白花の咲く頃に

夕立

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火の国《ハノーファ》編 死に至る病

3-6 降りしきる雨の夜に

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 ◆

「うわ! ユリア、どうしたのさ?」

 部屋の扉を開けたリアンが驚きの声を上げた。何事かとゼフィールも扉の方を見てみると、エミを送って行ったユリアが帰ってきたところだった。
 だが、その顔が酷い。目は真っ赤に腫れ、頬に涙の跡がくっきりと残っている。いや、今もたまに涙が流れている。リアンが驚くはずだった。

 ゼフィールは荷の中から小振りなタオルを取り出すと、それを持ってユリアのもとへ行く。

「何があったんだ?」

 タオルを差し出すと、彼女はそれを受け取り顔を拭いた。拭き方が雑過ぎるせいで涙の跡が所々残っている。
 ゼフィールはユリアからタオルを返してもらい、残った涙の跡を拭ってやる。

 何が悲しいのか、ユリアの黒い目からまた涙が零れてきたので、それも拭う。泣きながらゼフィールを見上げる顔は普通に可愛いし、スタイルもいいのに、性格が雑過ぎるのが実に残念だ。
 リアンとゼフィールが、嫁の貰い手がいるのか、と、たまに本気で悩んでいることを彼女は知らないだろう。

「だって、エミちゃんがお別れが寂しいって泣くんだもの。私だって寂しいのに、あんなに泣かれたら私も涙が出てきちゃって――」

 更に涙を流しながらユリアがゼフィールのマントをぎゅっと掴む。

(まるでエミだな。気持ちが同調したら行動まで似るのか?)

 さっきまで泣きじゃくっていた少女とユリアの姿が重なり、なんとも言えない気持ちになる。しかし、こうも泣き続けるならば涙は自分で拭ってもらうしかない。再びユリアにタオルを渡し、ゼフィールは小さくため息をついた。

(どうすればこの手を放してもらえるものかな?)

 ユリアが握っている部分をなんとなく眺める。強引に解いてしまえばいいのだろうが、泣いている彼女にそれをやるのは気が引ける。かといって、このままでは動けない。
 ゼフィールが困っていると、リアンが無造作にユリアの手を引き剥がし、彼女に扉の外を向かせた。

「うん、ご飯に行こう。そうしよう。晩御飯には丁度いい時間だしね。お腹一杯になれば気分も落ちつくよ。ってことで出発」

 そう言うと、ユリアの肩を押し、強引に酒場へと連れて行く。
 雨ということもあり食事客は少ない。空いている席に適当に座り、食事と飲み物を注文した。客が少ないお陰か、すぐに飲み物が出てくる。

 麦酒《エール》を適当に飲んでいると料理も運ばれてきた。最近定番になった茹でたジャガイモとウィンナー、少しばかりの野菜の付け合わせに、固いパンのセットだ。

 リアンはユリアにフォークを持たせ、自らも食事を始める。たまに彼女の様子を気にしつつ、ゼフィールも食事を進めた。

 ユリアの涙は止まったようだが、若干呆け気味だ。
 それでも、最初の二口くらいは彼女も食べたのだ。しかし、そこで頬杖をつくと、フォークでジャガイモをひたすらつつく作業を始めてしまった。表情は虚ろで、完全に心ここにあらずである。
 しつこくその作業に晒されたジャガイモは既に原形を留めておらず、完全にマッシュポテトになっている。それでもユリアが作業を止める気配はない。

「重症だな」
「本当だよ。まさか、エミちゃんよりユリアの方が重症になるなんて思いもしなかったよ」

 全く進まぬユリアの食事を眺め、男二人で溜め息をつく。

「とりあえずさ、エミちゃんを泣かしたゼフィールが責任もってユリアの面倒も見るべきだと思うんだよね」
「リアンがエミに言っても泣いてたと思うんだがな」
「ははっ。たとえそうだとしても、実際泣かしたゼフィールが悪いってことで」

 不毛にも責任の所在を押し付け合ってみたが、ユリアのフォークは止まらない。二人でもう一度ため息をついた。

「ユリア、今食べないならもう部屋に戻ろっか」

 リアンがユリアのフォークを取り上げようとしたら、彼女の顔つきが変わった。さっきまでの茫然としたものとは違い、視線がきちんと皿を捕えている。ようやくこちらの世界に戻ってきてくれたようだ。

