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沈んでいく人魚
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バコーン
生々しい重低音が、響き渡る。静寂が、淡いピンクに囲まれた緑の海を包む。
海の中、深く深く沈んでいく人魚。緑の海に似つかわしくない生々しい赤が、人魚の周りに広がる。
一転、静かな海は悲鳴と怒号に包まれ、恐怖という嵐で荒々しい波を立て始める。
「朔夜さんっ!!」
最愛の人の元に駆け寄った時には既に大勢の人に囲まれていて、その顔色を覗うことは出来なかった。
そこから、記憶はない。
気付くと、白い廊下に置かれた長椅子に座っていて、『手術中』と赤く光るランプを見つめていた。
「早く、救急車を!」
「何があったんだ?」
「あのオヤジが打ったボールが彼に当たったんだ」
「おい糞オヤジっ! なんでこんな所でゴルフなんてしてんだよっ!」
耳の奥で聞こえる、救急車のサイレン、女性達の悲鳴、男性達の怒号は何なんだ?
俺は何処にいて、何をしていた?
『朔夜さん、堤防の桜の咲き具合は?』
『五分咲きってとこだな』
『では、明日は桜を見上げて昼食なんてどうです?』
『いいな、それ。張り切って弁当作るな』
汗ばむ程の陽気の、日曜の昼下がり。家から二キロ程先の、朔夜さんが日課の散歩コースとして使っている河川敷に向かった。
新緑でキラキラ輝く堤防沿いには、等間隔で桜が並んでいる。見頃は来週あたりですかね、とまだ蕾の残る薄ピンクの屋根を見上げて歩く。ピークではないだろうが、家族連れやカップルが溢れ、普段のそことは別世界だ。
一本の桜の下の、少し勾配の激しい芝に腰を下ろす。向かいに建つ背の高いマンションによって常に日陰のそこでは花の成長も遅く、まだ二分咲きといったところだ。そのため、近くに花見客は居ない。頭上は少々寂しいけれど、目の前に広がる空の青、桜のピンク、芝の緑のコントラストを眺めるには申し分のない場所だ。
「あっ、お茶忘れた」
早起きをしてせっせと作っていた弁当を入れた袋を覗いた朔夜さんが、昨夜から冷蔵庫に入れて冷しておいたペットボトルの姿がないのことに気付いて項垂れる。
「俺が買ってきますよ」
華奢な肩に手をかけて立ち上がり、周りのピンクのように柔らかく優しい笑顔に見送られて、駐車場にあった自動販売機を小走りで目指した。
右手に緑茶、左手に烏龍茶のペットボトルを握り、今朝味見をさせてもらった俺の大好物の甘い卵焼きの味を思い出しながら、行きよりペースを上げて戻る。
二人の見つけた穴場ポイントの手前、ここから賑わいが始まります、と告げているような花見客のスタートラインのような場所で俺を待っていてくれた朔夜さん。俺の姿に気付いたようで、周囲の目を気にしてか照れ臭そうにしながらも、胸の前で小さく掌を振ってくれている。
暖かいを通り越して暑いと感じる日差しがユラユラと揺れる水面に反射して眩しいな、と目をやった瞬間だ。そこから小さな白い塊が猛スピードで飛んできて、朔夜さんのこめかみに当たった。
朔夜さん……。朔夜さんは、何処にいる?
右を見ても、左を見ても、その姿はない。
あぁ朔夜さん、不安で不安で押し潰されてしまいそうです。大丈夫だ、とあの笑顔で慰めてくださいよ。
何処へ行ってしまったんですか? 早く来てくれなければ、俺は……
目の前の、大きな扉が目に入る。
「朔夜さん! 朔夜さん!」
その扉を拳で叩いて泣き叫ぶ俺を、どこからか走ってきた白衣をまとった若い男ふたりが押さえる。
また、記憶が飛んだ。
虚ろな瞳の焦点が合うと、ベッドに横たわる朔夜さんの姿が映し出された。
「朔夜さん……」
血の気のないその頬に、震える掌をそっと当ててみる。じわりと広がってくる温もりに、涙が溢れ出る。目を閉じたままの朔夜さんに顔を近づけると、規則的な寝息が濡れたままの頬をくすぐってきた。
痛かったですよね? 怖かったですよね?
