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約束の桜

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 病に侵され体が悲鳴をあげているのか、日に日に睡眠時間が長くなる朔夜さん。静かに寝息をたてる桜色の頬を眺めながら、ふと思い出した会話。

『ここの桜が全部散ったら、あそこの桜が咲きはじめるんだよな』
『あそこの桜? あぁ、あの古木のことですか』
『そうだ。また見に行きたいな』
『いいですよ』

 あの日、河川敷に向かう途中に交わした約束。

 時計の針が全て重なって一本になり、一番長い針が四周したところで、可愛い寝顔の口がモゴモゴと動いて薄っすら瞳が開いた。

「おはようございます」

 ゴシゴシと目を擦っていた腕が払われ、ニコッと微笑んだ顔が現れる。

「うわぁー、芽が出たー!」

 日課になりつつあるどんぐりの観察のため、庭に向かった朔夜さんが嬉しそうに叫ぶ。

「本当に?」

 急いで蛇口を締め、半分までしか水の入っていないじょうろを持って駆け寄ると、得意げな顔でほらっと小さな芽を指してくれる。

「朔夜さんが、いっぱい水をあげたからですよ。もっと大きくなるように、もっと水をあげましょうね」

 じょうろを渡すと、「もっと大きくなーれ!」と、陽気なメロディーをつけて唄いながら、魔法の水を与えていく朔夜さん。

「朔夜さん、花見に行きませんか?」
「はなみぃ?」

 上機嫌でだいぶ遅めの朝食をとり、積み木で家の形を作っては壊し作っては壊しと飽きずに遊び続けている朔夜さんに声をかけると、ぽかーんと口を開けて俺を見上げた。作りかけの家がガタッと音をたて、何度目かの崩壊をする。

「そう。大きな木にピンクの花がいっぱい咲いていて、凄く綺麗ですよ」
「行くぅ!」

 昨日読み聞かせてやった絵本の、猫を冒険に誘う鴎の声色を使って誘うと、目を輝かせた朔夜さんは、急かすように俺の裾を引っ張ってきた。

 太陽が沈んだばかりの街は、青みがかった幻想的な闇に包まれている。車窓の外の世界は時代を逆行するかのように、近代的なものから昔懐かしいものへと移り変わっていく。
 全開の窓から入ってくる風で髪を揺らし、その様子を楽しそうに眺めている朔夜さん。去年も同じ時間に、同じ姿を見せる朔夜さんがいた。

 車は、小高い里山の下に止まる。
 周りに民家はなく、延々と田園地帯が続いている。明るい月明かりに、田んぼに張られた水が反射してユラユラと揺れている。

「いらっしゃい」

 朔夜さんの手を引き、頂上へと続く獣道を登っていく。
 木々のトンネルを抜けると、目の前に現れた一本の桜の大木。それを守るかのように生い茂った木々達は、幾年にも渡りこの山を見続けてきた美しい姿に敬意を示すように、その周りに空間を作り桜の存在感を強調している。

「うわー、きれー」

 より月に近いからなのか、静かな光は淡いその色をくっきりと浮かびあがらせている。
 きれーきれーと花びらを見上げ、木の周りを何度も何度も回る朔夜さん。今の朔夜さんは覚えていないのだろうが、去年も同じように感激して、子供みたいですねって俺に笑われたんですよ。

