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第1章【月の絆】

《後編》目覚めの予兆

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築森家の住居は、市内の高級住宅街の一番奥にある。中世西洋の貴族の屋敷のような、かなり立派な建物である。
その分、かなり古かったりするが、それも建物の価値の一つというものだ。

――貴巳には、昨日15歳になったばかりの妹がいる。
築森優美。
ほっそりと長く伸びた四肢。背中の半ばまで伸ばした、ふんわりとウェーブがかった髪は兄と同じく色素が薄い。
そして何よりも印象的なのは、意志の強さを表しているかのような丸く大きな瞳だった。

優美は独りで留守番をしていた。
周りが羨む広い家も、一人でいるときには、ただのがらんとした寂しい空間にすぎない。
「遅くなるなら連絡してくれればいいのに」
時計の針はすでに21時を指していた。

夕食も食べずに待っていたが、もう限界だった。
冷めてしまった天ぷらを温めなおそうと、油の入った鍋を火にかける。

「こんなことなら外食でもよかったなあ」
昨日は誕生日祝いということもあって、みんな揃って食事がとれたから、少し期待していたのかもしれない。
一人で食事をとることには慣れていると思ったのに、時々ひどく寂しくなる。
ふいに携帯電話の着信音が鳴って、優美は我に返った。
「公衆電話」と表示された画面を見て、優実は首をかしげる。
こんな時間にいったい誰が、公衆電話から電話をかけてくるのだろう。

「もしもし? ……あ、貴巳?」
兄からだと知って、優美は安堵のため息をもらした。ほっとした優美は近くにあった椅子に腰掛けた。

『麻弥は?まだ帰ってない?』
電話の向こうの貴巳の声は、普段より少しかすれている気がした。
風邪というわけでもないだろうに、ひどく声を出すのが辛そうだ。

「まだよ。今日は帰らないわ、きっと。何かあったの?」
『……』
電話の向こうで、何やら考え込んでいる気配がする。
「何かあった」のだと優美は判断した。

麻弥――母親に連絡が必要だというのも珍しい。何かよほどのことがあったのだろう。
「ねえ、貴巳ってば、何かあったんじゃないの? あったんでしょう」
たたみかけるように言うと、小さなため息が返ってきた。

『少し、怪我をしたんだ』
「怪我? まさか事故ったんじゃ……」 『違うよ。まあ、あながち違うとも言い切れないけど。――何とか麻弥に連絡取れないかな。僕よりひどい怪我人がいるんだ』
一体何があったのか、と優美は不安になる。

「救急車とか呼べないの?」
『ちょっと事情があって……。とにかく今はそれを説明している時間がないんだ。ごめん』
ひどく困ったような兄の声に、優美は深く追及するのをやめた。
とにかく今は助けを呼ぶことが先決だ。事情はあとでゆっくり聞けばいい。

「麻弥には連絡はムリよ。でも何とかする、場所教えて」
貴巳から場所を聞くと、優美は電話をいったん切った。
コンロにかけたままの天ぷらの鍋から白い煙が出始めたことに、優美は気がついていなかった。

携帯電話の連絡先メモリから、目的の名前を探すことに気をとられている。
コンロに背を向けたまま、優美は電話をかけ始めた。

「もしもし?」
事情を手短に説明して、先ほど貴巳に聞いた場所を伝える。
助けに行って欲しいと頼みと、電話の相手はすぐに快く承諾してくれた。
「それじゃあ、お願いね」
優美はそう言って、電話を切った。
あとは電話の相手が何とかしてくれるだろう。
「これで一件落着っと」
救援を頼んだだけで安心してしまうあたり、わりと単純な性格だった。
先ほど心配していたことは、けろっと忘れてしまっている。

――そして、もう一つ忘れていることがあった。
コンロから異臭が漂ってきて、ようやく優美は思い出す。
「あ! 天ぷら!」
携帯電話を置いて椅子から立ち上がった時には、すでに天ぷら油から火が出ていた。
「どうしよう、水、水」
優美は慌てて流し台の蛇口をひねってコップに水を汲んだ。
勢いよく水をかけると、油が飛び散った。炎はますます勢いを増す。
優美は悲鳴を上げて後ずさった。
「いやあああ!」
天井を焦がす勢いで、炎は燃え続ける。優美はその場から逃げることも忘れて、呆然と火を見つめていた。
このままでは焼け死んでしまう。分かっているのに、足がすくんで動けなかった。

