白花の咲く頃に

夕立

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プロローグ

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 白い花の咲き誇る森を一人の女性が走っていた。

 彼女の腕には年端もいかぬ少年が抱かれているけれど、彼をかかえる腕も、走り続けている足も、疲労で悲鳴を上げている。だが、立ち止まるわけにはいかない。倍以上の凶賊を相手に護衛兵達が稼いでくれた時間だ。それを無駄にはできない。

 追ってくる足音が近くなってきている。
 自らを奮いたたせるため、彼女は腕の中の少年へ声をかけた。

「ゼフィール様。私が必ずお逃がしいたします」
「うん」

 短い言葉が返ってくる。
 移動中の馬車が襲われた時、侍女はゼフィールを抱え逃げだした。七歳の彼の足は決して早くない。逃げきれぬだろうと思ったからだ。その事を本人も理解しているようで、腕の中で大人しくしてくれている。
 ひたすらに足を前へ出し続けながら、彼女は少年を抱く腕に力を込めなおした。

 大陸北方に位置する風の国|《シレジア》。
 この国は近年ある問題に頭を悩ませている。それは、王家に続く不幸と刺客。
 発端は、昨年、原因も分からぬまま王配(女王の夫)が崩御した事だった。それだけで終われば良かったのだが、最近では女王も原因不明の病で倒れ体調がすぐれない。その上、あからさまに彼女の命を狙う刺客が現れ始めた。

 このままでは王子にまで魔の手が伸びるかもしれぬということで、王城から逃がそうとした途端にこの事態だ。女王の子はゼフィールしかいない。なんとしても守り抜かねばならなかった。

 目の前が崖になっていたので、侍女は足を緩める。少し覗きこんでみたが、高さがあり、飛び下りるわけにもいかない。
 左手には川。前に道はなく、逃げるのならば右に行くより他無い。
 右に進もうとして、しかし、侍女はそれ以上足を踏み出せなかった。

「ここまでのようだな」

 追手に追いつかれていた。
 侍女に逃げ道が無いと見ると、灰髪灰瞳の男は悠然と彼女の方へ歩いてくる。

 ゼフィールも侍女も髪と瞳が青い。それが生粋の《シレジア》人であることの特徴だ。それに対して、この男のソレは青ではない。彼と共に襲ってきた者達も青ではなかった。

 侍女はゼフィールを降ろすと、しゃがみ、彼に顔を近付け囁く。

「ゼフィール様。私が時間を稼ぎます。その間にお逃げください」
「でも――」
「迷っている暇はありません。さぁ、お行き下さい!」

 少年の背を押し逃走を促した。ゼフィールを男が追おうとするが、侍女はその前に立ちはだかる。

「邪魔だ!」

 男が剣を抜き斬りかかってきた。侍女はなんとか身をよじって致命傷は避けたものの、腹部に負った傷は浅くない。魔法で傷を癒したいが、男はその暇を与えてくれない。
 刃が振るわれるたびに傷は増え、流れる血が服を青く染めた。

「あーあ。勿体ねぇな。《シレジア》人の青い血って、アレだろ? 飲めばどんな難病も治せるんだろ? あんた一人売るだけでも稼げそうなのによ」 

 刃についた血を男は舐める。そして、すぐに唾を吐き出した。

「不味いな。まぁ、そろそろ終わらせようか? いつまでも邪魔されても困るからな!」
「!」

 男が突き出した剣はこれまでよりも鋭い。既に傷だらけの身体でそれを避けられるはずもなく、刃が易々と侍女の肩口に食い込んだ。

 時間稼ぎもそろそろ限界、そう思って、侍女はゼフィールを逃がした方を見たが、彼の姿はどこにもない。安堵のため息をつき、侍女はその場に崩れ落ちた。
 舌打ちをしながら男が走り去って行く。

 男がいなくなって少し経った頃、近くの藪《やぶ》がガサガサと音を鳴らした。そこから出てきたのはゼフィールで、真っすぐに侍女のもとへやって来ると傷口に手をかざす。流れ込んでくるのは治癒の魔力だ。
 そんな彼に侍女は小声で叫んだ。

