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第一部
《第五章》姫君の決意と傭兵の望み
しおりを挟む左腕が疼く。
こんな日は、決まって良くないことが起こる。
オルタードは朝から憂鬱だった。
部屋の中は少し蒸し暑かったが、わざわざ窓を開ける気は起こらない。けだるい身体を持て余すように、オルタードは寝台に横になっていた。
そのまま、いつの間にか気づかぬうちに眠っていたようだ。目を開けようとしたオルタードは、部屋の中に人の気配を感じた。
眠ったふりを続けながら、気配を探る。天井の片隅から、強い殺気を感じる。
ーーその後のことは、思い出したくもない。
オルタードは、ファインを殺すつもりはなかった。天井に張りついていた刺客だって、短剣で掠り傷を負わせるだけに止めておくつもりだったのだ。
世話係が来たとき、彼はとっさにファインのことを庇った。
何故かは分からない。無理に理由を上げるとすれば、あのおぞましい出来事を見たにも関わらず、ファインがオルタードを化け物扱いしなかったから、かもしれない。
我ながら愚かな真似をしたと思う。刺客に背を向けるなんて。撃ってくれと言っているようなものだ。
けれど、そうやって殺されるのもいいかもしれないと思った。
世話係が立ち去ったとたん、張り詰めていた気が一気に緩むのを感じた。
そしてオルタードは、意識を手放した。
再び目を覚ましたとき、オルタードは自分が生きていることにまず驚いた。
オルタードの自室とは少し違う薄暗さに、岩肌がむき出しになった壁。全く覚えのない場所だった。
「やっとお目覚めかよ」
いきなり顔を覗き込まれて、オルタードは息を呑んだ。
「どうして、お前が」
「お前じゃなくって、ファイン・スレーブ・エイリアシング・ノイズ。素敵に長ったらしい名前だろ?」
「なぜ殺さなかった?」
ファインのペースには乗らずに、そう尋ねる。ファインはぐしゃぐしゃと髪をかき乱しながら、うーんと低くうなった。
「分かんねえ。気絶してる人間は殺せないなんて上品な主義の持ち主ではなかったはずなんだがな。俺らしくもねえ。・・・・・・家族の生活がかかってるってのに、何でこんなことしたんだか」
自分でも気味悪いくらいだ、などと真顔で呟く。どうやら真剣に悩んでいるらしいファインの様子に、オルタードは思わず呆れた。
「変な奴だな、ノイズは」
「その呼び方は止めてくれ。ノイズってのはあまりいい意味じゃねえしな。ファイン・スレーブかファインでいい。みんなそう呼ぶから」
真顔でファインが言うと、オルタードは少し考えるような仕草をした。
「そうか」と言ったきり、しばらく口を閉ざす。
先に沈黙を破ったのは、ファインだった。
「なあ、王子。王になる気はねえか?」
唐突に言われた言葉に、オルタードは面食らった。
なぜファインが急にそんなことを言い出したのか分からなかった。けれど、すぐに首を振る。
「僕は王になんかなる気はない。兄上がなりたいなら、勝手になればいい。それに、僕みたいに呪われた腕を持つ人間が、王になんかなれると思うか? 民だってきっと望んでいない」
「あんたは知らねえかもしれないけど、アイオニアンの民はあんたのこと聖龍の生まれ変わりだって信じてるぜ。ラフォルテ城周辺は、ギミックのせいで妙な噂が流れちゃいるが。まあ悪意は持たれてないさ」
ファインの言葉に、オルタードは自嘲気味に笑った。彼にとって、その言葉は皮肉にしか聞こえなかった。
「聖龍の生まれ変わり? 人を食らう腕を持つ、この僕が?」
オルタードは、左腕に爪を立てた。ギチギチと鱗の擦れ合う音がする。淡く光る銀色の鱗に、透き通った水晶の角と牙。それを醜いとは思わなかった。
オルタードの言うとおり、人を食らった腕であることには変わりないが。
「その龍は一応、あんたを守護してるんじゃねえのか? あんたが身の危険にさらされた時だけ、襲いかかるのだろ?」