「食べるわよ。ちょっとぼーっとしてただけじゃない」

 ユリアがリアンの手を軽く払いのけ食事を再開する。
 少しだけ憮然とした表情になったリアンだが、彼女が食事を再開してくれて一先ず満足したらしい。たまにあっちの世界に行きかけるユリアを引き止めつつ、呑気に麦酒を飲んでいる。

 何やら外がうるさくなった時はそちらに注意を向けたが、酒場の中からは何も分からない。結局、すぐにユリアを見守る作業に戻った。

「あー、酷い雨だな」

 ガタイのいい男が肩に掛かった雨粒を手で払いながら入ってきた。椅子に座ると、食事と酒を注文する。

「外が騒がしいようだけど、何かあったのかな?」

 麦酒を出しながら酒場の主人が男に尋ねる。

「ああ。ホルガーん家の前でおばさんが何か騒いてたな。エミがどうとか、医者がどうたら。素通りしてきただけだから、詳しくは知らねぇわ」

 聞こえてきた会話に、ゼフィールは席を立った。

「おい。エミに何かあったのか?」

 麦酒をあおる男の肩に手を起き、顔を近付ける。
 突然のことに男は驚いたようで、動きが一瞬固まった。そして、次の瞬間には、あらぬ方向を向いて盛大に咳き込む。酒が気管に入ってしまったのかもしれない。
 ようやく咳が収まると、男は非難の眼差しをゼフィールに向けた。

「んなこと知らねえよ。俺は近くを通って来ただけだからな。っていうか、なんなんだよアンタ!?」
「リアン。俺はエミの所に行ってくる。ユリアは頼んだぞ」
「あ、ちょっと待ちなよ! ゼフィール!」

 男の抗議も、リアンの制止も振り切って、ゼフィールは外へ飛び出した。
 病気の母親の容態が急変して医者が呼ばれたというのなら分かる。しかし、なぜエミの名前が出てきたのだろうか。理由は分からないが、ひどく胸騒ぎがする。
 フードを深く被りなおし、ゼフィールは雨でぬかるんだ夜道を駆けた。



 通りには数十人の村人が集まっていた。野次馬達の間をすり抜け、たまには押しのけ、ゼフィールはエミの家の中へ入った。
 その途端に押し寄せるむせかえるような血臭。
 マントの裾で鼻を覆い、ダイニングを見回してみたが異変は見られない。寝室に足を向けると、壁に血の花が咲いていた。
 寝台には変わらずエミの母が横たわっている。以前の苦しそうな呼吸は聞こえない。代わりに、胸が真っ赤に染まっていた。傷は心臓のあたりで、周囲を汚す血の量を考えると、生存は絶望的だ。

 母親の遺体から目を背けると、寝室の奥に血溜まりを見つけた。場所から考えて、母親の流した血だとは考えにくい。だが、その血を提供した者の姿は見当たらない。

(エミ、いるのか?)

 寝台の下を覗いてみたがエミの姿は見えない。
 エミの姿を探しながら――、いや、エミの姿が無いことを確認しながら、ゼフィールは家の中を調べた。
 エミは隣家にいるはずなのだ。ここに彼女がいるはずはない。
 その確証が欲しかった。

 家の中を探しつくし、エミの姿が見つからなかったことに安堵して、ゼフィールは家を出た。
 家から出てきた彼に周囲の視線が集まる。犯人だと思った者もいるのか、罵声まで飛んできた。

「――あんた……」

 野次馬の中にいた隣のおばさんが、ゼフィールを見て表情を曇らせた。何かを言おうとしたのか、彼女は口を動かしたが、言葉は何も聞こえない。結局、何も言わずにおばさんは視線を足元に落とす。
 その視線の先にあるモノが、ゼフィールには無性に気になった。

 一メートル程の長さの、布を被されたモノ。

「それは……何だ?」
「……」

 おばさんから答えは返ってこない。彼女はチラリとこちらを見たが、すぐに視線を外し、斜め下を見ている。

 ゼフィールはおばさんの足元に転がるソレの前に膝をつき、布に手を掛けた。
 手が震える。見ない方がいいと何かが訴えてくる。布には血が滲んでおり、見るまでもなく、その下には血で汚れた何かがあるのだと容易に想像できる。
 それでも――ゼフィールは布をめくった。

