あなたに至る罰ゲーム

蛇苺 史潔

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あなたに至る罰ゲーム

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 俺って、何ゴミだろう。
 独りが染みるアパートにて。冷えたフローリングに座り込みながら、一色千歳はそんなことを考えていた。
 火葬場で骨にされるのだから、燃えるゴミだろうか。しかし、特にスポーツをやるでもないくせにやたら上背のあるこの身体が市販のゴミ袋に入るかと問われれば、明らかに否だ。ならば粗大ゴミだろうか。指定のシールを貼り、行政が定めた粗大ゴミ置き場に座っていれば、ゴミ収集車のおっさんが嫌々引き取ってくれるのか。いや、生きているのなら保健所かもしれない。自分の足で出向き、処分してくださいと言えばいいのか。
「そんなわけねえ……」
 先刻の絶叫で痛めたらしい喉は、声を出せばチクチクと痛む生まれてからに熱っぽい。立ち上がれば目眩がし、タチの悪い風邪でもひいた気分だ。
 墓地から出てきた死体か夢遊病者のようにズルズルと足を引きずれば、先程暴れ回って自分でぶちまけた本やら目覚まし時計やらがまとわり付くように邪魔をし、憂鬱さを一層煽る。
 キッチンまで辿り着き、よく研がれた包丁を手に取った。いつだったか、名のある職人の逸品だとか自慢されたその包丁。料理といえば卵かけご飯が限界の自分には、ついぞその価値がわからなかったが、なるほど、確かに思春期を拗らせた男子学生並みに鋭く尖った刃先は、触れるもの全てを傷つけてやるという気概を感じさせる。
 仕方がない。
 だって、どこにもないのだ、合法的に人間を棄てる場所など。だからこれは仕方がないことだ。
 包丁も、オレはこんなことのために生まれたんじゃないとか雄叫びをあげていそうだが、無機物に生まれた時点で負け組だし、自分ごときの手元にあるということは、きっと前世で大罪を犯した悪人に違いない。罰だと諦め、来世に期待してほしい。
 刃先を喉に向け、柄を握る手に力を込める。
 細い柄だ。きっと小さな手にはちょうどよかったらしいそれは、千歳には心許なく思えるほどに細くて頼りなくて。
 誰かさんの腕に、よく似ている。
 愛おしさで胸が苦しくなり、零れ落ちるように吐息が漏れる。瞬間、足元に落ちている灰色の猫のぬいぐるみと目が合う。
 不細工な猫だ。ひん曲がった口に、ふてぶてしい目付き。これを制作したやつは、性格が悪いに違いない。
 最低な人生の、最悪な最期。
 それを彩るならば、この不細工な猫はおあつらえ向きなんだろうが、ムカつくものはムカつく。
 脚を伸ばして蹴ろうとし、また目眩。
 そのままバランスを崩して横転し、強か、キッチンの縁で頭をぶつけた。
 最後に見たのは不細工な猫の尻で、しかも金玉が付いていて。
 製作者は性格が悪い、絶対だ。
 そこで意識が途切れた。

 ピンポーンピンポーン、ピンポンピンポンピンピンピン、ピンポーン……。
 激しいチャイムにうっすらと目を開ければ、頭がカチ割れたのかと思うほどの激痛。視界に広がるのは、相変わらずの金玉。
 ここが地獄かと呻く間もチャイムは鳴り続け、目の前の光景と相まって、チンポーンとすら聞こえてきた。
 チンポーン、チンポーン、チンチンチンポーン……。
「うるっせえ……」
 弱々しく打った舌打ちすらも掻き消すチンポ、いや、ピンポンを止めるため、いささか乱暴にドアを開ける。
「っんですか」
「来ちゃった」
 語尾に音符マークでも付いていそうなご機嫌な声の主に、束の間、頭痛も呼吸も忘れて呆然とする。
「……す、鈴?」
 千歳の胸元ほどしかない小柄な身体に、濡れた鴉の羽のような艶やかな長い黒髪。
 日本人形を思わせる可憐な容貌の彼女は浅葱鈴といい、千歳の大学時代からの友人である。昔から唐突に尋ねてくることはあったが、なんというタイミング。
 泥色のような人生だったが、幕引きは鮮やかにしてやろうとの神様の配慮だろうか。いや、絶対に裏があるに決まっている。神様は清く正しく美しいことよりも、残酷なことが大好きなサイコパスだ。なんだ、壺か、壺を買わされるのか。いいだろう、買ってやる。生命保険の受け取り人も鈴にしてやる。
 我ながら馬鹿らしいが、初めて会ったときからずっと、彼女に恋をしている。
「おやまあ、どうしたの、それ」
「なんだよ」
「ハロウィンは過ぎたのに、フランケンシュタインの仮装? それともこめかみに穴を開けて紐を通して、一夜干しにでもなる予定?」
 意味がわからない。が、鈴が指差す部位に指を這わせれば、ぬるりとした感触。どうやら出血しているようだ。
「こ、これは、マヨネーズだ」
「せめてケチャップにしようよ」
「間違えた、サルサソースだ」
「メキシカンなフランケンシュタインだね。ねえ、タコスパーティのこともタコパって言うのかな」
 何一つ意味をなさない会話のような言葉の投げ合いをしながら、彼女に腕を掴まれ、部屋へ戻る。風に流される鯉のぼりのようにされるがまま、ソファへと座らされた。
「なるほど。最初のミッションは、救急箱を救出せよ、だね」
 真冬の夜のように澄んだ大きな瞳をさらに丸くさせ、彼女は言う。
 おっしゃる通り。
 目に付くもの全てを床に叩き落としたせいで、部屋は大型台風が通過した後の市街地並みにめちゃくちゃだ。一人暮らしの二十代独身男性の部屋だからさ、などという、言い訳のようで単なる自己紹介に過ぎないフレーズも、一笑されて終わるほどの惨憺たる光景。
 鈴は果実のように瑞々しい唇からため息を吐くと、クリオネのようなロングワンピースのポケットから取り出したハンカチを水道で濡らし、二人がけソファの隣に腰を下ろした。鈴の体重分だけ軽く沈んだソファに妙に緊張し、身体がこわばる。
 染みるのを恐れたためと勘違いしたらしい鈴が、大丈夫だよと小さく笑い、濡れたハンカチをこめかみに当ててくる。幼い恋人同士の初めての口付けみたいにふんわりした感触に、鼓動がさらに速まる。
「痛い?」
「やわらかい」
「ふふ、お高いハンカチ様ですからな」
 そう小さく笑う可愛らしい彼女。目を瞑っても容易に思い出せる小ぶりな唇が、普段は冷や汗しか伝わないこめかみに触れる様を想像するだけで白米が進みそうだ。これが本当のオカズである。先程まで死のうとしていたくせに、今だって死のうと思っているくせに、男の本能とはいつだってその理性を裏切るものだ。くだらない。男とは、なんと情けなくも悲しい生き物か。
「しっかりするのだ、傷は浅いぞ」
「俺はもうだめだ、先に行け」
「何を言う、そなたをおいてはどこにも行けぬ」
「す、鈴殿……」
 くだらない三文芝居をしながらも、彼女はテキパキと手当をしていく。と言っても、やはりポケットから出した絆創膏を貼っただけだが。それでも長方形のそれを貼られただけで、気分は彼女に従うキョンシーだ。何なりとご命令を。今まさに死体になろうとしている身としては、これ以上の渡に船もない。
「うむ、良い出来じゃ。絆創膏の位置に貼り具合、完璧じゃ。我ながら惚れ惚れする出来栄えじゃわい」
「惚れ惚れするのは拙者の容姿にでござろうか」
「ぬぬっ、このうつけものが! 気怠げながらもどこか艶のある薄幸の美青年になってから出直してくるがよい!」
「ははー!」
 と、頭を垂れ、氷付く。冷や水どころか北極の海に放り込まれたように全身が凍え、心臓が止まった。そのまま、瀕死のアザラシの如き弱々しい声を漏らす。
「結婚、してんの」
 視線の先には彼女の華奢な左手。その薬指を締め付けているのは、まごうことなき結婚指輪で。
「……千歳?」
 耳をくすぐる彼女の声は、なぜだか酷く戸惑っているようだった。思わず目を上げれば、子鹿のように怯えた瞳と視線が絡む。
 瞬間、足元がゼリーになってしまったかのような感覚に襲われる。
 ゆらゆらぷるぷる。
 だだっ広いゼリーの上には自分だけで、下を見ればどこまでも続く透き通った緑。青リンゴが香る孤独な世界だ。
 いつ滑るかわからない不安。いつゼリーが崩れてそのまま沈むかわからない恐怖。
 思わずソファの肘掛けに置いた手に力を込める。
 と、コーヒーゼリーよりもさらに透き通った黒い鈴の瞳が、にっと猫のように細くなった。
「してるよ、結婚」
 ぶるり。
 ゼリーが揺れ、表面がたぷんたぷんとたゆたう。
「結婚式、呼ばれてないけど」
「しなかった。向こうがしたくないって」
 ぶち。
 緑の潤んだ地表に、亀裂が走る。
「自分の好き嫌いで女の晴れ舞台を潰すとか、勝手な男だな」
 結婚式は大金払って自慰行為を周りの人間にお披露目する、変態視姦パーティ。なんて普段思っているくせに、抜け抜けとそんなことを言ってやる。
「おまけに生活能力皆無で、もう新婚生活っていうより飼育生活なの」
「人間のなり損ないがペットとか、どんな罰ゲームだよ」
 ぶぢゅ。
 ゼリーに片足が飲み込まれた。そのままぢゅるぢゅると沈み込んでいく。ゼリーの中で死ぬとしたら、それは溺死か圧迫死か。
「だからね、逃げてきちゃった」
 ジャーンと明るく鈴が見せてきたのは、小ぶりな赤いスーツケース。
 ぽかんと間抜け面を晒す千歳に向かって鈴が蕩けるような笑みを浮かべた。
「しばらくここに置いてよ、千歳」
「……は」
 ばくりと一口で足元のゼリーを飲み込んだ鈴に、呆れかも安堵かもわからない吐息が小さく漏れた。

 鈴と初めて会ったのは、大学一回生の時分。当時千歳は学生寮に住んでおり、浅葱都という男と同室だった。
 都はぬらぬらしたウナギのように掴みどころのない男で、口の悪さが仇となり、何かと他者と揉めがちな千歳の隣に、平然と居続けた。包むことも跳ねることもせず、何を考えているわからない笑みを浮かべて。
 容姿が整っているだけに、その笑みは薄気味悪くすらあったが、なぜか男のそばは居心地が良かった。ウマが合うというやつなのだろう。
 ある日、都にオシャレな喫茶店に連れ行かれ、「これ、双子の妹」と、三分クッキング並みのお手軽さで、鈴を紹介された。
 それが、始まり。千歳にとっては。
 一目で好きだと思った。三流ドラマの当て馬のようなことを言うと、運命だと思った。
 それから鈴の働いている喫茶店に通ってみたり、同じ講義を受講してみたり、偶然を装って待ち伏せしてみたり。今思えば完全なるストーカーだ。しかも兄公認の。 
 しかし、それだけだ。
 浅葱家の両親は早くに他界しており、二人は親戚の家をたらい回しにされた挙句、施設に預けられたそうだ。大学入学と同時に施設を出て、二人とも学生寮暮らし。成績優秀だったために奨学金を受けてはいたが、それでも自分で自分を養わねばならぬ毎日。
 バイト、学校、バイト、学校。
 鈴の人生に、千歳が入り込む隙間など、ありはしなかった。
 好きでいるだけで満足、なんて聖人君子か、あるいは枯れ切った人間のようなことは言えない。
 手を繋ぎたいと思ったが、彼女の手はいつも荒れていて、自分の骨ばった手で掴むよりはハンドクリームが必要だと思い、プレゼントした。
 口付けたいと思った。辛いときには辛いと素直に言葉にするタイプだったので、唇を奪うよりも愚痴を受け止めてやりたくて、ひたすら彼女の話を聞き入った。
 触りたい。けれど彼女はあまりに華奢で、自分が力一杯抱きしめても壊れないように肉を付けてやらなければと、下心あり気の使命感に駆られ、一緒に食事に行った。
 認めよう。空回りしている。チェーンの外れた自転車をひたすら漕いでいるようなものだ。
 そうして片想いを続けて早幾年。
 彼女に恋をしてこその自分である、むしろ彼女に恋をしていない自分が思い出せない、と頭を抱えるほどに常態化した片想いのその相手が、押しかけ女房よろしく、荒れに荒れた部屋を掃除している。象と相撲でもとったの、なんてため息を吐きながら。
 夢か。
「ねえ」
「っ痛」
「おサボりさんは目障りなのでお使いに行ってくださいな」
 夢うつつに彼女を眺めていたら、手の甲をつねられた。しかも爪で。図らずも夢ではないと知るが、暴言が心を蝕んだのでやはり夢だと思い込みたくなる。
 が、小さな紙切れを渡され、出口に向かって背中を押されたため、しぶしぶ現実に向き合う。
「何これ」
「お使いメモ。買ってきて」
「いや、片付け手伝うよ」
「違うよね、あなたが手伝うのではなく、私があなたの手伝いをしているの」
「……左様でございます」
「居なくて手伝えないならムカつくだけだけど、居るのに何もしないと殺意が芽生えるから、目の前から消えて」
 悪夢か。
 好きな子に消えろと言われ、しかし一語一句正論なため言い返せない。いや、たとえ理不尽なことを言われても甘んじて享受するが。
 仕方なく、買い物へ向かう。
 やや肌寒い空気に混じるは金木犀の香り。鈴が愛用している練り香水と同じ香りだ。秋は美味しい食べ物がいっぱいで嬉しいから一番好きなのだと笑う、食いしん坊の彼女の言い分がたまらなく好きだ。
 鼻から肺いっぱいに彼女の香りを吸い込み、ゆっくりと吐き出しながら空を見上げる。
 橙色の空は、みかん味だろうか、にんじん味だろうか。どちらでも美味しいと彼女が笑ったのは、いつの記憶か。いや、もしかしたら妄想かもしれない。だって、パンパンのスーパーの袋を二人で片方ずつ持っている、友達というよりは恋人のような絵面が脳裏に浮かぶ。
 片想い歴が長くて変に拗らせている自覚はあるが、とうとう妄想を記憶と誤認するとは、痛いを通り越して哀しい。
 正気を保つように手の中のメモを握り直す。そういえばこうして外を歩くのは久々だ。自分が終われば世界も終わる気がしていたが、やはり自分とは関係なしに世界は回るのだ。自分がちっぽけな自覚はあったが、想像よりもチンケな生き物らしい。
 チンケな生き物の、価値のない一生。
 世界からすればなんてことない千歳の命。
 終わらせたとして、千歳一人がいなくなる、ただそれだけのこと。けれど自分にとってそれはこの世の中の全て、なんて。
 馬鹿みたいな話だ。
 ならば、なぜ生まれたのか、なんて。答えは分かりきっている。
 意味なんてない。
 無意味な自分という存在だが、それでも金木犀は良い香りで、それがなんだかおかしかった。

「おお……っ」
 スーパーで買い物を終えて部屋に戻った千歳を待っていたのは、綺麗に片付いた部屋と温かな夕ご飯。もはや感動すら覚え、その桜貝のようなつま先に口付けたい衝動に駆られる。
「冷蔵庫空っぽだったから、こんなものしか作れなかったの」
「いやいやいや、むしろよく作れたな。魔法か錬金術使った?」
「いや、悪魔を召喚して、お腹すいたのでご飯くださいって頼んだの。二の腕の贅肉を対価に」
「なるほど。……もう少し対価を払ってもよかったかもな」 
「極刑」
 極上の笑みが返ってきた。慌ててダイニングテーブルに付く。
「いい匂い。うちにトマトケチャップなんてあったのか。知らなかった」
「まず、トマトケチャップではありません、トマトソースです」
 ピシリと指摘しつつ、鈴は買ってきた食材を冷蔵庫につめていく。
「オリーブオイルでニンニクと玉ねぎ、ツナ缶を炒めて、そこにトマト缶とマッシュルーム、アンチョビを入れてグツグツ。出来たソースをパスタと絡めて完成。名付けて、供養パスタ」
「はて、供養とな。その心は」
「棚の奥にあった賞味期限ギリギリの缶詰たちと、ゾンビになりかけの玉ねぎ、ミイラに限りなく近いニンニクで作ったから」
 成仏してくださいと神妙な顔つきで手を合わせる鈴に「なるほど。座布団没収」と言えば、じとりと睨まれる。
「あなたに問いたい。あのディストピアのようなキッチンで、どのようにして生き延びたのか」
「……聞くかい? 長い話になるぜ」
「外食や出来合いの惣菜で済ませていたのでもなければ、色っぽい相手に満たしてもらっていたわけでもないことは、もうわかっているからね」
「なんでだよ。もしかしたらオシャレな喫茶店でデカ盛りモーニングを愛人Aと食べ、昼は愛人Bのちょっと下手な弁当をつつき、夜は愛人Cの呪文みたいな横文字料理で生活してたかもしれないだろ」
「あのね」
 目の前にパルメザンチーズとタバスコを置いた鈴に、強い力で顎を掴まれる。
「この痩せ方は、食べてない人だよ」
 ちりりと痛み。爪が刺さっているらしい。いつもより強い語気に、こちらを真っ直ぐ見据える真摯な瞳。もしかして怒っているのだろうか。むず痒いような、いたたまれないような気持ちに襲われ、しぶしぶ白状する。
「食欲があんまりなかったんだよ。仕事でトラブルがあってゴチャゴチャしてた」
「それは、解決したの?」
「難しいな。けど、解決策は見つけた」
「なら、よかった」
 手が離れ、氷点下の空気を宿した黒に暖かさがもどる。
 促されるままフォークを手に取り、くるくる絡めて口に放り込めば、ニンニクの香りが鼻を駆け抜けた。ツナがトマトの酸味を和らげ、さっぱりとしているのに、アンチョビのおかげか濃厚さも感じる。
 美味い。
 言葉に発することも忘れ、さらに頬張れば、途端に空腹を感じた。
 最後にまともな飯を食べたのはいつだったか。おかしな話しだが、食べたことで身体が空腹を思い出したようで、無我夢中で食べた。
 食べることは、生きることだと思う。
 ならば今パスタを貪る自分は、この上なく生きているのだ。どれほど死に近くとも。
 頭の隅で、みっともなく生にしがみつく自分を嘲笑う声がする。
 解決策? 笑わせるな。
 死ぬことの何が解決策か。
 この卑怯者、弱虫、クソ童貞!
 俺なんてオナホに突っ込んだまま、自分の精液で溺死すればいい!
「美味しくなかった?」
 不安げな声に顔をあげれば、こちらを見つめる鈴の幼い顔。
 可愛いと咄嗟に漏れそうになる本音を、グラスに注がれたカルキ臭い水道水で流し込む。
「美味いよ、永代供養レベルの味」
「ほんと? 今から八人くらい殺してくるぜ、みたいな顔してた」
「ちょっと骨抜きになってた」
「あらら、私に?」
「お前の料理に」
「やだ、愛してるって言われちゃった」
「耳にアンチョビ詰まってんのか?」
 頬に手を当てる彼女に白けた視線を向ければ、鈴がナイショ話をするように声をひそめる。
「料理はね、私の愛なの」
「ああ、料理は愛情ってこと?」
「それは、イマイチな料理をゴミ箱行きから救うための優しい嘘でしょ」
「お、おう……」
 いきなり毒を吐く鈴に、脳内ではクリオネの捕食シーンが再現される。そんなところもロックで愛おしいが。
「愛し、愛する行為そのものなの。料理を作る、作ってもらう、一緒に食べる。それって、共に生きるって気がしない? キスやセックスより愛を感じる。しかもね、この愛は目で見れて、匂いを嗅げて、食べれば美味しい! シンプルな幸せをくれるの」
 鈴の、この思考回路が好きだ。
 曖昧でロマンティックな雰囲気を醸し出しつつ、実は単純明快で即物的且つ俗物的。メルヘンなお城に招待され、中に入ると筋トレマシーンが所狭しと並び、燕尾服の老執事ではなく、タンクトップのガチムチマッチョがプロテインを出してくれる。そんな感じだが、我ながらわけのわからない例えだ。
「じゃあ、俺たちは今愛し合ってる最中ってことか」
「ドキドキしちゃうね!」
 けれど俺は物理的に愛し合いたい。鈴は『生』に貪欲だが、自分は『性』を渇望する哀れなゴミだ。
 と、そう言えば鈴は自分の分をまだ食べていない。用意すらしていない。それを指摘すれば恥ずかしそうに、「つまみ食いで満腹」と笑う。 
「愛は?」 
「作りながらつまむ料理って、どうかしてるくらいに美味しいの」
 ごめんなさいねと小首を傾げる様子が文鳥みたいに愛らしく、光の速さで許す。
 その後交代で風呂に入る。鈴が先で千歳が後だ。湯船に溜まったお湯を見て、鈴のエキスかと感慨深げに頷いたり、鈴のシャンプーの香りを肺いっぱいに吸い込み、自分でもちょっとどうかなと引いたが、仕方ない。恋は人を狂わせ、愛は全てを破滅へと導く。長すぎる片想いは人を壊す。風呂の湯を啜り、シャンプーを口に含まなかった辺り、自分は恋煩い戦士の中でも紳士であると断言する。
 風呂から出ると、鈴はキッチンで何やら料理をしていた。
 ほんのり上気した肌に、シャンプーの甘ったるい香り。化粧っ気のないその顔はいつもより一層幼く、オシャレでも何でもない普通のピンクのパジャマが無防備さを際立たせる。「据え膳食わぬは男の恥」などと言う、男にとってはこれ以上ないほど都合の良いセリフが頭の中を占領しそうになるが、何もせぬままふいっと目を逸らす。
 そんな気になれない、なんて、こちらに主導権や選択肢があるような言い分。だが、そうとしか言いようがない。
 性行為の延長線には生命の誕生があって、自らの死を選択した人間に、そんなものへの執着があるわけがない。
 結果ここにあるのは、単に彼女への思慕を募らせた肉の塊。
 ただ、好きで堪らないだけ。それだけだ。
 もしかしたら死を覚悟したとき人間は、最も単純で純粋になれるのかもしれない。
 今更、と思うけれど。
「はい、生命の水」
「ひょっ!」
 首筋に冷たいグラスを当てられ、奇声を上げて小さく跳ねる。鈴は笑うでもなくダイニングテーブルに座り、首をゴキゴキと鳴らす。枝をへし折るような豪気な音に、こいつの身体は壊れた楽器なのかと内心ツッコミつつ、グラスに唇を押し付ける。
「レモネードかよ」
「お酒はお預け。もう少し生き物っぽくなったらね」 
 じゃあ今は死骸にでも見えるのだろうか。
「明日は仕事でしょう?」
「そう。久々にな」
「久々?」
「体調崩してしばらく休んでたんだよ」
「ふうん」
 物言いたげな視線から顔を背ける。嘘はついていない。不器用故の言葉足らずなだけだ。
「しかしながらこのレモネードのうまさときたら」
 我ながら酷い話題逸らしである。唇をへの字に曲げた鈴はしばらく胡乱な瞳でこちらを見据えていたが、諦めたのか呆れたのか飽きたのか、ニカっと歯を剥き出した。
「でしょう。スーパーで買ってきてもらってすぐにレモンをスライスして蜂蜜に漬けたの。しばらくすると蜂蜜がサラサラになるから、それを炭酸水で割って、最後にミントを添えて完成。名付けて、調教済みレモネード」
「その心は」
「蜂蜜が完全にレモンに染まってるから」
「なるほど。座布団没収」
 言いながら、もう一口あおる。なるほど、確かに蜂蜜の香りが鼻先をくすぐり、爽やかな中に忍んだその甘い匂いがくせになる。  
「もう少し寒くなったら生姜とかシナモンとか入れてホットレモネードにしてもいいね」
「良さげだけど、冷たい炭酸が喉でじゅわじゅわすんの、クセになる。喉で弱めの爆竹鳴らされた感じ」
「線香花火とかスターマインて言ってくれたら五秒くらい恋してたのに」
「蝉の命より短い恋で何が出来るんだよ」
 鶴とか亀の寿命くらい恋してよ、などと言えるはずもなく。むしろ今の自分にはちょうどいい短さ、なんて思いながら空になったグラスを置く。
「ごちそうさま」
「ね、ゲームしようよ」
 始まった。
 学生時代から鈴はこうして突拍子もなく勝負を仕掛けてくる。お前はRPGに出てくる雑魚モンスターか。
 しかし経験上、言い出したら聞かないことも知っている。諦めて、「何やんの」と問えば、返ってきたのはご褒美みたいな抜群の笑み。
「どちらが美味しいものが言えるかゲーム!」
 これも、幾度となくしてきた。ひたすら交互に美味い食べ物をシチュエーション付きで言い続けるだけの謎のゲーム。いや、ゲームですらないか。
「よし。俺からな。『風呂上がりのビール』」
「ぬぬ。さてはお主、アルコール禁止されたことを根に持っておるな。『寒い日に好きな人と半分こする肉まん』」
「んだそれ、したことあんのかよ。肉まんすら半分こしないといけない甲斐性なしと恋人になるなら、ヒトリでまん丸肉まん頬張った方が幸せだね」 
「あまい。それぞれ味の違う肉まんを半分こし合うの。これぞ一挙両得、両手に花」
「花より団子って言葉を考えたのってお前の親戚? 『おかずをワンバウンドさせた後の白ご飯』」
「うっ、なかなかやるな。腹が空いてきたわい……。『B級映画を観ながら食べるポップコーン』!」
 ふと、脳裏に浮かぶワンシーン。
 クジラの潮吹き並みの派手な血飛沫をあげながら、作り物感満載のエイリアンに殺されていく陽気なデブの映像。塩とキャラメルが半々になったでかいバケツを抱える小さな手。暗がりの中、それでも時折視線を交わし、声もなく互いに吹き出す。映画より、食いしん坊の彼女がポップコーンを頬張る様がリスのように愛らしくて。
「……いいな、それ」
 つい、ポツリと呟く。
 瞬間、リアル過ぎる妄想に、おいおいおいと頭を抱える。片想いを拗らせすぎて、もはや病気と言うよりも何らかの能力に目覚めたのでは。
 と、目の前で彼女が小さく手を叩く。
「はい、私の勝ちね、千歳」
「……ごちそうさまでした」
 負けを認めたわけではないが、もう色々、特に自分自身が面倒になり、不承不承手を合わせる。このゲームでは、敗者は最後に「参りました」ではなく「ごちそうさまでした」と言わねばならないのだ。
「では、罰ゲームね」
 そして敗者は勝者の命令を一つだけきかなければならない。
「何なりと」
「うーん……」
 しばらく眉間に皺を寄せて唸っていた鈴は、「夢の中で決める」と言いつつ立ち上がり、伸びをする。
「使ってない部屋があったから、その部屋借りるね」
「布団なら、確か来客用のが……」
「もう敷いた」
「そ、そうか……」
 マイペースな上に、適応能力の高いやつだ。まるで野良猫のよう。可愛いなくそ。
 そのまま鈴は、「グッナイナイ」と謎の挨拶をして部屋を出て行った。途端に静かになった部屋が居心地悪く感じられ、自分も寝支度を済ませてベッドに入る。
 デカい緋鯉を並べたようなサイズ感のベッドはまさかのクイーンサイズ。確かに千歳は長身だが、米俵のように丸々しているわけでもないのだから、こんなデカい必要性がない。事実、横にズレればポッカリと寂しげな空間が出来上がる。なぜこれを選んだのか。確か、一国一城の主人にはまだまだ程遠いから、せめて夢の中でくらい主人公になりたかった。だから寝具は高くとも質の良いものにしたのだ。
 待て、と寝返りを打ち、天井を見上げる。
 なんだその思考回路。似合もしないしサイズも合わない服をお下がりしてもらったような違和感。けれど不思議と不快感はなく、少しの気恥ずかしさが胸をくすぐった。
 また寝返りを打ち、鈴が寝ている部屋の壁を眺める。
 好きな人と同じ屋根の下。それでも変わらず頭は霞がかったようにぼんやりして、平坦なトロッコ列車に乗っているように感情の起伏もない。人生とはどうやらつまらないらしいと知ってからずっとそうで、それでも鈴が関係すれば、ジェットコースターのように心が揺さぶられたのに。
 自分にだけ重力が余分にかかっているのではと疑うほどの倦怠感。こんなに圧迫されたら、クイーンサイズのベッドに沈みに沈んでからスプリングの反動で身体が跳ね上げ、天井も屋根も突き抜けて宇宙旅行を満喫してしまいそうだ。
 独りぼっちで。
 深く息を吐き、目を瞑る。
 どうせ今夜も眠れない。せめて、何も見たくないし、何も考えたくなかった。
 そんなこと、出来ないこともわかっているけれど。
 
