猫が来たりて人倫を問う

秋初夏生(あきは なつき)

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第三話:脅かされた共存ルール

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ひょんなことから、僕と猫の姿をした魔王メフィスは期間限定で共に暮らすことになった。

改めて、僕と僕の暮らしについて書こう。
僕は犬山小太郎。物語を書くことを生業とする者……作家である。
作家とは時に、作品への深い洞察や感情表現を可能にするため、あるいは執筆に没頭するため、世間から孤立して距離を置く必要がある。
また、作品を通じて自分の内面をさらけ出すことが多く、自己表現と向き合うことの孤独さに耐えなければならぬことがあった。

僕はこの2つの要素を両立させるために、東京郊外の静かで自然豊かな場所に位置する平屋の古い一軒家を住まいしていた。
家賃はやや高めではあったが、収入が不安定な作家でもなんとか賄える範囲には収まっていた。

家の周りには木々が茂り、季節ごとに美しい景色を楽しむことができる。
狭いながらも、家の一角には書斎スペースが設けられており、作家としての創作活動に集中するための環境が整っていた。

さて、そんな平穏で理想的な暮らしを維持するために、メフィスとは共に暮らすためのルールを定める必要があった。

書斎の障子越しに月明かりが柔らかく差し込み、微かな光が二人の影を揺らめかせる。
僕とメフィスはルールを話し合うために対峙していた。

「まずは、お互いにこれだけは譲れないという条件を提示しておこう」と僕は言った。
メフィスは赤い目を細めて頷いた。
「良かろう。共に暮らすためには、互いのルールを理解し合うことは重要だ」

僕は最初に、自分の条件を述べた。
「お前は本来の姿よりは無害な生き物の姿だろう。しかし、それでも大事な物を壊しかねない爪は持っている。この書斎は僕にとって大切な場所だから、特に物を壊さないよう気をつけて欲しい。あと、夜中に急に消えたり現れたりしないことも頼む」
メフィスは静かに聞いていたが、彼も自分の条件を提示した。
「我の条件は、自由な行動を保証されることだ。そして、貴様が我に恐怖や嫌悪感を見せないことだ。これが守られないなら、共に暮らす意味はない」

初日は何とかお互いの条件を受け入れて、平穏に過ごすことができた。
僕たちはこの和室の書斎を中心に共存の生活を始めた。

その日の夕方、僕とメフィスは一息つきながら軽い雑談を楽しんだ。
「メフィス、この世界でのお前は猫の姿だけど、食べ物の好みはどうなっているのだ?」
僕はお茶をすすりながら尋ねた。
メフィスは鋭い目を細めて考え込むような仕草を見せた。
「魔界では、我々は特別なエネルギー……人間の言う魔力と呼ばれるものを摂取する。この姿では特にその必要はないが、強いて言えば肉や生魚は美味に感じる。貴様はどうだ?」
僕は苦笑しながら答えた。
「僕は和食というこの国の伝統的な料理を好む。特に煮物や刺身が好みだ。でも、お前が生魚好きであるなら、共に食事を楽しめるかもしれないな」
その会話は和やかなものであり、互いに理解し合う一歩を踏み出すかのようだった。

数日後の静かな夜。
僕は机に向かい、小説のアイデアを書き留めていた。
メフィスが来てから近所の野良猫どもの騒ぎが収まっているせいか、外からは虫の音だけが聞こえていた。

僕が原稿に集中して万年筆を走らせていると、不意に障子の向こう側で音がした。微かな音ではあったが、深夜の静けさの中では異様に響いた。

「なんだ…?」と、僕は一瞬身を固くした。原稿を書く手を止め、耳を澄ませる。
次の瞬間、夜の闇に溶け込むようにメフィスが部屋の片隅にスッと現れた。暗がりの中、赤い瞳だけがギラギラと鋭く光っていた。
僕は突然現れたメフィスに驚愕し、椅子から転げ落ちそうになった。
「な、何しているんだ、こんな時間に!」
僕の声は震え、冷や汗が背中を伝った。心臓が激しく鼓動し、恐怖に体が硬直してしまう。
まるでメフィスが、暗闇に紛れて僕の隙を狙って襲いかかってきたかのように感じられた。
だが、メフィスは冷静に答えた。
「何をそこまで驚いている? 我はただ、貴様の様子を見に来ただけだ」
「頼むから、急に現れるのはやめてくれ……」
犬山は心臓が激しく鼓動するのを感じながら言った。
「確かにお前とは共存の約束はした。それでもこんな夜中に突然現れると心臓に悪いんだ」
メフィスはその言葉に無言で頷き、再び姿を消した。

その翌朝、僕が朝食を済ませて書斎に戻ると、大切な原稿が床に散らばっていた。慌てて拾い集めていると、その一部がひっかかれているのを見つけた。
ーー恐らく、メフィスが原稿の上で爪を研いだのだ。

