猫が来たりて人倫を問う

秋初夏生(あきは なつき)

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第一話:メフィスとの邂逅

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薄い日差しが和室の障子越しに差し込んでいる。朝露の香りが漂う庭先から、小鳥のさえずりが微かに聞こえていた

僕は犬山小太郎。
小説家を生業としながら、日々の煩わしさに耐えつつ筆を執る。
今日も書斎にこもり、原稿用紙に向かって万年筆を走らせているところだ。

それにしても最近、野良猫が夜中に騒ぎ立てるせいか、一向に執筆が捗らない。昨晩も、猫が喧嘩する声が遠くで聞こえ、眠れぬままに過ごしていた。

ーー僕は昔から大の猫嫌いである。
それにはいくつか理由があった。子供の頃、飼い猫に引っかかれた傷が未だに心の中に疼いているのが、ひとつ。
また、幼き日に読んだエドガー・アラン・ポーの『黒猫』に登場する恐ろしく陰鬱な猫の描写も、僕の猫嫌いに拍車をかけていた。

さらに言えば、夏目漱石の「吾輩は猫である」に出てくる猫もいけ好かない。
彼の猫は、人間の愚かさを茶化し、知識人ぶるための道具に過ぎぬ。人間を嘲笑するだけの猫に、一体何の価値があるというのか。

そもそも猫という奴のあの無遠慮な態度、媚びない瞳、何よりも犬に対する対抗心が見え隠れするのが気に食わない。そう、僕は犬派である。

僕はため息をつき、万年筆を置いた。
ダメだ、どうにも猫のことが頭を離れず、くだらぬことばかり書いてしまう。 
少し空気の入れ替えでもしようかと、窓を開け放つ。

そのとき。
不意に、一陣の風が吹き込んだ。

それと同時に、まるで嵐の前触れのように、ひんやりとした冷気が部屋中を包み込む。
僕はその不自然な変化の正体を探るように、部屋を見渡した。
すると、障子の向こうに不思議な気配が漂っていることに気づく。

僕は首を傾げ、ゆっくりと立ち上がって障子を開けた。

そこにいたのは一匹の黒猫だった。
その猫は赤い瞳でじっと僕を見つめていた。
「初めまして、犬山小太郎。我が名はメフィス。貴様に問いかけたいことがある」

僕は驚きのあまり声が出なかった。
猫が喋った? しかも、まるで人間のように流暢に。

「お、お前は誰だ?何故ここにいる?」

「我は魔界から来た。貴様との対話を求めている」

魔界から来たという、この猫。
赤い瞳や不気味な雰囲気から、僕はある悪魔を想像した。
古典文学の登場人物であるメフィストフェレスだ。

「メフィスというのは、あのゲーテの『ファウスト』に出てくる悪魔メフィストフェレスのことか? 僕は天地の真理なぞには興味がないし、魂を売る気もないぞ」
そう身構えながら言い放つと、メフィスは柔らかく微笑んだ。 

「それは、あくまで人間の創作物に描かれた我の虚像でしかない。むしろ我は、人間とは何かの真理を探究する者である」

僕はまだ警戒心を抱きながらも、この奇妙な会話に引き寄せられるように、そのまま座卓に戻った。

メフィスもするっと部屋に入り込み、僕の隣に座り込んだ。

「我は魔王であり、人間界を征服しに来た。猫の姿であるのは、人間とは猫に無条件に甘く、すぐにその愛らしさに虜にされる生き物だと思っているからである」

「馬鹿なことを言うな。人間がそんな単純な生き物のわけが無かろう」

「無論、貴様のような猫嫌いの人間がいることを今の我は理解している。故に、問いたい。人間とは何か?」

その問いは、僕の心に深く突き刺さった。
まさか猫嫌い故に、人類を代表して人間とは何たるかを猫の姿をした魔王相手に語る日が来るなんて思わなかった。

「人間とは、何かだと?人間は……」

僕は言葉を探した。
そんなもの一言で言い表せるものではない。否、どんなに言葉を費やしたとて、語り切れる存在ではないだろう。
そもそも、僕自体も日々それを模索し、それ故に筆を振るっているのだから。

だが、この異様な状況下で、僕はその問いに向き合わざるを得なかった。
僕は思いつく限りの言葉を並べ立てた。

「人間とは、矛盾と欲望に満ちた存在だ。知恵を持ちながら愚かで、愛を持ちながら憎む。希望を抱きながら絶望し、平和を望みながら戦う。そういうものだ。我々は常に対立する感情と欲望の中で生きている」

その言葉を聞き終えると、メフィスは静かに目を細めた。まるで僕の内面を覗き込むかのように。

「ふむ、興味深い。では、人間の価値はどこにあるのだ? その矛盾に満ちた存在に、果たして何の意味があるのか?」

僕は深く息をつき、再び考えを巡らせた。

漱石の猫が人間の愚かさを嘲笑するのとは異なり、この魔王を名乗る猫は更に人間の本質へと迫ろうとしていた。

「人間の価値は、変わり続けることにあるのだ。我々は不完全であるがゆえに、成長し、進化する。失敗し、学び、再び立ち上がる。その繰り返しの中で、少しずつだが、より良い存在へと近づこうとする。その過程こそが、人間の価値であり、意味なのだ」

メフィスはしばらくの間沈黙していた。その赤い瞳は、僕の言葉の奥にある何かを見つめているようだった。  
そして、ゆっくりと口を開いた。

「なるほど。ーーでは、その価値と意味を持つ人間界を、我が支配することは可能だと思うか? 貴様の答えを聞きたい」

僕は、再び深く息をついた。
猫に支配される人間界など、考えたくもなかった。
しかし、この問いには真摯に向き合う必要があった。

「もしお前が本当に人間の価値を理解したいと望むならば、支配ではなく共存を選ぶべきだ。人間も猫も、それぞれの価値を認め合い、共に歩む道を模索することこそが、本当の意味での支配なのではないか?」

メフィスは静かに頷いた。
その瞳には、少しばかりの興味と、そして微かな驚きが宿っていた。

「貴様の言葉、確かに聞いた。共に歩む道、それもまた一つの答えかもしれぬ。我はしばし考えるとしよう」

そう言い残し、メフィスは闇の中へと姿を消した。
僕はただ、冷たい風が過ぎ去った後の静寂の中で、しばらくの間立ち尽くしていた。

これが、僕とメフィスの最初の出会いであり、新たな創作の世界への扉を開いた瞬間でもあったのだ。
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