 トントントンと、軽快なリズムで包丁がまな板の上を踊る音に、ふわりと鼻をくすぐる出汁の匂い。
 ふわふわふわと、雲の上でまどろんでいるようなおぼつかない感覚。何もかもが不確かで、自分が何かもわからない。
 ただ、この音と匂いが、たまらなく愛おしい。
 と、遠くで聞こえる、風鈴のように清らかな笑い声。
 寝坊助さんと、呼んでいる。
 可愛い可愛いあの子が。
 今日のお味噌汁は抜群に美味しいですよ、寝坊助さん、と。
 お前の料理はいつだって抜群に美味いよ。ほんとうはずっと、食べたかったんだ。なあ、ごめんな、俺……。
「困った人。ちっとも起きない」
 突然はっきりとした声が間近で聞こえ、海底から陸に打ち上がったように全てがクリアになる。
 夢か。妙にリアルというか独身男の切実な願望が如実に現れていて、なかなか痛い。
「起きてるときはおかしな顔で、寝ているときは変な顔ね、千歳は」
「……普通眠ってるときに囁くのは愛のセリフでは……」
 言いながら身を起こせば、ベッドに腰掛ける小さな可愛い生き物。
「あら、失敬」と、ちょっと目を丸くした彼女は、「よく眠れた?」と聞きながら立ち上がる。
「まあまあかな」
 もうすでに着替えたらしい彼女は、今日は真紅のロングワンピース。ひらひらと裾が翻る様は、まるでガラス鉢の中を泳ぐ金魚だ。ならばキッチンに向かう彼女を追う自分は金魚の糞だなと、鼻で笑いそうになる。
「さあ、たんとお食べ」
 出来た彼氏のようにダイニングテーブルの椅子を引いて、鈴が笑む。
 漂う味噌汁と炊き立てご飯の香りに、目眩がした。
 太宰治が「朝は意地悪」と表現したが、それはきっと、あえて可愛らしい言い方をしたのだろう。
 朝は残酷だ。
 起きた瞬間に死を願う。食べ物の匂いに吐き気がする。全世界の悪霊が取り憑いたみたいに身体が怠い。
 以前は、誰かに縋りついて甘えたかった。辛い助けて苦しいと、子供みたいに泣きじゃくりながら。けれど次第に何も感じなくなって、今はもう空っぽだ。中身のないマトリョーシカ状態。きっとジャンプすれば、カランと軽い音がする。空洞の器において一番不要な、命、とかいうものの軽い音。
「食欲ない?」
「……悪い」
 なかなか座ろうとしない態度で察したらしく、鈴が小首を傾げる。リスのような仕草がよけいに罪悪感を煽った。
「夢の中で食べすぎた? 主人公に相応しいご馳走かな」
「……うん」
 お前の味噌汁を食べたがる夢。
 なんて、言う資格すらない。
「なら、罰ゲーム」
 言うなり鈴は手を洗ってから塩を手のひらに揉み込み、軽くお茶碗のご飯を握った。そして缶の中から海苔を取り出し、さっと包む。
「はい。一口だけ食べて。一口しかダメだよ」
「一口だけでいいから、じゃなくて?」
「罰ゲームなのに、愛情むすびをたらふく食べさせてもらえると思ったら大間違いだよ」
「……だな」
 なんだか肩の力が抜け、自然と席についていた。手を合わせ、愛情むすびとかいう有難い名前のおにぎりを、一口だけ齧る。
「……あ、美味い」
 言葉が勝手に溢れた。それくらい美味かった。 
「昼ごはんも、夕ご飯も食べなくていいから、朝ごはんはきちんと食べようね。気持ちいいから」
「気持ちいい?」
「うん。いい気持ちになるよ」
 その言葉に誘われるように、さらに一口、今度は思い切り頬張る。 
 少し濃いめの塩加減に、絶妙な硬さの白米。鼻を通り抜ける磯の香り。何より、口に含んだ瞬間にほろりと崩れる抜群の握り具合。
 止まらなくて、貪るように食べる。
 と、不意にテーブル全体が視界に入った。
 豆腐と大根、三つ葉の味噌汁に、もはや芸術的な焦げ目のついたタラの西京焼き。まくらにしたら永眠できそうなほどふんわりとした厚焼き卵と、かつお節がたっぷり乗ったナスとオクラの煮浸し。
 地味なそれらは千歳の好物ばかりで、考えるより先に箸が伸びた。
 一口一口、噛み締める。驚くほど千歳の好み、いや、理想の味で、こんな美味いものがこの世にあったのかと驚く気持ちと、泣きたくなるほどの懐かしさ。
 初めてだ。食べながら、目頭が熱くなったのは。
 そのまま黙って完食し、手を合わせる。目の前にすっとほうじ茶が置かれ、ずずっと啜れば、やっと人心地がつく。
 いい気持ちだ。
 何も状況は変わっていない。今は朝で、外に出れば寒くて冷たい風やら世間の目に晒されて、怪獣に踏み潰されればいいのにとお百度参り並に願った会社もまだあって、お前が死なないなら俺が死ぬという結論に至った原因も元気いっぱいに生きていて。
 ただ、今空っぽなのは自分ではなく皿だという、それだけのこと。
 それが、地球の中心で煮えたぎるマグマが、溶けたチョコレートになったくらいの変化に感じた。
「一口だけしかダメって言ったのに、一口も残ってないじゃない」
「……ごちそうさまでした」
 消え入りそうな声に強い気持ちを込めて礼を言えば、鈴は笑った。アリスを惑わす、チェシャ猫の瞳のように。
「罰ゲームね」
「なんでだよ」
「一口以上食べちゃったから」
「鬼か悪魔かよ」
「約束に忠実なの」
 理不尽だ。自分のために用意された朝食を食べたら罰ゲームだなんて、新手の美人局か。お前相手なら罠と知ってても率先して引っ掛かりに行くがな。どうせ好きだよクソッタレ。
 ヤケクソな気持ちでほうじ茶をあおれば、目の前に小さな木箱。所謂、曲げわっぱの弁当箱だ。
「なんだこのぶざいくな猫」
 まず気になったのは、焦茶色の蓋に描かれた性悪そうな猫。昨日踏ん付けた猫のぬいぐるみにそっくり、いや、同じものだ。
「ブス猫シリーズのキャラクターでしょう。結構前から流行ってる」
「何だその地獄みたいな流行。世の中狂ってる。現代人、疲れすぎて頭がおかしくなってる」
「この子はね、人気ないの。おブスで口が悪くて不器用で、でも本当は優しい子なのに」
「いいブスか」
「名前はね、捻くれブスの『ネジレ』」
「人気も出ないわけだ」
 世の中の辛酸を舐め尽くしたような澱んだ瞳でこちらを睨め付けるその猫は、しかし不思議と親近感が湧く。部屋にぬいぐるみがあるからだろうか。買った覚えももらった覚えも、そもそもぬいぐるみを愛でる感性すらも持ち合わせていないけれど。
 それでも、この狂ったデザインに、近からず遠からず微妙な距離の親族に抱くような郷愁を感じてしまうのは、やはり自分も狂っているのだろうか。
 ところで。
「これ、お前のとこのやつが使ってる弁当箱? 同じの使うの嫌なんだが」
 意地でも「旦那」とは言いたくない。
 と、鈴が呆れたようにこちらを見る。やめろその表情。うっかり変な性癖に目覚めそうだ。
「ネジレは、千歳のマークって決めたでしょう?」
「初耳だ。誰が決めた?」
「私が」
 やれやれと肩をすくめながら、手際良く弁当箱を包んでいく鈴。鈴が決めたという点で、やや浮かれる自分。
 猫のデザインやコンセプトを鑑みるに、単純な悪口を言われるより悪質な意地悪だと気付いたのは、家を出てしばらく経ってからであった。

 部署に着くなり、行き交う視線の数々。同情や好奇に満ちたそれらは、そう広くはない部屋の中に張り巡らされた蜘蛛の巣のようだ。
 獲物を追い詰め、絡め取り、そして捕食する。
 宇宙空間に放り出されたみたいに息苦しくなり、思わず抱き抱えたのは弁当が入った小さなトートバッグ。ネジレのぬいぐるみストラップ付きだ。
 それをお守りがわりに、というより、盾にするように胸元に抱えて自分のデスクへ向かう。
 と、背後から香る、清涼感のある整髪料の匂い。一気に血の気が引き、動けなくなる。
「一色、久しぶりだな」
 不機嫌そうな低い声で肩を叩いてきたのは、上司の黒緋だ。
 千歳と同じくらい長身なこの男は趣味が筋トレだそうで、上品なスーツの下にはダビデ像の如き肉体を隠している。涼やかで整った顔立ちは、普通にしていれば清廉な武士のような印象を受けるが、常時刻まれた眉間の深い皺と真一文字に引結ばれた唇、漂う物騒な雰囲気のせいで、戦前夜の戦国武将にしか見えない。
 その上、見た目を裏切らない厳しい男で、部下からも同期からも、はたまた上司からすら怖がられるゴリラ武将だ。
 しかし、千歳がこの男を忌避しているのは、そんな理由ではない。
「黒緋部長、おはようございます」
「荷物置いたらちょっと会議室に来い」
 千歳の返事を待たず、壁のように広い背中が廊下へと消えた。
 一気に周りの視線が憐れみに染まるが、無視して自身のデスクへ荷物を置き、会議室へ向かう。
 この会社はフロア毎に部署がわかれており、各部署に専用の会議室がある。デスクのある部屋からやや離れた場所にある会議室は、この部署に至っては動物園の檻のようだ。中にいるのは腹を空かせた凶暴なゴリラで、物理的にも立場的にも格上。勝ち目などない。
 自分を亡くせ。
 いつも唱える魔法の言葉。
 頭の中で繰り返し、シャッターが下ろされた会議室のドアを開ける。シャッターって、おびただしい数のギロチンの山みたいだな、なんて思いながら。
「失礼します」
「遅せえ」
 入室するなり仁王立ちになっていた黒緋に腕を引かれ、長机に座らされる。鍵をかけた黒緋はやや視線が下になった千歳の全身を、それこそ舐め回すようにじっくりと見ていく。
「……痩せたか」
「わかりません」
「屍みたいな面しやがって」
 どんな面だよと突っ込みたいが、言った瞬間喉を捩じ切られそうだ。
「脱げ。上だけでいい」
 逆らうことなく、サッとジャケットを脱ぐ。逆らえば余計に酷い目に遭うと、これまでの経験から痛いほど理解している。
 無抵抗、そして無感情。
 この二つを徹底することが、何よりの自己防衛だ。濁流に散った一枚の枯葉の如く、ただひたすらに、身を任せて流されていればいい。
 しばらく、殺し方の算段を立てるヤクザのような恐ろしい目でこちらを睨んでいた黒緋だったが、今度はワイシャツの上から確かめるように体の線をなぞってきた。
 薄いシャツ越しに伝わる男の熱い指先に、胃の辺りが一気に重くなる。さっき口に放り込んだブレスケア用タブレット、実は鉛だったのだろうか。
「……ッチ。ちゃんと食えよ、消滅しちまうぞ」
 それはない。確かにゴリラが全力で吹けば飛ぶような命ではあるが、時効を過ぎた債権じゃあるまいし、いきなり消え失せたりはしない。
「この後すぐ外回りなんだよ。そのまま直帰のはずだったんだが、接待が入っちまって」
「それは、お疲れ様です」
「だから飯食いにも連れて行ってやれねえし……あ?」
 鎖骨から肩、二の腕とするする降りてきた男の指が、不意に手首で止まる。マズイと思った時にはすでに袖を捲られ、腕から手首にかけての素肌が露わになる。
「……へえ」
 猛禽類を思わせる鋭い男の瞳がすっと細まり、周囲の気温が氷点下にまで落ち込む。
 肌を刺すような威圧感。
 剣呑な視線の先には、左手首に走る傷跡。まだ生々しいそれは辛うじて血は止まっているもののじゅくじゅくと膿んでおり、痛々しいというよりは醜悪だ。もちろん、傷のできた理由も含めて。
「その、ちょっと料理してて……」
「お前は自分の手首を喰うのか」
「人体切断マジックの練習で失敗して……ほら、忘年会でやる一発芸」
「人体消失マジックを披露しますって言いながら自らのヅラを剥ぎ取った一昨年の部長が霞むようなネタだな」
「霞むどころか、部長は今日も光り輝いていましたよ」
 言いつつ、さり気なく腕を引っ込めようとすれば、掴まれたままだった手首を強く引き寄せられる。そのままくるりと向きを変えられ会議机の方を向かせられたと思えば、掴まれたままだった腕を背中に回され、拘束される。そして首根っこを掴まれ、信じられない強さで会議机に頬を押し付けられる。まさに、現行犯逮捕された凶悪犯だ。実際凶悪なのは後ろのリーマンゴリラなのだが。
「お前、死にたいの?」
「……っ」
 傷口に爪を立てられ、痛みに息が詰まる。そのせいで返答に遅れれば更に怒りを濃くした声で、「なあ」と食い込みが深くなる。
 こいつ確実に前職ヤクザ。しかも拷問のプロで、中世の魔女狩りがお遊戯に見えるような極悪非道な手法で相手を痛ぶっていた鬼畜だ、間違いない。
「聞いてる?」
 耳介に唇を当てながら、低く囁かれる。ぶわりと全身に鳥肌が立ち、歯の根が合わなくなる。
 蹴り飛ばせ。大人しくしろ。殴りつけろ。逆らうな。殺せ。従え。
 頭の中で本能と理性がぐるぐる回り、ぶつかり、絡まり合う。乾燥機の中の洗濯物みたいに。 
 目が回り、吐き気が込み上げる。カチカチと鳴る自分の歯の音しか耳に入らない。
 と、深いため息。
 反射で身体がビクつけば、舌打ちと共に拘束を解かれる。男の方を向かされ、今度はやたら丁寧に左腕をとられる。
「血が出てる」
 痛ましそうに目を伏せる黒緋に、お前がやったんだろと詰る度胸などあるはずもない千歳だ。出てますね、なんて馬鹿みたいに頷きながら、血の滲む傷口を眺める。
 泣いているみたいだ。
 怯えて、勇気も声も涙も出せない千歳の代わりに、傷口が泣いてくれているみたいだ。
「痛かったな」
 子供をなだめるような口調でそんなことを呟いたサイコパスゴリラは、傷口に唇を重ね、深い口付けを施すように舌で舐り始めた。
 痛みと嫌悪感で顔が歪むが、それでも何もできない千歳に代わって、傷口がまた涙を流す。
「なあ」
「はい」
「死にたいならさ」
「……っい!」
 傷口を、噛まれた。
 それでも呻くだけの千歳を切長の瞳で見据えながら、薄い唇を赤くした黒緋が囁く。
「死にたいなら、俺が殺してやるから」
 だから、と、また滲んだ涙に舌を這わせながら、男は命じた。
「独りで勝手に死んだりするな」
 ふざけんなクソが。
 罵声の代わりにまた赤が溢れた。

 きっかけは、今だにわからない。ある日突然、同じ部署の直属の上司、黒緋からセクハラを受けるようになった。
 最初は、よく見られているなという程度。やがてその視線が孕む熱に気付き、ズッ友ですらあり得ない距離感にまで追い詰められ、あれよという間に捕食された。そのまま、肉体的にのみ近しい関係になって数ヶ月。
 限界であった。
 肉体を他者に凌辱される屈辱は、ゆるゆると殺されていくようで。
 抵抗すれば酷くされ、身体が傷付く。従順にしていれば優しくされ、心が削れていく。
 内からも外からも自分が壊されていく様子を自覚しながら生きるのは、千歳には耐えられなかった。
 だから、死を選んだ。
 なぜかまだ生きながらえているけれど。
 会議室から自分のデスクへ戻り、仕事を始める。手首を切る前後の記憶が曖昧なためよく覚えていないが、確か体調不良とか言ってしばらく休んでいたはずだ。周りはいかにも身体を気遣う素振りをしてくれてはいるが、皆知っているのだ。
 千歳が、黒緋部長から何かをされていることを。
 その何かを、暴言や暴力と思われているのは黒緋の人相の悪さ故なのだろうが、千歳にとっては都合の良い誤解である。
 男に犯されているなんて、知られてたまるか。
「ちー、久しぶり。お昼一緒に食べよ」
 自身のデスクでヒマラヤ山脈のように積み重なった書類を片付けていると、後ろから聞こえる耳触りの良い声。振り返れば、朝見たのと同じ、可愛らしい顔がそこにあった。いや、それよりはいささか骨ばっているか。
「ミイラみたいなばあちゃんの定食屋行く? それとも、年齢性別種族不詳のパスタ屋?」
「俺、今日弁当ある」
 デスクにミニトートバッグを置けば、ネジレがこれ見よがしに揺れる。
 瞬間、部署内が水を打ったように静かになる。
「え、何……」
「ちー、自分で作ったの?」
 目をまん丸くして問うてくるその顔は、出掛けに、「ありがとう」と伝えた瞬間の彼女と瓜二つで。さすが双子だなと、鈴の片割れであり自身の親友兼同僚の浅葱都の顔をまじまじと見返す。
「いや、作ってもらった。お前も知ってる、宇宙一可愛い子に」
「は……」
 都の頬が引き攣り、部署の空気が凍る。何なんだ、さっきから。確かに女っ気などまるでない生活を送ってはいるが、齧った林檎が鯖の味がした、みたいな、心からの驚愕顔をしなくてもいいではないか。
「とりあえず、場所変えよっか」
 未だ困惑気味な都に手を引かれ、屋上へと上がる。
 秋風が身体に染みるこの季節。屋上には人っ子一人いない。簡易ベンチに二人並んで座り、千歳は鈴の弁当を、都は途中売店で買った特大サイズの唐揚げ弁当を広げる。
 鈴の弁当は至ってシンプルだ。
 綺麗な層のだし巻き玉にきんぴらごぼう。焦げ目が嬉しいつくねは団子のように串刺しになっており可愛らしい。春菊の白和に、彩りのためのプチトマト。おむすびは真上から見たカピバラのような俵形で、いかにも和風な弁当だ。
 正直、食欲など皆無だったが、それを見越したかのように少なめで、おまけに千歳の好きな和食のおかず。あの後すぐに黒緋が外回りに行ったこともあり、少しだけ精神的にも余裕があった。
 手を合わせ、一口一口をゆっくり噛み締めながら食す。
「へえ、鈴がねえ……」
 食べながら都に事情を説明すれば、どこか腑に落ちないような顔で押し黙ってしまう。
 兄である都を差し置いて千歳を頼ったことが面白くないのかとも思ったが、この繊細そうな美青年は、その実、あまり物事に頓着しない雑な性格をしているのだ。妹からどう思われているか、なんて生まれてから一度も意識したことすらないだろう。
 鈴お手製の弁当の中からだし巻き卵を一つつまみ、男が持つプラスチック容器に乗せる。
「ほら」
「ありがとう」
 都は鈴のだし巻き卵をしばらく見つめ、口に含んだ。ゆっくりと咀嚼し、一言。
「鈴の味だ」 
「そらそうだ」
「うん、確かに鈴の味」
 そう静かに呟く都の横顔は、なんだか複雑そうに歪んでいる。胡散臭い笑いがデフォルト仕様の男にしては珍しい反応だ。
「鈴の相手ってどんなやつ? 俺に何も言わなかったのは、気を遣ってか?」
 何気なさを装った質問は、しかしながら、都を責める響きすら含んでいた。けれど止められるはずもなく、昨日からの複雑な想いや疑問を撒き散らす。
「未練がましく鈴に片想いしてる俺に気を遣ってくれたのか、それとも内心笑ってたのか……いや、お前はそんなくだらないことはしない。なら、なんで言わなかったのか。話せないってことは、よほどくだらない男なのか? それとも、危ないやつ?」
「……危ういやつではあるかな」
 端正な顔に苦笑を浮かべながら、都が呟く。
「危うい? アングラな仕事してるとか?」
「どこにでもいる普通の社畜。この前、『生きてるのってコスパ悪いから削れるところは削りたいんだが削るとしたら生命かな』って、死んだ魚の目でコピー機に話しかけてた」
「地獄みたいな話だな」
「そいつの日常の話だよ」
「だから地獄なんだろ」
 そう返せば、「見てる分には面白いよ」と悪魔のような返答をされ、うっかりそいつに同情しそうになる。もうすこし付き合う相手を選ぶべきだ。
「そいつは、何かあったからそうなの? それともずっとそういうやつなの?」
「最近は俺ですら心配しちゃうレベルで病んではいる」
「お前が心配するレベルって、そいつ心肺停止状態とかなの?」
「元から無気力無関心無感動みたいなやつではあった。ちょっと元気な死体みたいな」
「意識のあるゾンビかよ。鈴はなんでそんなやつを選んだんだ?」
 俺じゃなくて、と言外に込めつつ、弁当のきんぴらごぼうを口に運ぶ。少し荒めにささがきされたごぼうに、硬さの残るにんじんと、輪切りの断面が目にも楽しいれんこん。様々な食感を味わえる工夫が施されたそれは、味も抜群に千歳好みであった。散らされた白胡麻がまた良い。
 宝物のようにじっくりと味わっている千歳を尻目に、いつの間にやら唐揚げ弁当を平らげたらしい都は、今度はチョココロネを頬張る。むににっとチョコが漏れ出し、一瞬だけ小学校低学年男子並みに知能が低下し、下品な単語を口に出しそうになる。
「なんだっけ……食い合わせがなんとか……」
「は? お前まだ食う気?」
 ほんとうによく食べる男だ、昔から。もやしのように細いその身体の中で一体どんなびっくり錬成が行われているのか。
 呆れて見れば、チョココロネを二口で食べ終えた男が、唇についたチョコを指先で拭いながら頭を振る。
「鈴がそいつを選んだ理由」
「それが……食い合わせ?」
「そんなようなことを言ってた。何言ってんのかわかんなかったから、ちゃんと聞いてない」
「例え鈴がパワポで懇切丁寧に講義しても、お前には理解できないだろうよ」
 人間らしい感情なんて持ち合わせてないだろと付け足せば、食後のカフェオレを飲みながら、都は喉を鳴らして笑った。そして、昼寝から目覚めた猫のように伸びをして立ち上がる。
「可哀想な男なんだよ、鈴の旦那は」
 だから、許してやって。
 そう言ってこちらを見下ろした都の顔は珍しく真面目で、膝に置いていたミニトートのネジレが、抗議するようにゆらりと揺れた。

「お帰りなさい」
 ドアを開ければ、一段下がった玄関から見ても小さな鈴が、笑顔で出迎えてくれる。鞠が跳ねるように可愛らしく動く様も、林檎のような赤い頬も、なぜだか無性に尊く感じられ、目頭が熱くなる。
 嘘、俺泣くの? こいつの笑顔で? 他の男のものなのに? なんか俺健気過ぎて、いっそ哀れじゃね?
「……ただいま」
 情けなさに打ちひしがれつつも部屋に入り、鈴に言われるがまま、先に風呂に入る。湯船にはアヒルが浮かんでおり、なんで鈴じゃなくてお前なんだこの量産型ゴム製品がと八つ当たり気味に風呂に沈め、思いの外速いスピードで浮上したそれに顎を攻撃されたりして。手首の傷が染みるとか、押さえつけられた首がやけに痛いとか、そんな嫌な荷物は再度アヒルと共に風呂底へ沈めた。風呂の栓を繋ぐチェーンに括り付けて。
 風呂から出ればスパイシーな香りが漂っていた。条件反射のように腹が鳴り、髪を乾かすのもそこそこに食卓へ着く。
「あ、生乾き」
「食べたら身体が熱くなって、その熱ですぐに蒸発する」
「アイロンなのかな」
「蒸気機関車のイメージ」  
「では機関車くん、ちゃんと乾かしたまえ。でなければこれを乗せることはできない」
 言いながらちらりと見せた小鉢の中には、ふるふると揺れる温泉卵。
「卑怯なり!」
「心を鬼にして言っておるのだよ」
 背に腹はかえられぬ。
 渋々立ち上がり、洗面所にて再びドライヤーで髪を乾かす。スペインの風くらい乾いた温風に吹かれることしばし。さっぱりした出立ちで、王の凱旋とばかりに堂々と席に着く。
 やはり。
「カレーだ!」
 我ながら柄にもなくはしゃぐような声が出る。
 しかし日本男児たるもの、カレー、焼きそば、唐揚げには逆らえない定め。DNAに組み込まれし天性の好物なのだ。
 楕円形のやや深い皿の半分には真っ白なご飯。その上には、にんじん、ナス、オクラ、ピーマン、ジャガイモが素揚げされて横たわり、さらには狐色にソテーされた鶏肉も乗っかっている。皿の残り半分には、スパイスの香りが食欲をそそるカレールーが。
「よし、乾いておるな。褒美にこれをくれてやろう!」
 白いご飯とカレーのちょうど真ん中に、ぽちゃんと落とされた温泉卵はまるで日の丸のようで。
「有難き!」
 思わず拝み、スプーンを手に取る。いただきますの挨拶を秒で済ませ、早速一口頬張る。
「うま……」
 即落ち二コマとはよく言ったものである。
 完全にアヘ顔、いや、恋する乙女顔になり、感嘆の声を上げながら、次々と口に運ぶ。
「カレーってすごいよね。結局元気になっちゃう」 
「戦争が始まった瞬間にカレーを空からぶち撒ければ、とりあえず一旦停戦になると思う。『食おう。話はそれからだ』って」
「食べ終わる頃を見計らって冷たい水を配る」
「そんなことされたら好きになっちゃう」
「それを見越して冷水に毒を仕込むと」
「世界鬼畜協会の会長さんですか?」
「そんな大層なものでは。ワールド鬼畜カップ殿堂入りした程度よ」
「なんと。鬼畜界のレジェンドでしたか」
 くだらない茶番を繰り広げながらもスプーンは止まらない。これが世にも奇妙なカレー物語である。
「久々の会社はどうだった?」
「そっちは? 一日何してたの」
 質問に答えたくなくて卓球の球を打ち返す速さで質問を返す。と、すでにパジャマにカーディガンを羽織った姿の彼女は、ふわふわと全身からいい香りをさせながら指折り今日を振り返る。
「千歳を見送ったあと、お布団干して、掃除と洗濯、夕ご飯の仕込み……それくらいかな。なんだかバタバタしてた気がしたんだけど、思いの外あまり何もしてなかったかも」
「仕事は? 休み?」
 彼女は大学時代からアルバイトしていた喫茶店で、そのまま働いている。今は確か、チーフマネージャーだったはずだ。
「仕事はね、辞めたの」
「は? なんで」
「ちょっと、止むに止まれぬ身体的事情があって」
 と、居心地悪そうに椅子の上で小さく身じろぐ。
 形のいい眉を困ったように下げる姿に庇護欲をそそられ、咄嗟に手を伸ばしそうになる。が、それよりも内容が気に掛かった。
「具合、悪いのか? 大丈夫か?」
「うん、今は大丈夫」 
「……かなり、重い病気か?」
「うまく言えないんだけど、悪いところはどこもないの。生まれたてみたいにフレッシュな感じ」
 言いながら腕まくりをし、力こぶポーズをして見せてくる。
 ほっそりとした腕には、ところどころに料理中に負ったらしい火傷の痕があった。色白の肌に目立つその痕を、彼女は勲章だといつも胸を張って快活に笑う。
 今も、どこか誇らしげに歯を見せる鈴は、確かに虚勢ではなくて元気ハツラツそうだ。
 ほうっと胸を撫で下ろし、グラスの冷水を一口飲み込んでから、再びカレーに没収する。
「ね、ゲームしよ」
「カレーに集中したいのですが」
「やだ、愛してるって言われちゃった」
 ああ、料理は愛、とかいう彼女の思考からすれば、確かに今の言葉は熱烈な愛の告白同然なのか。
「わかった、ゲームな」
 気恥ずかしくなって渋々頷く。
 なんだか彼女の手のひらで転がされてるような気がするが、こんな美味い飯を作る手によって良いようにされるなら、それでもいい。
「主婦の特権を言い合うゲームね」
「主婦の特権? 社畜の俺には不利だろ」
「大丈夫、私もまだビギナー主婦だから」
 そして、先攻どうぞと笑う。
「難しいな……。あ、『料理の味見が出来る』」
「なるほど! 確かにそれはありますな。『干したての布団にダイブできる』」
「俺の布団が人型によれてる理由はそれか。『さりげなく自分の皿に好物を多く盛れる』」
「失礼な。ちゃんと平等にしました」
「これだけ体格差あるのに平等はおかしいだろ。私欲に溺れたと言われても仕方ないのでは」
「……次回からは公平さを心掛けます。『洗濯したてのマットを一番に踏める』」
「マット? 脱衣所とかにあるやつ?」 
「そう。ふわっふわなの。すごい気持ち良くて、お日様ありがとうって拝みたくなる」
「大袈裟」
「次の休み、千歳はお洗濯当番ね」
「すみませんでした」
 軽く下げた頭を上げれば、「私の勝ち」ととびきり無邪気で可愛い鈴の笑顔が咲いていた。
「……ごちそうさまでした」
 なんだよ好きだよ文句あるか。
 昔から鈴は、小さな幸せを見つけるのが上手だった。けれど、楽天家でも能天気でもない。
 学生時代、鈴のアルバイト先のおばちゃんが、怪しげなスピリチュアルに傾倒したことがあった。
 曰く、「すべてのことに意味がある。哀しい出来事にも必ず神様からのメッセージが込められている」と。そのカミサマからのメッセージを受け取るために、このカミサマパワーのこもった石を買うのよ、と、駐車場の砂利のようなものを鈴に押し付けて来たらしい。
 それに対し鈴は、「人生は意味のないことだらけで、だからこそ面白おかしく生きていける。意味のあることしかないなんて息苦しくて堪らない」と。「哀しいことには、哀しいって以上の意味はないし、素直に哀しい気持ちを受け入れられないのは精神的に不衛生よ、おばちゃん」と、彼女の肩を優しく撫で、「哀しいことは哀しいって泣いて、それでお終いにしよ」と、一緒にお茶を飲んで話を聞いてあげたそうだ。結果、おばちゃんは怪しげなカミサマ石から、身体は小さく心はデッカイ少女へと鞍替えをし、今だに仲良しだとか。何でもおばちゃんは身内を亡くし、ぽっかり空いた心の隙間をカミサマ石で塞ごうとしたらしい。
 当時、溺死しそうなほど肉汁が溢れるハンバーグを食べながらことの顛末を千歳に語った鈴が、不意にぽつりと言った。
「私は死んだら私でいられるのかな」
「何だいきなり」
「ハイパースピリチュアルな人もそうでない人も、亡くなった人をやけに美化したり神格化したり、逆に畏怖の対象として必要以上に祀ったりすることがあるでしょう? それってもはや、生前のその人ではなく、その人っぽい何かだよね」
「遺された人が望む何か、だろうな」
「ね。死んだくらいで聖人君子や邪悪の化身になんてならないし、ましてや生者に影響を与える巨大パワーが得られるわけないのにね。死は限界突破のレベルアップイベントかって話」
「ならお前は、死んだらどうなるんだ」
 何気なく問えば、ハンバーグの上の目玉焼きを崩した鈴が、半熟の黄身をたっぷりと肉にまとわせながら笑う。
「私が死んだら、死んだ私になるだけよ」と。
 なぜ今思い出したのかわからない古い記憶。けれど、自分の中では鈴を語るに外せない思い出の一つだ。
 鈴を好きになったきっかけは、確かに一目惚れであった。
 愛らしい少女と妖艶な女性の危ういバランス。複雑なコントラストを醸し出す彼女を目にした瞬間、天と地がひっくり返ったような、自分の内側と外側が入れ替わってしまうような衝撃が走り、何が起きたのかわからないほどであった。これが恋だと自覚してからは、もうずっと、彼女のことばかり。
 そして、知れば知るほど不可解且不思議な彼女は、噛めば噛むほど味の出るスルメのようであった。
 ズブズブと、底なし沼に落ちていくように彼女に浸かり、沈んでいく。今もずっと、沈み続けたまま。
 特別なことは何もなくても、つまらない人生をすこしずつ上等にしてくれる彼女と過ごすことは、この上ない幸福であった。きっと、彼女との出会いは千歳の人生最大の幸運なのだ。彼女が見つけてくる小さな幸せを拾い集め、二人で大事に笑う瞬間。そのために生まれてきた、なんて言えるほど大したものじゃない。けれど、もうそれなしでは、どうして生きていけばいいかわからないくらいには、彼女に沈んでいる。
 だからこそ憎くて堪らない。
 誰よりも愛おしいこの生き物を幸せにしてやれない男が。
 自分が幸せにしてやる、なんて、そんなことを言える自信もないくせに。