炎はあちこちに燃え移りながら、優美にせまってくる。
「誰か助けて!」
煙と熱と涙で、視界がぼやけた。

ーー炎に飲まれる。
思わず目を閉じた優美は、ふと何の熱さも感じないことに気づいた。おそるおそる目を開ける。

「……え?」
部屋全体を包んでいた炎は、陰も形もなかった。何事もなかったかのように、部屋は静まり返っていた。
壁や天井を見渡しても、焦げた跡は残っていない。

優美はコンロに近づく。鍋には真っ黒になった天ぷらが浮いていた。まだ新しかった鍋も真っ黒になっている。
それ以外、変わったことは何もなかった。

「何だったの? いったい」
何もしていないのに火事が消えるなんて、そんな馬鹿なことがあるはずがない。誰かに言っても信じてもらえるはずがない。
疲れていたから幻覚でも見たのだ、と優美は思い込もうとした。




優美への電話を終えると、貴巳は倒れている少年の所へ戻った。
どのくらい時間が経っただろうか。
春とはいえ、まだ夜は寒い。そうでなくても、シャツ一枚というひどく薄着な少年の姿は、傍目からも寒そうに思えた。

貴巳は制服である紺のブレザーの上に着ていたコートを、少年に被せてやる。 「それにしても、こんな時間にこんな場所へ、何しに来たんだろう……」
倒れている少年を眺め、貴巳は思わず呟いた。

まだ幼さの残る顔立ちをしている。
貴巳より一つ二つ年下だろうか。ちょうど優美と同じくらいの年頃の少年だった。

背中の傷は相当深そうだ。
獣人の爪でえぐられたのだろう。出血が多いのが心配だが、まだ息はちゃんとしている。

少年の頬には刃物で切りつけられたような傷跡があった。かなり古い傷だが、どうも穏やかな話ではない。

とんでもない少年と関わってしまったのではないか、という不安が貴巳の頭をよぎった。
――だからといって、こんな状態の人間を放っておくような冷酷さは持ち合わせていなかったが。

「貴巳ーッ」
聞き慣れた声がしたかと思うと、派手な車が目の前に停まった。
赤いボディに様々なペイントが施されている。こんなひっそりした場所にはひどく不似合いな車だった。

「助けに来てやったぜ」
運転席の窓から、ひらひらと手を振っている。貴巳は安堵と驚きの混じった複雑な表情を浮かべた。
「……麻生。まさか」
「そう、優美ちゃんに聞いたんだ。乗れよ」
「どうして優美が……、いや、その前に君は免許持ってないだろう」
「気にすんな、いつも乗ってるわけじゃない。今日は特別」
ここまで堂々と言われては、もう何を基準に怒っていいやら分からない。貴巳は呆れ果てた顔になる。

普段なら断固として乗りたくないところだが、状況が状況だ。
「やむを得ない」
今は一刻を争う。どこまでも不運な少年に、思わず同情の視線を送った。
「安全運転で頼む。それから麻生、手を貸してくれないか?」
貴巳は少年を一緒に運ぼうとしたが、麻生が先に一人で抱え上げた。
「無理すんな、お前も怪我してんだろ」
優美の人選は誤っていなかったようだ。少年や貴巳の怪我を見ても、深く聞こうとする様子はない。
「しっかし、ひっでー傷だな」
そう思わず一言洩しただけだった。
貴巳が何も言わない以上、自分から事情を聞くつもりはないようだ。

意外に上手い運転のおかげで、家の近くの信号まで来た。赤、だ。
「すまない、麻生」
貴巳は心から言った。助けてもらったにも関わらず、深く事情を話せないのが辛かった。
秘密をもつことはすでに暗黙の了解になっていたが、そのたびに謝らずにはいられなかった。
「別に謝られるようなことじゃない。それよりも……」
麻生はふと真顔になった。
「お前さ、俺のこと必要ならいつでも呼んでいいんだぜ。優美ちゃんを通してでなく、お前自身でさ。そういうために友達やってんだからさ」
普段、口にすることのない言葉に照れてか、麻生はふいっと横を向く。貴巳は思わず笑みを浮かべた。
「……ああ。そうするよ」
「そうやって一応返事すっけど、絶対呼ばないんだよなー、お前」
ハンドルに突っ伏して、麻生がぼやく。
「本当にお前はタチ悪いよな。そんな奴なのに放っとけない俺って、相当お人よし?」
そんな軽口を叩いているうちに、信号が青になった。