俺はずっと此処にいますから、安心して好きなだけ眠ってください。目が覚めたら、もう一度花見に行きましょうね。
朔夜さんが寂しくないように。そして、俺が寂しくないように。もう離ればなれにならないようにと、布団の中の掌を優しく包む。
窓からは、柔らかな夕日が差し込んできている。ふたりを包むそれに一時の安らぎを感じながら、そっと瞼を閉じると浮かんでくるのは、朔夜さんと出会ったあの春の記憶だ――
生々しい重低音が、響き渡る。静寂が、淡いピンクに囲まれた緑の海を包む。
海の中、深く深く沈んでいく人魚。緑の海に似つかわしくない生々しい赤が、人魚の周りに広がる。
一転、静かな海は悲鳴と怒号に包まれ、恐怖という嵐で荒々しい波を立て始める。
「朔夜さんっ!!」
最愛の人の元に駆け寄った時には既に大勢の人に囲まれていて、その顔色を覗うことは出来なかった。
そこから、記憶はない。
気付くと、白い廊下に置かれた長椅子に座っていて、『手術中』と赤く光るランプを見つめていた。
「早く、救急車を!」
「何があったんだ?」
「あのオヤジが打ったボールが彼に当たったんだ」
「おい糞オヤジっ! なんでこんな所でゴルフなんてしてんだよっ!」
耳の奥で聞こえる、救急車のサイレン、女性達の悲鳴、男性達の怒号は何なんだ?
俺は何処にいて、何をしていた?
『朔夜さん、堤防の桜の咲き具合は?』
『五分咲きってとこだな』
『では、明日は桜を見上げて昼食なんてどうです?』
『いいな、それ。張り切って弁当作るな』
汗ばむ程の陽気の、日曜の昼下がり。家から二キロ程先の、朔夜さんが日課の散歩コースとして使っている河川敷に向かった。
新緑でキラキラ輝く堤防沿いには、等間隔で桜が並んでいる。見頃は来週あたりですかね、とまだ蕾の残る薄ピンクの屋根を見上げて歩く。ピークではないだろうが、家族連れやカップルが溢れ、普段のそことは別世界だ。
一本の桜の下の、少し勾配の激しい芝に腰を下ろす。向かいに建つ背の高いマンションによって常に日陰のそこでは花の成長も遅く、まだ二分咲きといったところだ。そのため、近くに花見客は居ない。頭上は少々寂しいけれど、目の前に広がる空の青、桜のピンク、芝の緑のコントラストを眺めるには申し分のない場所だ。
「あっ、お茶忘れた」
早起きをしてせっせと作っていた弁当を入れた袋を覗いた朔夜さんが、昨夜から冷蔵庫に入れて冷しておいたペットボトルの姿がないのことに気付いて項垂れる。
「俺が買ってきますよ」
華奢な肩に手をかけて立ち上がり、周りのピンクのように柔らかく優しい笑顔に見送られて、駐車場にあった自動販売機を小走りで目指した。
右手に緑茶、左手に烏龍茶のペットボトルを握り、今朝味見をさせてもらった俺の大好物の甘い卵焼きの味を思い出しながら、行きよりペースを上げて戻る。
二人の見つけた穴場ポイントの手前、ここから賑わいが始まります、と告げているような花見客のスタートラインのような場所で俺を待っていてくれた朔夜さん。俺の姿に気付いたようで、周囲の目を気にしてか照れ臭そうにしながらも、胸の前で小さく掌を振ってくれている。
暖かいを通り越して暑いと感じる日差しがユラユラと揺れる水面に反射して眩しいな、と目をやった瞬間だ。そこから小さな白い塊が猛スピードで飛んできて、朔夜さんのこめかみに当たった。
朔夜さん……。朔夜さんは、何処にいる?
右を見ても、左を見ても、その姿はない。
あぁ朔夜さん、不安で不安で押し潰されてしまいそうです。大丈夫だ、とあの笑顔で慰めてくださいよ。
何処へ行ってしまったんですか? 早く来てくれなければ、俺は……
目の前の、大きな扉が目に入る。
「朔夜さん! 朔夜さん!」
その扉を拳で叩いて泣き叫ぶ俺を、どこからか走ってきた白衣をまとった若い男ふたりが押さえる。
また、記憶が飛んだ。
虚ろな瞳の焦点が合うと、ベッドに横たわる朔夜さんの姿が映し出された。
「朔夜さん……」
血の気のないその頬に、震える掌をそっと当ててみる。じわりと広がってくる温もりに、涙が溢れ出る。目を閉じたままの朔夜さんに顔を近づけると、規則的な寝息が濡れたままの頬をくすぐってきた。
痛かったですよね? 怖かったですよね?
俺はずっと此処にいますから、安心して好きなだけ眠ってください。目が覚めたら、もう一度花見に行きましょうね。
朔夜さんが寂しくないように。そして、俺が寂しくないように。もう離ればなれにならないようにと、布団の中の掌を優しく包む。
窓からは、柔らかな夕日が差し込んできている。ふたりを包むそれに一時の安らぎを感じながら、そっと瞼を閉じると浮かんでくるのは、朔夜さんと出会ったあの春の記憶だ――
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