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 匂いや音で人の気配は感じるけれど、その姿を見ることなく住宅街を抜けて大通りに出た。石畳の道の両脇には、商店や飲食店がびっしり並んでいる。
 家路を急いでいるのか、食事に繰り出してきたのか、何人もの人間が道路を歩いている。街並みと同じで、人間達の容姿も中世ヨーロッパ風だ。
 前にもここに訪れたような気がする。クロスの記憶が甦りかけているのだろうか? それとも、映画などで何度か見たことのある街並みと似ているから、来たことがある気になっているだけだろうか?
 酒場らしき店から漏れてくる笑い声をぼんやり聞きながら歩き続けていると、急にマモが立ち止まった。予期していなかったので、背中の布袋に思い切り顔をぶつけてしまう。

「いってぇな。急に止まるなよ!」
「ここに泊まるぞ」
「へ?」

 泊まるということは、今夜は野宿ではないということか?
 ヒリヒリする鼻を擦りながら、目の前の建物を見上げる。五階建ての四角い建物はかなり古そうだが、屋根の下で眠れるのならば文句は言えない。
 扉を開けて宿に入っていくマモのあとを付いていく。
 一階は食堂になっていて、食事をしたり酒を飲んだりしている客が何人かいる。漂ってくる香りに刺激され、腹の虫が騒ぎ出す。
 俺とは対照的に料理に興味を示さないマモは、階段下のカウンターに向かう。

「部屋は空いているか?」
「お泊まりですか?」
「あぁ」
「どこからいらしたんです?」
「湖の向こうだ」
「ほう、あんな遠くから」

 カウンターにいた初老の男に話し掛けるマモ。台帳を捲りながら世間話をしてくる男に、まだ時間が掛かりそうだと察する。カウンターから離れて、空いている席に座って話が終わるのを待つことにする。
 部屋、空いてるといいけどな。食堂にいる客が全員宿泊客でも、五階建てなら部屋はあるよな。ここまで来て野宿は嫌だぞ。
 ぼーっと食事をする客達を眺めていると、隣の席に誰かが座る気配がした。

「おい、泊まれ……」
「こんばんは」
「こん……ばんは」

 話が終わったマモがやって来たのだと思ったのに、隣に座っているのは知らない中年男だった。

「今夜は、ここに泊まるの?」
「そのつもり」
「旅してきたの?」
「まぁ」

 なんでこいつ、俺に話し掛けてくるんだ? 暇そうに見えたから、いい話し相手を見つけたとでも思われたのか?
 まぁ、話していた方が腹の虫を誤魔化せそうだし、マモが戻ってくるまで付き合ってやってもいいか。

「どこから来たの?」
「えーっと、湖の向こう」

 確かマモはそう答えていたはずだ。だが、俺の答えに男は吃驚したように目を見開いた。
 なんか間違えちまったか?

「あんな遠くから? 何日もかかったでしょ」
「まぁな」
「無事に王都に辿り着けたお祝いに、何か奢るよ」
「え、マジで?」

 カウンターの男も、湖の向こうから来たと話したら驚いていた。実際はそこから来たわけではないが、十日以上歩いてここに辿り着いたのには変わりない。
 奢ってくれるのならば、有り難く頂こう。

「何が飲みたい?」
「食い物でもいいか?」
「もちろん」
「じゃあ……ステーキ!」

 斜向かいに座っている小太りの男が食べている分厚いステーキに目が止まる。すげぇ美味そうだ。
 夢の中でステーキを口に入れる瞬間にマモに叩き起こされたことも思い出し、どうしても食べたくなった。

「ステーキね」

 男が、ウエイトレスを呼んでステーキを注文してくれる。やべぇ、もうすぐステーキを食べられるんだと思ったら、涎が止まらなくなってきた。

「ステーキが来るまで、これを飲んで待っていよう」
「これ、酒か? 俺、酒は飲めねぇんだけど」

 ステーキと一緒に注文したのか、ワインが入っていそうな瓶とグラスが二つ運ばれてきた。

「大丈夫だよ。この果実酒は子供でも飲める軽いお酒だから」
「酔わないか?」
「酔わない、酔わない」

 楽しげに笑いながら、グラスに酒を注いでいく男。注がれた薄ピンクの液体からは、爽やかで仄かに甘い香りが漂ってくる。
 酒とは名ばかりのジュースみたいなものなんだろう。これなら飲めそうだな。

