その男、幽霊なり

オトバタケ

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体育祭

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 十月第二週の金曜日の今日は、体育祭が開催される日だ。来月、二年が行く修学旅行の日程の兼ね合いで、去年よりも開催が早まったらしい。
 来週の月曜日は祝日のため、明日から三連休だ。そのせいで御祭り気分が増しているのか、一、二年の仮装が文化祭かと勘違いしそうになるくらいに派手やかだ。三年は仮装禁止のルールに感謝しつつ、猫耳でさえ着けるのが嫌だった去年の体育祭を思い返す。
 柚木に媚薬を飲まされて襲われかけ、逃げたトイレで何故か触れ合えるようになった雅臣と抜きあったんだ。雅臣が誰かの身代わりではなく、俺自身を見ているのだと分かり、気持ちが大きく動き始めたんだった。

「拓也、気分が優れないんですか?」

 運動場に向かって廊下を進んでいると、並んで歩く雅臣が心配そうに顔を覗いてきた。あれこれ思い返して、顔を青くしたり赤くしたりしていたのだろう。

「昨日、頑張りすぎちゃったの?」

 大丈夫だ、と答えるべく口を開こうとすると、斜め後ろを歩いていた海老原が、口許をニヤニヤさせながら聞いてきた。

「翌日への配慮は、きちんとしています」
「ふーん。でも、ヤッたわけね」
「毎日拓也に包まれなければ、死んでしまいますから」
「おいっ、朝っぱらから何言ってんだよ!」
「ナニの話」

 二人の会話に怒りで震えながら叫ぶと、フフフと笑った海老原が、昇降口に向かって駆けていった。

「全く、カニなんとかは……」
「アンタもだろっ!」

 呆れたと言わんばかりに溜め息を吐く雅臣を、ギロリと睨み付ける。

「拓也は、僕の熱を感じなくても生きていけるんですか? 僕の我が儘に、毎日付き合わせてしまっていたんですか?」

 寂しそうに目を伏せた雅臣が、か細い声で縋るように聞いてくる。

「アンタが毎日繋がらないと満足できない体にしたんだろ。でも、別にやらなくても生きていられる」

 覚えてしまった快感を簡単に捨てるのは無理だろう。だが、相手が雅臣だから毎日欲しくなるんであって、万が一雅臣ができない状態になっても、代わりに他の奴を欲しくなったりはしない。

「だけど、アンタが傍からいなくなったら……」

 雅臣を傍に感じられなくなったら、生きてはいけない。
 そんな分かりきったことを聞くんじゃないという気持ちを込めて雅臣を睨み付ける眼光に力を込めると、蕩けそうな笑顔を向けてきた。

「行くぞ」
「はい」

 昇降口に向かって歩き始めた俺の後を、飼い犬のように付いてくる雅臣。俺の手から伸びる赤いリードが、雅臣の首に繋がっているかのように。

「曇ってきたな」

 運動場に出ると、登校時は青空が覗いていた空は一面雲で覆われていた。だが、雨粒を落としそうな鉛色ではなく、綿のような雲の間から光の粒子が降り注ぎ、運動場を柔らかく照らしている。風も少しあり、炎天下よりもよっぽど運動しやすい天候だ。

「曇りだからと言って、水分補給を怠ってはいけませんよ」
「分かってる」

 用意してきた水筒を揺らしながら母親のように言ってくる雅臣に、唇を尖らせながら頷く。
 いつも通り弁当しか持ってこなかった俺と違い、スポーツドリンクを入れた水筒を持ってきた雅臣。言動と水筒の大きさから、二人で飲む分なのだと分かる。
 その気遣いは嬉しいが、素直に受け取れない。俺だって雅臣の世話を焼きたいのに、全く配慮できない自分が悔しい。

