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知床旅情

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「新婚旅行、どこに行くんだ?」
「知床だ」
「知床? 海外じゃねぇのか? 朔夜ちゃん、嫌だって言わなかったのか?」

 近々出所する朔夜さんの出産証明書を偽造した医師の件で腐れ縁の探偵に会った帰り際、一週間後に出発予定の新婚旅行の話題になった。奴は俺達の関係を、結ばれる経緯まで正確に知っている唯一の人物だ。

「まぁ楽しんでこいや。土産、楽しみにしてるな」

 よいしょ、と寂れた喫茶店の椅子から立ち上がり、俺の肩を二、三度揉むと人混みの中に消えていった探偵。

「その朔夜さんが、知床に行きたいと言ったんだがな……」

 テーブルの上の報告書を鞄にしまいながら呟く。
 世界遺産になり、テレビや雑誌で踊っていた『知床』の二文字に釘付けになっていた朔夜さん。特に知床の四季とそこに暮らす動物達を写した写真集がお気に入りのようで、時間があれば眺めていた。新婚旅行の話が出た時、真っ先に朔夜さんの口から出たのは『知床』で、特に此処がいいというのがなかった俺は、それに頷いた。


「まだまだ寒いんだな」

 空港に降り立つと、そう口にした朔夜さんは、Tシャツの上にパーカーを羽織った。五月の終わりで、二人の住む街では梅雨の訪れを感じさせるようなジメッとした日々が続いているのに、まだここは春の匂いがする。
 車を借りて、知床を目指す。

「北海道は、でっかいどーだな」

 助手席の朔夜さんは窓を全開にし、まだ冷たい風に髪を揺らしながら嬉しそうに景色を眺めている。長い冬から目覚めたこの時期に憧れの地を訪れたいと言った朔夜さんの願いが叶ってよかった、と道の両脇に延々と広がる萌える緑に思う。

「あっ!」

 たまに対向車とすれ違うだけの俺達専用のような道を走っていると、前方を指差して朔夜さんが叫んだ。

「キタキツネだ!」

 キラキラの漆黒の瞳が見つめる小さな橋の上に、ちょこちょこと動く黄土色の物体がいる。
 ハザードをたいて路肩に止まると凄い勢いで車を降りた朔夜さんは、一転して物音を立てないようにゆっくりそれに近づいていった。
 どこまでも澄んだ青空、橋の下を流れていく雪解け水の煌き、両脇に広がる新緑の清々しい香り……。あまりの気持ち良さに一度背伸びをすると、それを怖がらせて朔夜さんに怒られないように、摺り足でそっと近付いていく。

「ルールルー」

 必死でキツネを呼ぶ朔夜さんに思わず吹いてしまうと、ぷくっと膨らんだ顔が睨んできた。
 ギリギリまで近付いても、全く逃げる気配のないキツネ。

「このキツネ、人に馴れてますね」

 クリッと吊り上った愛くるしい眼が、何かおねだりしてるように見える。

「君は、何か食べものが欲しいのかな?」
「駄目だっ!」

 うん、と頷いたように見えたそいつにやるために、食べかけのパンがある車内に戻ろうと踵を返すと、ぐいっと腕を引っ張られた。

「こいつは野生なんだ。自分で餌を捕らなきゃ駄目なんだ。もし餓死したとしても、それが自然の摂理なんだよ」

 俺とキツネ、そして自分自身に言い聞かせるように、熱弁を振るう朔夜さん。ここにいても何のおこぼれも頂けないと思ったのか、キツネは跳ねるように林の中に消えていった。
 車に戻り、再び走りだす。

「朔夜さんだって、餌をあげてしまいそうな勢いだったじゃないですか」
「まぁ、否定は出来ねぇけど。だからこうやって、餌自体を処分してるんだろ」

 小さくちぎったパンを口に運んでいた手が、俺の口元に掲げられる。

「あんまり食べると、夕飯が食べられなくなりますよ」

 パクっとそれを咥えて見上げた道路標識は、目的地まで60キロと記されている。

「もうすぐ、オホーツク海が見えるみたいだぞ」

 ピッとカーナビを広域図にした細い指が、俺の唇の端についていたパンのかすを拭ってくれる。

「早くホテルに着かないですかね」
「運転疲れちまった? 休憩するか?」

 心配そうに俺の顔を覗く朔夜さんの唇に、自分の唇をそっと当てる。

「早く朔夜さんが食べたいんですよ」

 パッと見開いた目が細くなり、眉間に皺がよっていく。

「嫌だね。食わさせてやらねぇよ!」

 ぷいっと横を向く朔夜さんの向こうに、オホーツク海が現れた。

「あぁ、なんだかオホーツクって感じですね」
「どこがだよ?」
「どことなくです」

 こちらに振り向いた顔は、もう笑顔に戻っている。
 オホーツクと言えば演歌だ、と唄いだした朔夜さん。演歌は日本海じゃないんですか、と突っ込みつつ、最近流行っている演歌を異様にこぶしをまわして合唱し、残りの道を進んだ。
 唄って、笑って、ホテルに着く頃には、すっかり腹が減っていた。