「罰ゲームは、一緒に朝ごはんを作ること」。
 朝早くに起こされ、おはようの前に刑を言い渡された千歳は、子うるさい姑と化した鈴の監視下で、おにぎりを握っていた。
 手のひらに付ける塩加減や中にぶち込む具の量、米を握る強さ。 
 おにぎりで世界を狙おうとでもしているかのように細かい。
「人間て単純だからさ、『あなたを想って握ったの』とか言いながらちょっと恥ずかしそうに顔を赤くしとけば、脳内で勝手に味まで補正してくれるんだよ。だから、適当でいいの」
「可愛くても愛情がたっぷりでも不味いものは不味いです。脳の誤作動で捗るのは妄想だけで、箸は止まります」
 バッサリである。
「料理は愛だって言ってるでしょう? 愛してるから料理が美味しく感じるんじゃなくて、愛してるから美味しく作るの。おわかり?」
 言いながら鈴は味噌汁を手早く作り、お椀によそう。
 今朝も彼女は食べないらしいが、それでもこちらが食べ終わるまでテーブルに着いていてくれる。それも愛らしいが、どうせなら一緒に食べたい。何度か誘ったが、彼女はのらりくらりと躱すばかりだ。何か事情があるのかもしれないし、しつこくして出て行かれたらとの怯えが勝り、今日も今日とて一人分の食事がテーブルに並ぶ。
「なら、料理のコツは?」
 席について手を合わせ、食べ始める。
 今朝はおにぎりのみ自作で、あとは鈴の料理だ。朝はあまり食べたがらない千歳のためだろう、シンプルなアサリの味噌汁や小鉢に盛られた惣菜の品々。
 素朴で暖かな味が、寝起きの胃に優しい。
「料理はね、丁寧さ。丁寧に、レシピ通りに作るのが一番よ。愛情込める暇があるなら、きちんと分量を計ること。わかりましたか?」
「はーい」
「困った人。なんて出来の悪そうな返事なの」
 呆れたようにため息をつくその顔は、しかし聖母のような慈愛に満ちていて。「出産してくれ、俺を」などと、セクハラというよりは可哀想な人のような台詞を吐きそうになる。
「レシピ通り、ね。料理の本とかないからな」
「そこでこちらの商品です」
 ジャーンと明るい声で鈴が出したのは、一冊のノートである。やや汚れたそれを受け取って見れば、綺麗な鈴の字でずらりと埋め尽くされていた。
「こちらの商品には、ありとあらゆるレシピが細かく載っていて、しかもアウストラロピテクスでもわかるくらい丁寧に書かれているんですね」
「確かにイラスト付きだから言葉を持たない人類でも簡単!」
「しかも! 今ならなんと、もう一冊付いてきちゃうんです!」
「でも、お高いんでしょう?」
「お値段なんと! 奥さん、あなたの美味しい笑顔一生分ですよ」
「プ、プライスレスー! 抱いてー! ……ところでさ」
「唐突な正気」
「このレシピノート、いつから書いてるんだ?」
「レシピノートはかなり昔から書いてるけど、その二冊は大学時代から最近のものだよ」
「……ふうん」
 ご飯そっちのけでページをめくっていく。
 大学からということは、千歳と出会った頃からのものだ。だからだろうか。いや、それにしても……。
「なんかさ、俺の好物ばっかりなんだけど」
 たまたまだよ、とか、勘違いだよとか揶揄われることを予想しながら呟く。
 と、先程まで子供のような無邪気さではしゃいでいた笑みが、するりと消える。
 ことりと首を傾げた彼女は、平素はビー玉のようにピカピカした瞳を妖しげに細め、艶やかに笑む。
「不思議だね?」
 秘密を打ち明けるかのような囁きは夜を思わせる色っぽさを孕んでおり、腰がぞくりと重くなった。 

「あいつ、俺のこと好きなのかな」
「…………」
 会社に行く道中、都に呼び止められて一緒に向かう。
 千歳と都の住まいは近く、共に会社までは徒歩圏内。配属された部署は違うものの生活圏が同じということもあり、大学時代と変わらぬ関係性が続いている。
 二人して冷たい風に身体を縮こませながら先程の質問をすれば、心底バカにしたようなため息一つ。
 想い人と同じ容姿から繰り出される侮蔑の視線に、先程までほわほわと膨らんでいた気持ちが、一気に萎む。
「……うるせえな」
「あれ、口に出てた?」
「目から罵声が飛び出してた」
「お、視線のレーザービームですか。何の歌詞だっけ」
「アチチチ、みたいなやつ」
 それそれ、と身体を寒さで震わせた都に、すこし拗ねた口調で言う。
「別に、ちょっと願望を言っただけだろ。好きになってもらえるなんて思ってねえよ」
「好きにさせてみせる、くらいの気概はないの?」
 スーツの上に羽織ったジャケットを掻き合わせながら、都が呆れた声を出す。
「ない。そのままの俺を好きになってほしい」
「ありのままの飾らないちーを?」
「そう。自分で決めた人生のルールに、『自分を好きでいる』ってのがあんの。こんなクソみたいな人生、好きな自分でいなきゃ、生きていけないだろ」
「まあ、そうかも?」
「俺は俺が望むような俺でいたい。好きな女を振り向かせるために背伸びして自分を着飾ったら、それは俺じゃないんだよ。だから鈴には俺が好きな俺を好きになってほしい」
「ちーが望むちーね……」
 しばらく推し黙った都は、袖の中に引っ込めていた手を出し、綺麗な指を一本ずつ折り始める。
「老若男女、分け隔てなく全ての人類に平等に無礼。地球上の生き物の分類分けが、自分とそれ以外という酷く偏った自己愛。一途と言えば聞こえがいいが、訴えられれば負ける可能性すらあるほどの執着愛。それから……」
「まさか俺の話してる?」
「ちーは自分の望む自分であるために、全力全開で自己アピールをしているわけだろ。つまり今列挙したそれらは、ちーにとっては自分のチャームポイントなわけだ」
「表現の仕方に作為的な悪意を感じる」
「そんなことない。悪意なんて微塵も含まれていない、無添加オーガニックな俺の考え」
「尚更酷くないか」
 半眼で睨めば男がぴたりと足を止めた。会社はもう目の前で、一歩後ろで静止した都を振り返る形になる。
 都は先程までの胡散臭い笑みを引っ込めると、珍しく真剣な顔つきになった。そして会社をバックに都の前に立つ千歳を、下から睨み上げる。
「それからね、千歳は弱い者に優しくない代わりに、強い者にも屈しない。媚びず、へつらわず、自分であり続ける。それが俺たちが知ってる千歳だよ」
 どくりと心臓が大きく跳ねる。
 もしかして都は知っているのか。自分と黒緋の歪な関係を。
 背中を嫌な汗が伝い、その気色の悪い感触がトレーニングのしすぎでタコの出来た男の手を思い出させる。込み上げる吐き気を堪えて漆黒の瞳と相対すれば、目の前にいるのが鈴に思えて。
 なぜだか無性に泣き出したくなった。
「……俺さ」
「おい」
 扉の向こうから聞こえた、胸に響く低い声。
 身体を跳ねさせながら振り向けば、エントランスにいる黒緋の鋭い瞳に射抜かれる。
「来い」
 犬を呼ぶような一言。以前の自分なら、嘲笑で返しただろうそれに、しかし逆らえるはずもなく。
 都の目を見ることが出来ず、顔を背けたまま片手を上げて挨拶をして立ち去ろうとすれば、背後から透き通った声がかかる。
「ねえ、千歳は、今の千歳が好き?」
 大嫌いだよ、殺してやりたいくらい。
 血を吐くように心の内で叫びながら、よく躾された愛玩動物の如く、飼い主の元へと向かった。

「お前、昨日手作り弁当だったんだって?」
 フロアの一番端の、普段人が寄り付かない資料室。  
 いや、寄り付かないのではない、寄せ付けないのか。黒緋が頻繁に千歳をこの部屋に呼び出すので、学校七不思議の呪われた開かずの間よろしく忌避されている狭い一室だ。
 都を置いて黒緋と共にエレベーターへと乗り込んだ千歳は、自部署の階へ到着して早々に、この牢獄のような部屋へ連れ込まれていた。
 四方を資料がぎっちり詰まった本棚に囲まれたそこには窓すらなく、蛍光灯も薄っすらとしか明かりを灯さない。隅には壊れかけのデスクが放置されており、千歳はそこに腰掛ける黒緋の目の前で所在なく突っ立ったまま、先の質問を受けていた。
「さっきエントランスでモモさんが教えてくれてな。『宇宙一可愛い子からですって』って」
 モモさんとは、同じ部署で働くおばちゃんだ。明るくて気さくで、おむすびのような可愛らしい女性なのだが、いかんせんお喋りなのだ。余計なことをと腹が立つが、顔を見るとつい許してしまいたくなるようなお多福顔なのはずるいと思う。
「大学時代からの友人が遊びに来てくれて、それで……」
「いい友達だな」
 言いながら黒緋が腕から下げていた紙袋を乱雑にデスクに置く。紙袋が床に落ち、中身が床に散らばる。
 バナナに、黒緋の拳のようにいかついおにぎりが複数、りんご。ちらりと覗くタッパーには、ソーセージらしきもの。
 男の昼ご飯だろが、やけに量が多そうだ。いや、ゴリラ的には適量なのか。しかし、黒緋が弁当持参など初めて見た。いつも昼は食堂で済ませているらしいのに。
 と、コートとスーツのジャケットを脱いだ黒緋がずいっと身体を寄せてきた。思わず後ずさるも、手首を掴まれて動けない。目の前にある男らしい端正な顔は、殺意すら感じさせるほどの怒りを滲ませていて。
 頭の中で警鐘が鳴る。
「弁当が美味くなるよう、協力してやるよ」
 そのまま勢いよく本棚に背中を押し付けられ、一瞬息が止まる。小さく咽せれば首の後ろを掴まれ、へし折らんばかりの強さで引き寄せられる。そのまま唇に噛みつかれ、あまりの痛さに喉の奥で呻くも、その声すら飲み込むように激しく口腔を蹂躙される。
 生き物のように蠢く舌を噛み切ってやりたい。が、抵抗すればもっと酷い目に遭うことは、身を持って学んでいる。
 ただただ、無になる。
 ザラついた舌が口内を隈なく舐め回わされる感覚も、時折甘く噛まれる痛みも、押し付けられた身体から感じる火傷しそうな熱も、部屋に響く男の荒い息と水音も。
 自分の中から自分を閉め出し、自分を失くす。
 どれくらいそうしていたか。粘着質な音を立てて唇が離れる。吐息が触れるほどの距離にいる男の顔は、平素の冷酷な上司ではなく、欲情しきった雄のものだった。
 黒緋はちらりと腕時計に視線を走らせてから舌打ちし、「足りねえ」と低く唸る。そうしている間も少しも離れ難いと言わんばかりにこちらの腰に腕を回してがっちりと拘束し、さらにこちらの脚の間に自身の脚を挟み、絡めるようにすり寄せてくる。
 発情期の獣そのものだ。
 と、「まあいいか」と何やら一人で納得した様子の男は、互いの唾液で濡れた唇を千歳の首筋に当てた。そのまま舌でぬるりと舐め上げていき、顎を一噛み、そして頬を軽く喰み、耳朶へと到達する。
「時間があまりねえ。が、しっかり動いて腹減らせよ」
 喉の奥を震わせるように笑い、千歳の薄い腹を撫でる。
「弁当より先に、俺のをここにぶち撒けてやる」
 たらふく喰えよ。
 どこか愉しげな声に掻き消された小さな悲鳴はきっと自分の中からで。
 タスケテ、タスケテと。
 瞼を閉じ、内側でこだまする懇願を無視する。
 床に押し倒されながら眺めていたのは男が作ったらしい無骨なおにぎり。揺さぶられながらも思い出すのは鈴の笑顔。
『せっかくなので千歳の初おにぎりを今日のお弁当に詰めました』。
 そう言って曲げわっぱをこちらに見せるチェシャ猫みたいな笑みは、しかしどこか誇らしげで。
 なんでお前が嬉しそうなんだよって呆れれば、『すごいことをしたんだよ、千歳、すごく大きなこと。このおにぎりは千歳がいなかったら存在してなくて、お弁当にはぽっかり隙間が空いたままになるところだった。千歳がいたから、今はこんなに素敵なんだよ』と胸を張った。こんな小さくて歪なおにぎりを、まるで英雄みたいに褒めてくれる。そんな鈴こそが千歳にとっての英雄なのに。 
 けれど自分は、鈴の英雄にはなれそうもない。
 最奥で弾けた熱に浸食されながら、冷たくなった頭でそんなことを思った。

「朝のミーティング、もう終わってんな。資料整理してたって言っておくから、ゆっくり来い。無理して動くんじゃねえぞ」
 自分の身なりを整えたゴリラは、先程までの荒々しさが嘘のように丁寧な手つきで千歳の世話を焼き、最後に首筋を一撫でしてから愛おしそうに頬に軽く口付けた。まるで恋人に施すかのようなそれを、無心で受け入れる。
 何かあったら呼べよと言い置いて立ち去る黒緋に、元凶が何か言ってると思ったが、無言で見送る。
 痛い。
 身体の、もっともっと内側。内臓よりも深いどこかが酷く痛んで血だか涙だかゲロだかを漏らす。けれどどこが痛いのかがわからない。わからないからそのまま垂れ流す。そうする度に、毎回何かが断末魔の悲鳴をあげて死んでいく数えたら死にたくなるくらい犯され、その度に何かが死んだ。
 おかげで中身は空っぽだ。
 一色千歳という空の入れ物。振ればカラカラ音がする。残っているのはきっと。
「……鈴」
 愛おしいあの子。
「鈴、すず、スズ……」
 壊れたラジオみたいに繰り返し呟き、のろのろと立ち上がる。
 宝物みたいに呟いた彼女の名前に縋る自分は、きっと地獄で見つけた蜘蛛の糸を必死で登る罪人と同じだ。
 天国になど辿り着けるはずもないのに、一途に、求める。
 重い足取りで資料室を出れば、同じ部署の同期が、今まさに扉をノックしようとしているところだった。彼は千歳を見た瞬間、身体を強張らせておどおどし始める。
「何だよ」
「いや、随分長いから大丈夫かなって」
 気遣わしげな視線に潜む好奇心に、思わず大きく舌を打つ。
「今更なんだよ。いつもいつも見てみぬふりのくせに」
「悪い。でも、みんな本気で心配してんだよ、時期も時期だし」
「時期? なんだよ時期って」
 強姦に適した時期なんてあるのかよ。六月の花嫁じゃあるまいし。
「それはほら、あれだよ……」
 困ったように黙り込んでしまった同期は、しかし周りをキョロキョロと見回してから千歳の耳元に顔を寄せる。
「さっき、みんなで管理課に直談判したんだよ。部長のパワハラ、何とかしてくださいって。でもさ、管理課ですら怖いんだよ、黒緋部長が。うちの会社、実質あの人の手腕で何とかなってるところあるから」
「裏番ゴリラだもんな」
 千歳がされていることを正確に理解していない同期は、どこか見当違いな囁きを続ける。
「でもさ、暴力の確かな証拠があればきっと人事は対処せざるを得ないと思う。警察とかの第三者機関に訴えてもいい。一色には、辛いかもしれないけど」
「……ああ」
「俺、もう見てられなくて。もうお前ボロボロじゃん。このままだと壊れちまうって。ただでさえ、あんなことがあったのに……」
「……悪い、ちょっとトイレ行く」
 言いながら小走りでその場を離れ、トイレに駆け込む。個室の扉を乱雑に開け、胃の中のものを便器に吐き出す。
 口の中に広がる酸味と、立ち上る悪臭。生理的な涙だけじゃない何かが込み上げ、鼻の奥がツンと痛む。
 生命より大切なものはないんだと、人は言う。ならば、なぜ自殺するのか。自殺する勇気があるならば何でも出来そうなのに。
 きっと、誰の中にもある特別な何か。
 プライドとか見栄とか言われるものを守るために、生命すら差し出すのだ。人から見たらくだらなくても、それが無ければ自分を保てないから。
 自分を自分たらしめる何か。
 それを失えば、生き物として呼吸していても、もはや誰でもない何かになり下り、自分を亡くしてしまう。それは、生きていると言えるのか。
 一色千歳として生きていると言えるのだろうか。
 便器に散らばるは、鈴に教えてもらって自分で握ったおにぎりだったもの。
 自分を構成する成分となるはずだったそれが、見るも無惨に白い陶器にへばりついている。思わず手を伸ばせば、後ろから腕を掴まれる。
「さすがにその三秒ルールは厳しいかな」
 そう言って都は苦笑した。
「みゃあこ……どうして」
「書類届けに来たら、トイレにダッシュする後ろ姿が見えて。間に合ったかなって心配で来てみたら、まさかの拾い食いしようとしてたから」
 いつものように飄々と語る男の瞳は、しかし不安げに揺れていて。
 思わずつるりと言葉が漏れた。
「俺さ、吐いちまうんだよあいつの弁当。だから、要らないって言った。ほんとうは大好きなのに」
 そこまで言って、自分の発言に混乱する。
 鈴からの弁当は今日で二度目のはずで、まだ吐いたことはない。確かに、黒緋の存在を如実に感じる会社内では、吐きグセがついたみたいにすぐ戻してしまうことが多かったが。
 吐瀉物に目を落とせば、妙な既視感と圧倒的な違和感。
 わからない。何もかもがわからない。
 一番理解しているはずの自身の脳内が、富士の樹海の如き不気味さと底知れなさを放ち始める。
「……もしかして俺、どうかしてる?」
 見上げた都の顔はいつもと同じ穏やかさを湛えているが、長い付き合いだからわかる。これは腹に一物を抱えているときの顔だ。
「お前が吐き出すのが弁当じゃなくて真実だったら、きっと何かが変わったのかもしれないね」
 今更言っても仕方ないけれど、と付け足した都は床に座り込んでいた千歳を立たせるとレバーを捻った。
 ぐるぐると渦のように流れていく吐瀉物を見ながら、漠然とした不安が胸に広がっていくのを感じていた。

 その後も、繊細な飴細工の上を恐る恐る歩くような日々が続いた。
 相変わらず鈴はそばにいてくれて、毎朝一緒にご飯を作った。まだまだ彼女には遠く及ばないが、それでも少しずつ上達する自分が誇らしかった。だし巻き卵が綺麗な層になったときはいつものご褒美のような笑顔で喜んでくれて、弁当に入れてくれた。まだ吐いてしまうことも多かったが、それだけは懸命に飲み込んだ。そうやってだんだん吐く量より胃に収まる量の方が増えていった。
 問題は、何一つ片付いていない。黒緋課長からのセクハラは相変わらず続いているし、希死念慮はストーカーのように付き纏ってくる。都も何を考えているかさっぱりわからないし、鈴はやはり一緒にご飯を食べてくれない。無言で向けられる周囲の視線も騒がしい。
 けれど、鈴がいてくれたから。
 くだらない話をしながらご飯を一緒に作り、食べる。すごく美味しくて、それが今の千歳の全てだったし、もうそれだけでいいと思った。
 そうして、秋の終わり。
 鈴に頼まれたおつかいをしようと仕事帰りに立ち寄ったスーパーに、そいつはいた。
 色素の薄い髪に、日本人離れした目鼻立ち、モデルのようなスラリとした体型の香染という男だ。
 鈴と都の幼馴染ので、千歳とも一応知り合いだったりする。
 が、仲は良くないというか、親しくない。なぜならこの男、誰がどう見ても鈴にベタ惚れで、あちらも同じ匂いを嗅ぎつけたのか、千歳に対して敵意剥き出しだったからだ。
 香染も同じ大学の同期生なのだが、連絡先すら知らない。双子なしで出くわせばメンチを切り合うことはあるが、それだけで挨拶すらしない。他人以上犬猿の仲以下といった間柄だ。
 卒業してからも鈴や都からその名前を聞くことはあったが、こうして生身を見るのは数年ぶりだ。だからといって何の感慨もないのだが。
 記憶より幾分大人びたスーツ姿の香染は、萎れたアスパラガスのようにやつれた顔をしていた。死んだ魚のような虚な瞳でカゴに出来合いの惣菜を放り込んでいる。
 良くも悪くも活き活きとした男だったはずだ。馬鹿な小型犬のようなやつで、鈴の前では尻尾を振ってキャンキャン飛び跳ね、千歳には歯を剥き出して唸っていた。社畜として過ごす時間が躾のなっていない小型犬を、廃棄寸前のくたびれた野菜に変えてしまったのか。
 と、香染が力なく持つ通勤カバンにキーホルダーが二つ揺れているのが目に止まる。
 不細工な猫が二つ。一匹は真っ黒な、形容し難い不細工で、もう一匹は栗色の、絶妙な不細工。二匹は互いにペアルックらしい服を着ている。
 唐突に理解した。
 こいつが鈴の相手だと。
 黒色ブスが鈴で、栗色ブスが香染を表しているのだろう。それぞれ、SとKのイニシャルが服に入っている。
 そう考えれば、なぜお目々くりくりチワワのような男がこんな有様なのかも説明がつく。鈴が出て行ったからだ。そして都が黙っていたのも、相手がこの男だとすれば百億万歩譲ってわからなくはない。確かに今、過去になく凶暴な衝動に駆られている。千歳が元気溌剌な状態であったなら、闇討ちくらいはしたかもしれない。
 千歳があれこれ考えている間にも、香染は次々とカゴに商品を放り込んでいく。自炊とかしないのかこいつ。なんて、少し前の自分を棚に上げ、鈴から渡された買い物メモに目を通す。今晩のメニューはヒラメの煮付けだと言っていた。今自分が買っている食材は、明日の夜ご飯になるのだろう。察するに、親子丼か。
 急に全身に悪寒が走り、思わず顔を上げる。すると、鬼も裸足で逃げ出すほどの形相でこちらを睨みつけている香染と目が合った。あまりの気迫に一瞬たじろぎ、しかしこちらとて鈴を悲しませる相手に容赦はしない。持ちうる全ての憎しみを込め、睨み返す。
 視線で人が殺せるなら、二人して全身の穴という穴から血を吹き出して床に這いつくばっていただろう。血みどろの床を滑りながら、店員が半額シールを惣菜に貼っていく。パートのおばちゃんだろうか。何とも呑気でふくよかな姿が、睨み合う二人の視界にちらりちらりと飛び込み、揃って目を逸らす。この勝負、乱入してきたおばちゃんの勝利だ。
 舌打ちし、レジに並ぶ。未だ惣菜コーナーからこちらを見据えている香染は無視だ。
 そして足早に店を後にし、鈴の元へと帰る。
「……ただいま」
「おかえりなさい」
 ご褒美のような笑顔。
 鈴の笑顔はホットケーキのようだと、いつも思う。丸くてふわふわで、そして暖かい。ありがちでありきたりでありふれているホットケーキは、しかし目の前に出されれば何だか特別な気がして。
 まさに、彼女の笑顔そのものだ。
 独り占めしたくなる。
 一欠片も渡さずに、自分だけで味わいたい。
「香染に会ったぞ」
 買い物袋を手渡しながら何気なくそう言えば、小さな手が一瞬ぴくりと震えた。
 やはり。
 香染が鈴の相手か。
「何か話した?」
「いや、視線バトルを繰り広げてきた」
「嫌な人たち。ほんとうに仲が悪いんだから」
 もはや清々しいほどだよ、と原因がおかしそうに笑う。
「元気そうだった?」
「……ああ」
 スーツを脱ぎながら、つい嘘をついた。しかし鈴はあっけらかんと、「何よりですな」とまた笑う。
「なんで笑ってんだよ」
「え、どう言う反応が正解なの?」
「わかんねえけどさ、笑うのは不正解だよ、赤点だよ、追試だよ」
 ムキになって言い募るも、鈴はまるで気にした様子もない。すこし困った顔をしながら、冷蔵庫に買ってきた食材を詰めていく。
 スーツから部屋着になり、食卓に着く。今日の夕ご飯はカレイの煮付けに、細切りの生姜やミョウガのたっぷり入ったカボチャの味噌汁、黒胡麻が散りばめられた大学芋に、ぷりぷりきのこが嬉しい炊き込みご飯だ。鈴曰く、今夜のテーマは「秋を食い尽くしセール」だそうだ。
 手を合わせ、まずは味噌汁をすする。具沢山の味噌汁は、いろんな出汁のおかげで味わい深く、思わず息が漏れる逸品だ。生姜やミョウガの香りと辛みも絶妙で、身体の芯まで温まる。
 鈴の味噌汁か好きだ。味噌汁屋をやったらいいと思うくらい好きだ。銭湯の湯が全て鈴の味噌汁だったらいいのにと思うくらい好きだ。
 けれど今夜はじっくりと味わえない。モデル体型のくせにチワワ顔とかいうアンバランスな男のせいで。
「俺は、好きなやつは、自分のものにならないなら不幸になってほしい」
「いきなりどうしたの? 持病の発作かな?」
「好きな人が幸せなら、相手が自分じゃなくても幸せ、なんて思えない。俺は俺が一番好きだから、俺のために不幸でいてほしい」
 きっぱりと言い切り、きのこご飯を口に頬張る。
 格好悪いことこの上ないことは理解している。が、紛れもない本音だ。
 好きなやつは自分が幸せにしたいし、自分と幸せになってほしい。それ以外の在り方なんて望んでいないのだから、そこに幸せがあってはならない。
 だって、可哀想ではないか、片想いをしている自分が。
 世の中偽善ばかりで、綺麗事ばかりが評価される。けれど、自分にとっての自分くらいは、どこまでも自分本位、自分ファーストでいいではないか。どうせ、自分として生きていかなければならないのだから。
「男らしくはないけど、千歳らしい。私は好きよ、千歳らしいの」
 作業が終わったらしい鈴は、目の前の席に座るなりそう微笑む。その漆黒の瞳は慈愛すら感じさせる深海の色で、許された気がした。何にかは、わからないが。
「ちなみに、どのレベルの不幸?」
「ピンキリだよ、よりどりみどり。一番安易なものだと、試着室で高いスーツの試し着をしたら、股の部分が裂ければいいとか」
「それが不幸レベル一番下なの? 怖い人」
 可愛らしい声をあげて笑う鈴に、つられて少し笑む。
 再び味噌汁をすすり、やや躊躇いながらも本音を漏らした。
「でも、お前の夫には、幸せになってほしい。お前のいないところで。お前のことなんか、忘れちゃえばいいんだ」
 そうしたら、ずっとここにいてくれるだろうか。
 俺のものに、なってくれるだろうか。
 さすがに言えず、誤魔化すように大学芋を口に運んだ。ねっとりと絡む甘みで口が開かないのを幸い、黙り込む。
 と、同じく黙ったまま千歳の湯呑みにほうじ茶を注いだ鈴が、どこか寂しげに笑った。
「そうね、私がいなくても大丈夫になってほしい。じゃないと心配で、目が離せない」
「新生児じゃあるまいし。放っておけばいいんだよ。家出してくるくらい嫌いなんだろ?」
「愛することに疲れたみたいって感じかな。……何の歌詞だっけ」
「見た目とは程遠い美声を放つオッサンの歌」
 イラつきを隠さない荒い調子で空になった茶碗を置けば、まるで気にした素ぶりすら見せない鈴が、「あ、スキンヘッドの人か」と呑気な声を上げる。
「不毛だよね。あ、歌手のことじゃなくて、自分のことね。嫌いになれるなら、いっそ楽なのに」
「……なあ、どこが良いの、あんなやつ」
 今まで正体不明未確認生物であった鈴の夫。得体が知れないから不気味だし気に入らないしで自分から話題にはしたことがなかったが、正体がわかれば途端に明確な憎悪と嫌悪の対象として心のデスノートに名前が印字されていく。そして、興味というか対応策として、相手の情報を探りたくなる。
「組み合わせがいいから、かな」
「ああ、都が何か言ってたな。食い合わせがどうとか」
「組み合わせね」
 なんでそんな変な間違いするかなと首を傾げる鈴に、食いしん坊だからだろと突っ込みたいのをグッと堪え、視線で先を促す。
「大学の社会学の授業でやったじゃない。自己とは、接する他者の数だけ無数に存在するって」
「ああ、子供と接するときは親としての自己、妻と接するときは夫として、親と接するときは子供として、上司には部下、部下には上司として、みたいに、人は相手によって自己を使い分けている、ってやつだったか?」
「それそれ。それを聞いたときにね、コウが、『じゃあどれがほんとうの自分なんだよ』って」
 コウとは香染である。
「どれがもクソも、全部ほんとうの自分だろ。TPOによって仕様を変更してるだけで」
「うん、私もそう思う。でもね、思ったの。等しく真実の自分だとして、好きな自己とあまり好きじゃない自己があるなって」
「そうか?」
「千歳みたいに、誰に対しても同じ自己を貫く天上天下唯我独尊男には、ちょっと複雑な話かもしれないね」
 褒められたのか、貶されたのか。都にも似たようなことを言われた気もするが。
「それでね、組み合わせなの。自分が好きな自己でいさせてくれる人は、いい組み合わせなの。だからね、恋人や親友、結婚相手みたいに、長い時間を過ごす相手は、好きな自分でいさせてくれる人を選びたいなって」
「……へえ」
 つまり香染は、鈴が好きな鈴でいさせてくれる相手だと言うことか。
 ならばあのスレンダー犬畜生は、一番素敵な鈴を独り占めしていることになる。
 好きになるわけだ。鈴にとって何番目かはわからない鈴でさえ、自分はこんなに好きなのだ。生産者本人のお墨付きを得た高品質な鈴なんて、ミシュランガイドで殿堂入りを果たしているようなものだろう。いや、自分が好きになった鈴が自分にとっては全てだとか、そんな鈴だから好きになったのかもしれない、とかいろいろ正当化しようと思えば出来ないことはない。だが綺麗事だ。
 だって、全ての鈴を独占したい。
 鈴の一等好きな鈴から、一等嫌いな鈴まで、すべからく全ての鈴が欲しい。
 我ながら我が儘な子供のようだと思うが、仕方ない。
 舐めんな、好きだわバカ。
「人間は弱くて、人生は辛くて、だからせめてお気に入りの自分でいる時間を大切にしたいよね」
 お気に入りの自分。
 少し前の千歳なら、きっと理解できなかった感覚だ。
 だって誰といようが自分は自分でしかなくて、そんな自分のことを気に入っていたから。
 誰に嫌われようが自分は自分を好きだったし、自分の人生ならば自分にさえ好かれていればいいと思っていた。世界は広くて星の数ほど人はいて、けれど自分の世界はどこまでも自分のもので、そこから逸脱することはどうやったって出来やしないのだから、自分さえ自分を肯定してやれば、それで幸せだと。
 自分という人生は自分で始まって自分で終わる、自分という単語だけで構成された連想ゲームのようなものなのだからと。
 だから、自分第一主義、自分最推しで生きてきた。
 結果、これだ。
 自分を嫌いになったら、生きられない。
「……ごちそうさまでした」
「お粗末さまでした」
 空になったお皿に満足気に笑った鈴が、手早く片付けを始める。千歳も立ち上がり、台拭きでテーブルを拭いていく。最初は任せきりだったが、徐々に自分でも出来ることが増えてきた千歳である。たとえ小学生のお手伝いにも劣る内容だが、これも成長だ。
「千歳のハンサムフェイスが映るくらいピカピカにしてね」
「白いテーブルが恥ずかしがって赤く染まっちまうよ」
「ついでに熱々になってくれたらテーブルで本格鉄板焼きできるね」
「木製のテーブルだから炭火焼きになるんじゃないか?」
 くだらない会話をしつつ、角まできっちりと拭き上げる。四角い白のテーブルは綺麗に磨き上げれば冷奴のようだ。食べ物に例えるなんて、どこかの可愛い食いしん坊に似てきたかもしれない。
 けれど彼女を理解したり、つい真似てしまう自分は、こんなときであっても気に入ってしまうのだから、何とも現金な話だ。
 悪いか、好きだよチクショウ。