「これは……」
僕は思わず声を振るわせた。怒りが胸の中で燃え上がり、理性を押し流しそうになる。
「メフィス!お前は一体何をしているんだ!」
メフィスは冷ややかな目を向けた。
「ただの紙切れだろう。貴様の大切なものだとは知らなかった」
「ただの紙切れじゃない!」
僕の声は怒りで掠れた。
「これは僕の魂の一部だ。お前がそれを理解しないなら、共に暮らす意味なんてない!」
それを聞いて、メフィスの目に一瞬、哀しみが走ったように見えた。しかし、すぐに冷静に返してくる。
「貴様も昨夜、我の条件を破ったではないか。我の存在に驚いて恐怖を見せた。約束は互いに守られなければ意味がない」
その言葉に僕は、一瞬言い返す言葉を失ったが、すぐに反論した。
「夜中に急に現れるなと言っただろう!お前があのように突然現れるから、僕が驚いてしまったんだ」
僕は怒りの中でその夜の恐怖を思い出し、メフィスに詰め寄った。
「確かに僕は、お前に恐怖を見せないと約束した。だがお前も僕を驚かせないと約束しただろう。それが守られていないんだ」
メフィスの赤い目が鋭く光り、その毛並みが逆立った。
「小太郎! 貴様は我がどれほど歩み寄りを見せているか理解していない。そのうえ我の条件も軽んじるのか」
僕はその威圧感に一瞬ひるんだが、負けずに言い返す。
「無論、お前がなるべく僕に威圧や恐怖を与えぬよう努力していることは理解しているつもりだ。でも、だからといって僕の恐怖を責めるのは違うだろう。互いに約束を守らなければ、共存なんて無理だ」
その時、僕はふと疑問を抱いた。
「……メフィス。お前はなぜ、僕がお前を恐れないことを条件にしたのだ?魔王であるお前が、なぜそれほど重要視する?」
メフィスは一瞬、僕を見つめたまま沈黙した。
そして静かに言った。
「恐怖は、我々の世界でも互いの心を分かつものだ。貴様が私を恐れるならば、我々の間には常に隔たりが生まれる。それでは真の共存などあり得ない。私は貴様に恐れられるためにここにいるのではない」
僕はその言葉に心を打たれた。
メフィスの赤い目には、一瞬だけ本物の孤独と悲しみが浮かんでいた。
僕はその瞳を見つめ、深く反省した。
自分の恐怖が、僕達の間に壁を作ってしまうのだと理解した。
「メフィス、すまぬ。僕が怖がったことは反省する。急に現れるお前を見て、僕も冷静さを失ってしまった。でも、これからはもっと努力しよう」
メフィスはしばらく僕の目を見つめ返した後、静かに頷いた。
「貴様の謝罪、受け入れよう。我ももう少し貴様を驚かせないよう気をつける」
僕も静かに頷いてから、手にした原稿を文机に置いた。
確かに原稿は大事だ。だが、一部が破れたくらいなら、また書き直すことができる。
僕は気を取り直し、万年筆を手にした。



数日が経ち、僕はメフィスとの生活に慣れてきていた。
僕が書斎に入ると、メフィスは静かに窓辺に座り、外の景色を眺めていた。
以前なら、その突然の姿に驚くこともあったかもしれないが、僕は静かに歩み寄り、微笑んだ。

「おはよう、メフィス。外の景色が気に入ったのか?」
メフィスはゆっくりと僕を振り返り、穏やかな目で答えた。
「この世界には、魔界にはない美しさがある。特に朝の光は心地よい」
僕は頷き、机に向かって座った。
「今日は新しい物語を書こうと思う。君のことをモデルにした登場人物も活躍するかもしれない」
メフィスはそれを聞いて目を細めた。
「それは興味深いな。どのような人物にするつもりだ?」
犬山は少し考え込みながら答えた。
「お前の強さと孤独を持つキャラクターだ。魔王としての力と、人間界での新しい経験を通じて成長していく姿を描きたいんだ」
メフィスは静かに頷き、「貴様の視点から見た我か…。それは面白い。期待している」と微笑んだ。



その日の夜。
夜が更け、書斎には再び静寂が訪れた。僕が書き物を終えて机を片付けていると、メフィスがふと窓の外を見つめる様子が目に入った。
その表情には、普段は見せない憂いが浮かんでいた。
「メフィス、何か心配事でもあるのか?」僕は静かに尋ねた。
メフィスはしばらく沈黙し、外の暗闇に目を凝らしていた。
そして、ゆっくりと口を開いた。
「小太郎。我々が共存を目指す中で、魔界でも動きがあるのを感じる。我の存在がこちらにあることを察知した者たちが、何かしらの行動を起こすかもしれない」
僕は驚きつつも、メフィスの不安を理解しようと努めた。
「それは、お前にとって危険なことなのか?」
「可能性は否定できない。我らの関係が壊されるかもしれないという恐れはある」と言った。
僕は彼の目を見つめた。その赤い瞳には珍しく不安の色が滲んでいた。
おそらく、それは猫の姿をした魔王としてではなく、メフィスという一個人の心の叫びなのだろう。
「僕にできることがあるなら何でもしよう」と僕が言うと、メフィスは静かに首を横に振った。
「貴様が気にすることではない。これは我自身が乗り越えねばならない壁なのだ」
そう言って書斎の扉に前足をかけた。
しかし、ふと立ち止まりこちらを振り返る。そして再び口を開いた。
「だが、もしもの時が来たら……。いや、何でもない。忘れてくれ」と呟いてからそのまま部屋を出ていった。

僕はその後ろ姿を見送りながら、彼の抱える孤独や不安の大きさについて考えていたのだった。

窓の外には深い闇が広がっていたが、僕とメフィスの間には、少しずつ絆のような何かが芽生えかけていた。
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