「此処にいらっしゃい」
「うん」

 根元に腰を下ろして手を広げると、俺の胸にもたれかかってくる朔夜さん。

「それ、なぁに?」

 突然目の前に飛んできたシャボン玉に興味津々の朔夜さんは、それの現れた方向を探しだす。その視線は、俺の口元の青いストローに向けられる。

「シャボン玉と言って、こういう風に飛ばすんですよ」

 プクーと膨らんでいくそれをしげしげと見つめ、飛び立ったものを掴もうとする腕が、宙を上下左右に忙しなく動く。

「それ、やりたい」
「いいですよ」

 シャボン液とストローを嬉しそうに受け取り、リスのように頬を膨らませてシャボン玉を飛ばしていく朔夜さん。

「吹く時に、楽しかったことを思い浮かべてごらん」
「なんで?」

 ストローを咥えたままの可愛いリスが、俺を見つめる。

「楽しかったことや嬉しかったことをシャボン玉に詰めて飛ばすと、それは遠い遠い空の向こうまで飛んでいって、ひとつひとつが連なって葡萄みたいになるんです。死んだら思い出いっぱいのシャボン玉の葡萄の中に吸い込まれていって、永遠にその中で暮らすんですよ」

 遠い遠い空の向こうを思っているのか、澄み切った空に瞬く満天の星を暫し見上げていた朔夜さんが、ポチョンとシャボン液にストローを浸す。

「これはキラキラの分、これはグリドンの分……」

 プカプカと空に向かっていく、朔夜さんの思い出達。
 背中に感じる大きな命。腕の中には、何にも変えられない、もっともっと大きくて大切な命がある。

「どーした? どっか痛いのか?」

 今、朔夜さんが腕の中にいるという幸せに、熱くなった胸は涙という形でその喜びを表した。

「否、どこも痛くないですよ」
「本当に?」

 心配そうに俺の顔を覗くその額に、そっと唇を当てる。

「今のなぁに?」
「大切だよって証です」
「たいせつぅ?」
「そう。ずっと一緒にいましょうねってことです」

 不思議そうに俺を見つめていた顔が消え、目の前が闇で覆われる。すると、額に柔らかいものが当たった。
 光が戻ると、柔らかな微笑みを浮かべた朔夜さんが抱きついてた。

「リョウ、大切だよ」
「一緒にいて欲しいの?」
「うん。ずーっとずーっと一緒にいる!」

 大切な大切なその命を愛おしむように、存在を確認し感謝するように、きつくきつく抱きしめる。苦しいよぉ、と言いながらも俺から離れようとはしなかった朔夜さん。
 涙は、なかなか止まらなかった。

 隣から聞こえてくる穏やかな寝息。その眠りを妨げぬよう、カーステレオのボリュームを下げる。
 桜の季節も終わって、急速に夏がやってくる。段々と街を包んでいく新緑に、俺は恐怖しか覚えないのだろう。
 朔夜さんと離れたくない、ずっと一緒にいたい。だから、朔夜さんと共に旅立つことも考えた。だけれど……

『俺は、朔夜さんが死んだら一緒に死にますから』
『駄目だ』
『どうしてです? 朔夜さんがいなかったら生きている意味はない』
『意味があるから命は続いてるんだよ。もし、アンタより先に俺が死んだら、それはそこで俺の役目が終わったってこと。そのあともアンタの命が続いてるってことは、アンタには生き続ける役目があるってことなんだ。だから、役目を終えて自然に命の灯が消えるまでは、絶対に自ら役目を放棄するなんてしちゃ駄目だかんな!』
『分かりました……』

 恋人を失い、その傷を抱えながらも懸命に生き続けていくという内容の映画を見たあとで、いつになく真剣な表情で語る朔夜さんと交わした約束。それを破ったら、せっかく一緒に天に召されても口をきいてもらえないでしょうね。

「ちゃんと約束を守りますから、ちゃんと朔夜さんもシャボン玉の中で俺を待っていてくださいね」

 隣の天使のような寝顔がそうさせるのか、何だか穏やかにこの辛い現実を受け止められた。

「あっ!!」

 急に目の前を横切る、小さな物体。ヘッドライトに浮かびあがるのは、小さな黒猫。
 轢いては駄目だ、と思い切りハンドルを切る。


 ドカーン


 鼓膜が破れるのではないのかというほどの爆音が響く。

 なんだろう、凄く体が熱い。
 あぁ、なんだか凄く眠くなってきたぞ。

「諒……」

 遠のく意識の中で、朔夜さんの柔らかな声が聞こえた。
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