「なんでここ?」
 訝し気に眉を顰めつつも、千歳より少し上の段に座ってさっそくメロンパンを頬張ったのは都だ。
 ここ、と男が呼ぶのは、会社の薄暗い非常階段だ。ほこりこそないが、節電のために薄暗く、そして冷蔵庫のように冷え切っている。
 幅の狭い階段に座り込み、小刻みに震えながら弁当に箸を伸ばす。
「部署のやつらが軽蔑の眼差しで見てくるんだよ。独身男が弁当作ってもらったら罪なのかよ、俺にずっと一人寂しくコンビニ通いしろって言うのかよ」
「ああ、なるほど」
「なるほど? 何がなるほどだよ、お前も俺に終身名誉独身でいろ派か?」
「俺は一緒に食べられるなら、何でもいいぜ」
「なんだよそれ、好き」
 俺も好き、と都が掲げたペットボトルのお茶に自分のものをぶつけ、乾杯。
 それぞれお茶を一口飲む。
「ね、鈴は元気?」
「元気。今朝は一緒に味噌汁作った」
「お! すごいね。ちーが作ったの、一つちょうだい」
「ん。だし巻き卵。今日のは自信作」
「ひじき入ってる。美味いね、ちゃんと鈴の味だ」
「厳しい修行の成果だな」
 言いつつ、自分もだし巻き卵を一口。少し余っていた作り置きのひじきを混ぜたそれは、ひじきの甘じょっぱさが絶妙なアクセントになっており、冷えても美味しい弁当界の重鎮だ。
「……香染が、あいつの相手なんだな」
 ふと流れた沈黙の隙間に、死ぬほど知りたくて吐くほど知りたくない話題を自ら滑り込ませる。夫、とは口が裂けても言いたくない。
 長い付き合いの都は何もかもわかった顔をすこし傾げ、「鈴が言ったの?」と。
「どう考えてもそうだろ。あいつくらいしか考えられないし」
 俺から鈴をとる奴なんて。
 そう付け足せば、確かにと親友は笑う。
「ちょっとどうかしてるくらい好きだよね、鈴のことが。二人ともさ」
「まあな。あいつ以外のやつに負けることはあり得ない。結局、愛情は愛着には勝てなかったってだけの話だから、負けたとも思ってないけどな」
「どう言う意味?」
 だからさ、と言いかけ、そぼろご飯を一口食べる。
 鈴特製のそぼろは味噌がベースになっており、ちょっと強めの生姜風味が堪らない。しっかり味わい、飲み込んでから口を開く。
「愛情は年月と共に薄れるだろ。反比例的に強まるのが、愛着だ。愛着は厄介で、負の感情すらそれに繋がる。絡まった糸みたいに複雑で、みっともなくて、でも解けない。だから愛情を育んだ相手より、愛着が湧いた相手の方が、最終的に離れがたくなっちまう」
「なるほど。そして愛着は、共に過ごした時間の長さがものを言うと」
「そ。俺がマグマのような熱さと深さで愛しても、幼馴染との複雑怪奇な愛着には敵わないってわけだ」
「で、諦めるの?」
 ちょっと小馬鹿にしたように鼻で笑う可愛らしい顔を軽く睨み、しかし答えられずに押し黙る。ややあってから、答えの代わりに疑問をぶつける。
「でもあいつさ、鈴が家出するようなやつだっけ。天下一品のウザさで追い詰めたか?」
「あいつは鈴には奥手なんだよ。奥手というか乙女かな。お揃いのキーホルダーとかツーショット写真なんかで三年は愛情の自給自足できるコスパ良いタイプ」
「気持ち悪っ」
 光の速さで答えれば、香染の幼馴染であるはずの男は心底愉快そうに笑う。香染は友人を選ぶべきだ。
 ひとしきり笑った都は、二つ目のカップラーメン大盛りの蓋を外して盛大にすする。もはや伸び切っているだろうそれを美味しそうに食べている辺り、味は二の次で、とにかく量なのだろう。少食だからこそ徹底的に味にこだわる鈴とは正反対だ。
「鈴の旦那はね、昔は良いやつだったよ。……間違えた、良い性格のやつ」
「なるほど性悪だったんだな」
「でもほら、何でも突き詰めれば一種の美学みたいに感じるだろ。そいつは一貫して、良い性格だった」
「クソはどんなに綺麗にラッピングしてもクソだぞ」
 鯨がプランクトンを一口で飲み込むようにカップ麺を食べ終えた都に、弁当の残りを差し出す。まだ全部は食べきれない。無理をした結果便器に流すよりは兄に流し込んだ方がいいので、毎回頼んでいる。
 千歳の言葉に笑いながら弁当を受け取った男は、掃除機がゴミを吸い取るように食べていた先程までとは打って変わって、じっくりと味わう。腐っても兄だなと、毎回感心する。
「どうも会社で問題を抱えてるみたいで、人が変わっちゃったんだよね。話してくれないから詳しくはわからないんだけど」
「会社で問題……」
 瞬間的に浮かんだのは、鍛えられた肉体を持つ無愛想な顔のゴリラ上司。脊髄反射で、「それは気の毒だな」と口から言葉が漏れる。
「なかなか厄介そうでさ、周りも気を揉んでるんだよ。けど、本人からのSOSがないと動きにくいこともあるからさ」
 頼ってくれるのを待ってるんだけどね、と寂しげに呟いた男の表情は、「愛することに疲れた」と語った鈴に酷似していて。
 音が鳴るほどキツく、唇を噛み締める。
「だからって鈴を傷付けていいわけじゃない、だろ?」
「そうだね」
「だいたい、多かれ少なかれ、みんな問題を抱えてるもんだろ。会社なんて、仲良しが集まってるわけじゃない。何もかもが違う人間が一つの建物に押し込められて、社会的立場を人質に、労働を強要されるんだ。問題が起こらないわけがない」
「だから、仕方ない?」
 そう言って流し目を送ってくる端正な顔は酷く悲しげで。
 愛しいあの子と同じ顔というだけではなく、単純に男の親友として、胸が苦しくなる。けれど。
「諦めて耐えるしかない、だろ」
 自分に、言い聞かせるように掠れた声で答える。
「どんだけ理不尽でも?」
「生きていること自体が、理不尽な罰ゲームなんだよ」
 撒き散らしたセリフの中に濃く現れた弱者と敗北者の匂いに吐きそうになる。
 いつの間にやら弁当を食べ終わった都はことさら丁寧に手を合わせ、「ごちそうさまでした」と目を閉じる。それはまるで祈りのようで。
 そんなものを見たせいだろうか。
 終業時間間際に黒緋に呼び出された会議室にて。
 目の前に迫った男の厚い胸板を、気付けば両手で押し返していた。
 最初は、普通に仕事の話であった。
 今千歳たちの会社では、新事業展開を計画しており、その立ち上げリーダーとして黒緋が選ばれたそうだ。
「すごいッスね」
「ああ。それで、メンバーを何人か選べと言われてな。うちの部署からはお前を連れて行くことにした」
「は」
 思わず、テーブルを挟んで向かい側に座る上司に胡乱な視線を送る。男がその視線に不機嫌そうに眉間の皺を濃くしたものだから、意図せず睨み合うようになってしまった。と、急に黒緋が何かに気づいたように「ああ」と呟き、それから頭を振った。
「公私混同でお前を選んだわけじゃない。お前の仕事ぶりを評価した結果だ。勘違いするな」
「そう、ですか」
 性格と性癖に難はあるが、死ぬほど仕事ができる男だ。おそらくその言葉に嘘はない。セクハラさえなければ完璧な上司で、実は密かに尊敬すらしていた相手だ。そんな男に仕事面で選ばれたという事実は、悔しいけれど単純に誇らしい。
「最近、調子がいいみたいだしな。顔色も良くなったし、目の下の隈はまだ酷いが、足取りもしっかりしてる。一時はどうなるかと思ったが」
 深く息を吐きながらそんなことを言われ、思わずまじまじと見返す。
「あ? なんだよ」
「いえ、意外とちゃんと見てるんだなと」
「何言ってんだ今更。ずっと見てんだろ」
 ならばセクハラをやめてくれたらいいのに、とは流石に言えず、曖昧に返事をする。
 と、会議室に響く舌打ちを一つして、ゆらりと男が立ち上がる。近付かれる毎に身体がすくんで強張っていき、身動きが取れない。反比例するように鼓動は速くなり、胃が締め付けられるように痛み出す。
 千歳の背後までやって来きた黒緋は、背を向けて座した千歳の身体を覆うように両手を机についた。シャツ越しでもわかる男の熱い肌を背中で感じ、恐怖で呼吸が乱れていく。
「怖がんな。最近は酷いことしてねえだろ。優しくしてんだろうが」
 言いつつ、後ろから千歳の頬に自身の頬をするりと寄せる。猫が甘えたような可愛らしい仕草だが、相手は獰猛な野獣だ。危機感しか煽られない。
「な、今日いつもの店行くか。仕事の話もあるし」
 いつもの店、とは、いつも連れ込まれるホテルの最寄りの店のことだ。にわかに興奮し出したらしい男の腕が身体にまわされ、拘束されるように抱きしめられる。
「あんた、公私混同はしないって言った舌の根も乾かねえうちに……」
「悪い、久しぶりだからつい。けど、お前が欲しい」
 混ぜっ返してうやむやにして逃げようとしたのに、まさかの剛直球で返された。段々強く締め上げてくる男の腕がアナコンダに思えてきて、きっと拒絶すればそのまま締め上げられて上半身と下半身が真っ二つに捩じ切られてしまうのだろう。それなら、大人しく身を委ねてしまおうか。
 諦めて目を瞑れば、ご褒美みたいな鈴の笑顔や、ピカピカになった机に反射する自分の満足げな顔、諦観的な千歳を見つめる都の哀しげな表情が浮かぶ。三者三様の表情でこちらを見つめてくる三対の瞳は、一つの同じ問いをこちらに訴えている。
 お前は、今のお前が好きか、と。
 目を逸らすことは許されない。もしそんなことをすればその瞬間に、喉元を食いちぎられそうだ。
 思わず唾を飲み込めば、カラカラに乾燥していたためか、鋭い痛みが走る。
 殺すぞ。
 これ以上千歳を奪うなら、殺してやる。
 三対の瞳に、そう言われた気がして。
「あの、今朝、豚肉を漬けてきたんです」
「あ?」
「林檎を丸々一個すりおろして、そこにたっぷりの生姜、それから味噌を加えました。林檎が肉を柔らかくしてくれるんだそうで、帰ったら焼くんです。林檎の優しい甘さが嬉しい、豚の生姜焼きです。付け合わせはキャベツの千切りです」
「ほう、うまそうだな」
「きっとうまいんです。だから」
 振り返り、男の胸板を押す。震えた手で。しかし、きちんと伝わる強さで。
「あんたとは、行けません」
 恐怖で頭が回らず、ただそれだけを言う。心臓を吐きそうだ。
 しばしの沈黙。と、男はすっと身体を離し、肺の中の酸素を部屋中に行き渡らせるかのようなため息を一つ。そして一言、「仕方ねえなあ」と。
「今夜は諦めてやる。身体が目的なわけじゃねえしな」
 ならば何が目的なのか。生命か、生命が目的か。
「なんだその目」
「い、いえ」
 訝しげな視線に敏感に気付いたらしいゴリラが、険しい表情で頬を撫でてくる。刺すような視線のせいで生きた心地がしないが、なぜか男からは敵意や殺意は感じられない。猿轡を噛まされた上で亀甲縛りをされ、問答無用で拉致されるかと覚悟していた千歳である。やや脱力し、黒緋を見上げる。
「今日は、お前のことを知れたから、それでいい」
「え」
「嬉しい。もっと教えて欲しい、お前のことを」
 大きな手で頬を包まれ、こちらの鼻先に男の高い鼻梁が軽く擦り付けられる。少し伏目がちな黒緋の表情は驚くほど穏やかで、押し付けられる鼻先はまるで恋人同士の初めての口付けのように優しくて。
 時折見せる男の甘さの意味に、気付いていないわけではない。けれどそれは単純なハラスメントより余程厄介なシロモノだ。
 不器用ながらも懸命に優しく触れてくる指先に、いっそ殴られた方が楽だったなと、遠い目をするしかなかった。
 
「次はそこに掃除機かけて。終わったら呼んで」
 日曜日。
 毎朝上質な飯を与えられ続けた千歳の身体は、たとえ休日でも決まった時間に空腹を訴えるようになった。以前は夕方辺りまでグダグダと布団で過ごしていたのに、壊れたオモチャのように鳴り響く腹に急かされて起き、すでに起きていた鈴と朝食を作った。栄養たっぷりのご飯に腹は満足したが、せっかくの休日で、おまけに予定もないのに早起き。なんだか損をした気分だと呟けば、なら得をさせてあげようと腕まくりをした可愛らしい生き物に矢継ぎ早に指示を出され、気付けば掃除の真っ最中である。
「できました」
「お! さすがだね。本棚の隙間も綺麗にしてくれたら、最優秀主演掃除賞あげちゃう」
「……はい」
 緩慢ながらも掃除機のノズルを突っ込み、スイッチを押す。
 鈴は、ほんとうに千歳を動かすのが上手い。一気にあれこれ指示されるとやる気をなくすが、一つやる毎に褒め、そして次の指示を与えてくる。満面の笑み付きだ。単純過ぎて自分でも呆れるが、散りばめられる彼女からの小さなご褒美を拾い集めるように、嫌々ながらも身体が動く。
 そんな鈴は自身が寝起きしている和室の掃除中だ。すっかり私物化しており、決して中に入れてくれない。日本一有名な押しかけ女房の鶴のように覗いたら出て行ってしまう気がして、こちらも深くは入り込まないように気をつけている。結果、誰より近くて何より遠い、という妙な距離感のまま、こう着状態が続いている。
「……ん?」
 ゴウゴウとやかましかった掃除機が、むうむうと苦しげに唸り始める。無機物のくせに妙に雄弁だなと思いつつノズルを引き出せば、何やら紙が張り付いていた。
「なんだこれ」
 様々な絵本の表紙がプリントされたそれは、どうやら出版社主催の絵本展限定ポストカードのようだ。ひっくり返したり透かしたりと眺め回して見るが、残念ながら買った覚えも、なんなら絵本展へ行った記憶もない。
 確かに読書は好きだ。唯一の趣味と言っていい。だが絵本など子供の頃に読んだきりで、この家には一冊もない。
 なのになぜだろう。
 ポストカードに印刷された絵本の数々。そのどれもを知っている。読んでもらったのだ、誰かに。
 途端、目の前がぐらりと揺れ、膝から崩れ落ちる。目頭が熱くなり、視界がぼんやりと歪む。
 泣き出してしまいたいほどの懐かしさ。
 胸が締め付けられるほどの愛おしさ。
 けれどその激情がどこから来るのかもわからない。ただ、何かを忘れているような気がしてならないのだ。
 自分の全てを揺るがすほどの、何かを。
「ちー? どうしたの」
 耳触りのいい澄んだ声に呼ばれ、顔を上げる。すぐ近くに、この世の可愛いを詰め合わせたような彼女の顔。
 しゃがみ込んでこちらを覗き込んでくるその漆黒が、千歳の手の中のポストカードを見る。
「あらら」
「……なんだよ」
「なんだよがなんだよ」
 どことなく楽しげな鈴が、跳ねるように立ち上がる。何か言われるかと身構えれば一言、「お昼は?」とだけ。
「……カステラ」
 手の中のポストカードを見ながら呟けば、「『ぐりとぐら』だね」と、彼女は笑う。
「よくわかったな」
「そりゃあね。日本一有名なネズミたちだもの」
「映画にもテーマパークにもなってないのにな」
「そう考えると、世界一有名なあのネズミよりすごいかも」
「おい、迂闊なこと言うな。狙われるぞ」
 ネズミ信者の刺客に、と言えば、赤地に例の不細工な黒猫がプリントされたエプロンを着ながら、鈴が嬉しそうに笑う。
「大丈夫、最高ハイスペックさんが守ってくれるから」
「は? なんの話だよ」
「私だけの、ヒーローの話」
 香染のことだろうか。
 途端に嫉妬心が燃え上がり、先程までの激情すらも焼き尽くす。
「ヒーローなんてカッコいいもんじゃねえだろ」
「かっこいいよ、そろばん検定も簿記二級も持ってるし」
「俺も持ってる」
 即座に言い返せば、可愛らしい笑みが益々深くなる。
「なら、頑張って守ってね、そろばんで」
「そろばんで? 確かにあれで殴ったら痛いだろうが……」
「顔とかお腹をコロコロしたら、浮腫やたるみが解消されたりするかな」
「美顔ローラーじゃないんだが。まったく、お前と話していると時折言葉の無力さを痛感する」
「あらら」
「何」
 冷蔵庫を開けてこちらを振り返った鈴が、世にも情けない声でつぶやく。
「牛乳ない」
「……買ってくる」
「すまんね」
「構わんよ」
 言いながら、ジャケットを羽織る。しばし逡巡し、「一緒に行くか」と小さな声で誘う。
「うん」
 ご褒美のような笑顔で、鈴が頷いた。

 ちょっと遠回りして行こうと鈴がねだるので、仕方なく公園に入る。
 真ん中に小学校のグランド並みの湖があるそこは、湖の周りがウォーキングコースとなっているが、寒いせいか、今は閑散としている。
「カステラ……というか、パンケーキか。パンケーキのトッピングは何がいいかな」
 澄んだ空を見上げながらアレコレ考える鈴は、学生時代から着ている真っ白なロングコート姿。所々にファーが施されたそれは、彼女の実年齢からするとやや幼く思えるが、年齢不詳な可憐な容姿にはよく似合っている。けれども何かが、決定的に足りない。冬の彼女を彩る何かが。
「ベーコンやレタス、卵にチーズ、なんてのもいいよね。でもやっぱりシンプルに、バターと蜂蜜かな」
 就職先でも選んでいるのかの如き真剣さで、延々とパンケーキについて悩む彼女。じっと見つめていると、宝石のような黒い瞳がこちらを向く。
「千歳?」
 小首を傾げるその姿に、やっと違和感の正体に気付く。
 どうして吐く息が白くない。
 脳裏に浮かぶのは、小さな赤い唇から漏れる白い吐息。その華奢な身体を胸に抱き込み、唇同士が触れそうな距離で笑い合った冬の夜。
『千歳の吐息は、チョコレート味だね』
 あれは確か、バレンタイン。バイト終わりの鈴を迎えに行った帰りに、彼女が遠回りしようとねだったのだ。冬の夜は寒く、彼女の小さな身体はすぐに凍えてしまうから帰りたかった。『とびっきりがあるの』と、悪戯っぽく笑う彼女に絆され、仕方なく屋根のあるベンチに向かった。自身の前に鈴を座らせ、コートの中に閉じ込めるように後ろから抱きしめた。鼻先をくすぐる彼女の香水に、頭がくらりとして。誘われるように首元に顔を埋めようとすれば、目の前に差し出されたのはステンレス水筒。カップ部分を取り外して、彼女がそこに注いだのは。
『はい、ホットチョコレート』
 仕上げに幸せを二粒ほど、と言って、ハート型と猫型のマシュマロが浮かんだカップを渡される。一口飲めば、一気に身体の中に暖かさと甘さが広がり、口元が緩む。少しシナモンやジンジャーを足したのだと言うそれは、この寒さと相まって、確かにとびっきりだ。そう伝えれば、満腹になった猫のように笑う彼女。堪らずその唇に口付ければ、千歳のキスは美味しいねと、また笑う。果実のような唇から漏れる白い吐息ごと再び齧り付けば、重ね合った唇の隙間から笑いが漏れる。
『痛いよ。もう、酷い人』
『美味いお前が悪い』
『美味しいの?』
『とびっきり。ご褒美みたいだ』
 小さなキスを落としながら交わし合う睦毎は、白い吐息で隠されて二人だけの秘密になる。それが堪らなく愛おしくて、いつまでも離せなかったのに。
 何の色もない彼女の吐息を睨むように見つめ、我に帰る。
 なんだ今の妄想。いや、鈴に関する妄想なら清濁併呑、多種多様、変幻自在に膨らませに膨らませてきた。風船おじさんならばとっくに飛んでいくレベル。
 が、ここまで生々しく脳内再生できるとは、さては自分は稀代の妄想の天才か、あるいは精神異常者か。どちらでも妄想である以上虚しいことには変わりないが、前者ならばまだ救いがあるし、後者なら事件とか起こしそうだ。
 脳内で顔にモザイクがかかった都が不快な加工声で笑う。「あいつはそういうやつです」と。
「お前もたいがいだからな」
「何が?」
「……別に」
 トリップしていた思考回路を目の前の鈴に繋げる。訝しげにこちらを見上げる愛くるしい瞳は宝石のようで、吐息がどうとか馬鹿らしくなる。
 チクショウが、好きだわ。
「歩きながら寝てただけ」
「目まで開けて? 器用だね」
「プロだからな」
 そう言うと、おかしな人、と澄んだ声で笑う。
「でも、ダメだよ気をつけないと。危ないでしょう」
 車に轢かれたら死んじゃうんだよ。
 そう続けた鈴の姿は冬の陽射しに透けているように見えて。途端、恐ろしくなる。清らかな冬の空気に、彼女が溶けて消えてしまいそうで。
 咄嗟に彼女の小さな手を掴み、反射的に離しかける。雪のように白いその手が、ぞっとするほど冷たかったからだ。単なる冷えではない。命を感じさせない、残酷にすら感じられる冷たさ。
 一瞬緩めた手に、倍の力を込める。彼女の関節がみしりと軋むのを手のひらに感じるほどの強さで、握り込んだ。
 繋ぎ止めなくては。何に? わからない。けれど、絶対に、もう二度と彼女を離してはいけないと、本能が告げている。二度と? 二度とって何だ? わからない、この手を離してはいけないことしか、わからない。
「痛いよ、千歳」
 困った声に意識を引き戻される。
「すまん」
 慌てて力を緩めようとしても、手がかじかんだように動かない。彼女の冷たさで千歳の手まで凍てついてしまったようだ。
「すまん、痛いな、すまない」
 謝りながら手を離そうとするが、やはり離れない。彼女の手は鬱血した様子はないが、それでも痛いに違いない。こんな、血が通ってないみたいに青白くなってしまっているのだから。
「このままでいいよ、千歳」
「いい訳ないだろ」
「いいの」
 そう言って鈴が強く握り返してくる。そして、「ありがとう」と笑った。
「捕まえてくれて、ありがとうね」
 慈愛に満ちた瞳は、まるで宗教画のよう。目を逸らせず、見つめているだけで赦されたような気がして。泣きたくなる。
「……構わんよ」
 少し涙ぐんだ声でそう言えば、鈴が愛おしげに瞳を細めて見返してくる。
 居た堪れなくて、咄嗟に「ゲームしようぜ」と口走っていた。
「ゲーム?」
「おう。そうだな、『ちょっと幸せにしてくれるもの』ゲーム」
「なるほど。ちょっとした幸せをプラスしてくれるもの、ね。じゃあ言い出しっぺさんから」
 二人、手を繋いだまま歩き出す。傍目には仲睦まじい恋人同士。内実としては、ラッコが寝ている時に流されないよう、手を繋ぎあっているようなものだ。
 何に流されないようにかも、どこに流されないようにかも、わからないけれど。
「『最後に乗せる温泉たまご』」
「ちょっと日の丸に見えるのがまた、風情がありますな。『真っ白な練乳をたっぷり』」
「かき氷やいちごにかけても良し、チューブから吸っても良し……幸せの王道だな。『熱さに揺れ踊るカツオ節』」
「ああ! 熱々を表すのに世界で一番素敵な表現だよね。あらら、どうしよう、負けそう。あ、『天まで伸びる追いチーズ』!」
「ぐはっ」
 会心の一撃である。
「ふっふっふ。素直に負けを認めるが良いぞ」
 不公平だと思う。ここで、「『お前』」と言えたなら、誰が何と言おうと俺の勝ちなのに。
 そんな度胸ねえわクソが。
 自分と同じように、生きるという行為そのものに違和感を覚えているくせに、出来事や人物、物事(九割食)の一つ一つを楽しむ彼女。コンパクトな上にコスパまでいいとは、家電製品ならば重宝されること間違いなしだ。
 と、こんな風に、哲学的なような屁理屈のような理由でもって自身の好意を解釈しているが、実際は彼女が人生に何の効果も効用もなくても、好きになっただろう。
 彼女が彼女である。それだけで、愛さずにはいられないのが千歳なのだ。
 意味がわからない? そんなの、自分が一番わかっていない。それでも、訳が分からないくらい好きなのだ。愛しちゃっているのだ。
 が、それを伝える覚悟は、今の千歳にはない。
 悔しくて、情けなくて、滑らかな彼女の小さな手を引きながら、「まだだ」と吐き捨てる。
 追いチーズに勝るものに考えを巡らせながら。

