朧月夜に重ねる傷

オトバタケ

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多田

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 人形みたい――。それが、影山の第一印象だった。
 陶器のように滑らかで白い肌。表情のない中性的で綺麗な顔。生気を感じさせない硝子玉のような瞳。
 怖いものなど何もない、といった無鉄砲で生気みなぎるクラスメイト達の中で、息をしている死体のような影山は異質だった。

 色恋に疎かった俺が初めて好きになった相手は、中三になってから家庭教師をしてくれるようになった、大学生の男だった。
 同性を好きになったことに、不安や焦りはなかった。友達と隠れて見ていたセクシーな動画で、俺の視線はいつも男優に釘付けだったからだ。
 中三にもなれば、同性愛がマイノリティだということは分かっていた。だが、男性同士の純愛を描いたアニメが大ヒットしていたので、優しい彼ならば俺を受け入れてくれると、初恋に浮かれていた俺は信じていた。

 夏休み入り、彼を花火に誘った。快く俺の誘いを受けてくれた彼と夜空を彩る大輪の花を見上げていると、夢見心地になってきた。周りが、カップルだらけだったのが、それに更に拍車をかけた。
 告白をする俺に、彼も俺が好きだと答えてくれた。彼も、同性愛者だったのだ。
 花火の翌日、家庭教師をしにやって来た彼と、勉強そっちのけでキスをした。大好きな相手だし、若さゆえの好奇心もあった。
 キスの先に進もうとしていた時だ。姉が、お茶を持って部屋に入ってきたのだ。

 結婚を控えていた姉は、家業を手伝うために家で同居する予定だった。旦那が俺に襲われると泣き叫んだ姉は手がつけられないほど取り乱し、金は出すから家を出てくれと親に冷たく言われた。
 男なら誰でもいいというわけではなかったんだ。彼だけが好きだった。
 彼だって好きだと言ってくれた。それなのに姉と目が合った彼は、俺に無理矢理襲われたと言い訳をして逃げた。

 親兄弟にも、想いが通じあっていたと思っていた人にも、存在を否定されて捨てられた俺が、影山に興味を抱くのは自然だったのかもしれない。
 影山がいるから、夢と希望に満ち溢れて輝くクラスメイト達の中に、絶望の闇に覆われた俺も入っていける。人形みたいな影山が生きているから、誰からも必要とされていない俺も生きていてもいいんだ。
 影山の存在が、俺に安心感を与えた。

 梅雨が明けた頃、帰り道にある寂れた神社に仔猫が捨てられているのを見つけた。
 社の裏に置かれた段ボールの中でぐったりとしていた仔猫は、痩せ細り、毛は元の色が分からないほど汚れていた。
 俺のボロアパートでは飼ってやることは出来ないが、このまま見捨てることは出来ない。捨てられてボロボロの猫と自分が重なったのだ。

 急いでアパートに帰り、タオルと牛乳を持って神社に戻る。
 仔猫をタオルで包んで抱き、掌に牛乳を注いで口許に持っていくと、小さな舌を出してペロリと舐めた。
 ゆっくりだった舌の動きは段々早くなり、もっと、と急かすように牛乳のなくなった掌を舐めてくる。
 擽ったくて温かい舌の感触に、涙が零れそうになった。

 仔猫を人目につかない所に隠し、登校時と下校時に餌を与えに行くようになった。
 日に日に元気を取り戻していった仔猫は、俺の足音がすると勢いよく飛び出してきて足に絡み付き、ニャーと可愛い声で鳴いて出迎えてくれるようになった。帰る時には、行かないで、と訴えるように寂しそうな目で見上げて甘えてくる。
 仔猫は俺を必要としてくれている。存在を否定されて誰にも必要とされていない俺にとって、仔猫だけが俺が生きることを認めてくれているようだった。

 仔猫と出会って二週間ほど経った頃、あげた覚えのない餌が仔猫の段ボールの中に入っていた。俺には買うことの出来ない高級品の缶詰だ。
 誰かが仔猫の存在に気付いてしまった……。恋人を寝とられたような、怒りと寂しさで無意識に唇を噛み締めてしまう。
 鉄の味が口内に広がり我に返ると、仔猫が心配そうに俺を見上げていた。

「俺がやる餌よりも美味かったか?」

 俺がやれる餌は、食パンと牛乳だけだ。空っぽの缶詰を見つめながら仔猫の頭を撫でると、気持ち良さそうに目を細めて甘えてくる。
 ひとしきり遊び、仔猫を段ボールに戻して帰ろうとすると、缶詰の下に紙があることに気付いた。

『仔猫ちゃんのお母さん(お父さん)へ
いつも同じモノ食べてたら飽きちゃうし、体に悪いよ。これからは夕飯はボクがあげるね。お母さん(お父さん)は、朝飯と遊び相手を頼むね。
仔猫ちゃんと同じ捨て猫より』

 缶詰を置いていった相手からの手紙だった。

「仔猫ちゃんと同じ捨て猫、か」

 癖のない綺麗な文字に口許が弛む。
 姿の見えない捨て猫に妙な親近感を覚えた。

 仔猫と捨て猫ふたりの関係が始まって一週間が経ち、明後日から夏休みが始まるという日にそれは起こった。
 登校時、いつも通りに神社を訪れて朝の挨拶をし朝飯を与えて学校に行き、時折影山を見つめながら授業を受け、帰りに神社に向かうと社の裏に見覚えのある後ろ姿があった。

