方ないね」
 雅之はしばらく唖然として、彩子を眺めていた。
「それじゃあ、あの動画は…」
「ああ、あれね。予約投稿はしてないよ」
「え、してなかったの」
「予約投稿の動画は削除しても、しばらくの間はシステムの中に残ってしまうのよ。だからそんな危険なことはやらないよ。帰宅したらちゃんと動画を削除するから安心して」
 雅之は安堵のため息をついた。ふいに縛めが解かれ、緊張が抜けて、虚脱感にさえ襲われた。
「だけど、ずいぶん急だね。何かあったの」
 アパートにいたときは鉄面皮を通していた彩子の表情が、憑き物が落ちたように柔らかくなっていた。
「さっき瀬川くん、協力してくれるって言ったでしょ。あれ、すごく嬉しかった。ありがとう」
 そう感謝の言葉を述べながら微笑む彩子を見ると、雅之の中にいる以前の彼女を蘇らせた。すると廃墟に死体を遺棄するような、愚策を実行する彩子が、本当に一人で上手くやれるのか、雅之は心配していた。あんな仕打ちをされた後なのに、我がことのように不安になった。
「でも大丈夫なの」
「大丈夫って、なにが」
「だって、ゴミに出せないからここに来たんだよね」
「あれ、もしかして、心配してくれているの」
「いや、心配っていうか…」
「前から思っていたけど、瀬川くんて優しいよね。わたし、アパートであんなにひどいことをしたのに」
 彩子は少し面を仰げると、体内から悪いものを吐き出すように、ため息をついた。
「やっぱり気が変わってよかった。瀬川くんを巻き込んだら、後悔すると思うから」
 すでに雅之には、目の前の女が、先ほど死体の解体を強制した女と、同一人物と思うことが難しくなっていた。
「でも俺を信じちゃっていいの。口を封じるためにわざわざ俺を共犯者にしたのに。もし俺がその…」
「そのときは仕方ないよ。諦める」
 彩子はきっぱりとそう言った。どうやら彼女はこの短時間で覚悟を決めたようだ。そんな彼女を雅之はただ茫然と眺めていた。

 そしてこの後、雅之は取り返しのつかない過ちを犯すことになる。
 その過ちを促した心情には、彼の日常生活における苦悩が関わっていた。
 彼には退屈から抜け出せないという思いが募ると、運命が降って湧いたように、自らを突き動かす出来事の到来を願うことがあった。それがポジティブで健全な場合、ふとしたきっかけでやりたいことを見つけ、情熱を持つ自分になりたいという、多くの若者が抱く願望である。迷いなく将来を定める友人を見ると、自分が置き去りにされていくように思えたものだ。しかしそれがネガティブで不健全な場合、退屈が永久に抜け出せない牢獄のように思えると、その閉塞感に絶望し、死や破滅の危険を冒しても構わないから、自分を一変させる決定的な出来事が起きてほしいと、そんな悲劇への願望が、ヒステリーの如く生まれることがあった。

 彩子は雅之に体を向け、改まった口調でこう言った。
「ずっと心細かったから、瀬川くんにはほんとに感謝しているの。こうして話す相手がいるだけで、わたしがどれだけ救われたか、分からないかもしれないけど」
 車内灯の下に微かにきらめく、アーモンド形の目をうっとりと細めた、その誠意を込めた微笑みが、如何にも美しく、雅之は一時、この日の忌まわしい記憶を奇麗さっぱり忘れてしまうほどで、すでに取り返しのつかない事態に身を置く彼女と、罪を共有する、目眩く官能に囚われてしまったのである。未来が不確かで、曇り空に覆われた彼の人生において、その官能が、一筋の光明のようにさえ感じられた。
「手伝うよ。せっかくここまで来たんだし」
 雅之は彩子から目を逸らしながらそう言った。この言葉に決断というほどの重みはない。他人が自分の口を使って言わせたかのようだった。
「何を言ってるの。どうしてそうなるの」
「さっき協力するって言ったから」
「それはもういいよ。これ以上わたしに関わると、引き返せなくなるよ」
「もう引き返せないよ」
「わたしが黙っていればいいのよ。そうすれば、瀬川くんはこの件に関わっていないことになるから」
 奥多摩の山林から死体が発見され、彩子が逮捕された場合、彼女に代わり、誰が車を運転し、どこからそれを調達したのか、必ず問題になる。もしここで引き返せば、彼女さえ黙っていれば、彼はこの件に関わっていないことになる。
「でも山に埋めるのが、一番安全だと思ってるんだよね」
「そうだけど…」
「ならそうした方がいいよ」
「瀬川くん、どうして急にやる気になったの」
 どれほどやる気があるのか、雅之は自分でも分からなくなっていた。そんな自分に苛ついて、彩子に反対されると意地になった。
「はじめからやる気だよ。協力するって言ったろ」
 雅之の語気が荒くなったので、彩子は黙ってしまった。彼はエンジンスイッチを押すと、車を発進させた。サービスエリアを出た後、彼らはほとんど言葉を交わさなかった。ただ彩子は、奥多摩湖へ車を向かわせ、夜の車道を進んでいるとき、ぽつりとこう呟いた。
「瀬川くん、きっと後悔するよ」
「しないよ、後悔なんて」
 雅之の声は震えていた。
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