「罰ゲームはね、本の読み聞かせにしようかな」
「……は?」
 スーパーにて。
 パンケーキに添えるあれこれを選びながら鈴がさらりと言う。
「本の読み聞かせ? なんで?」
「だって千歳、夜眠れないんでしょう。寝る前にすこし読むだけで、ちょっと違ったり違わなかったりするよ」
「曖昧だな」
 と言うか、やはり眠れていないことに気付かれていたか。一つ屋根の下で生活しているのだから当たり前かもしれないが。
 千歳の持つカゴにベーコンを入れながら、彼女は真剣な顔で語る。
「あのね、千歳、本は愛なの」
「愛、ですか」
「愛です」
 レジに向かい、列に並んで会計を待つ。
 普段はお喋りな彼女は、その間なぜか全く口を開かなかった。話しかけようとすれば「しーっ」とやけに真剣な目で遮られ、仕方がないのでこちらも無言になる。退屈凌ぎに自身が持つカゴの中を見れば、フライドオニオン、クリームチーズ、ベーコンにルッコラ、ワインビネガーなどが入っていた。
 どうやらしょっぱい系パンケーキらしい。
 会計を済ませ、スーパーを出る。
 肩に下げているのは鈴から借りたぶさいく猫が全面にプリントされた悪趣味なエコバッグだ。
 しばらく無言で歩き、人気がなくなった頃にようやっと彼女が自論を語り始める。
「絵本の読み聞かせってあるでしょう? あれはね、親子の愛情のやり取りなの。互いの脳の、感情をつかさどる部位がぶいぶい言うの。つまり読み手と聞き手が、本を介して愛を育む行為。だから、愛なの」
「ぶいぶい……。脳科学的に効果が証明されてるってことか」
「はてさて」
「曖昧だな」
 縁石の上をゆらゆら歩く鈴は、自分勝手に言葉を続ける。
「寝る前に愛のあるやり取りをするとね、よく眠れるの。安心するんだね、きっと。だから今夜から、本の読み聞かせをしてください」
「してくださいって言われても。誰にすんの? お前か? 俺、お前が好きな本なんて持ってたかな」
 千歳も鈴も、かなりの読書家である。今は鈴に占領されている和室にはデカい本棚と、入りきらない本が積まれている。だが、互いに好みのジャンルが違うのだ。
 千歳はミステリーやサスペンス、鈴は絵本や児童書。
 鈴に限って、「人が死ぬのは怖いから嫌」などと宣うことはないだろうが。
 彼女に合う作品を頭の中であれこれ考えながら、枝のように細い二の腕を掴んで縁石から下ろす。単純に危ないから、というだけでなく、彼女と車道の組み合わせが落ち着かなかった。ドリアンと酒並みに致命的な気がしたのだ。
「千歳に読み聞かせるんだよ、千歳が。本は、とっておきを貸してあげる」
 縁石から降りた鈴は、子猫のような軽い足取りで隣を歩きながら微笑む。「は?」と我ながら素っ頓狂な声を上げれば、「だからね」と、物分かりの悪い子供に諭すように、穏やかに言う。
「自分自身に読んであげるの。それはきっと、今の千歳にとって必要なことだよ」
「つまり、自分自身を愛せってことか?」
「端的に言うと、そう」
「必要ない」
「千歳」
 アパートに着き、扉を開けて中に入る。買ってきた食材をキッチンに置いてリビングへ行き、ソファにどかりと座る。
「千歳、聞いて」
「自分を愛する必要なんてない」
 隣に座った鈴から顔を背けてそう言えば、哀しげな声で、「死んじゃうよ、千歳」。
「死んじゃう? 人は愛がないと生きていけないとか、そう言う戯言?」
「戯言じゃないよ。あのね、昔、ドイツの学者が実験をしたの。酷い実験。赤ちゃんを集めて研究員たちに育てさせたの。ちゃんとした環境で、栄養もきちんと摂らせてね。けれど一つだけ、愛情を感じさせるようなことを一切禁じたの。抱っこや笑顔や言葉を与えなかった。そうしたらね、赤ちゃんたちは全員、健康状態には問題はないのに、死んじゃったんだって」
 鈴の手が、膝の上にある千歳の拳に触れる。ぞくりとするような氷の手。けれど、暖かな声で囁く。
「人はね、愛がないと生きられないの。誰かに愛されることと同じくらい、自分で自分を愛することも、とっても大切なことだよ」
「そりゃあな、存在すら怪しい『俺を愛してくれる人』を追い求めるよりはコスパいいし建設的だろうな。そんな、幽霊みたいにあやふやなヤツを待ってる間に死ぬかもしれないし。そう考えたら、一番合理的だよな、愛の自給自足って」
 自慰行為みたいで虚しくはあるがな。
 皮肉を隠すことなく吐き捨てれば、ずっと低い位置にある小さな肩がさらに小さくなる。
 最悪だ。
 鈴の願いなら何でも叶えてやりたくて、無茶振りにも付き合ってやりたくて、我が儘にも振り回されてやりたくて。
 けれど、提示された禁忌に、全力で逃げようとしている。
 絶望だ。
 こんな物言いしかできないことも、唯一の存在を傷つけたことも、まだ生きていることも。
「俺さ、死のうとしてたんだ。お前がここに来た日」
 するりするり。
 ひっくり返った砂時計のように、心が溢れていく。
 鈴の手は一瞬ぴくりと動き、筋張るほど強く握り直される。食い込んだ白い爪の先、その微かな痛みに促され、そのままぶち撒ける。
 もうずっと、死にたいのだと。
 嫌いで嫌いで、大嫌いな自分を殺したいのだと。
 幼稚園児のように辿々しく吐き出した心は取り留めがなくてバラバラで、しかも無闇矢鱈と無茶苦茶な方向に投げ散らかすものだから、自分ですら意味がわからない代物で。
 それでも鈴は、その一つ一つを丁寧に拾い上げて集め、パズルのようにくっ付けてくれた。
 そして気付けば、砂時計の砂は全部落ち、パズルは完成し、千歳は泣いていた。
 泣きながら、死にたい死にたいと、冷たい手の甲を涙で濡らしていた。
 と、黙って聞いていた鈴が、「ね、千歳」と小さく囁く。
「死んだらだめ、なんて言わないよ。その気持ち、わかるから」
 彼女の穏やかな声にぼんやりしていると、頭を撫でられる。そしてそのまま目の前にやってきた鈴に、抱きしめられた。
「千歳、でもね、今日じゃなくていいのでは」
「……は?」
「死ぬのはまた別の日にしてさ、とりあえず今日は一緒にパンケーキを食べませんか、ふっかふかのやつ」
「パ、ンケーキ……?」
「明日はサクサクのトンカツ。明後日はトロトロのオムライス。その次は肉汁たっぷりのハンバーグ。人生は辛いけれど、世の中はびっくりするくらい美味しいものに溢れてる。お腹いっぱい食べて、もう食べたいものが何一つ思い浮かばなくなったら、そうしたら……」
 髪をすくように千歳を撫る手は、背筋に悪寒が走るほど冷たい。繊細なガラス細工のような鎖骨に顔を埋めれば、いつも使っている練り香水の香りが、千歳を包む。
「そうしたら、また、どうしたらいいのか考えようよ、一緒に」
 瞼が、燃えるみたいに熱くなる。目を閉じて、それでも堰き止められなかった涙が溢れる。
「世界にはね、今日死ぬにはもったいないくらい美味しいものが溢れてますよ」
 彼女らしい、彼女にしか言えないセリフ。
 馬鹿な小学生みたいな内容なのに、胸にストンと収まる。
 だって、料理は愛だから。
 こんなにも熱烈で献身的な愛を、千歳は知らない。
 と、彼女の肩口に頭を預け、その華奢な身体に寄り掛かりながら、理解する。
 ああ、確かに。
 確かに、人は愛がなければ生きてはいけない。
 自分は、もう鈴の愛なしでは、生きられない。
「……どんだけ、食いしん坊なんだお前は」
 涙に濡れた声でそう言いながら、彼女のマシュマロのような頬に擦り寄る。くすぐったいのか、鈴の音色のような可愛らしい笑い声があがり、冷たい手に優しく肩を押された。可愛くないことをする手首を掴み、唇で喰むように口付ける。
 否定しないで、拒絶しないでとの祈りを込めて手のひらに。
 鈴という女が存在してくれていることへの感謝を、その手の甲に。
 くすぐったいと喉を鳴らして逃げようとする小さな身体を抱きしめ、縋るように身を預ける。
「甘えた人」
「うるせえ」
 ああもう好きだわクソッタレ。
 と、心の中で悪態混じりの愛を吐きながら。

「『星の王子さま』か」
 寝支度を整え、クイーンサイズのベッドヘッドに置かれた小さなランプ一つを残し、部屋を暗くする。いつ買ったかもなぜ買ったかも覚えていないそのアンティーク調のランプは、花や猫がデザインされたステンドガラスが可愛らしく、ほのかながら暖かな色に部屋を染めてくれる。
 静寂が支配する夜。
 こうして並んでベッドの縁に腰掛けていると、橙色に照らされたこの空間だけしかこの世に存在しないように感じる。
 いや、それは願望か。
 鈴と二人で完結する世界。
 そんな夢物語に、しかし今だけは浸りたくて。
 鈴の膝に置かれた小ぶりな本の表紙を、殊更大切に撫でる。
『星の王子さま』。サン=テグジュペリ作。
 名前だけなら誰もが知っている有名作品だ。  
 千歳自身、読んだ記憶はないが、それでも簡単な概要や有名なフレーズは知っている。いや、もしかしたら誰かに読んでもらったことがあるのかもしれない。断片的にだが、内容を覚えているような気がしなくもない。
「この本を初めて読んだときね、思ったの。私はこれを読むために生まれてきたんだって」
「……ああ」
 確かに、ごく稀にだが、そう思わせてくれる一冊がある。
 この本は自分のために書かれた作品だ、と強く思わせてくれる一冊が。
「千歳も知っての通り、私たち双子は小さい頃に両親を亡くしてね、それから親戚の家をたらい回しにされて、結局施設に行くことになったの」
「うん」
「この本に出会ったのは、高校を卒業する日。施設の人がくれたの。『大人になるしかなかったあなたへ』って。これはね、千歳、大人に向けた物語なの。子供にとっては当たり前で、大人が忘れてしまった大切なことが詰まってる。読んだとき、なるほどって思った。決して楽でも恵まれてもいなかった私の幼少期は、この本を最高の状態で読むためだったんだって」
「空腹は最高のスパイス、みたいな理屈か?」
「そう、それ!」
 言いながら鈴は、ぼろぼろの絵本を抱きしめる。
「それから私は、絵本や児童書をたくさん読むようにしたの。自分の中にいる子供の自分に読んであげたくて。本は愛だから、愛してあげたかったの、満たされなかった昔の自分を」
 そう笑む彼女は満たされた顔をしていて。
 たっぷりと、自分を愛してあげたことが伝わってくる。
「お前は強いな」
 溢れたのは、そんな陳腐なセリフ。けれど、心底からの本音。
「強くないよ、我が儘なだけ」
 悪戯猫の笑みで、可愛いらしい子は肩をすくめる。
「人生は残酷で、どこまでもどこまでも堕ちていくくせに、天国は作り物の世界にしかない。千歳、人生は罰ゲームなんだよ。けどね、私は両親の形見でもあるから、死ぬことは出来なかったの。両親だけじゃない。親戚や施設の人、友達、恋人、いろんな人の関わりで、今の私がある。もちろん、いい人ばかりじゃないけれど。それでも私は、私に関わってくれた全ての人の作品、集大成なんだよ。だから、自分の命は自分ひとりのものって考えるには、少しばかり大き過ぎて、生きていくしかなかった。どうせ生きなければならないのなら、せめて楽しみが欲しいの。だから、『美味しく楽しく気持ちよく』がモットー。それくらいしか人生に旨味なんてないんだからさ」
 人には生きる権利と同様に、死を選ぶこともできて。
 死を選べばそれでお終いだから、自分を騙して、誤魔化して、延命治療のように引き伸ばしながら明日に繋げる毎日。
 けれど生きることを選び続けるためには何かに縋らなくてはいけなくて。
 それはきっと、小さな奇跡で十分なのだろう。奇跡的に醤油の量が絶妙だったとか、奇跡的に雲の形が猫みたいだったとか、奇跡的に好きな人と同じものが好きだったとか、そんな、吹けば飛ぶような奇跡。
 そしてその小さな奇跡に気付くことを幸せと呼ぶのかもしれない。
「さて、今日は特別に私が読んであげるね、千歳の中の小さな千歳に。小さな子は大好きだからね」
 橙色のランプの中に浮かぶ、ご褒美みたいな笑顔。つい幼い子供のように「うん」と頷けば、頭を撫でられる。冷たい手が気持ちよくて、一度座り直してからその肩に頭を預ける。束の間きょとんとした鈴は、仕方ない人と小さく笑い、ゆっくりとページを開いた。
 二人だけの橙色の世界。
 鈴で始まり千歳で終わる空間に流れる清らかな彼女の声。
 紡がれるのはかつて子供だった大人に向けた物語。
 華奢ながら柔らかな肩に甘えて過ごすとろけるような時間はあっという間に過ぎて。
 久々に、瞼が重くなる感覚。と、本を閉じた鈴が、ふわりと頭を撫でてくれた。
「今日はきっと素敵な夢を見られるよ」
「そうかな」
「そうだよ」
 なら、お前の夢だな。
 と、半分寝ながら呟いた言葉は、彼女に届いたかどうか。
 うながされるまま布団に潜り込み、瞳を閉じる。
「おやすみ千歳」
 と、彼女の手がランプに伸びたのを気配で感じ、これだけはと伝える。
「明日の夜は、俺が読むから」
「そうね」
「お前に」
「私に?」
 すこし驚いた彼女の声は、それでも耳に優しくて。
 夢の世界に引き込まれつつ、うろうろと言葉を漏らす。
「お前に、読みたい。絵本を毎日読んでやったら、小さなお前は俺に懐いて、大きなお前も俺に夢中になるかもしれないだろ」
 言葉の最後は我ながら不明瞭だったが、それでも伝わったらしい。「もう」と笑うその声には、隠しきれない照れが含まれていた。
 そんな可愛い声が聞けるなら、世界中の絵本を読んでやりたい。
 自分らしくない。けれど、鈴が喜ぶ自分になりたいと、夢現に願った。
 
 それから毎晩、『星の王子さま』を読み聞かせした。
 自分と鈴に。
 橙色の世界で二人きり、物語に浸るのは堪らなく幸せで、不思議と夜もしっかり眠れた。そうすると目覚めも良くなり、ご飯も美味しい。
 鈴を中心に、自分の世界がうまく噛み合って行くようだ。そう伝えれば、「私は何もしてないよ」と彼女は笑う。「ゲームの敗者に罰を与えただけで、きちんとそれに従ったのは千歳でしょう?」と。
 けれど、彼女の罰とは、明らかに千歳が生きていくための技術だ。それも、独りで生きていくための。
 身に付ければ身に付けただけ、彼女は離れていく。
 そうわかっているのに、日々変わっていく自分が嬉しくて誇らしくて、優しくて残酷な罰を、いくつもいくつもこなした。
 そしてとうとう、『星の王子さま』を読み切ってしまった。

 ゆっくりと、最後の一字まで丁寧に読み上げ、表紙を閉じる。つるりとした表面を指でなぞりながら、読み終わった物語に思いを馳せる。
「これは、『愛』の物語なんだな」
「……どうしてそう思ったの?」
「最初は、子供ならではの素朴な疑問や無邪気なカウンターだと思った、大人への。メガネかけた蝶ネクタイの少年がよくやる、『あっれれー、おっかしいなあー』から始まる皮肉や攻撃かと」
 言いつつ、酔っ払いの挿し絵が描かれたページを開く。
「うむうむ。確かに大人には会心の一撃だよね」
「だが、違う。これはそんな大人虐めじゃない。王子さまが薔薇への愛情に気付く話だ。しかも、複雑な愛情」
「一説によるとね、この薔薇はサン=テグジュペリの奥さんなんだって」
「作者の実の奥さんを表現してるってことか?」
「そうなんじゃないかって言ってる人もいる」
「それはなかなか……」
 一からページをめくっていき、薔薇の場面を辿る。そうして出た、率直な感想は。
「強烈な奥さんだな」
「ふふ、ね」
 目を合わせ、笑い合う。読みながら薔薇の我が儘に辟易していただけに、なおさら。
 しかし、それも踏まえて。
「王子さまはオトコだな」
「それは、漢字の漢と書いて『オトコ』みたいな?」
「ああ。しかも相当ないい漢だ」
 と、「わかる」と呟いた鈴が千歳の手の中にある本を受け取り、抱きしめる。そしてうっとりと呟いた。
「王子さまはね、私の理想の男性だもの」
「あ?」
 自分でも呆れるほどの尖った声が漏れ、一気にアンチ王子さまになる。お前のヤギ、食ってやろうか。
「だって、素敵じゃない」
 ベッドヘッドに本を置いた鈴は、華奢な身体をふわりと布団に預ける。そして目を伏せ、どこか寂しげに、甘く囁く。
「私もあんな風に愛されたい」
 橙色に照らし出される彼女の姿は酷く艶っぽくて。
 何か考えるより先に彼女を閉じ込めるように覆い被さっていた。
「俺は王子さまじゃないし、王子さまにもなれない。なりたくもない。毎日水やりなんかしないし、ガラスの覆いなんて被せてやらない。虫もはらってやらない。」
「……そう、だろうね」
 束の間驚き、次に戸惑った顔でこちらを見上げる彼女。どこかあどけない表情に、背筋がぞくりと震え、投げ出された彼女の手を取ると、細過ぎる手首に口づける。
「俺なら」
 形の良い彼女の耳。指先で形を辿るように撫で、触れるか触れないかの距離に唇を寄せる。
「俺なら毎朝きちんと出汁をとった味噌汁を作ってやる。お前の好きな具材のやつ」
「……うん」
 くすぐったかったのか、小動物のようにぴくりと震えた小さな身体が愛おしくて。
 どうにかしてしまいたい。 
 狂いつつある理性を必死に繕い直し、それでも抗えずに、その艶かしい喉元に歯を立てる。
「痛っ」
「お前は冷たいから、きっとガラスの覆いじゃ寒いだろ。だから俺が、こうやって守ってやるし、暖めてやる。ガラスなんかに譲るかよ、お前に触れるのは俺だけでいい」
 僅かに凹んだ白い肌に舌を這わせれば、小さく息を飲む音。覗き込んだその顔に浮かぶ微かな怯えに、思わず口角が上がる。
 今彼女の思考と感覚を支配しているのはただ千歳のみだ。満たされていく独占欲に比例し、身体が熱くなってくる。
 もう理性など箱詰めにして出荷してしまおうか。
 どこまでも昂る本能に身を任せ、次は首筋を喰む。最初は唇で優しく。一瞬硬直した鈴の身体から緊張が和らぐまで喰み続け、力を抜いたその瞬間に齧り付く。跳ねる身体を全身で抑えて衝撃が逃れられないようにし、再び齧る。「千歳、千歳」とか細く上がる制止の声にむしろ煽られ、歯で薄い肌を挟むと、ぎりぎりと食い千切るように甘噛む。口に含んだ鈴の肌はやはり氷のように冷たく、しかし柔らかくて不思議と甘く感じる。
 中毒患者のように夢中になって、その甘さに、ひたすら溺れる。
「鈴、鈴」
 それしか言葉を知らないように、愛おしいこの子の名前を呼ぶ。
『じぶんのものにしなけりゃ、わからない』と、星の王子さまに出て来るキツネは言った。自分のものにする、とは『飼いならす』ことで、そのためにはその人のために『ひまつぶし』を、その人のために何かをしなければならない。そうして自分のものにしたなら、『責任がある』のだと。
 面倒で重い話だ。だが、相手が鈴ならば話は別で。  
 彼女にとって責任のある存在になりたい。彼女にとって、この地球上にバカみたいにいるたくさんの存在の中で、たったひとつのものになりたい。だって、すでに自分の中で彼女はそうだから。
 全ての存在の中の唯一。
 互いにそうなれたなら、もうそれだけで生きていける。生まれてからの苦痛、全部のご褒美。それなら死ぬほど辛いのは当たり前。だって、鈴という存在はそれを帳消しにして余りあるほどの愛おしい人なのだから。
「鈴、なあ、鈴。俺のものになってよ」
 想いを形にしたように溢れ出した涙をそのままに、彼女に請う。 
「俺のすべてで、お前に『ひまつぶし』をするから。だって俺は、お前のためなら死んだって構わないんだから」
「死のうとしていた人の、『死んだって構わない』は、説得力に欠けちゃうな」
 ちょっとむくれたようにそう呟く鈴の声にはこちらに対する気遣いが潜んでいて。
 彼女の想いを無視して安直に死を選ぼうとしていた自分が恥ずかしくなる。彼女の理屈では、自分も間違いなく彼女の作品のひとつで。鈴は、それを傷つけられて平気な人ではないのだから。
 ぶわりと、身体中に溜まった膿が一気に溢れる。
 先程までとは種類の違う涙に、彼女は呆れたように小さく笑い、千歳の首の後ろに手を回して引き寄せてきた。そのまま彼女の首筋に顔を埋めれば、労わるような手付きで頭を撫でられ、声を上げて泣いた。
「鈴、鈴、お前のためなら生きたって構わない。責任とって、責任とらせろ」
「王子さまらしくない告白だね」
 思わずと言った風に吹き出した鈴は、涙でぐちゃぐちゃな千歳の顔を覗き込むと、鼻先をこちらの鼻先に擦り付けてきた。そして、悪戯っぽく笑う。
「でも、千歳らしい。私は好きよ、千歳らしいの」
 その言葉に、ゆらゆらと居場所を失っていた自分が、元の場所にすこんとハマったような気がした。
 俺も、俺らしい俺が好きだ。
 子供みたいにしゃくり上げて泣く千歳の弱さを、彼女が氷の手のひらで丁寧に掬い上げてくれて。
 落ち着いてから、吐息のかかる距離にある漆黒の瞳を見つめれば、そこに映る自分はきちんと自分だった。
「おかえりなさい、千歳」
 ご褒美みたいな笑顔で鈴が言う。
「……ただいま」
 照れながらも笑ってそう返事をし、二人して笑い合う。
 そうして、しばらくの間、動物がするように互いに肌を擦り寄せて甘え、甘やかし。愛おしさに堪らなくなってその唇に唇を寄せれば。
 ぺちりと、頬を押される。
「めっ」
「……だめか?」
「だめ」
 一気に全身から力が抜け、へなへなと彼女の上に崩れ落ちる。腕の中で苦しげな悲鳴が上がったが、知るか。無理やり奪わないだけ褒めてほしいくらいだ。
「千歳、重い」
「お前の飯のおかげで体重増えたのかもな」
「つまり、愛の重さだね」
「生産者マーク貼っていいぞ。私が肥えさせましたって」
「あのシールは世の中で最も愛のあるシールだよね。……しかしほんとうに重いよ、千歳、愛が重い、死にそう」
「そりゃあ、生きるほど重い愛だからな。このままお前が受け取らないなら、地面にめり込んでマグマに到達して弾け飛ぶぞ。どうしてくれる、二人揃って焦げたミンチになって世界中に散らばったら」
「その肉片を七つかき集めると竜が出てきて願いを叶えてくれるとかくれないとか」
「そんな血生臭い、いや、焦げ臭いアドベンチャー、深夜枠でも放映できねえわ」
 咎めるように抱きしめる腕に力を込める。「生搾りジュースになっちゃう」と悲鳴を上げる鈴。すこし力を緩め、しかし決して離さない。と、息を整えた鈴はなだめるように千歳の背を撫でる。
「時間をちょうだい」
「どれくらい」
「あとすこし。それで全部終わるから」
 それは、香染とのことだろうか。それとも。
「いやだ」
「千歳、『しんぼうが大事だよ。』」
 キツネが王子さまに言ったのと同じセリフで諭され、仕方なく一旦引く。
 それでも名残惜しくて、身を起こす間際に熟した果実のように美味そうな彼女の唇、そのぎりぎり横に口付けた。もし彼女が少しでも身じろげば、触れてしまう距離。なけなしの理性の賜物だ。
「千歳っ」
 褒めて欲しいくらいなのに、慌てて飛び起きた鈴は頬を膨らませてこちらを睨んでいる。
 生意気な小娘が、ちゅうするぞ。
 そう言って顔を再び手を伸ばせば、容赦なくつねられた。
 痛いのに彼女の余裕のない表情が愛おしくて、今夜だけでおかしな性癖の扉を六つほど開けてしまった気がした。