「僕は常に身の危険にさらされてるようなものだ。その度に人が死ぬのなら、いっそのこと僕が死んだ方がいい」
あっさりと「死」を口にするオルタードに、ファインは憤りを感じた。死んでもいいと言葉にするのは容易いことだ。しかしそれは、全てのことから逃げ出そうとする、後ろ向きな態度に他ならない。
「本気で、死んでもいいなんて思ってんのか?」
「刺客にわざと殺されようとしたこともある。でも、この腕が邪魔をするんだ・・・・・・。一度、腕を切り落とそうとしたことがある。でも、傷一つつかなかった」
僕の絶望がわかるか、とオルタードは暗く陰った瞳で呟いた。ファインは何も言えなかった。
「拳銃を持つお前なら、きっと僕を殺せる。僕を殺せば、お前は雇った者から報酬をもらえるのだろう?」
ああ、とファインは頷いた。
「だったら、僕を殺せ。どうせ死ぬなら、誰かの幸せに繋がった方がいい。―そうしたら僕は、生まれてきて良かったんだって思えるから」
オルタードはぎこちなく微笑むと、後ろを向いた。右腕でしっかりと左腕を抑える。
「・・・・・・」
ファインはゆるゆると銃を構えた。オルタードの言葉は、哀しすぎる。いっそのこと、殺してやった方がオルタードにとっていいのだと思った。
ーーけれど。
「・・・・・・出来るかよ、バカ」
銃を捨て、オルタードに近づく。他に何て言ってやればいいのか、分からなかった。
ファインは、自分の息子によくしてやったように、後ろから乱暴に抱き締めてやった。人のものではない、ゴツゴツとした右腕の感触も、全く気にならなかった。
「また、死に損なった」
オルタードは、どういう表情をしていいか分からないまま、そう呟く。死に損なったけれど、不思議と悪い気はしなかった。
「死ななくていい。死ぬ気になれば、何だって出来るんだ。王になることだってな」
「・・・・・・そうかな。それなら、もしも僕が王になったとしたら、何を望む?」
「望み、ねえ。祖国に残してきた家族をずっと養っていけるだけの報酬、だな。離れずに一緒に暮らしていけるように」
「たった、それだけ?」
オルタードは思わず目を見開いた。オルタードを王位に就けようと言うからには、相応の見返りを求めてくるのだと思っていた。
王の命の恩人となれば、望む限りのものがいくらでも手に入るだろうに。
けれども、驚くと同時に気がついた。ファインにとって家族がどれほど大事な存在であるか。
「本当に君は、変な奴だな」
信じてみるのも悪くない、とオルタードは思った。大事な家族との生活よりも優先して助けてくれた命。それに見合うだけの価値が、自分にもあるのだと。
◇
「ーーと、いうわけなんだ」
オルタードが言うと、リゾネータは少し首を傾けた。ファインは先程よりも大きな欠伸をしている。
この地下室では時の流れなど分からないが、もう明け方が近いのかもしれなかった。
「あの・・・・・・兄様。では、亡霊騒ぎは?」
「ああ、それは。ねえ、ファズ」
くくっと笑いながら、オルタードはファインを見た。
「はいはい。その話はまた今度」
ファインの面倒臭そうに横を向いた。リゾネータの方は、初めて兄が笑っているところを見て、驚いたように口元を覆う。
「それよりもオルタード、この姫はどうするんだ?」
ファインに言われて、オルタードとリゾネータは思わず顔を見合わせた。
「兄様、私は兄様の味方です。このことは誰にも言いませんわ」
「ありがとう、リゾネータ」
このままでいると、リゾネータの乳母たちが騒ぎだすかもしれない。オルタ-ドは、地下室の扉を開けようとした。
ーーそのとき、誰かの立ち去る足音が聞こえた。
「い、今のは?」
オルタードの顔から血の気が引く。今までの会話をずっと、誰かに聞かれていたかもしれない。
一瞬、部屋の中は恐ろしいほど静かになった。
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