「いてっ……」

 グラスを持って口に運ぼうとしたら、手首を掴まれた。なにしやがるんだと、拘束してきた掌の主――マモの野郎を睨み付ける。

「そんな度数の高い酒を飲ませて、こいつに何をするつもりだ」
「なぁんだ、保護者付きだったのか」
「失せろ」
「はいはい。彼へのお祝いは支払っておくよ。ステーキ、味わってね」

 わけが分からず呆然としている俺の頭を撫でて、男が席から立ち上がる。ウエイトレスを呼び止めて金貨を握らせた男は、入口の扉から外に出ていった。
 宿泊客ではなかったんだな、と後ろ姿の消えた扉を眺めていると、空いた席にマモが座った。

「人間に気を許すな」
「許してねぇよ。それより、部屋はとれたのか?」
「あぁ」

 心底呆れたように吐息を漏らしながら頷くマモに苛っとする。天使だってバレないように普通の旅人を装って人間らしく振る舞っていたのに、その言い草はなんだよ。
 だが、苛立ちはすぐに消える。待ちに待ったステーキが運ばれてきたからだ。

「うめぇ」

 人間に奢ってもらったものなんて食べるな、と言われる前にステーキに齧り付く。肉汁たっぷりの分厚い肉は、丁度いい歯応えだ。
 夢中で肉を頬張る俺に呆れ顔のマモも、あの男が残していった酒を飲んでいる。

「それ、子供でも飲める軽い酒じゃないのか?」
「飲み口は軽いが度数の高い酒だ。酒に弱い相手を昏睡させたい時に飲ませる輩が絶えない、曰く付きの酒だ」
「え……さっきの男、俺を眠らせて金でも盗むつもりだったのか?」
「金が目的ではないだろう」
「まさか……」

 天使だって気付かれたのか? いや、それらしい行動は何もしていないはずだ。
 じゃあ、湖の向こうから来たって教えたのがまずかったのか?

「なぁ、湖の向こうって何があるんだ?」
「王都の先には田園地帯が広がっていて、その先に巨大な湖と港町がある。更に湖の先には金鉱山があるんだ」
「ふーん。そこに行くには何日も掛かるのか?」
「そうだな。船や馬車を使えるが、半月は掛かるだろうな」

 金鉱山があるってことは、やっぱり金目当てで狙ってきたんじゃねぇか。何も盗まれなかった上に飯まで奢ってもらったんだから、深く考えるのはよそう。

「はぁ、美味かった。お前は食わなくていいのか?」
「酒だけで充分だ。さぁ、部屋に行くぞ」
「おう」

 ステーキで満たされた腹を摩りながら、宿泊する部屋に向かう。
 階段を昇ったマモは、四階の一番奥の部屋の前で止まる。等間隔で置かれているろうそくで照らされる白壁には染みはなく、外観から想像したよりも綺麗な廊下だ。
 これなら客室も期待できそうだな、と開けられた扉の中に入る。

「な、なんだよ、これは!」

 臙脂色の絨毯が敷かれた部屋の真ん中には、ダブルベッドが一つ鎮座しているだけだった。なんでベッドが一つしかないんだよ?

「この型式の部屋しか空いていなかったんだ」
「マジかよ」

 マモと並んで寝なくちゃいけないのかよ。どんな形であれ、ベッドで眠れるのを喜ぶべきか。
 いや、待てよ。俺は天使の王なんだから、このベッドを独り占めできるよな。マモは床で寝ればいいんだ。絨毯が敷いてあるから、野宿の何倍も寝やすいはずだしな。

「このベッド、俺のな」

 マントとブーツを脱ぎ捨て、ベッドにダイブする。柔らかな布団の感触に、一気に睡魔が襲ってくる。魔獣に襲撃される心配もないし、今夜はいつも以上に熟睡できそうだ。
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