 それから数日後。
 千歳は京都に来ていた。しかも、黒緋と共に。  
 千歳たちの会社は全国に支店があり、千歳たちの所属する東京の本社と、関西支部の要所である京都支店とが連携して新規事業にあたることになっている。
 今回の出張は、京都支店からの立ち上げメンバーとの顔合わせと、京都支店の重鎮に様々な協力を要請するためのもので、千歳と黒緋の二人で行くことになった。
 三泊四日、おまけにこちらからは二人だけ。にも関わらず、「この際だから」「ついでだから」と袋に詰め放題で百円の野菜かの如く仕事を押し付けられ、「これは一日が四十時間制の星の話?」と頭を抱えるほどの量をこなすはめになった。
 結局、それをやり切ってしまうのが、この黒緋という男なのだが。悔しいが、同じ男としてかっこいいと思ってしまう。
「よし、今日は飲むか」
 最終日の夜、京都支店の社員との飲み会のあと。ホテルを目指して木屋町通りを駅に向かって歩いていると、黒緋が伸びをしながらそんなことを言った。
 飲み会の、あとだ。しかも、今さっき皆と別れたばかり。
「おじいちゃん、もうご飯食べたでしょう?」
「ボケ老人扱いすんな。あんなの、飲んだうちに入らねえよ」
「ふえぇ……」
 冬の京都は、命を奪いに来ているのではとこちらが殺気立つほど寒い。骨身に染みるというか、芯から冷える、異様な寒さ。けれどもこのゴリラの方がよほど異常だ。
「鯨飲馬食という言葉をご存知ですか。鯨みたいに飲んで、馬みたいに食うって意味なんですが。きっと考えたやつの知り合いが、課長のような暴飲暴食ゴリラだったんでしょうね」
 コートに手を突っ込んで亀のように首をすくめながらため息を付けば、真っ白で。
 無性に思い出される小さな可愛い子が恋しくなる。
 この三日間、夜は毎回、京都支店の社員たちと料亭やレストランで食事だった。明日は休日で、千歳と黒緋は朝早くの新幹線で東京に戻る。そのため今夜は実質打ち上げであった。皆で居酒屋へ行き、ひたすら飲んで食べて飲んで食べて飲んで飲んで飲んで。
 黒緋は京都支店の支店長と酒の飲み比べをし、顔色ひとつ変えずに支店長を沈めていた。
 にも関わらず、先の発言である。明らかにどうかしている。
 どうかしている上司は、さらにイカれたことに、暑いと呟いてマフラーを外した。そして川のそばをふらつきながら歩いていた千歳を引き寄せ、丁寧に自分のマフラーを巻き始める。
「鯨なのか馬なのかゴリラなのか、はっきりしねえな」
「課長ひとりで様々な動物を網羅できるの、すごいですよね。ひとり鳥獣戯画」
「国宝じゃねえか、末永く大事にしてくれ」
 千歳のグレーのマフラーの上に黒緋のマフラーが重なる。鼻先まですっぽり埋まり、だいぶ暖かい。お礼を言おうとした矢先、手を掴まれてずるずると引きずられる。
「なんです」
「見ろ、あの赤提灯の下がった店。絶対うまいぞ。店の佇まいがそう言ってる。『わし、いい仕事するじょ』って」
「まだ食うんですか。というか、ひょっとしてあんた、大分酔ってる?」
「酔ってるさ、お前に」
「棒読み。いや、饒舌でも嫌だけど」
「ガタガタうるせえ、いいから来い」
 酒をしこたま飲んだとは言え、やはりゴリラ。同じく、かなりの量を飲んで、人間らしく酔っ払っている千歳が叶うはずもなく。
 結局、無理やり店に押し込まれる。 
 まさに京都と言った和風な雰囲気の店内はやけに静かで、落ち着いた照明の色もあって異世界のようだ。通された個室の窓からは店の灯りでキラキラ光る高瀬川の幻想的な美しさを眺めることができ、非常にロマンティックだ。
 場違い。そんな文字が脳裏に浮かび、やや酔いが覚める。情緒面での発達が見るからに遅れたむさ苦しい男たちには許されざる空間だ。
「熱燗二合。お猪口は二つで。それからこれとこれ」
「かしこまりました」
 きっちりとした和服の女性は優雅にお辞儀をし、部屋を去る。マダムと呼びたくなるような落ち着いた様子に、小動物の如き可愛らしさのあの子を思い出す。
 もう、眠っただろうか。少しでも時間があれば家へ電話をしているが、圧倒的な鈴不足。関西限定のぶさいく猫のキーホルダーを思わず買ってしまうくらいには、飢餓状態だ。おかげで何を見ても何を聞いても鈴のことが思い浮かぶ。鈴縛りの連想ゲームをひたすらやっている気分だ。世界チャンピオンになれる気しかしないが。
「疲れたが、楽しかった」
 不意に黒緋が呟く。
「帰るのがもったいない」と。
「疲れたりするんですね、課長でも」
「お前、俺を何だと思って……ゴリラか」
「ゴリラですね」
「ゴリラなのか」
 やがて酒や料理が運ばれてくる。
 京野菜の天ぷら、鴨ロース、鴨の炙り焼きに、だし巻き卵。
 どれも上品で、そして高そうだ。
 動揺しつつも黒緋に促されるまま鴨肉を一口。
「うまっ」
 思わず声を上げる。
 綺麗な焦げ目のついた鴨肉は香ばしく、柔らかいのに弾力があって噛んでいるだけで楽しい。肉自体の旨みが強く、それを活かすようなシンプルな味付けのため、腹いっぱいでも食べられてしまう。
「そうか。ほら、これも食え」
 黒緋が取り分けてくれた小皿を受け取り、その際、目が合う。
 柔らかな目元、緩んだ頬、笑みを浮かべる唇。
 普段の、戦場の兵士のように険しく厳しい雰囲気はどこにもなく、だらしないとすら形容できるリラックスした姿。初めて見るその穏やかな様子に目を見張れば、「ん?」と覗き込まれる。
「いや、なんかふわふわしてんなって、今のあんた」
「ふわふわ? ふわふわゴリラ?」
「ゴリラはふわふわしてないでしょう。ゴリラはゴリゴリしてる」
「なんだそれ」
 フハッと大きな口で笑う顔は、どこか子供のようで。
 つられて力が抜けていく。
「あんた、いつもそうしてたらいいのに」
「ふわふわ?」
「そう」
 黒緋が取り分けてくれた皿から、天ぷらを摘む。とうがらしのようなそれは、しかし甘くて肉厚で、再び「うまっ」と呟く。
「俺がふわふわしてるのは、お前がもりもりだからだ」
「もりもり?」
「もりもり働いて、もりもり飲んで、もりもり食べて、もりもり笑ってる。前のお前に戻ったみたいに。びくびくしてんのも可愛かったが、寂しかった」
「……もりもり」
 もりもりが何を指しているかは不明だが、確かにセクハラ以前は、黒緋とも普通に接していた。
 上役ですら恐れる黒緋。しかし、理不尽な要求を部下に押し付けることもなく、上司に媚びへつらうこともしない。単に、顔が怖いのだ。いや、顔立ちは綺麗なのだから、表情作りが下手とでも言おうか。般若と能面、たまにナマハゲ。泣く子がもっと泣くレパートリーしか持ち合わせない不器用過ぎるこの男を、不憫には思えど怖いと感じたことはなかった。むしろ、自分に通ずるものを感じて親しみを覚えていたほどだ。
 黒緋にも、可愛がられていた自覚はある。もちろん、通常の上司と部下の意味で。
 いつからか、掛け違ったボタンのような違和感の如きズレが決定的な差異となり、二人の関係性は歪んでしまった。そこからは、この男への恐怖に支配される日々。
 ここ数週間は、以前のように軽口を叩けるほどの余裕が千歳にも生まれたが。
「もりもりで、嬉しい」
 元凶が、笑う。どこまでも優しく。
 なるほど。千歳と同じように、この男も混乱していたのかもしれない。千歳の変化に。そして焦ってさらに手を出し、さらに怯えられと、まさに負のスパイラルだ。
 鈴が来てから、罰ゲームと称して日常を変えられた。それは、どれもこれも小さな変化。けれどその積み重ねが、千歳を大きく変えた。
 今日の自分は所詮昨日の自分で、明日の自分は結局今日の自分でしかない。
 鈴の起こした小さな変化は昨日の自分より少しマシな今日の自分を作り、そして明日の自分もきっと、今日より少しマシな自分になるのだろう。
 大仰なことは何もなく、一歩一歩踏み締めるような地道さは、けれどだからこそ着実で確実で、確固たる歩み。確たる変化。確かな自分。
 鈴と取り戻した自分だ。
 そしてそれは、この男との関係性すらも変えようとしている。
「ほら、これ好きだろ」
 新しい取り皿に載せられたのは、だし巻き卵。驚くほど綺麗な四角のそれは、黄色というよりはカスタードクリームのような優しい色合いで、枕にしたらよく眠れそうなほどにふっくらだ。箸で摘めば出汁が溢れ、慌てて口に運ぶ。
「…………」
 美味い。家庭では、絶対に出せないような品のある味。だが、何故だろう。物足りないような、過剰なような、形容し難い違和感。
 と、鼻先を掠める卵の香りと共に、鈴の笑顔が脳裏に浮かぶ。
『この前ゼミの飲み会でだし巻き卵食べたんだよ』
 頭の中の千歳はそう言いながら卵焼きを一口食べた。ぶさいくな猫グッズや、やたら華やかなもので溢れた、いかにも女の子らしい、鈴の部屋でだ。ローテーブルに並ぶは千歳の好物ばかり。座椅子の隣にはパジャマ姿の鈴が、化粧っ気のまるでない顔でこちらを見上げている。
『駅前の居酒屋の? あそこのだし巻き卵、美味しいよね』
 そう笑い、箸で器用に西京焼きの骨を取り除いていく。それを口に放り込んでからビールで押し流す、その艶かしい喉元。それを眺めながら、千歳は手元の缶ビールを呷る。
『前食ったときは、世の中にこんな美味いもんがあんのかって思った。けど昨日は』
 言葉を切り、目の前のたんぽぽみたいな鮮やかな黄色の卵焼きを頬張り、一言、『お前のが美味い』。
『それは、当たり前だよ』
 ほろ酔い気味か、ほんのり赤く色付いた頬で、鈴がいつもより大らかに笑う。
『居酒屋の卵焼きは、不特定多数の人が好む、ベターな味付け。みんなのためであって、個人のためじゃない。だから、みんなに選ばれる。私の卵焼きは、千歳の好みに特化した、千歳専用の味付け。千歳にとってのベストオブ卵焼きなの。だから』
 言いつつ、自らの箸で卵焼きを一欠片摘み、千歳の口元に運ぶ。
『世界中の誰もが首を傾げても、千歳にとって世界一の味なんだよ。だって千歳のためだけに作られた卵焼きなんだから』
 差し出された幸せの黄色い塊を噛み締めながら、呟く。『愛だな』と。
『そうよ、愛よ、最大級のね』
 ご褒美みたいな鈴の笑みが、お酒のせいか、いつもよりも蕩けるように色っぽくて、つい生唾を飲み込む。
 それでも、目の前に並んだ鈴からの愛を先に平らげなければ、なんて箸を伸ばした、この記憶は。
 妄想?
 ほんとうに?
「どうした?」
 低く響く声に、我に帰る。
 目の前にはいつもより色っぽい鈴、ではなく、平素より人間味の強いゴリラ。別に、と誤魔化すように熱燗を流し込む。熱さとアルコールのせいで喉元が焼けるように熱くなり、思わず咳き込む。
「何やってんだよ馬鹿」
 呆れたようにため気を吐きながら隣に来た黒緋が、背中をさすってくる。
 シャツ越しに伝わる男の手の熱さは、氷のような鈴とは真逆の感触。けれど、先程思い描いたパジャマ越しの熱は、これよりも熱かったのではなかったか。『お前は身体が小さいから熱いんだ。小動物と同じだ』などとからかい、その小さな熱を執拗に抱きしめたのは、すべて妄想なのか?
 わからないわからないわからない。
 鈴が好きということしか、わからない。
「お前が活き活きし出したのってさ、弁当作ってる女のおかげ?」
 不意打ちのように横から落とされた低い声に、身体がぴくりと反応する。
 見上げれば、先程までふわふわしていた男の姿はどこにもなく。抜身の刀のような鋭い瞳が、こちらを射抜いていた。
「お前さ、結局誰でもいいのな」
「は」
「逃げ場にしてるだけだろ、その子を。辛い現実から目を背けるために甘えてるだけだ。少しの間でも夢見させてくれるなら、別にその子でなくてもいいんだろ」
 言われたことを理解した瞬間、目の前が怒りで赤くなる。咄嗟に男に掴み掛かりそうになるが、こちらを見据える瞳があまりにも真剣で。
 どうやら嫌味や煽りではなさそうだ。ならばこちらも真剣さを返さねば。
 すこし上にある黒緋の無機質な瞳をにらみだから、本音を搾り出す。
「俺は、俺が好きです」
「……あ?」
 こいつ虫に脳味噌吸われたのか、とでも言いたげな怪訝な顔で盛大に首を傾げられる。ゴリラのそんな仕草、どこに需要あるんだよと内心毒付きつつ、酔った頭で言葉を整理しながら続ける。
「生きていくのって辛くて、辛すぎて、だから歪んだりおかしくなっちまうのは当たり前だと思うんです。でも、歪み方は選べたりするんじゃないかって。どうせなら、自分が好きになれるような歪み方をしたい。味わい深い歪み、みたいな。けど、そのためには何かに縋らないといけなくて、それは趣味だったり、友達や恋人だったり。それを甘えと言うなら、確かに俺はあいつに甘えてて、甘やかされてて」
 いつだって、あの小さな身体全部を使って、間違った方向に歪んでいく千歳を正してくれる。変な方向に育っていく植物を、支柱に括り付けて矯正するように。それが正しい道かどうかなんて、どうでもいい。ただ、彼女の導いてくれた先は、千歳には心地よくて。好き放題に枝葉を伸ばせる環境なら、自分を好きになれた。
「でも、結局人生で一番長く付き合うのは自分だから、誰に好かれなくても、せめて自分には好かれる自分になりたくて。もちろん、好きな人から好かれたら嬉しいけど、そんな奇跡を願うより、自分に好かれる自分でいたい。その方が確実で、おまけに低予算で建設的ですし。そして、そのためには俺にはあいつが必要なんです」
 自分というものがあったとして。そうなりたいと願う理想像があったとして。
 それを殺し、殺されていくのが、生きるということ。
 だからみんな生きづらいし、生きていくほどに死んでいく。
 他人と関われば関わるほどに自分を変えることを強要され、けれど他人と関わらねば生きられないほど人間は弱くて。
 孤独に堪えるか変容に苦しむか。
 どうせ変化を強要されるのならば、自分を好きになれる自分へと導いてくれる人と一緒にいたい。
 そうしてくれる誰かや何かと出逢えること。 
 それが、死ぬ気で生きていくことの意味なのではないか。
 料理や本が愛ならば、誰でも誰かの作品ならば、生きることそれ自体もきっと愛なのだ。だとすれば、自分を愛するために誰かを愛するという千歳の在り方だって、きっと許されるはずだ。
「俺は、あいつじゃなきゃ駄目なんです」
 ガラスの瞳をしっかりと見つめ、告白する。
 黒緋の気持ちには、気付いている。この口下手で不器用な男が、気まぐれや嫌がらせで色めいた行為など出来るはずがない。
 ただ、都合が悪かった。
 どうあっても黒緋の想いは受け取れない。しかしその一切合切を拒絶するのを躊躇するほどには、この男に情があった。それは尊敬や憧憬で、求められているものとは違っていたけれど。そして、跳ね除ければ二度とこの男は千歳に近付かないだろうことは予想できたから。
 セクハラ、パワハラ、モラハラ。
 そんな言葉に当て嵌めて被害者ぶってしまえばシンプルで。
 ただ、怯えていればよかった。そして、誤魔化して有耶無耶にして、自分の弱さや狡さから逃げた。
 黒緋を悪辣非道な加害者にするために、男の気持ちも見ないふり、知らないふり。
 そうして身を委ねれば、男はその分愛してくれて。男に対する罪悪感も、卑怯な自分への自己嫌悪も、千歳にとって都合が悪い全てを丸っと飲み込んで、受け入れてくれた。
 黒緋は、こんなにもいい男なのに。
「黒緋さん、話があります」
「いやだ」
「は」
「いやだ聞かない聞きたくない」
 耳を押さえ、頭を振る三十路。
 急な幼児退行に困惑しかないが、粘り強く話をしようと話しかける。が、「帰るぞ」と立ち上がった男は、猛然とその場を去ってしまった。
 店を出、呼吸困難に陥りそうなほどの冬の京都を競歩のペースで歩き、ホテルに到着する。
「あの、黒緋さん」
 黒緋と千歳は隣同士。自身の部屋のドアを開けた男におずおずと声をかければ、腕を掴まれて室内に引き摺り込まれた。痣が出来そうなほどの強さに呻くも、そのまま信じられない力でベッドに引き倒される。強かに背中を打ちつけ、衝撃で一瞬息が詰まる。その間に逞しい身体にのしかかられ、押し倒される。
 しゅるりと衣擦れの音。
 千歳の腰に跨った男が、冷え冷えした瞳でコートとジャケットを脱ぎ、ネクタイを外していく。渾身の力を込めて男の顔に殴りかかるも、まるで虫を取るかのごときたやすさで拳を掴まれ、そのままシーツに縫い付けられてしまう。
「なあ、人間を人間にしているのは何だと思う」
 握り潰さんばかりの腕の力とは裏腹な、柔らかな口付けを千歳の頬に施しながら、男は囁く。
「理性だよな。俺は、俺のお前への気持ちはどうかしているって、ちゃんと頭では理解している。じゃあそれらを取っ払った動物としての本能で求めているのか。それはあり得ない。なぜならお前は雄で、俺の子を孕めないから。な、これがどういうことかわかるか」
 睨み上げる千歳の瞼に、やはり優しく口付けた黒緋は、信じられないほど甘やかな表情で、蕩けるように言う。
「愛してる。千歳、愛してるよ。人間としての理性も動物としての本能も全部捨てて、ただ俺として、お前を愛してる」
 初めて紡がれた言葉に、思わず息を呑む。
 最初から今まで、この男が愛を口にしたことはついぞなかった。いつだって無理矢理奪い、強引に押し付けてきた。そこに言葉はなく、あるのは男の熱だけ。暴力の延長線上にしかない男の行為の根底に、こんなにも熱烈な愛が潜んでいるとは、考えたことすらなかった。
「あんた、なんでそんなに……」
「なんで、か」
 千歳の身体からわずかに力が抜けたことを感じたらしい男は、腕の拘束を解くと、骨ばった大きな手で辿々しく頭を撫でてきた。そして、自嘲気味に笑う。
「どうしようもなかった。どうしようもなく、欲しくて堪らなかった。それだけだ」
 慣れない手付きで、しかし指先にまで愛おしさを滲ませ、男は千歳の頬を撫でる。そして、「なるほど」と頷く。
「いつも、お前をどうにかしてやりたかった。けれどどうしたいのかがわからなかった。今理解した。俺はずっと」
 お前を甘やかしたかったんだ。
 吐息に乗せて囁いた男は、再び唇を寄せてきた。僅かに笑んだそれを、しかし、やんわり押しのける。
「ダメです」
「どうして」
「こうして、あんたに流される自分を、俺は好きになれない」
「俺は好きだよ」
 悲痛さの込もった声で、男が声を荒げる。
「俺は、お前が好きだよ。お前よりお前が好きだし、お前がヤリチンクソビッチでも、リスカするくらい自分が嫌いでも、好きだ。お前が嫌うお前ごと好きでいてやる。だから」
 悲鳴を上げるようにそう叫んだ黒緋は、ぐにゃりと顔を歪ませた。ぽたりと、ガラスの瞳から溢れた暖かな涙が、千歳の頬を濡らす。
「俺を選んで。俺にお前をちょうだい」
 震える声で呟いた男は、まるで幼い子供のようで。
 思わず手を伸ばし、抱きしめる。
「あんたは、かっこいいよ。そんなあんたに救われる人が、きっといる」
 ぐずりと鼻を啜りながら、男はイヤイヤをするように首を振る。
「ただ、それは俺じゃなかっただけ」
 ありがとうございました。
 そう告げれば、返ってきたのは慟哭で。
 獣の如き咆哮に、もう怯えることはなかった。それは、この男の底無しの情を知っているから。
 自分の厭う自分すら愛してくれる男の在り方は、もしかしたら究極の愛なのかもしれない。それでも、千歳が求めているのは自分を好きになれる自分に導いてくれる存在で。
 千歳にとってそれは鈴でしかあり得ない。
 告白をしよう、きちんと。
 今度こそ、手放してはいけないのだから。

 気まずい。
 隣で、窓の外のそのまた遠くの彼方をずっと見つめ続けている黒緋のことである。
 昨夜の今だ。よもやフレンドリーな会話などミジンコほども期待はしていないし、むしろ昨夜のうちにひとりで帰るくらいのことはする男だ。こうして予約した新幹線に大人しく座っているだけ褒めるべきかもしれない。
 あれから結局、朝方まで黒緋の背をひたすら撫でていた。会話はない。互いに素直に本心を語る性格でもないし、だからこそここまで拗れたのだが、それを理解していても言葉が出ない不器用な二人だ。昨夜のように本心をぶつけ合えたことこそ、奇跡に近い。
 車内の電光掲示板が点滅し、アナウンスが東京に着いたことを知らせる。
 ここまでの所要時間はおよそ二時間。映画一本分の沈黙。体感時間は今までの人生の長さほどだったろうか。
 ホテルの朝食バイキングも食いっぱぐれ、腹は鳴れども発話はない。
 黙ったまま新幹線を降り、改札口を目指す。小型のキャリーケースを転がしながら少し前を歩く男は、以前は人語を操るゴリラ、今は筋肉質な壁のようだ。
 人付き合いは同じくらい苦手な者同士。このままではずっと、会話もなく、互いの動きから要望を汲み取り合う、熟年夫婦のような仲になってしまう。しかも、離婚間際の冷え切った夫婦。肉体関係を解消したら夫婦になるとか、どんな皮肉だ。
 と、壁に貼ってあるポスターが目に止まる。レストラン街の冬季限定メニューを紹介したものらしい。
 ビーフシチューに鍋、チョコフォンデュ。キラキラした瞳で涎を拭う鈴の様子が目に浮かび、クスリと笑う。同時に、腹の虫が空腹を告げ、再び意識がふっと飲まれる。
『千歳のイカれポンチ!』
 冷蔵庫の前で鈴がこちらを睨んでいた。
 むくれたらむくれたで可愛いが、そんなことを言ったら、彼女の手元にあるフライパンが飛んできそうだ。そう思って、一旦退却。涼しい部屋から、太陽が照りつける外へ出た。
 きっかけは、鈴のゼリーを千歳が食べてしまったというくだらない理由。加害者の千歳が言っていいことではないが。
 何でも有名店の夏限定ゼリーだったそうで、確かに旬の野菜がたっぷり入っていて美味しかった。が、たかがゼラチンだ。あんなにプリプリしなくとも、なんて呆れつつ、その有名店とやらへ行き、長い長い行列に並び、同じものを購入。部屋へ戻って彼女に渡せば、『反省しましたか』。ハイと頷けば、『よろしい』とご褒美みたいな笑み。
『旬のものをきちんと楽しむのは、日本人の義務なの。危うく、非国民の烙印を押されるところだった』
『おっしゃっている意味がわからないデス』
『日本には四季があるでしょ。それを満喫しないと失礼じゃない』
『誰に』
『四季折々の愉しみを提供してくれる職人さんたち。それから八百万の神様』
『壮大な話だな』
『そうでしょう? 植物の神様がその季節に合わせて自然を色付かせてくれる。食べ物の神様がどの季節も美味しく過ごせるように四季に応じて旬の食材を恵んでくれる。そして世界に誇る日本の職人さんたちが、それを活かして美味なる料理を作ってくれる。全ての季節を愉しめるようにしてくれるなんて、まさに愛』
『愛』
『それを満喫しないのは、日本人失格です』
 ゼリーを冷蔵庫に入れながらそう語る、すこし真剣な表情はやはり愛おしくて。ぼんやり見つめていると、『聞いてる?』と睨まれた。それすら愛らしい。
『なら、お前のくるくる変わる表情も愛だな』
『え?』
『どれも全部、俺には堪らなく可愛い』
『もう』
 と、頬を赤らめて照れた姿も、どうにかなりそうに可愛い。
『お前はいつも旬だな』
『馬鹿な人』
 ほんとうに怒ってたんだよと、そっぽを向く鈴に、もう一つ紙袋を渡す。
『ゼリーを冷やしてる間にどうですか』
 中身は、先程の有名店の焼き菓子だ。瞬間、鈴の漆黒の瞳がキラキラと輝く。光を反射したゼリーみたいだ。
 いそいそと紅茶の用意を始めた小さな身体を後ろから抱き寄せ、つむじに口付ける。
『ゼリー、食っちまってごめん』
『いいよ、もう。焼き菓子、ありがとうね』
『な、俺はあまり素直な方じゃないんだ』
『存じておる』
『じゃから、謝罪をきちんと口にできぬこともある。これからも、そちを立腹させたり仲違いすることもあるじゃろう。そうしたら儂は、言葉の代わりに美味なる物を、そちに献上しよう。それを謝罪の言葉に変えてはくれぬか』
『それは逃げのような気もするが、確かに食事の最中に喧嘩をするのはワシの流儀に反する。うむ、よかろう』
『なら』
 華奢な身体の向きを変え、しゃがんで赤く熟れた唇に口付ける。
『いただきます、は仲直りの合図な』
 そう言っておでことおでこをこつりと合わせて、二人で笑った。
 ふっと意識が引き戻される。またあの度を超えた妄想。だが今は、自己嫌悪に浸る暇はない。前を行く、いつもより心無し萎んだ背中に声をかける。
「黒緋さん、腹空きません?」
「……は?」
「俺、お腹と背中がくっついちまいそうなんです。食べに行きましょう」
 時刻は午前十時。ランチタイムには早過ぎるが、朝食メニューならまだギリギリ間に合う店もあるか。
 拒否権を与えれば逃げられそうで、男が何か言う前に「何にします? あんたの好きなのでいいですよ」と行く前提で問う。
 やや逡巡した様子の男は、しかしこちらの引かない様子を察知したのか、ため息を一つ。そしてぼそりと呟いた。
「ケーキ」
「ケ、ケーキ?」
「ケーキなら、食べる」
 憮然とうつむき、拗ねた子供のように答える三十路。不覚にもそこはかとなく可愛さを覚え、頭をフル回転してケーキ屋を思い浮かべる。
「この近くに、確かイギリス風カフェがあるんですが、そことかどうです? 紅茶も美味しいし、なんか段々になったセットもありますよ」
「段々?」
「提灯みたいなやつに、食い物乗ってるやつ」
「アフタヌーンティーか?」
「それですね。よく知ってますね」
「と言うか、よくわかったな、俺」
 言いつつ、男は案内板を指差す。
「で、どこ行きゃいいの」
 心無しか、先ほどよりは力のある声に、思わず笑む。
「こっちです」
 そうして、最寄りの出口から歩くこと数分。英国風カフェに着いた。
 アンティーク雑貨がひしめく、よくわからないがオシャレらしい店内は人もまばらで落ち着いた雰囲気だ。中庭が見渡せる窓際席を案内されたが、奥の目立たない席に座る。
 昨夜に引き続き場違い感がすごい。いや、もはや世界観が違う。
 アリスがクッキーを摘んでいそうな空間に手違いで入り込んだくたびれたおっさんが二人。
 不思議の国の社畜だ。
 やがて、薔薇の花が咲き誇るテーブルクロスの上に、紅茶のセットとアフタヌーンティーが並ぶ。アフタヌーンティーの台は二人分ということでデカい。黒緋なら、一捻りできそうではあるが。
 一番下の段にはサンドイッチ。真ん中の段にはクッキーやタルト。一番上にはケーキ。
 ケーキは、ショーケースから黒緋が選んだものだ。
「ごゆっくりお寛ぎくださいませ」
 孫のためにセーターを編んでいそうなおばあさんが、とびきりの笑みで優しく言う。つい深めの会釈をしてから、ティーコジーなる、茶葉を取り除く器具をどうにかこうにか設置する。と、とっくに上手いこと取り付けていた黒緋が腕時計を見ながら「茶、もういいぞ」と一言。おばあちゃんに言われた通り、ちゃんと一分待っていたらしい。
「あんた、こう言うの好きなんですか」
「まあな」
 防災頭巾のようなものを取り、ティーポットからゆっくりと注げば、途端に爽やかなベルガモットの香りが立ち上る。
 鈴の好きなアールグレイだ。柑橘系の香りが上品ながらすっきりとしており、濃厚なケーキを食べてもアールグレイを一口飲めばまた食べられるからエンドレス飲料だね、などとわけのわからないことを言っていた。ケーキを次々にアールグレイで流し込み、合間合間にサンドイッチで塩味を、そしてまたケーキと続く流れを、世界一幸せなライン作業と呼ぶ彼女らしい話だ。
 思い出し、普段はあまり食べない濃厚なチョコレートケーキを皿に取り、一口。
 なるほど、チョコレートの芳醇さと清涼なアールグレイの香りがよく合う。「年の差凸凹カップルみたいな組み合わせ」と言っていた意味がわからくも、なくも、ない。
「あんたのは何て紅茶なんです?」
「オレンジペコー」 
「みかんのお茶ですか? みかんがペコってあいさつしてるみてえな名前」
「お前が頭下げろ馬鹿タレが」
 悪態をつく口元は、しかし穏やかで。
「あんたが紅茶好きとは知りませんでした。酒とコーヒーしか飲んでるところ見たことなかったし。甘いものも好きなんスね」
「お前、会議中に俺が時間測りながら自前のティーセットで茶葉を蒸らし始めたらどう思う」
「家でやれよ」
「な。それに、俺は栄養ドリンクとプロテインを常飲していると思われてるみたいでな、一度ペットボトルのアップルティーを持っていたら、差し入れと勘違いしたモモさんに取られた」
「常飲どころか、プロテインを湯に浮かべて浸かってるって噂もありますよ」
「馬鹿ばっかりかようちの会社」
 苦々しく呟き、バナナと胡桃のシフォンケーキを口に入れた男は、小さく頷いた。美味かったらしい。
「プロテインは嫌いだ。酒も嫌いだ」
「酒も? 赤ん坊の頃から哺乳瓶で酒浸りしてるぜって面のくせに?」
「顔は関係ねえだろ普通のミルクで育ったわ。会社の付き合いで嫌々飲んでるだけで、プライベートでは基本飲まない」
「意外ですね。アルコールの匂いがダメとか?」
「だって、酔うだろ、酒って。だから嫌だ」
 言いつつ、分厚いクッキーを頬張った男は、「これ美味いな」と口元を緩める。
「あんたが酔ってるところなんてあまり見たことありませんよ」
 誰かを酔い潰しているところなら頻繁に見るが。
「俺だって、好きなやつの前では格好つけたくなる」
 半眼でじとりと睨まれ、慌てて目を逸らす。「石になるでしょう」と咎めれば、「俺はメデューサか、ゴリラメデューサか」と拗ねた声でぶつぶつ言われる。
「人前でだらしない姿を晒したくねえってのもあるが」
 空になったカップに褐色色の液体を丁寧に注ぎながら、黒緋は低い声で自嘲気味に笑う。
「毎朝どのスーツやネクタイにするか、鏡の前で散々悩んで。そいつが好きそうな和食の店を調べて。いつそいつが来ても呆れられないように部屋を掃除。そいつのために、やったことねえ料理をしてみたこともあったな。結局火傷しただけで食ってはもらえなかったが」
「黒緋さん……」
「全部、そいつによく見られたくて、好きになってもらいたくて、必死だった。けど、酔ってないふり、優秀な上司のふり、余裕のある大人のふり。ふりばっかりで、互いを追い詰めただけだったな」
 と、ゆっくりカップを置いた黒緋は姿勢を正し、こちらを見た。今日一日合わなかった視線。その真剣さに、つられて背筋を伸ばす。
「謝るべきなのはわかってる。けど、しねえ、出来ねえ。だってそれは嘘になるからだ。俺はお前にしたことすべてを、後悔してない。全部本心からしたことだ」
 射殺されそうな鋭い視線を、しかし逸らさずに受け止める。
「けど、それは俺の身勝手で、お前は許せないだろう。だから、お前が望むならなんでもしよう。会社を辞めることだってしてやる。だが、俺は俺の想いを否定しない」
 胸に響く低い声できっぱりと言い放った黒緋は、どこか誇らしげな顔をしていて。殺してやりたいほど憎かった気持ちは嘘じゃないのに、こんなにも堂々と想いを貫かれたら何も言えなくなってしまう。
「なら、またこうしてお茶してください」
「……は?」
「俺、あんまり紅茶詳しくなかったんですけど、今日飲んだら結構美味いし。あんた、店知ってそうだし」
「人里離れた山中で飢えて死ねとか言わないのか?」
「言いません」
「重石を足にくくりつけて海に沈んで魚の餌になれとか」
「あんたを食ったら、小魚すら肥大化して小型船くらい一飲みしそうですね」
「筋肉は感染しない」
「知ってますが」
 寝ぼけてるんですかと呆れてため息をつけば、黒緋が「ありがとう」と笑った。
 優しい優しい笑みで。