「あっ、クリオネだ。流氷の天使って言うだけあって、可愛いのな」

 ホテルのロビーに置かれた水槽の前で屈み、それを眺める朔夜さん。
 部屋に通され、案内係が立ち去ると、窓の外に広がるオホーツク海を眺めている華奢な背中を抱きしめる。

「俺のクリオネちゃん、夕飯まで一時間ありますから、運転を頑張ったご褒美をくださいな」
「確かに頑張ってたんで、特別にやるよ」

 振り返った艶やかなクリオネが、そっと目を閉じる。
 俺の腕の中で泳ぐクリオネは、本当に天使という名が相応しい姿をしていた。

 翌日、念願の世界遺産に足を踏み入れた。
 助手席の朔夜さんは、目覚めた瞬間からテンションが高く、ずっと笑顔だ。俺の方も、明日は早いからと温泉でスベスベになった肌に触れさせてもらえなかったお陰(?)で、昨日の疲れがすっかり抜ける程に眠れ、白々と夜が明ける時刻に目覚めても気分はスッキリしていた。
 路肩で朝食を頬張るエゾシカの姿を横目に、靄のかかった山道を上っていく。

「観光地だもんな、仕方ないか……」

 目的地の知床五湖の駐車場には、大型バスやレンタカー等、既に何台か止まっていた。昨日のふたりきりの世界が続く気がしていたのか、寂しげに呟く朔夜さんと俺も同じ気持ちだった。
 しかし、散策コースを奥まで進んでいくと人影は疎らで、完全ではないにしろふたりきりの世界が再び訪れた。水芭蕉の咲く湖から煙があがり、朝露に濡れた森を神秘のベールで包んでいる。時折水際ギリギリに立って森の香りを楽しみながら、ゆったりとした時間の流れの中を、一歩一歩進んでいく。

「クマ、居ねぇかな?」

 森の奥を何度も何度も覗く朔夜さんだが、何かがいる気配はない。近くにヒグマがいる時は此処まで入れないらしいので、出会える確率は相当低いのだろうが、なんとかして朔夜さんの願いを叶えてやりたいと思った。

「後でクマに会わせてあげますよ」
「えっ、マジで?」

 ニヤリと笑う俺を不信感丸出しの顔で見上げるも、すぐに楽しそうな表情に変わった朔夜さん。

「はい、クマさんです」

 駐車場脇の土産屋に入ると、ジャーンと帽子から鳩を出すマジシャンの如くそれを見せる。

「それって……」

 俺の腕の中の、どこの家庭にも何故か一つはある、北海道土産の定番の木彫りのクマを唖然と見つめている朔夜さん。

「こんにちは朔夜さん。ボク、ヒグマだよ」

 腹話術の人形みたいな高い声で、クマの彫り物を揺らして喋る俺に、朔夜さんの頬は弛んでいく。

「こんにちは、ヒグマくん」

 彫り物の頭を、優しく撫でてくれる掌。なんだか俺の頭を撫でられているようで、ちょっと擽ったかった。


 畳に転がっていた朔夜さんは、いつの間にか寝息を立てていた。そっと体を抱え、寝室まで連れていく。
 この家で新生活を始めることになった時、俺が一番こだわった家具がこのダブルベッドだ。マットの硬さにこだわりをみせる俺を呆れ顔で見つめながらも、これに出会うまで何時間も付き合ってくれた朔夜さん。
 眠り姫を起こさぬよう俺もその隣に横たわると、寝返りを打った朔夜さんの顔が俺の胸に埋まった。
 このままずっと抱きしめていれば、朔夜さんと離れないで済むのだろうか? 俺は弱いから、朔夜さんの『死』を受け入れて、残った愛おしい思い出と暮らすなんて出来ないですよ。朔夜さんには、ずっと笑顔でいてもらおうと決めたのに、俺がこんな風でごめんなさいね。でも、今だけはこうさせてください。
 腕の中の愛しい温かさを感じながら、声を殺して泣いた。
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