十字路を左に曲がると、まもなく家が見えた。
「こいつ運ぶよ、お前一人じゃ無理だからな」
麻生は二階にある貴巳の部屋に、少年を運ぶとすぐに帰っていった。
優美は気づいてないのか、奥の部屋から出てこなかった。血まみれの少年と妹とを対面させずに済んで、貴巳はほっとする。
傷は治せるにしても、そうとう精神にショックを受けているだろう。意識が正常に戻るまで随分かかるかもしれない。
貴巳は治癒能力をもっている。
しかし、今までにこんな深い傷を治した経験はない。せいぜい、軽い切り傷や火傷など小さな怪我を治した程度だ。

まずは傷を消毒し、傷が悪化しない程度まで治す。
「今はこれが精一杯か」
治癒能力を使うには、かなりの負担がかかる。怪我を負っている貴巳にとって、危険なことこの上ない。

部屋を出ようとして、血に染まった少年のシャツに気づく。こんなものを優美に見つかったら大変だ。
血染めのシャツを、黒いポリ袋に入れて捨てると、貴巳は部屋を出た。

「あ、貴巳。……怪我大丈夫なの?」
階段を降りると、エプロン姿の優美が駆け寄ってきた。心なしか、少し顔色が悪いように見えた。
「怪我? ああ、消毒したから大丈夫だよ」
喉の傷には気づかれないように、出来るだけ傷が目立たない服を着た。
しかし、腕の方はまだ力が入らないため、一見しただけで分かってしまう。
優美は貴巳の袖をまくりあげた。
「消毒したくらいで済む怪我じゃないじゃない!」
優美は貴巳の無傷なほうの腕をつかむと、強引にリビングの椅子に座らせる。傷薬を塗ってから、慣れない手つきで包帯を巻き始めた。
「せめて、このくらいはしとかないと。明日、ちゃんと病院に行くのよ」
「自分でやるよ」
「いいから、じっとしてなさいよ。だいたいねえ、人の怪我には敏感てゆーか、 放っとけないくせに、自分の怪我には無頓着なんだから、もう!」
優美の言うことは、少なからず当たっているので、反論できない。
確かに少年の傷の手当てに精一杯で、自分の手当は忘れていた。たとえ治癒能力を使わないにしても、医療品を使うことぐらいは出来たはずである。
「はい、完了」
手当てをしてもらったおかげか、少し腕に感覚が戻ったように感じた。
「すまない」
「すまない、じゃなくて、ありがとうでしょ? まったく」
「……ありがとう」

ふと貴巳が時計を見ると、もう午前0時を過ぎていた。
「もう休んだほうがいいよ、優美」
顔色も何だか悪いし、と付け加えると、優美の表情がわずかに曇った。

「貴巳、……やっぱ何でもない。お休み」 言いかけてやめる。いつも物事をはっきり言う優美にしては珍しいことだった。怪我の原因を聞きたかったのだろうか、と貴巳は思った。
妹の身に起きた異変に、彼は気づかなかった。優美自身さえ、まだそれが異変だと気がついていなかった。
貴巳は今日自分の身の回りに起きたことを整理するだけで精一杯だった。
力のある妖魔の出現。謎の少年。麻生と優美の関係。
問題は山積みだ。
しかし、もう考える気力は残っていない。何しろ《力》をこんなに使ったのは初めてのことだ。

貴巳は、とりあえず休むことにした。考えるのはその後でも遅くはないだろう、と。


暗い部屋の中。
貴巳が助けた少年はうわ言のように何かを口走っていた。その言葉を耳にするまで、貴巳は何も気づいていなかった。

――このとき。
すでに、運命という名の歯車は回り始めていたのだ。

to be continued...
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