「美味かったな」
「ですね、静かで隠れ家チックな雰囲気も、割と好きです」
 会計を済ませて店を後にし、二人で会社方面に向かって歩く。なんだかんだでゆっくりしてしまい、昼時だ。直帰でもいいと言われているのだが、会社に近いため、少し顔を出すことになったのだ。
 並んでキャリーを引っ張っていると、隣でくすりと笑い声。
「何笑ってるんです」
「いや、ほんとうに良い店だよなって。お前がスコーンのことを分厚いクッキーって呼んでもニコニコ笑ってたし、あのおばあちゃん」
「うるさいですよ」
 肩をぶつければ、鈴へのお土産用に買った分厚いクッキー、もとい、スコーンの入った袋がガサリと揺れる。
「しかし、よく知ってたな、こんな店。会社の近くなのに、俺でも知らなかったぞ」
「オフィス街の隅っこの隅っこですもんね。俺も知り合いに連れて来られなかったら気付きませんでしたよ」
「知り合いって、鈴ちゃんか?」
「は」
 思わず人物から出た予期せぬ名前に、脚が止まる。と、同じように立ち止まった黒緋が、しまったと言った風に顔を顰める。
「悪い、つい」
「なんで」
「いや、ずっと気にはなってた。あんなことしといて言うのも変だが、普通に好きなんだよ、あの子のこと。親戚のガキみてえな感覚って言うか、小動物的な可愛さがあるよな。俺、小さい生き物、好きなんだよ」
 気恥ずかしそうに笑う黒緋に、しかし内容がさっぱり理解できない。なぜ鈴を知っているのかと震える声で問えば、心底不思議そうな顔をして一言、「お前が連れてきたんだろ、会社の飲み会に」。
「初めて鈴ちゃんに会ったとき、勝てねえなって思った。ちっこくて、華やかで、しかも面白い。これがお前の好きなやつかって。デカくてゴツくてムサイ俺とは、まさに正反対」
 目の前が歪む。
 男の声がキンキンと耳に刺さって痛い。黒緋の話の半分も聞こえていないのに、全身が告げている。
 聞くな、と。
「諦めようとした。けど、あの時期のお前、相当病んでただろ、会社のことで。仕事出来るくせに人付き合いが壊滅的で、薔薇色の業務成績に反比例して地獄みたいな人間関係。お前は俺かと思ったね」
 そうだ。
 社会人になったくらいでは、天上天下唯我独尊的な千歳の考えなど何一つ変わらず。そのせいで、他の社員との間に軋轢が生じ、やがて小さな嫌がらせにまで発展していた。
 地味で、騒ぎ立てるにはあまりに些末なそれは、しかし確実に千歳の心身を摩耗していった。そんな千歳を救ってくれたのは、黒緋であった。
 なぜ忘れていたのか。
 黒緋は最後の一押しに過ぎなかった。それも、セクハラや無理強い自体ではなく、それを受け入れた自分を見限っただけで、この男は言わば生け贄でありスケープゴートだったのに。
「プライベートは無理でも、仕事面では支えてやれるって、最初はそれだけで満足してた。けどお前が、あんまり懐くから。あんまり気を許して、『最近鈴と、妻といるのが苦しい』なんて言うから。堪らなくなって、押し倒してた。後悔はしていないが、罪悪感はある、鈴ちゃんに」
「つ、ま」
 視界がぐらりと揺れ、キャリーケースがガタリと音を立てる。地面が急速に近くなったと思った瞬間に身体全体が暖かくなり、気付けばどこかの壁に押し付けられていた。どうやら黒緋が抱えてくれたらしい。男は、危ねえなと文句を言いつつ、街路樹の植え込み近くのベンチに千歳を座らせた。
「大丈夫か? 顔、真っ青だ」
 無理もねえし俺のせいだなと、千歳の目の前にしゃがんだ黒緋が気まずそうに頭を掻く。
「悪い、こんなに動揺すると思わなくて。お前が前みたいに接してくれるから、調子に乗った。もうお前は帰れ。送るから」
「いや、黒緋さん……」
「会社のやつらも心配してる。お前が最初に弁当持って来たときは、『奥さんが大変なときに浮気かよ』ってみんなキレてたが、どうやら自分で作ってるらしいってのを浅葱が教えてくれてな。相当精神やられてるなって。お前の同期が何人か、ビクビクしながら俺にも報告に来たわ」
 取って喰ったりしねえのに失礼だよなと自嘲気味に笑った黒緋は、カバンからペットボトルのお茶を取り出して蓋を外す。そして千歳の後頭部をゆっくりと傾けさせると、ペットボトルの口を唇に押し当ててきた。そのまま二口ほど飲ませてもらったが、もはや何を飲んだのかも判然としない。
 頭を抱えて叫び出しそうなのを堪え、男に問おうと口を開く。
 何を、問えばいい。何もかもが、わからないのに。
「あれ、黒緋ブチョにちーだ。どうしたんですか?」
 場の空気を乱す、能天気な声。のろのろと顔を上げれば、そこにあるのは愛おしいあの子と同じ顔。
「浅葱。休日出勤か?」
「いえ、徹夜明けで今から帰宅です。昨夜帰り際にトラブル発生して、今の今まで戦争みたいになってたんですよ。火消しのために他社から助っ人まで呼ぶ始末」
「どうも」
 やや緊張した声は、なんと香染であった。子犬のような大きな目の下に隈を作り、髪もスーツも乱れている。
 黒緋は千歳の肩を軽く抱いて支えながらも素早く立ち上がり、丁寧にお辞儀をする。
「香染さんでしたか。気が付きませんで、申し訳ない。この度は弊社がご迷惑をおかけしたようで」
「そんな、頭を上げてください」
 男二人のやり取りも、どこか遠くに聞こえる。頭蓋骨の中に害虫でも湧いたように酷く痛み、黒緋が先程飲ませてくれたペットボトルを一気に飲み干す。
「香染さんをお呼びしたということは、マシントラブルか?」
「はい。ですが、うちの部署ですでに対処済みです。それより」
 一色はどうかしたんですか。
 僅かに咎める色を滲ませた都の声。と、それまでベンチに座っているのが千歳だとは気付かなかったらしい香染が、途端に低い声で唸る。
「……あ? 一色?」
 答える余裕もなくわずかに視線をやれば、盛大な舌打ちが明るいビジネス街に響く。
「具合悪いのか? ウケる。いい気味だな」
 一つも面白くなさそうな顔で吐き捨てるように呟いた香染に、都はため息、黒緋がわずかに気色ばむ。
「さて、何がいい気味なのか。確か香染さんは、こいつとは大学時代からの付き合いですよね」
「ええ。付き合いというほどの付き合いはありませんがね。そして浅葱とは幼馴染です。もちろん、鈴とも」
「そうですか。それなら今回のことではさぞ胸を痛めていることとお察しします。が、だからと言って他人の体調不良を愉快がるのは良い趣味とは言えませんね」
 言いながら黒緋は、千歳を隠すように香染と千歳の間に立つと、獰猛な獣のように唸った。
「お引き取りを。御社の評判が地に落ちる前に」
 綺麗なゴリラと呼ばれる営業向けの黒緋しか知らない香染は、その圧に押されたようにやや後ずさる。が、それよりも千歳への憎悪が勝ったらしい。黒緋の後ろに座る千歳を、血走った目で睨みつける。
「……お前のせいだ」
「香染、やめとけ。胴体捩じ切られるぞ」
「うるさい都。お前もお前だ。鈴にあんなことしたやつと、何でまだ付き合っていられる」
「俺は鈴の兄である以前に、千歳の親友だから」
「逆だろ普通!?」
「『普通』って言葉キラーイ」
 あっという間に、怒りの矛先が都へと向かう。スーツ姿のくたびれたサラリーマンが幼少期のことまで持ち出して互いを罵り合う姿は滑稽の極みだが、今の千歳にはそれどころではない。
 ふらつきながらも立ち上がり、親友の名を呼ぶ。
 途端に喧嘩をやめた都と、視線が絡む。いつもは飄々としているその顔は、焦っているような苛ついているような。
「都……どういうことなんだ。何が何だか、まるでわからない」
「ちー……」
 整った顔を痛々しげに歪めた都は、珍しく乱暴に頭を掻きむしと、ズカズカとこちらに寄ってきた。そして千歳のキャリーケースのハンドルを握り、もう片方の手で千歳の背中を優しく押す。
「帰ろう、ちー」
「待て浅葱。そいつは、大丈夫なのか?」
 黒緋に問われ、都は、「わかりません」と困ったように肩をすくめる。
「けれど、大丈夫じゃないなら大丈夫にします。俺のたった一人の親友ですから」
「……わかった」
 と、会釈をしてその場を離れようとする浅葱を再度呼び止めた黒緋が、自身の財布から無造作に紙幣を掴み出し、都に渡す。
「表通りに出てタクシー使え。何かあったらすぐ連絡しろ」
「そんな、いただけません。大体これ、多過ぎですよ。ちょっと逃避行できちゃう金額じゃないですか」
「余った分は好きに使え。趣味の地図作りとかに」
「あれ、俺、伊能忠敬でしたかね」
「とにかく、連絡を。番号は千歳から聞け」
「……はい、千歳から聞きますね」
「……早く行け」
「失礼します」
 揃って頭を下げ、その場を離れようとする。と、「一色」。やや弱々しく呼び止められ、振り返れば困った顔の黒緋。
 男はしばらく従順した後、躊躇いがちに目を伏せた。
「……また、美味いもの食べに行こうな。一緒に」
「……はい。ありがとうございます」
 そして今度こそ、その場を去った。タクシーに乗り込んでから都が「香染忘れてた」と呟き、「黒緋ブチョに引きちぎられてないかな。上下バラバラにされたりして」とやや心配そうに続けた。
 あの人なら左右真っ二つにするだろうな、と思ったが、話す気力もなく、タクシーの背もたれに身体を預けて目を閉じた。
 いつもなら心地よいはずの車の揺れが今はたまらなく怖くて、振動を感じる度に、己の根幹がポロポロと崩れて行く気がした。

「はい、降りて」
 促され、タクシーを降りたのは総合病院。困惑しながら後から降りた都を見れば、困ったように笑うばかりで答えてはくれない。
「俺、どこか悪いのか?」
「性格かな」
「みゃー」
「ごめん、正直言って、どうしたらいいかわからないんだ。どう説明したらいいかもわからない。だから、とりあえず会ってやって」
 誰に、との問いかけも、きっと答えてはもらえない。黙って都の後ろをついて行く。
 病院内は暖かく、消毒の匂いに満ちていた。きゅっきゅっとペンギンの鳴き声のような音を立てる廊下を進み、突き当たりの個室にたどり着いた。
 途端、頭に激痛が走り、座り込みそうになる。都に支えられて立ってはいるが、今にも倒れ込んでしまいそうだ。
「帰る?」
 痩身からは想像もつかない力強さで支えてくれている都が、真剣な目で問うてくる。
 今ならまだ、何も無かったフリができるよと。
「俺はね、ちー。お前が大事だよ。だから、お前が苦しい思いをするくらいなら、倫理や道徳なんてどうでもいい。俺の価値観では、親友を守ることこそが、何より正しいから」
 世の理に反していても、千歳が幸せなら、それこそが都の世界では正しいことなのだと、どこまで身勝手に甘えさせてくれる親友が笑う。
「……けど、逃げたらダメなことなんだろう、きっと」
「逃げたらダメなことなんて一つもないよ。逃げられないことは確かにあるけどね。逃げられるなら、逃げるべき。世の中、『逃げるが勝ち』だよ」
「初めて聞く訓戒だ」
「だってさ、千歳、よく『当たって砕けろ』とか『清水ね舞台から飛び降りる』とか言うけどさ、実際はぶつかっても痛いだけで砕けないし、欄干に登ろうとした時点で止められる。どんな高尚で立派な決断も、失敗したら愚策になって、けれどそれで死ぬわけもなく、倍増した痛みを抱えながら生きて行くしかないんだ。なら、最初から逃げた方がいい。逃げて逃げて、誰に何て言われようが逃げる。それでいいんだと思うよ、俺は。逃げようよ、生き易い方に」
 カッコ悪くても、それが正解なんだ。そう語る都は、皮肉でも嫌味でもなく、本心から言ってくれているのだろう。少し前の自分ならば、それもそうだと回れ右していたはずだ。だが、千歳はもう知っている。
「それをすると、俺はまた、俺のことを嫌いになるよ」
 自分に好かれる自分でいるために、今ここで逃げたらだめだ。本能的にそう感じた。
 銀色に輝くパイプの取手を握る。ひやりと冷たいそれは、誰かさんの手のようで。
 少し勇気付けられて、一気に引く。
 自ら踏み込んでカーテンを開けば、ベッドには女が横たわっていた。ドラマで見たことのある謎の器具とチューブのようなもので繋がれた操り人形のような彼女の顔を見た瞬間、全身から血の気が音を立てて引いた。
「……鈴っ」
 慌てて駆け寄り、彼女を揺さぶる。
「鈴、鈴っ! みゃー、これはどういうことだ!? なんで鈴が……っ」
「落ち着いてちー、ここ病院だから」
「落ち着けるか! 鈴は、大丈夫なのか!?」
「大丈夫、ちゃんと生きてるから」
 力強くそう言われ、一旦は胸を撫で下ろしてベッドの傍らに置かれたパイプ椅子に座る
。呼吸を落ち着けながら、ひたすら鈴を見つめた。
 青い血管が浮き出た白過ぎる肌、きっちりと閉じられた瞼、やつれた頬。
 僅かに上下する彼女の胸元だけが、千歳の正気を保たせている。叫び出したいほどの恐怖に吐きそうになりながら、壁際に立て掛けてあったパイプ椅子を広げて腰掛ける都を待った。
「何から話したらいいのか……」
 呟き、また黙ってしまった都は、下唇を食んで唸り、ややあって話し始めた。
「まず、ここで眠っているのは一色鈴。俺の双子の妹で、お前の妻だ」
「俺の妻……鈴が……? そんな馬鹿な」
「ほんとうだよ」
 そう言ってこちらを見つめる瞳の強さに、「けど俺、何も知らないんだが」とついしどろもどろに答える。
「それは俺も驚いた。久しぶりに会ったお前が、記憶喪失みたいになってて」
「記憶喪失?」
「しかも、鈴のことだけ。違うな、恋人としての鈴、妻としての鈴。付き合ってから今までの鈴との思い出だけが、すっぽり抜け落ちてる。ほんとうに参っちゃったよ」
 力なく笑う都の様子は、とてもではないが演技には見えない。だからと言ってすんなりとは信じられないが、妙に納得できる部分もある。
 あの行き過ぎた妄想のことだ。都の言葉が真実なら、あれらは過去の記憶だったのではないだろうか。
「付き合い始めたのは大学二年生の冬。丸二年もだもだしていたお前らがどうやって交際に至ったのか、何度聞いても教えてくれなくて。だからヒントも何も出してやれないんだけど、思い出せるか?」
「すまん、わからない……」
「だよな。捻くれ者のお前がストレートに愛を語るだなんて、ちょっと想像したくない」
「なら想像すんな」
 頼んでもないが、と語気を荒げて言った瞬間むせ込み、ひとしきり咳き込んでから息を整えれば、人が苦しんでいる内にカバンから缶コーヒーを取り出した都が、それを悠々と飲み始めていた。インスタント特有のわかりやすいコーヒー豆の香りがふわりと鼻先に届き、途端に脳裏に映像が駆け抜ける。
 場所はいつか見た、いかにも女の子らしい部屋。目の前にはお手製ベーコンエッグサンドを頬張る鈴。
 先程まで降っていた雪が止んで、今は明るい日差しが狭い部屋に燦々と降り注いでいる。小さな丸いガラステーブルは、可愛いけれど冬は冷たいのだと、彼女がハギレを繋ぎ合わせて作ったテーブルクロスに覆われている。暖色系のハギレがメインのそれは、華やかで暖かみがあり、可愛さなどらわからないが、チマチマと鈴が縫ったのだと思うと愛おしい。テーブルに置かれた二つのマグカップには、それぞれコーヒーとカフェオレが入っている。千歳が淹れたもので、どこにでも売っているインスタントの粉を使っているが、鈴の分のカフェオレにはすこしこだわっている。まず、濃い目のコーヒーを少量ミルクパンに作り、そこにたっぷりのミルクを注ぐ。分量は、「鈴が好むカフェオレの色になるまで」。つまりは彼女の嗜好を理解していないと作り出せない味で、自分以上に彼女の好みを具現化できる者はいないと自負している。
 ザクリとサンドイッチにかぶり付いた鈴は、彼女にとってのベストオブカフェオレを一口。そして、心底幸せそうに笑う。
 その笑みが、あまりに可愛らしかったから。彼女が作ったサンドイッチの中の卵があまりにふわふわだったから。香ばしく焼かれた食パンとコーヒーがあまりに絶妙な組み合わせだったから。思考能力が低下し、つい、口が滑る。
『俺ってば、高スペックなんだよ』
『ん? 何を重視するかは見る人によって違うのでは?』
『今は正論混じりの屁理屈合戦をしたいわけじゃないんだが……。お前にとってって意味』
『私にとって千歳が高スペック?』
 サンドイッチを食べ終わった鈴は、唇の端にパンくずを付けたまま難しい顔で唸っている。
『愚か者め、よく考えてみろ。世の中で一番お前の料理を美味いと感じているのは俺だし、世の中で一番お前の不思議な話をちゃんと聞いてやれるのも俺。そして世の中で一番お前好みのカフェオレを作れるのも俺だ』
『ほんとうだ、高スペックだ!』
 笑って、鈴がカフェオレをゆっくり口に運ぶ。いつもと同じ飄々とした態度。しかし、真っ黒な髪からのぞく耳が赤らんでいて。その小さな赤に勇気付けられ、言葉を続ける。
『俺はお前以外の世界中の女にとっては無価値でつまらない男だけど、たった一人お前にとっては最高の男だ。そして、俺自身も、それでいいと思ってる。溢れんばかりの爆乳美女軍団より、お前がいい』
 手を伸ばし、彼女の口元についたパンくずをそっと払ってやれば、触れた肌の熱さに胸が高鳴る。そのまま、赤い紅葉のような彼女の手を包み込む。
『俺を選んでよ。お前が幸せだと、俺は幸せなんだよ。だからさ、俺の幸せのために幸せにしてやるから。と言うか、俺が一番お前の幸せで幸せになれるし、お前が幸せになる方法を一番知ってる』
 互いにとって、互いが唯一無二の存在なのでは。
 そう詰め寄れば、漆黒の瞳が涙の膜に包まれ、キラキラと宝石のように輝く。林檎のように頬を赤らめながら鼻をスンと啜った彼女は、ご褒美みたいに笑った。
『もちろん。私だけの最高ハイスペックさん』
 ふっと意識が戻る。
 目の前には心配そうな漆黒の瞳。けれどそれは鈴ではなく都で、どうやらまた妄想、いや、過去の記憶に飲まれていたらしいことを悟る。
「思い出した」
「思い出したって、何を。って言うか、いきなり黙って虚空を見つめ出したから本気で怖かったんだけど。目は虚だし、口は半開きだし」
「すまん、時々なるんだ。鈴とのことが断片的に頭に浮かんで。片想いを拗らせ過ぎて妄想の世界に入り込んでんのかと思ってたんだが」
「ああ、片想い時代のお前は見るに耐えないものがあったものな。恋人になるか囚人になるか、どちらかの未来しか俺には見えなかった」
「黙れ」
 じっとりと睨むも、この掴みどころのない親友は怯みすらしない。缶コーヒーを飲みながら、「で、何を思い出したの?」と問うてくる。
「……付き合った経緯」
「おっ、いいね。教えてよ、皮肉屋の甘い愛のセリフ」
「俺が高スペックだから」
「は?」
「俺が、高スペックだったから」
 一言一言噛み締めるように言ってやれば、都は心底意味がわからないと首を傾げ、「ストーカーとしてのスペックが高いってこと? 最高クレイジーハイスペック?」と。
「黙れ。いや、黙るな、鈴の話に戻れ」
「はいはい」
 苦笑しながら立ち上がり、部屋の隅に置かれたゴミ箱に空の缶を捨てた都は、先程とは打って変わって強張った表情で椅子に座った。そして、ゆっくりと一呼吸してから、話し始める。
「あの日は、お前たち二人の結婚記念日で、鈴の誕生日だった。近頃お前が元気ないからご馳走作るんだって、何日も前から鈴は張り切ってた。ほら、お前が関西の方でデカい契約が取れそうだったのに、同じ部署のハゲが邪魔してオジャンになりかけたことあったろ。それで、お前と黒緋ブチョが土下座行脚で朝から晩まで東奔西走してた、あの日だよ。日付が変わった頃にお前から電話があって、『鈴が車に轢かれた』って」
「車に!? だ、大丈夫なのか!?」
「まあ、聞けって。病院行ったら鈴はまだ手術中で、お前は放心状態。たまたま事故現場を目撃したカップルが、心配して病院にまで来てくれててさ。事情を聞いたら、どうも鈴がいきなり道路に飛び出したみたいで」
「それは確かなのか?」
「後から車内レコーダーで確認したから間違いないよ。轢かれそうになってた猫を助けて」 
 ちなみに猫は無事だし、カップルに引き取られて幸せに暮らしましたとさ。
 と、わざとらしく戯けた口調の都は、そのままの口調で続ける。
「鈴は赤いスーツケースを引いてて、中には着替えやら何やらが入ってた。察するに、家出でもしてる最中だったんだろ」
「あ……」
 家出。
 まず間違いなく、原因は千歳だろう。つまり鈴は千歳のせいで事故に遭ったのだ。
 胸を抉ぐるような真実に、身体が震え、額から汗が滴る。冷や水に飛び込んだみたいに全身が冷えて痛い。
「集中治療室で治療を受ける鈴を待ってる間に香染から電話が来てさ。事故の少し前に誕生日おめでとう電話を鈴にかけたらしくて、その時様子が変だったから気になってとか言って。俺も一応誕生日だったんだけどもちろんスルーな。で、事情を説明したら飛んできて」
「騒いだだろ」
「さすがの俺も、あいつの声帯に石詰めてやろうかと思ったね」
 苦笑した都は、視線を伏せてしばらく逡巡し、ややあって、再びこちらを向いた。言葉を選んでいるのだろう、ゆっくりとした口調で、話を続ける。
「朝方、集中治療室から鈴とセンセが出て来て。『なんとか一命は取り留めました』って。けど、頭をかなり強く打ってたみたいでさ。医者が言うんだよ」
 ざわりと、腹の中で何かが蠢く。
 自分はこの話を知っている。知っていて、知らないふりをしている。だって。
 蛇のようなそれは、身体中を這い回り、鎌首をもたげてこちらを睨んでいる。まさに、蛇に睨まれた蛙のように、耳を塞ぎたくても逃げ出したくても身動き一つ取れず、湧き上がる恐怖を誤魔化すこともできない。
 だって。あまりに残酷だったから。
 知らないふりをすれば無かったことになると思ったから。
 赤い舌をチロチロとさせた蛇が、白い牙を剥き出す。そして、ガバリと口を開け、内側から千歳の喉に噛み付いた瞬間。
「『もう目覚めないかもしれません』って」
 思い出した。
 
「お帰りなさい。もう! お昼には帰って来るって言ってたのに全然帰って来ないし。冷蔵庫の中空っぽだから、何も作れてないよ」
 ぷりぷりと頬を膨らませた鈴が、腕組みをしながら玄関先で仁王立ちしている。
 上り框の段差があっても尚下にある小さな彼女の姿に、しかし今は可愛いと思う余裕がなくて。
 横をすり抜けて部屋へ入れば、ダイニングテーブルには出張へ行く前に千歳が渡した生活費が、そのまま置かれてた。
「……買い物、行かなかったのか」
「行かなかったよ、必要ないから」
「それはお前が」
 生きてないから? 
 振り返り、後ろにあった華奢な身体を引き寄せて抱きしめる。小さく悲鳴を上げた鈴の口を手で塞ぎ、その胸に耳を押し付ける。
 鼓動が、ない。
「思い出しちゃった?」
 悪戯っぽい声に顔を上げれば、チェシャ猫のような笑みを浮かべる彼女。三日月のような口元をさらに歪ませた鈴は、深淵より尚深い色をした瞳に怪しい光を宿して、小首を傾げる。
「違ったね。忘れたふりは、もうやめたの?」
 そうだ、ずっと忘れたふりをしてた。
 一人暮らしには広すぎる部屋も、不細工なぬいぐるみも、決して食べない鈴も、冷た過ぎる身体も。
 普通に考えればおかしなことばかりだった。
 何より、鈴を他の男に渡すなんて、万が一にもありえないのに。
「病院に行った。鈴が、俺の妻が寝てた」
「眠り姫みたいに美しかったでしょう」
「暖かかったし、生きてた」
 病院のベッドに横たわる彼女は、死んでるみたいに動かなくて。けれどその肌は暖かく、胸元に頬を寄せれば心臓の鼓動が聴こえた。

「一度も目を覚ましてないから、すこしやつれちゃったね」
 そう言った都は、千歳が何か言うより早く、わかってるよと制した。
「ちーの家にいるんだよね、鈴。嘘だとも、ちーの妄想だとも思ってないよ。卵焼きも唐揚げも、確かに鈴の味だった」
「なら……」
「あり得ない。目が覚めて、ここを抜け出したならすぐに誰かが気付くよ」
 千歳の言葉を予測して否定した都は、強張った様子で生唾を飲み込んだ。そして、内緒話をするように囁いた。
「ねえ、ちー。ちーの家にいるのってさ……」