「何をなさっているのです!? 早くお逃げください!」

 今にも泣き出しそうなゼフィールは首を横に振るばかりで治療を止めない。
 ここで男が戻ってきてしまったら最悪の展開だ。せめてどこかへ隠れようと侍女が起き上がろうとした時、地面に陰が落ちた。そして、頭上から嫌な声が降ってくる。

「見ぃーつけたー」

 声の方へ顔を上げると同時に腹部を蹴られた。
 ゴロゴロと転がりながら揺れる視界の中で、男がゼフィールを捕まえ下品な笑いを浮かべる。

「彼女を心配する必要はありません。あなたの方が先に死ぬのですから」

 男の剣が大きく振りかぶられた。

「――!」

 声にならぬ叫びをあげながら侍女はゼフィールに向かって走った。足を踏み出すたびに傷口が疼《うず》き、激痛が意識をさいなむが、それを無視して男の手から王子をもぎ取る。
 少年に振るわれるはずだった刃が侍女の背を切り裂いた。だが、今さら気にすることでもない。ゼフィールを奪った勢いのまま侍女は走り続け、崖から滝つぼへと身を躍らせた。

 眼下には広い森が広がっている。その中を細い街道が通っており、木々の切れ間から馬車が見えた。
 その馬車の乗客であろう者達の姿も。

 青髪ではない者達だ。
 だが、侍女達を襲ってきた者達とは違うように見える。不安は募るが、ゼフィールを託せるのは彼らしかいない。

(お願い。気付いて。どうか、どうか――!)

 盛大な水柱を上げ、二人は滝つぼへと落下した。



 滝つぼの淵へとなんとか泳ぎ切り、ゼフィールを岸に上げると、侍女は盛大に咳こんだ。痛みは限界を超え、もはや感じられないが、流れ過ぎた血のせいで意識が飛びそうになる。
 朦朧《もうろう》とする意識の中、侍女はゼフィールへと手を伸ばした。

(神よ、奇跡を。ゼフィール様に外の世界でも生きられる力を――)

 持てる魔力の全てを捧げ神へと祈る。身体から、血と共に魔力が流れ出て行くのが感じられた。段々と目もかすれてゆく。それでも、目の前で眠る王子の変化は見ることができた。

 ゼフィールの青い髪がみるみる銀へと移り変わっていく。
 得られた奇跡に満足して侍女は微笑んだ。

 表では禁止されている《シレジア》人狩りだが、裏ではその需要は高い。狩られてしまう危険性の高さから、《シレジア》の民が国外へ出ることが無いほどに。

 それでも、ゼフィールを託すのは外の世界だ。彼にはどうにかして生き延びてもらわねばならない。

 人々は見た目から《シレジア》人であると判断する。
 ならば、青さえ隠せれば、外界で狙われる可能性はグンと下がるだろう。今は髪色しか確認できないが、瞳の色も変わっていれば尚良い。

「――……?」

 滝つぼを囲む森の中から微かな声が聞こえた。はっきりとは聞き取れないが、無邪気な子供の声に聞こえる。
 最後の最後に願いを聞き届けてくれた神に感謝しつつ、侍女の身体は滝つぼの底へと沈んでいった。


 ◆

 ゴトゴトという音と揺れにゼフィールは目を覚ました。

(馬車、かな?)

 視界に飛び込んできた光景と、音と、揺れからそう判断する。ゴロリと転がってみると見知らぬ三人がすぐ近くに座っていた。恰幅のいい女性と、ゼフィールと同じ年頃の子供が二人。
 自分の置かれている状況が分からず、ゼフィールは緑に変わった目をパチクリとさせた。

 状況は分からないが、人前で寝転がっていると行儀が悪いと説教が飛んでくる。侍女に叱られないように、重い身体をなんとか起こした。
 その物音でゼフィールが起きた事に気付いたのか、女性が振り向いて話しかけてくる。 

「目が覚めたね。その様子だと怪我も無さそうだ。この子達が坊やを滝つぼから拾ってきたんだけど、崖の上から落ちたのかい?」

 女性が黒瞳黒髪の少年と少女の頭を撫でる。子供達はえへへと笑った。

(いいなぁ。僕もお母様に撫でられたい)