「影山?」

 毎日見つめているあの背中は、間違いなく影山だ。どうしてここにいるんだ?
 影山の足元を見ると、鞄といつも夕飯にと置いてある缶詰が落ちていた。
 影山が、あの捨て猫だったのか? トクンと心臓が脈打つ。

「誰がこんなことを……」

 俺がそいつの父さんだよ、と近付こうとするのを、影山の呟きが足止めした。あの無表情で何事にも無関心な影山が、怒りの籠った声を発したからだ。

「最期にお母さんに会いたいよね」

 仔猫の段ボールがある辺りにしゃがみ込んだ影山は、落ちていた鞄と缶詰を掴むと俯いたまま立ち去っていった。
 妙な胸騒ぎを覚えて急いで段ボールに向かうと、タオルの上に真っ赤に染まった仔猫が横たわっていた。
 後ろ足は二本とも有り得ない方向に曲がり、腹の辺りはざっくり割れて肉が見えている。一目見て、酷い虐待を受けたと分かる痛ましい姿だ。
 この世で俺を必要としてくれる唯一の存在がいなくなってしまった。
 仔猫を痛めつけた何者かへの怒りも、仔猫を失った悲しみも寂しさも、何も感じない。感情がなくなってしまったようだ。
 仔猫の亡骸を段ボールに入れ、アパートに持ち帰る。仔猫の体を綺麗に拭いてやり、世が更けるまで冷たくなった体をじっと眺めていた。

 夜中に仔猫の亡骸を抱いて神社に向かい、仔猫を隠していた場所に穴を掘った。
 シャベルなんて持っていないから、スプーンで土を柔らかくして素手で掘っていった。指先に血が滲んできたが、仔猫の痛みに比べたら大したことはない。
 掘った穴に仔猫を優しく寝かせ、最期に頭を一撫でして土を被せていく。
 ここで痛めつけられたのならば、ここで眠るのは嫌だろうか。でも、ここで俺と出会い、俺と影山と過ごしたのだから、ここで眠らせてやりたい。
 周りよりもほんの少し高く盛った土の上に、仔猫の毛と同じ白い花を一輪置く。その隣に影山に向けて書いた手紙を置き、飛ばされないように石を載せる。

『捨て猫さんへ
仔猫は私が埋めておきました。仔猫を可愛がってくれてありがとう。
仔猫の父より』

 業務連絡のような手紙しか書けなかったが、今の俺にはそれが精一杯だった。手をあわせ、明日も来るよ、と仔猫に告げてアパートに帰った。
 翌朝、寝坊してしまった俺は神社に寄ることが出来ずに学校に向かった。影山はいつも通り無表情で、気怠そうに窓の外を眺めていた。

 終業式が終わり、明日からの夏休みに浮かれて騒がしい教室を足早に出て神社に向かう。
 仔猫を埋めた土の上に俺が置いた白い花の隣に、もう一輪白い花が捧げられていた。影山に宛てた手紙の上に置いた石の下には、俺が使ったものとは違う紙があった。

『仔猫ちゃんのお父さんへ
ありがとう
捨て猫より』

 たった一言の影山の手紙は、仔猫の死と共になくなった俺の感情を取り戻させた。
 仔猫との温かい日々。親兄弟に見捨てられた悲しみ。想いが通じあっていたと思っていた人に裏切られた虚しさ。様々な感情が、瞳から溢れ出した。
 体の奥に溜まっていた淀みを出し切るまで泣いた俺の中に残ったのは、影山への恋心だけだった。

 夏が過ぎ秋になり、冬の足音が近付いてきた頃、木枯らしに肩を竦めながら街を歩いていると、サイケデリックな格好をした兄ちゃんに声を掛けられた。
 美容師をしていてカットモデルを探しているのだという。春から切っていない伸び放題の俺の髪は最適とやらで、無料だというので了承してしまった。
 サイケデリック兄ちゃんの力作だという髪型は良いのか悪いのか分からないが、さっぱりしたので不満はない。

「カラーもしてみる? 夢が叶う色ってのがあるんだけどさ」

 校則は緩いので、突拍子もない色でなければ問題はない。多少派手な色でも、成績が上位で生活態度も悪くない俺ならば注意は受けないだろう。なにより、夢が叶う色、というのに惹かれてしまい、サイケデリック兄ちゃんの提案に頷いてしまった。
 日増しに影山への想いは募っていっていた。席替えで影山よりも前の席になってしまい授業中に姿を眺められなくなったこともあってか、誰の目にも触れさせたくないと狂気じみたことを考えるようになっていた。

 仔猫の父は自分だと告げていないので、影山にとって俺は興味のないクラスメイトの一人にすぎない。
 仔猫の父だと告げれば、興味のないクラスメイトの一人ではなくなるのかもしれない。だが、告げても興味のないクラスメイトの一人のままなのかもしれないと考えると、怖くて告げることは出来ないでいた。
 影山のあの硝子玉のような瞳に、意思を持って映り込みたい――。
 本当に夢が叶うのか分からないが、微かな望みをかけてみたいと思ったのだ。

「うん。似合うよ」

 鏡の中の俺を見つめ、サイケデリック兄ちゃんが破顔する。

「明日学校に行って、駄目だって言われたら染め直してあげるから来てね」

 明日は金曜だし、もし注意されても、金、土、日のうちどれかに来ればいいのならば気が楽だ。
 夢が叶うハニーブラウンの髪を木枯らしで揺らし、帰路についた。
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