「拓也は拓也らしくあればいいんですよ」

 俺が沈んでいることに気付いたのか、温かな声で励ましてくれる雅臣。
 不甲斐なさも含めての俺を受け止めてくれる雅臣の大きさに、惨めになってくる。

「アンタの負担になるのは嫌だ」
「負担だなんて思ったことはありません。拓也の世話を焼くのが喜びなんです。口移しで食事を与えたいし、排泄物を舐めて清潔にしてあげたい」
「へ、変態!」

 優しく微笑み掛けてくる雅臣を残し、クラスの待機場所に小走りで向かう。
 走っているうちに、胸を覆っていたやるせなさは消えていった。また雅臣に助けられたな。心の中で感謝しながら振り返ると、俺を追って駆けてくる青い瞳と目が合った。
 俺の上にだけ広がる青空なようなそれ。笑いかけると、より優しい色に染まっていった。

「走ったら口が渇いちまった」
「口移しで飲ませてあげましょうか?」
「アンタが、他の奴らに見られても平気ならやれよ」

 ニヤリといやらしく口の端をあげて聞いてくる雅臣を、煽るように見上げる。ごくりと唾を飲み込んだ雅臣は、参ったと言うように項垂れてしまう。

「座るぞ」

 スペースの一番後ろで本を読んでいる海老原の横に座ると、雅臣も俺の隣に座った。
 どうぞ、と差し出されたコップの中身を飲み干し、空になったコップに雅臣用のドリンクを注いで返す。嬉しそうに、受け取った中身を飲む雅臣。

「あーあ、砂を吐いちゃいそうだよ」

 ポツリと呟いた海老原の方を向く。吐きそうだと言ったのに、本を読み続けている。

「気分が悪いのか? スポーツドリンク飲むか?」

 調子が悪くて動けないだけかもしれないと思い、水筒を取ろうと手を伸ばす。だが、雅臣に手首を掴まれて動きを封じられてしまう。
 二人のために用意してきたものを、第三者に飲まれるのが嫌なのだろうか?

「海老原にも飲ませてやれよ」

 俺達の心配をして見守ってくれていた相手が苦しんでいるのに、独占欲を丸出しにしている場合か。
 ギロッと睨み付けると、雅臣は困ったように眉を下げた。隣からは、クスクスと楽しげな笑い声が聞こえてくる。

「気分が悪いわけじゃないのか?」

 笑い声の主を見ると、さくらんぼのような唇から歯を覗かせ、コクコクと頷いた。

「ボクも水筒を持ってきてるから、心配しなくても大丈夫だからね」

 脇に置いた手提げに目を遣りながら告げてくる海老原の声に、弱々しさは感じられない。
 本当に調子が悪いわけではないのだと分かり、安堵の息を吐きながら反対側に顔を向けると、眉を下げたままの雅臣と目が合った。雅臣は、海老原が自分の水筒を持っていることも、調子が悪いわけではないことも気付いていたのだろう。

「その……悪かったな」

 意地悪するんじゃないと、叱責するように睨んでしまった自分を恥じる。気にしてなどいないと言うように、雅臣は首を左右に振る。
 慈愛に満ちた青い瞳に見つめられ、曇天の心が晴れ渡っていく。

「そういやアンタ、本とか持ってこなかったのか?」
「えぇ、拓也と話していれば待ち時間も苦痛ではないですからね。拓也こそ、何も持ってきていないようですが……」
「わ、忘れたんだよっ!」

 雅臣と喋って時間を潰すつもりだったから、海老原のように時間潰しの本など、はなから用意していなかった。雅臣が俺と同じことを考えていてくれて嬉しいのに、小っ恥ずかしくて出任せを言ってしまう。

「忘れてしまったんですか。それならば、僕の話し相手になってもらえますか?」
「他に暇潰しできるもんがないから、相手になってやるよ」

 仕方ないという素振りをする素直じゃない俺に不機嫌な様子も見せず、嬉しそうに話し掛けてくる雅臣。雅臣の纏う楽しげな空気で俺の仏頂面の仮面はすぐに剥がれ、本心の笑顔が覗いてしまう。
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