 その下から出てきたのは、目を見開いたままのエミの顔。眉間に皺をよせ、とても辛そうな表情のエミがそこにいた。

「お前一体誰なんだよ!? エミちゃんもお前が殺したのか!? 死んでるのか確認にでも来たのかよ!?」

 野次馬の一人がゼフィールに絡んできた。言いがかりもいいところで、そんな事をするはずがない。
 無視していると、男に後ろから肩口を掴まれ、後ろを向かせられた。そのまま、問答無用で殴りつけられる。

 突然の暴力にゼフィールは受け身も取れず、無様に殴り飛ばされた。周囲から小さな悲鳴が上がる。一発殴っても男の怒りは収まらないのか、ゼフィールの胸倉を掴み顔を近付けてくる。

 だが、男の怒りなどどうでもいい。彼の手を邪険に振り払いエミのもとに戻る。そんなゼフィールを掴もうとした男の手がフードに掛かり、隠していた顔を露わにした。

 先ほどとは違う声音で周囲がざわつく。
 フードを剥がされてしまってゼフィールは少しだけ動揺したが、気にせず、エミの横に膝をついた。
 自分のことなどどうでもよかった。今大切なのはエミだ。

 降り続く雨で若干流されてはいるが、エミの顔は血で汚れていた。どこから出た血かと見てみると、首元に傷がある。白い骨が覗くほどに深い傷だ。

「エミ……」

 震える手を彼女の首元にあて治癒魔法をかける。傷はあっという間にふさがり、見た目は何事も無くなったが、彼女は動かない。
 エミの身体にはまだ仄かに温かさが残っていた。寝ちゃってた。とか言いながら、起き上がってきてもおかしくないくらいだ。

「エミ、いつまでも寝てたら大きくなれないぞ? 早く大きくなって旅をするんだろう? 俺の国も見たいと言っていたじゃないか」

 動かないエミの身体を抱き上げ、胸に耳を当てるが鼓動は聞こえない。無駄だと分かっていながら治癒の魔力を流し続けてみたが、エミが動くことはなかった。
 いつの間にやら周囲からの暴言も止んでおり、死を悼む泣き声だけになっている。

「泣いて帰ってきたエミちゃんがお母さんの所に行くって言うから、一人で行かせたのがいけなかったんだ。晩御飯ができたから呼びに行ったら、二人共血だらけで――」

 おばさんが目元を抑えながらエミを見つけた時のことを話してくれた。
 その時になら、まだ助けられたのだろうか。
 それとも、別れを告げなければ、エミは母親のもとへ行かなかったのだろうか。
 どうしようもないと分かっているが、後悔だけが後から後から出てくる。

「キュ、キュゥ」

 雨音と、村人が咽び泣く声しかしない現場に、場違いな鳴き声がした。鳴き声の主は、エミの掛け鞄の中から出てきて周囲を見回すように首を回すと、彼女を抱くゼフィールのマントの中に潜り込み、肩に収まる。

(そうか、お前は無事だったのか)

 ゼフィールはラスクを撫でようとして、エミの血で赤く染まった自らの手を見て止めた。

「ゼフィール!」

 皆が悲しみに沈む中、双子が駆け込んで来た。衆目の中で顔を露わにしているゼフィールに最初は驚いたようだが、彼の腕の中のエミを見て、絶句する。

 血だらけのエミを抱いてうずくまるゼフィールの前にリアンが来た。彼は開いたままだったエミの目を閉じてやると、こちらに手を差し出す。

「僕にもエミちゃん抱かせてくれない?」

 ゼフィールは頷くとリアンにエミを渡した。壊れ物を抱くようにリアンはエミを抱きしめる。その姿を見ながらゼフィールは立ち上がり、ユリアの横へと移動した。
 立ち尽くしたままエミを見つめるユリアは口元を手で押さえ、瞬きすらしない。
 ゼフィールは目を細めながら空を見上げ、一人呟いた。

「エミは普通の子だったんだ。広い世界を見たがっていただけの、普通の子だった」

 ゼフィールの目から涙が零れた。
 この雨なら涙もごまかしてくれるだろう。
 声を出さず、ゼフィールは涙が流れるに任せた。 
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