 嬉しそうな二人を見てゼフィールはそんなことを思い、今考えることはそれじゃない、と、頭を振った。改めて女性に尋ねられたことを考える。

「……ぁ――」

 思わず頭を両手で抱えうずくまった。崖という言葉で先程の惨事を思い出してしまい、ガクガクと震えが止まらない。

「ねぇねぇ、どうしたの? 寒いの?」

 心配そうに少女がゼフィールの頭を撫でてくれる。
 小さな手だ。けれど、その手から伝わる優しさに少しだけ心が暖かくなる。

 震えを止めようと自らの身体を抱きながら深呼吸した。ゆっくりとだが気持ちが落ち着いてくる。
 ようやく震えが治まると、ゼフィールは女性達へ丁寧に頭を下げた。

「取り乱して申し訳ありませんでした」
「まぁ、いいってことさ。家はどこだい? 近くまで送ってあげるよ」
「家……」

 女性の言葉にゼフィールは表情を曇らせた。

(戻ったらまたこんな目にあうのかな? それなら嫌《や》だな)

 それが偽らざる本音だ。王城だけではなく、避難先の離宮でさえ危険に思えてならない。
 どこか他の場所に行けないのかと侍女に尋ねかけ、傍らに彼女がいないことに気付いた。周囲を見回してみたが見当たらない。

「あの、侍女を知りませんか? 僕と共にいたと思うのですが」
「侍女? あんた達、滝つぼに他に誰かいたかい?」

 その問いに少年と少女が互いに顔を見合わせた。二人は何かを考え込むようにしばらく天井を見ていたが、見てない、と、首を横に振る。

「だ、そうだよ?」
「そうですか」

 ゼフィールは服の裾を掴み拳を強く握った。
 不安で誰かにすがりたいのに周りには誰もいない。
 女性に再度家のことを尋ねられた時は、なんとか声を絞り出した。

「僕は家に帰りたくありません」
「何言ってるんだい? 親御さんが心配するだろう」
「母も僕も命を狙われて。母は僕を逃がしてくれたんです。でも途中で、連れもいなくなってしまって――」

 数人から剣を突き付けられながらも戦い続ける護衛兵達。ボロボロになりながら、最後までゼフィールを守ってくれた侍女。彼らの姿がまざまざと瞼に浮かぶ。
 怖かった。
 あの光景をまた見るのも、自分が死ぬのも怖かった。思い出しただけで目から涙があふれる。拭っても拭っても止まらない。

「侍女がいたって言うしねぇ。あんたの服やアクセサリー凄く高そうだし、どこかのお貴族様なんだろう? ってことは、お家問題ってやつかい? こんなに小さいのに可哀想なもんだね」

 やれやれと女性がため息をついた。彼女は泣き続けるゼフィールを憐れみの目で見つつ、少しだけ黙る。しばらくすると、それまでより優しい声音で問いかけてきた。

「ねぇ、坊や。坊やが望むなら、ここで匿《かくま》ってもいいんだよ? あたし達は旅暮らしだから居場所なんて特定されないし。この双子だって拾った子だ。なぁに、世の中色々あるものさ」
「団長、この子もいっしょに行くの?」
「それならあたしたちと同じね」

 少年と少女が女性に笑いかける。団長と呼ばれた女性は苦笑いを浮かべながら二人の額をつついた。

「まだ分かりゃしないよ。決めるのはこの子だからね。さぁ、どうする?」

 ゼフィールが拾われた馬車は小さな商隊の一行だった。
 街から街に品物を運び、そのついでに、ちょっとした出し物をして人々に娯楽を提供する。そういうことを生業としている。

 団長の言葉にゼフィールは目を丸くして、そして――頷いた。

 血が流れることが怖くてゼフィールは逃げた。
 差し伸べられた優しい手にすがってしまった。

「もう家には戻れないかもしれないし、贅沢もできないけど、構いやしないね?」

 ゼフィールは頷いた。今度は先程よりしっかりと。
 この逃亡は、命をかけてくれた者達への裏切りになるのではないのかという思いが胸をよぎる。けれど、あの血生臭い世界には耐えられなかった。
 善良な民、大好きな母、愛する大地と別れなければならぬのだと思うと胸が痛い。様々な想いがごちゃ混ぜになって涙を流させる。

「これからよろしくね?」

 少女がまた頭を撫でたが、ゼフィールの涙は止まることなく流れ続けた。
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