「……お前……『何?』」
 都に投げかられたのと同じ問いを、彼女にぶつける。と、彼女はスッと能面のように表情をなくし、「『何』、か……」と呟く。
「なんなのか、私にもわからないの。身体は生きてるから幽霊ではないし、魂にしては妙に存在感がある。生き霊ってやつなのかな」
 彼女はしげしげと自身の身体を不思議そうに観察し、あくまで暢気な様子で唸る。
「脚もあるし、物も触れるの。料理だって出来た。試しに塩をふってみたけど溶けたり消えたりもしないのね。けど、千歳以外の人には見えてないみたいだから、やっぱり生き物ではないと思うの」
 まるで他人事のように淡々と言う鈴に、こちらが唖然としてしまう。あまつ彼女は、「お腹も減らない汚れもしない眠くもならないって、生き物として完成されすぎてない? 生きてないことを除けば」と、ケラケラ笑う始末。
「もう、わかんねえよ」
「何が?」
「全部、お前がなんなのかも、どうしたらいいかも、何もわからない」
 座り込み、頭を掻きむしる。
 頭の中はもうずっとキャパオーバーで何も考えられない。甦った記憶と思考と現実が全く噛み合わず、常識という線路から大幅に脱線している。
 色んな種類のパズルのピースをぶち撒けられ、組み立てろと頭に拳銃を突きつけられているような。
 途方もない恐怖と焦りが混乱を助長させ、もう何が何やらわからない。
 今にも叫び出しそうだ。
「千歳……」
 こちらの視線に合わせようとしたのか、しゃがんだ鈴に思い切り抱きつく。冷たくて鼓動のしない身体にしがみ付き、みっともなく泣きじゃくる。
「わかんねえ、俺には、お前を好きなことしか、わからねえ」
 全ての絵の具をぐちゃぐちゃに塗りたくったキャンバスのように醜い千歳の中にあって、それでも鈴への想いだけは奇跡みたいに綺麗なまま。
 ずっと好きで。何より好きで。
 鈴を好きな千歳こそが千歳で、この想いを失くせばそれは千歳ではないと。
 そう断言できるくらい、大好きで。
 それしか、わからない。
 それだけわかっていたら、もうそれでいい。
「お前が好きだ。もう、それで何もかも十分だ」
 鈴への想いだけ残して、あとは消えてしまえばいい。鈴を好きな千歳だけで、もうきちんと千歳なのだから。
 泣いて、泣きじゃくって、しゃくり上げながら告げた告白は世界一情けなくて。
 鈴は、小さく鼻を啜って一言、ずるいと呟いた。
「ずるいよ、そんな可愛いこと言うなんて」
 罰を与えに来たのに。
 そう付け足し、抱きしめ返してくれた。冷たくて柔らかいその腕の中、鈴は過去のことを語り始めた。
「いつぐらいからかな。千歳、仕事が忙しいって、帰って来るのも毎晩遅くなって、ご飯も家で食べなくなったよね。お弁当も朝ご飯も要らないって。仕事で悩んでるんだろうなってわかってたけど、私には料理を作ってあげることしか出来ないのにそれすら拒絶されて、どうしたらいいかわからなかった。無力な自分が、情けなかった」
 言われ、思い出す。
 今の部署に移動してから上司や同僚から嫌がらせをされるようになり、悔しくて、夜遅くまで死ぬほど働いた。結果を出せば誰にも文句は言われないと。けれど実績を積むほどにそれはエスカレートし、黒緋部長が何度か間に入ってくれたがそれでも収まらず、毎晩ヤケクソみたいに飲んで。ある日、黒緋部長に抱かれた。もう、鈴の料理を食べる資格なんてない。そう思ったら、口に入れることすら出来なくなってしまった。吐いて、無理やり飲み込んで、また吐いて。
 だから拒否した。裏切った自分に、変わらずそそがれる彼女の愛が苦しくて痛かった。
 あとはただ、堕ちて堕ちて。
「けど、あの日は結婚記念日だったし、私の誕生日だったから、プレゼントは要らないからせめて私のご飯を一緒に食べて欲しくてご馳走作ったんだよ。ケーキもね。まん丸くて、千歳でも食べられるように甘さ控えめのやつ」
 そうだ。
 朝、今日は一緒にご飯食べたいなと言われ、うつむく彼女が、なんだかとても小さくて儚くて、消えてしまいそうに見えたから。
 一緒に食べようって約束したのだ。鈴を蔑ろにしている自覚はあったし、彼女が哀しんでいることも知っていた。ご褒美みたいな笑顔ももう思い出せなくなっていて、もう解放してあげようと思った。大好きで大好きで、誰よりも愛していて、だから、離れるしかないって。
 最後に、思い出が欲しかった。
 それさえあれば、千歳はこの先何があっても、幸せだったと笑えるのだから。
 けれど。
「千歳は、帰って来なかったね」
 落ちてきた呟きは相変わらず淡々としているが、隠しきれない悲しみを宿していた。思わず顔を上げれば、今にも泣き出しそうに微笑む彼女と目が合う。
 胸を鷲掴みにされたみたいに苦しくて、咄嗟に溢れそうになった言い訳すら出てこない。それでも、これだけは伝えたくて喉から声を絞り出す。
「俺も、鈴のご飯が食べたかった。ずっと」
 最後だから、吐いてでも食べようと思っていた。どれだけ吐いてしまっても、すこしでも自分の中に鈴を残したかった。
 あの日、定時で帰ろうとしていた千歳は課長に呼び出され、千歳が取り付けた大口契約が頓挫しかかっていることを告げられた。会議室には課長と黒緋、それから真っ青な顔の主任。どうやら主任の、千歳への嫌がらせがピタゴラスイッチ的に様々な方向へ左様し、思わぬ大惨事一歩手前だとか。それからは、黒緋と共に右往左往。最終的には何とか収まったが、主任は終始、「一色が悪い」と。こちらを睨む瞳には殺意にすら感じられるほどの憎悪が宿っていて。理由は畢竟、千歳が気に入らないから。
 ただ千歳が千歳である、それだけで向けられた悪意は確実に千歳の心を殺した。
 身体を引きずるようにして帰った千歳を待っていたのは泣きそうな鈴で。「千歳は変わった」と責めてくる彼女の姿は千歳という存在を否定する会社の奴等に重なって見えた。
 酷い言葉を吐いた。
 何より好きで、誰より幸せにしたくて、大好きで大好きで大好きなのに、言ってはならない言葉を浴びせかけた。
 必死だったのだ。
 自分を守ることに必死で、もう誰が敵で誰が味方かもわからなくて、とにかく自分に向けられた全てを攻撃した。
 鈴の愛すらも。
 テーブルのケーキを薙ぎ払い、部屋を飛び出した。扉の向こうで聞こえた鈴の泣き声から逃げるように走って走って、黒緋の元へ向かった。
 驚いた顔の男は、それでも千歳を部屋へ通してくれた。「散らかっててすまん」と困った顔で頭を掻く姿はカッコ悪くて、自分の前で弱さを曝け出す黒緋になら、情けない自分を隠さなくてもいいのだと思えた。モノがあちこちに散らかった部屋は千歳の心の中のようで妙に安心し、初めて自分から、黒緋に抱かれた。
 千歳であればそれでいいと言う男の腕の中は酷く心地よくて、存在を許された気がした。男としての矜持も理性も常識もかなぐり捨て、空っぽになったら身体に男を受け入れている間だけは、千歳は単なる千歳で、それ以上でも以下でもなくて、性的な快感よりも深い安堵を覚えた。そうして、何度も何度もねだって。
 体力の限界を迎えたころ、それまで気付かないフリをしていたケータイ電話にふと目をやった。ずらりと並んだ都からの着信。折り返せば、聞いたことのないほど動揺しきった都からの、信じられない話。
 病院までの道は、覚えていない。
 緊急処置室の電燈がやけに明るくて、都の綺麗な顔が真っ白に見えた。目の前で騒いでいる香染の騒音すらも遠くて聞こえない。
 氷の張った湖に閉じ込められた感覚。
 刺すように冷たくて窒息しそうに苦しい水の中、氷一枚隔てた向こうを死にそうになりながら眺めている、そんな感じ。
 死ぬより辛い時間が流れ、処置室から出てきた医者が告げた言葉。そこからの記憶は断片的で、コマ割りの粗い漫画のよう。
 ストレッチャーで運ばれてきた死人みたいな鈴。綺麗に片付いた部屋。料理もケーキも、鈴のものもなくなった色のない空間。ソファにぽつんと座る不細工な猫。鈴のいない時間。鈴のいない自分。
 プツリと何かが切れた音がして、自分の結婚指輪を外した。鈴が普段から「千歳みたい」と抱き締めていた不細工な猫のぬいぐるみを少し切って指輪を捩じ込めば、妙に満足して。それでもう十分だと思えた。
 そうして、手首を切った。
 次の記憶は消毒臭い病室。弱り顔の都が何か言っていたが、よく聞こえなかった。叱り付けられているのはわかったけれど、鈴と同じ顔を見ているのが辛くて、酷い言葉で追い払った。
 自分の家に戻り、暴れ、床に落ちていた不細工猫で滑って転んで足を滑らせ頭を打ち、そして鈴が来た。一通り思い出しても意味がわからないが、これがすべてだ。
 無様でみっともなくて弱くて、しかも間抜けな、千歳の顛末。
「ね、千歳。何か飲もうか」
「は」
「待ってて」
 そう言って立ち上がった鈴がキッチンに向かう。戸惑いながらもいつもの席に座った千歳は、くるくる動くその小さな背中を見つめる。
 やがて、ぐつぐつと何かが煮えるいい音と共に、ふわりとフルーティな香りが立ち込める。鍋の中身が気になって立ち上がりかけたところ、お気に入りのマグカップを持って振り返った鈴と目が合う。
「待ちきれなかった? しょうがない人。はい、どうぞ」
 ことりと置かれたマグカップを満たすのは、濃い赤の液体。千歳のお気に入りの一品に、軋んでいた胸がわずかに緩む。
「ホットワインか」
 早速ふうふうと息を吹きかけ、そっと口に含む。
 ワインの渋みに蜂蜜の甘さが絶妙で、思わず吐息を漏らせば鼻から抜けるレモンとシナモン、そしてほのかなアルコール。
 完全にアルコールを吹き飛ばさないのが鈴のレシピで、温かさもあって飲むとすこしだけぼんやりする。寝付けない夜や寒い日にはぴったりの一杯だ。
「いつもよりちょっと甘めにしてみたけど、どうかな」
「ん。いつもだったらちょっと甘過ぎに感じそうだけど、今はちょうどいい」
「疲れたときはね、甘いものだよきみ。心と体を物理的に甘やかしてあげねばならんよ」
「確かに落ち着きました。問題は何一つ、解決しておりませんが」
「良い良い、甘いものとアルコールを味わっておる間は何か考えてはならんのじゃ。わしが定めたわしの世界の掟じゃ」
「ちなみに、掟を破ると如何様な罰が」
「生爪剥ぐ」
「飴と鞭の落差がマリアナ海溝並み」
 震えながら最後まで飲み干せば、身体が暖まり、自然と心もやや落ち着きを取り戻す。疲労困憊した身体にアルコールが回り、思考能力がやや低下しただけかもしれないが。
「千歳はさ、どうして変わっちゃったの? 仕事で疲れちゃった? 私が嫌になっちゃった?」
「……黙秘権は?」
「許可する。千歳が、それで辛くないならね」
 労わるような優しい声に、罪悪感と甘えたい気持ちが込み上げる。
 ゆっくりゆっくり、全てを話した。
 会社での人間関係のトラブルに、黒緋との爛れた関係。洗いざらい、全て。
「今はどうなの? 会社の人たちは」
「今は……」
 問われ、気付く。
 肉体関係を持ち始めてからの黒緋は、人前では殊更千歳に厳しく接した。千歳からすれば表立ってはパワハラ、裏ではセクハラで、泣きっ面に蜂どころか、死にかけに熊とも言える最悪な状況だったが。だが、黒緋のパワハラに反比例して他社員からの嫌がらせが減ったのは事実だ。
「……今は……黒緋部長にパワハラ受けてるんじゃないかって、心配されてる」
 つまり黒緋は、自分を悪者にして千歳を守ってくれていたのか。ごん、お前だったのか、と思わず呟きそうになる。
「……あの人はほんとうに、千歳が好きなんだね」
 複雑そうに顔をしかめて呟く鈴に何と言ったらいいのかわからずにただただうつむく。空っぽのマグカップはどうやら不細工猫とのコラボ商品だったようで、内側の底に例の猫がプリントされている。じとりとこちらを睨むような腹立たしい目つきに、しかし今は胃が重くなるばかりだ。
「す……すま、ん?」
「それは、どれを謝ってる? 同性の上司と浮気をしていたこと? その相手がスパダリ過ぎること?」
「スーパーダーリンって感じじゃないだろ、あの人。スーパーゴリラではあるが」
 話をはぐらかすようにごにょごにょ言えば、返ってきたのはクジラくらい巨大なため息が一つ。恐る恐る顔を上げれば、酷く悲しげな漆黒の瞳とぶつかる。
「スーパーゴリラでもウルトラゴリラでも、私よりはいいゴリラだよ。だって、あなたを助けてあげられたんだから」
「お前よりは、なんて……」
「私は、何もしてないどころか、何も知ってすらない」
 伏せた宝石のような黒がキラキラと輝く。涙を湛えたその瞳すら信じられないほど美しく見えるのだから敵わない。降参するように、白状する。
「好きだから、言えなかった」
「え?」
「鈴が好きで、大好きで。格好悪い姿を見られたくなかった」
 小さくて可愛い鈴。俺にとってのお姫さま。
 苦労して来た分を取り戻すくらい、幸せにしてやりたくて。
 けれどそれは、千歳の勝手なエゴなのだろう。鈴は、弱くない。弱いのは、鈴のためと言う大義名分がなければ生きられない千歳だ。
 わかっているからこそ、殊更鈴の前では強く見せたかった。
 それによって自身も鈴も追い詰めてしまったのでは、本末転倒もいいところだが。
「私はわがままだからさ、千歳、格好悪い千歳も全部、私のものにしたかったよ」
 千歳が大好きだから。
 そう泣き笑う彼女の顔はぐしゃぐしゃで、変な顔で。それでもたまらなく愛おしくて。
 どう足掻いても好きだよチクショウ。
「俺が、全部悪い。馬鹿で弱虫な俺が」
 結局、逃げていただけなのだ。自分にとって都合の悪い全てに背を向けて、自分を甘やかしてくれる嘘の世界線に身を浸し、ほんとうに自分を想ってくれている人々を裏切り続けた最低最悪の卑怯者。それが自分という人間の本性。
 鈴を好きな気持ち以外は全てが醜い、腐った肉の塊だ。
「なあ、鈴はさ、罰を与えるために俺のところへ来たんだよな。それさ、今やってよ。お前の望むように、傷つけてくれよ」
 罰されたい、無茶苦茶に。
 許されるわけでなくても、それでも鈴からの痛みが欲しかった。
 と、鈴が立ち上がり、背後に回った。腕がこちらに伸びる気配がし、ゆっくりと瞳を閉じる。このまま殺されたって構わない、むしろ、殺されたい気分だったから。
 と、両の頬に彼女の指先が触れ、その冷たさに身をすくめた瞬間、思いっきり引っ張られる。
「いひゃひゃひゃひゃひゃっ」
 口を裂かんばかりの力に、しかしされるがまま悶えていると、小さな舌打ちと共に指が離れ、後頭部を一発叩かれる。
「馬鹿者めっ」
「痛っ」
「アホアホのっぽ! どスケベきのこ! おたんこなすのアンポンタン!」
「お前……今日日の小学生の方がまだ罵声に知性が感じられるぞ」
 ポカポカ叩いてくる鈴に呆れて振り向き、心臓が止まる。
 大粒の黒曜石の瞳から、ガラスのカケラのように煌めく涙が溢れていた。 
 キラキラキラと降り注ぐそれは、夜空の星が落ちてきたのではないかと思うほどに、美しかった。
「鈴」
 振り上げられた拳を受け止め、その小さな身体を抱きすくめる。ふうふうと威嚇する子猫の如きその背中を優しく撫でながら、「ごめんなさい」とこめかみに口付ける。
「千歳は酷い。意地悪だ」
「うん」
「私が大好きな千歳を、千歳は大事にしてくれない」
「ごめん」
 しゃくりあげるその背中はあまりに小さくて頼りなくて。
 自分を粗末にするということの罪深さを知る。
「これからは、きちんと自分を大事にする。死のうとか、考えたりしない」
 だから、どうか泣かないで。
 頬を伝う涙の一粒一粒に口付けを落とし、最後に赤い唇に顔を寄せる。と、冷たい手でぐいっと、頬を押される。
「だめ」
「だめ?」
「だめ。罰ゲームをきちんと受けてもらいます」
 そう言って袖で涙を拭った鈴は、鼻声ながらも明るく告げた。
「死ぬまで生きて。それが、最後にして最大の罰ゲーム」
「……最後?」
 ヒヤリと心臓が冷え、腕の中の鈴を見やれば、寂しげな微笑み。思わず閉じ込めるように腕の力を強める。
「最後、なんて、なんでそんなこと……っ」
「私はね、千歳、千歳に罰ゲームを与えるためにここにいるの。役目が終わったなら、ここにはいられない」
「嫌だっ、なら罰ゲームなんてしないっ」
「千歳に拒否権なんてないの。決定事項」
「嫌だっ」
 一輪咲のように儚い彼女を、力いっぱい抱きしめる。細い背骨がミシリと音を立てたが、それでも離せなくて。縋り付くように胸に抱き込む。
「一緒にいたい。ずっと一緒にいたい。お前からの罰ゲームを、死ぬまで受けさせろよ、何万個だって受けるから。困ったふりして、嫌がるふりして、それでも喜んで受けるから」
 だってもう知ってる。料理や読書と同じで、罰ゲームすら愛なのだと。
死ぬまで俺を振り回せよ」
 文句を言いつつも彼女に従うのが、千歳の愛なのだから。
 と、腕の中の小さな生き物が軽やかに喉を鳴らした。場違いなほどに涼やかで可愛らしい音に、すこし腕の力を弱めて覗き込む。
 彼女は、笑っていた。それも、とびきり愛らしく。
「千歳、甘えん坊なの、可愛いね」
「馬鹿、可愛いのはお前だろ馬鹿」
「馬鹿だね、こんなに可愛い千歳を、もっと味わいたかった」
 そう言って、目尻に浮かぶ涙を指先で軽く拭う鈴に、胸が痛くて死にそうになる。
「味わえばいいだろこれから毎日。赤ん坊みたいに甘えてやる。お前だけの最高ハイスペックわがままベイビーになってやるから」
「世界一格好悪い愛のセリフだね」
 また鈴が鳴るように笑った彼女は、千歳、と穏やかな声でこちらに手を伸ばすした。すこし屈めば、冷たい手で両頬を包まれる。引き寄せられるまま、おでことおでこをコツリと合わせる。
「千歳、大丈夫。今の千歳は、自分で自分を甘やかす方法を知ってるでしょう? 自分の好きなものを作って食べて、お散歩して、本を読んで、ちゃんと寝る。それで十分、千歳は千歳を幸せにしてあげられるよ」
「けどそばにお前がいない。お前がいないなら、ダメだよ」
「そばにいるよ、ずっと。ほら、『星の王子さま』と同じ。私の教えた料理を作るたび、千歳は私とご飯を作ってる。お散歩してちょっと可愛い喫茶店に入ってメニューを開けばね、たくさん美味しそうなものが並んでて、それで千歳は私を思い出すよ。そして、食いしん坊めって笑いたくなる。そしたら千歳は、世の中にある全部の料理を見るだけで、思わず笑っちゃう変な人になって、変な目で見られる度に、舌打ちして、それでも私が好きだなって、やれやれなんて肩をすくめるよ。そうやって、ずっとずっと、私は千歳のそばにいる。ね、千歳、忘れないで」
 息が出来ないくらい悲しくて苦しくて、涙が止まらない。自分の涙で溺死してしまいそうなのに、鈴はそれを丁寧に指で拭いながら、自身も泣きながら笑う。
「千歳、もし自分を嫌いになっても、千歳が世界で一番好きな私は、世界で一番千歳が好き。千歳である、それだけで、私は千歳を世界一愛してる」
 そう言って、ご褒美みたいに笑った鈴は、千歳の唇にそっと自身の唇を寄せ、触れ合っ
た瞬間に霧のように消えてしまった。
 唇に残った柔らかな冷たさが身を切るように痛くて、そのまま地面に座り込んだ千歳は、獣が吠えるように泣いた。
 彼女を抱きしめた腕からは、かすかに金木犀の香りがした。

 春。
 ところどころ散り始めた桜が、それでも美しく咲き誇る。満開も素晴らしいが、ふわりと微風に散る危うさを孕んだ今の桜の方をより尊く感じるのは、日本人としての性なのか。
 上を見上げてぼんやりしていると、腰の辺りをクイっと引っ張られる。視線を落とせばそこには、世界で一番可愛い千歳の女の子の姿が。
「どうしたの? 心配事?」
 すこし心配そうに眉を寄せる妻、鈴は、今日は長い髪をそのまま下ろし、桜色のロングワンピースを着ている。濡れ羽色の真っ直ぐな髪と漆黒の瞳に、甘い桜がよく映え、凛とした美しさと可憐さが素晴らしいバランスで配合されている。
 そっと手を伸ばし、風に吹かれる髪を耳にかけてやると、くすぐったそうに身じろぐ小さな身体。たまらなくなり、破顔する。
「桜が綺麗だなって。けど、お前のが綺麗だ」
「恥ずかしい人。桜の方が綺麗に決まってるでしょう」
「六十三億人にとってはそうでも、俺にはお前の方が綺麗に見える」
「馬鹿な人。桜のが綺麗よ」
「わかった言い方が悪いな。桜よりお前が好き」
「もうわかったってば」
 憤慨したように先を歩いて行ってしまう鈴の、わずかに赤らむ耳が愛おしい。
 想いを言葉にして伝えることを意識するようになって数ヶ月。これまでの千歳は、皮肉めいた言葉の中にそっと愛を忍ばせるばかりだった。が、それは鈴に甘え過ぎだと反省した。
 そして、恥ずかしさを忍びに忍んで素直に伝えるようにしたのだが、千歳以上に慣れない鈴が紅潮して戸惑う姿がたまらなくて。もはや躊躇する理由も見つからず、愛情を垂れ流す日々だ。
 あの日、鈴の生き霊のようなものが腕の中きら消えた日。すぐに千歳は病院へと向かった。病室に駆け込めばちょうど医者や看護師がベッドを取り囲んでおり、それを押し除けて鈴の身体に取り縋った。半狂乱で泣き喚いて妻の名を呼べば、一言。「うるさい人」と。
顔を上げれば呆れ顔の鈴と、苦笑している医師たち。
「ちょうど今ご主人にご連絡しようと思ってたんですが」と医者は、詳しい検査はこれからするが、おそらくもう大丈夫だろうと安堵したように笑った。
「け、けどお前、さっき、もうここにはいられないって……」
「身体に戻らなきゃいけなかったからね」
「さ、最後の罰ゲームって……」
「いつまでも負けてんなよって言う……」
 叱咤激励のつもりだった。掠れたスカスカな声で、途切れ途切れにそう言いながら、まだ力のこもらない笑みを見せた鈴。弱々しいながらも無邪気なその顔を見た途端、がくりと力が抜けた。それでも握った手は決して離さず、懸命に想いを紡ぐ。
「恋愛は惚れた方が負け、なんだろ。なら、俺はずっとお前に勝てない。心底お前に、惚れ込んでるから」
 後ろにいた医者が小さく口笛を吹き、看護師たちが小声で冷やかしているのが聴こえたが、もう関係ない。
「愛してる」
 全部を賭けて、己の一等大事な想いを伝えれば、涙で濡れた声になった。
 と、小さな笑い声。見れば鈴が、泣きながら笑っていた。ご褒美みたいな笑みで。
「恥ずかしい人」
 そう言ってからやはり涙声で、「愛してる」。
 おでこをくっ付けて笑い合い、先程は寸前で出来なかった口付けをかわした。柔らかくてしょっぱくて、そして暖かな口付けだった。
 その後はもう嵐のような日々。連日の検査に次ぐ検査に、押し寄せる見舞い客たち。香染が女受けする犬みたいな面から、汁という汁を垂れ流して鈴に飛び掛かったときは点滴の管で締め殺そうと思ったし、都が黒緋と共にバカデカいフルーツの詰め合わせやら紅茶やらオシャレな菓子やらを山のように持って来たときは、正直生きた心地がしなかった。
 そんなこんなで慌ただしく日々が過ぎて行き、鈴も退院。今日はお弁当を持ってお花見に来ている。お弁当の中身はふたりで早起きして作った。鈴は生き霊(仮)の間の出来事は、まるで夢を見ているようだったと語り、断片的しか覚えていないと言う。けれどキッチンでこと細かく千歳に指示を出しながら、「この間も教えたばかりだよ」と叱責する様子を見るに、実はすっかり覚えているのでは、とも思う。
 どちらでもいい。
 鈴が鈴として、そばにいてくれるのだから。
「いただきます」
 場所取りをしてくれていた都と三人で、桜の木の下、お弁当を楽しむ。
「鈴、寒くない? 俺の上着貸してあげる」
 などと言いつつ、いそいそと自身のジャケットを脱ごうとする香染。そうだった、こいつもいたんだった。
「鈴」
 カバンから彼女のお気に入りの瑠璃色のカーディガンを取り出して、その華奢な肩にかける。鈴が言うには、桜色と瑠璃色は、いぶりがっことクリームチーズみたいに相性がいいらしい。真偽は定かではないが、確かに似合っている。ついでに不細工猫柄の気味の悪いブランケットも取り出し、膝にかけてやる。
「出た、過保護」
「愛だよ、愛」
 鈴を転がしたみたいに喉を鳴らして笑う彼女の頬を指の背でするりと撫で上げる。
 もちのようなそれは、思わず喰みたくなるほど柔らかで。吸い込まれるように顔を寄せれば、向かい側でひたすら料理を食べていた都がワザとらしく咳払いする。
「なんだ、誤飲でもしたか?」
「胸焼けはしそう」
「しとけしとけ、お前は食い過ぎなんだよ。一色は死んどけ死んどけ」
 胸元をさすりながらも次々に箸を伸ばす都を睨みながら香染が言う。卵焼きを口に運んだ男は、一口噛み締めた瞬間にとろけたようにだらしなく笑った。
「んんん、やっぱり鈴の卵焼きは世界一だね。口が喜んでるよ」
「綺麗に焼けてるよね。味付けも完璧」
「うん、完璧俺好み。毎日この卵焼きを食べられるなら、幸せ過ぎて空飛べちゃいそう」
「言ったな。飛べよ、ビルから」
 都の隣、鈴の向かい側に座る香染が、バカ犬丸出しで彼女に擦り寄ろうとするのを、その肩を掴んで止める。チワワのようなつぶらな瞳が一気に土佐犬の激しさでこちらを睨み、歯を剥き出さんばかりに唸る。
「お前には言ってねえよナルシストが」
「残念だが、その卵焼き作ったのは俺だよ駄犬が」
 肩を潰さんばかりに強く掴みながら言えば、男の顔が「は?」と歪む。が、千歳の隣でおかしそうに頷く鈴を見て、「嘘だろ……」と瞬時に肩を落とした。
「ほら、飛べよ馬鹿犬」と言いたかったが、我慢して手を離してやった。すっかり千歳らしさとなった皮肉や悪態は、それでも治そうと決めたのだ。周りのため、というよりは、周りと諍いを避けることで自分を守るため、だが。
 千歳の幸せは、私の幸せ。夫婦ってそんな愛なんだよ。
 なんて、健気なことを愛妻が言うのだ。
 馬鹿野郎が、好きだよどうしても。
 箸の反対側で一口サイズのハンバーグを摘んで香染の皿に置く。
「お前の好物だからって鈴が作ってた。残すなよ」
 教えてやれば有り難そうにハンバーグを噛み締め、涙目で咀嚼する犬男。双子から向けられる生暖かい視線を無視して筑前煮の花型にんじんを味わう。
「美味い」
 出汁の染みた優しいその味に思わず呟けば、隣から香る金木犀。
 目をやれば、ご褒美みたいな笑顔が咲いていて。
「私の愛は、美味しいでしょう」
「宇宙一な」
 紙皿を差し出して、請う。
「おかわり」
 罰ゲームを、この先もずっと。
 
          *

 実のない生涯を送ってきた。
『あなたといても、一人みたいだわ』

 古びた赤提灯が味わい深い居酒屋、その名も『愛』。夏の夜空を賑わすような派手な看板に達筆で書かれた陳腐な店名に、元恋人の別れ際の台詞を思い出す。
 最近、親友と双子の妹夫婦はラブラブだ。昔から無自覚にイチャつくカップルではあったが、色々と吹っ切れたらしい皮肉屋が、愛の大盤振る舞いをするようになったのだ。先日も共に花見に行ったが、そのあまりの変貌ぶりに「ラリってんのか?」と火の玉ストレート突っ込んだ幼馴染がグーで殴られていた。尊い犠牲となった彼には悪いが、二人が幸せなら薬中でもアル中でもいいやと笑ったら、「俺は妻中、妻中毒だ」と真顔で言い返され、ちょっとムカついたのは内緒だ。
 そんな恋愛中毒患者に当てられたからか、それとも店先に漂う炭火焼きの香りがあまりに食欲を誘ったからか。運命的な出会いを果たしたように、店から目が離せない。
 残業終わりで痛いほどの空腹。今から作るのは面倒だし、せっかく明日は休日なのにコンビニ弁当も味気ないと、吸い寄せられるように暖簾をくぐる。
「っしゃい!」
 タコにそっくりなオヤジさんが星でも飛ばしそうな陽気さで出迎えてくれ、ぐるりと店内を見渡す。
 昔ながらの日本の居酒屋。深夜に近い時間帯ながらも席はほとんど埋まっているというなかなかの盛況ぶりだ。
 と、店の奥のテーブル席に、見知った姿があった。いや、普段の様子とはかけ離れているため、もしかしたら人違いかもしれないが。
 恐る恐る近付き、声を掛ける。
「ブ、ブチョ?」
「……ん? 浅葱、か……」
 気怠げにこちらを見上げる泥酔し切ったその男は、親友の元間男、黒緋であった。

 それから一時間後。
 好奇心は猫をも殺すというが、まさに、と、都は後悔しながら日本酒をなめていた。
 黒緋部長と言えば都たちの会社では知らぬ者はいないほどの出世頭だ。必殺仕事人もかくやと言わんばかりの働きぶりに、鍛え抜かれた肉体、精悍な顔立ち。女なら誰しもが惹かれそうなこの男は、しかし、全くモテない。歴戦の猛者を思わせるその圧倒的威圧感はもやは破壊力抜群のティラノサウルスのようだし、鋭い眼光はメドゥーサ、立ち居振る舞いは品のいいゴジラ、まさに、現代に蘇った悪夢。一部彼の熱狂的な信奉者たち(軒並み男)からは、鬼神、などと崇められているが、極悪非道のインテリゴリラヤクザというのが、社長を筆頭とする社員一同の総意である。
 そんな男が、だ。
 都の目の前でほぼ消毒液のような度数の酒をあおりながら、延々と都の親友、千歳への捨て切れぬ愛を嘆いている。
「ああ、千歳。どうしてあいつは既婚者なんだ。……いや、独身同士でも同性ならどうせ結婚出来ないんだし、既婚者でも問題ない……?」
「思考の帰結具合が大変危険ですね、お薬お出ししましょうね」
「ああ、千歳。どうしてあいつは男なんだ。男でも女でもあいつの色気と可愛さと名器なのは変わらないのに」
「おっと、唐突なる性生活の暴露を千歳の妻の兄にしてしまうとはかなり錯乱してますね、カウンセリングも受けましょうね」
「ああ、千歳。どうしてあいつは千歳なんだ。千歳が、例えばバッタだとしても、あいつはあいつなのに」
「バッタはバッタでしょうが、もう危険なんで大型動物用の麻酔を打っておきましょうね」
 ロミオとジュリエットごっこでもしているかのような男の世迷言をサクサク流しつつ、焼き鳥のハツを喰む。
 焼き加減が抜群で、柔らかいのに歯応えがあって堪らない。「うま……」と思わず呟けば、「俺は馬じゃない、ゴリラだ」と、低く唸った黒緋が、テーブルに突っ伏した。
「ゴリラの自覚あったんですか」
「千歳に言われたから、俺はゴリラだ。所詮俺なんて、ゴリラ止まりの男だ」
「種族超えてるんですから突き進み過ぎですよ、戻って戻って」
「真実の愛のキスがないと無理だ」
「じゃあずっとゴリラですね」
 終身名誉ゴリラおめでとうございます、と、テーブルに置かれた男のグラスに自分のグラスをカチリとぶつけて一口あおる。
 冷酒は好きだ。冷たいのに体内に入れば熱くなる。摩訶不思議な感覚が、おもしろい。まだまだ呑み足りないので追加で何か注文しようとメニューを広げていると、先程から黒緋がピクリとも動かないことに気付く。あれだけ度数の高い酒を浴びていたのだから当然といえば当然だが、まるで人間みたいだ。いや、人間なのだが。
 正直、黒緋に対する印象は悪い。当たり前だが。それでも普段の都であれば、他部署であっても上司には礼儀を欠かしたりはしないのだが、もしかしたら自分もそれなりに酔っているのかもしれない。
 いや、黒緋が悪いのだ。
 だって丸っきり、普段とは別人なのだから。こんな、机にへばり付いた醤油のシミのような惨めさを晒されては、嫌悪なんて馬鹿らしくなる。さりとて優しくしようとも思わないが。
「あなた、そんなに好きなんですか」
 深く考えずに尋ねる。
 店内はいつの間にか閑散とし始めており、オヤジさんは機嫌良さげに皿洗いをしている。水音に混じって聞こえてくる鼻歌は、昔流行った歌謡曲だったか。確か、一途な女の恋の歌だ。都にはストーカーの妄念にしか思えなかったが。
 昔からそうだ。愛も恋も、都にとっては宇宙の話をされているようで、壮大過ぎてイマイチ把握しきれない。恋人が出来ても温度差で双方疲弊し、長く続いた試しがない。頭で理解していても感情はいつも置き去りで、心底誰かに恋したことなどなく、執着などもっての外。
『あなたといても、一人みたい』
 違う、彼女が一人なのではなく、都が世界中で独りなのだ。
 我ながら人付き合いは上手い方で、友人もそれなり。親はいないが妹はいて、恋人だって作ろうと思えばすぐできる。
 けれど、誰といても寂しくて。
 もうずっと、生まれてからずっと、ホームシックのような孤独感に付き纏われている。きっと自分は、この孤独を抱えたまま、たくさんの人に囲まれて、独りぽっちで死んでいくのだ。
 と、都の質問に、死んだように動かなくなっていた男がもそりと顔を上げる。
「好きだ」
 死にたくなるほど。
 そう呟いて鼻を啜る黒緋は、酷くみっともなくて、しかし、今にも消えてしまいそうに見えた。ほんとうに、死んでしまいそうなほど。
 唐突に、羨ましくて堪らなくなった。この男に命懸けで愛されている千歳が。
 何にもなりたいと思ったことはない。誰かの何かになりたいと思ったこともない。
 けれど、この男の激情が自分に向いたらどんなだろうと、想像するだに背筋が震えた。
 だってこの人ならば、愛する人間を決して離しはしない。死の淵にいようが隣に寄り添ってくれる。そんな、危うさを孕んだ愛情。
「……ねえ、下の名前で呼んでくださいよ。都って」
 今は会社じゃないんだし。
 唆すように甘えた口調でねだれば、不思議そうに首を傾げた男が、「みあこ?」と。
「みあこ、みゃあ、こ。みゃあこ」
「都ですよ、み、や、こ」
「みあこ」
 呂律の回らない男は、眉間に皺を寄せながら、「みあこ、みあこ」と繰り返す。つい吹き出せば、つられたように男も破顔する。酔いのためか涙のためか、目を赤く腫らした男の顔は、普段よりも遥かに恐ろしい形相だ。けれど、野良猫みたいにみゃあみゃあ鳴く様子は可愛くないのに愛おしくて。
「ねえ、黒緋ブチョ。俺も下の名前で呼んでいいでしょう?」
「……ん? ……んん」
 もはや返事ともつかない呻きを漏らす男の、その硬い髪に触れる。
「賢正さん」
「ん……みゃあこ……」
 耳に触れればかすかに巨体を身じろがせる男は、半分夢の中。
 知らず、口角が上がり、肌が沸き立つ。
「賢正さん、これから、どうします?」
 明日は休み。
 夜はまだ、終わらない。
 
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