未完のクロスワード

ぬくまろ

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入社六年

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「今日も、何ごとも起こりませんように」
 わたしは、いつものようにテレビをつけ、出勤の準備をしながらつぶやいた。芸能情報、経済ニュース、天気予報……。アナウンサーやキャスターの声を聞いていると、思考回路が自然と会社モードになってゆく。目よりも耳から優先に入ってくる声が、上司の声に似ているとなおさらそうなる。ひとつの儀式のように、着替えて、朝食を食べて、最低限のメイクを、体内時計がコマを刻んでくれる。つま先から頭まで体の作業系統が徐々に、プライベートモードからパブリックモードに変わってゆく時間だ。自分が自分じゃない気がして、ちょっといやだけど不思議な時間が他人のペースが流れるような感じかな。
 東京に出てきて十年。大学生活四年。社会に出て六年。今二十八歳。最初の三年間は無我夢中だった。とにかくミスをしちゃいけないとまわりの顔色ばかりをうかがっていた。この歳になると要領がわかってくるせいか、力の抜き方がわかってくる。それで今まで見えなかったものが見えてきたりもする。今、壁にぶつかっている。仕事のやり方? 仕事内容? ……それもあるかもしれない。“何がしあわせなんだろう”この言葉が最近ふっと頭をよぎってくる。毎日が楽しく、充実して、時間があっという間に過ぎてゆくのに、警報機が鳴り始める踏切のように、足を止めさせられ、思考の流れを強引に変えさせられるような唐突すぎるほどの現象。振り返りたくないけれど、振り返りなさいと、もうひとりの自分がときどき現れてくるのだ。
「今日も、何ごとも起こりませんように」
 この言葉は、ストレスは多少あるけれど、大きな不満は特にない、今日も適度に仕事をし、同僚とおしゃべりをして、楽しい一日でありますようにと、わたしの願いでもある毎朝の決まり文句だ。これが、普通の生活やありふれた東京生活と言えるかどうかわからないけれど、とりあえず満足しているはずだった。でもこの頃、この言葉が自分の中から少しずつ実体として離れていっている気がする。体の中が東京になりきっていないのかな。時間がたてばこの違和感がなくなるのでは。そう思いながら月日が流れている。
 自宅から勤務先までは、ドアツードアで一時間三十分。満員電車って、ほんとに体力が消耗する。電車が駅に着くたびに、出る人たちや入ってくる人たちの流れに合わさなければならないからだ。それでも、ダイエットに効きそうだからそんなに苦にならない。スポーツクラブで時間を決めて計画的に運動するのが苦手なわたしには、通勤電車はいい運動になる。それと、電車の中の人たちを観察するのも好きだ。同じ時間帯の電車に乗っていると、顔見知りが何人もいる。ここで話し掛けることはないけれど、もし街で見かけたら、話し掛けたい人もいる。毎日規則正しく流れる場面の中では、勇気がなくて非日常的な行動はなかなかとれないものだ。これが固定観念っていうのかな。その中で、ビジネス書で何かの勉強をしている人たちを見るたび、わたしもこのままでいいのかと一瞬思う。そう一瞬。新しいことにも挑戦しなきゃ。そう考えているうちに会社に着く。現実との戦いの始まりである。

「おはようございます」
「おはよう」
 権藤課長はいつも朝が早い。わたしが出勤する頃には、何かひとつ仕事を終えているような気がするくらい余裕がある。部下にたいするポーズもあるだろうけれど、管理職としての自分自身に対する気合でもあるのかな。見習わなくては。
 わたしの仕事は、広告代理店のマーケティング業務。簡単に言えば、いろいろな情報やデータを収集して、クライアントに提出したり、制作部に資料として渡したりしている。世の中の考えがデータとして表われてくるので、答えがはっきり出るし、面白いし、やりがいはある。
「亜仁場さん、明日の会議の資料つくってくれる。たたき台でいいから」
「はい。わかりました」
 与えられたことは、なんとかこなせるようになった。資料づくりもフォーマットがあって、フローチャートに従えばカタチになる。ただ、それが悩みのひとつだ。フォーマットがあるものはこなせても、その先がない。ないというよりも、わからない。新しいことに踏み出せないでいる。ちょっと難しい課題が出ると、先輩や他の人にかなり助けてもらっている。これじゃいけないと思っているけれど、いつも安易な方向に流れている。
「今日も、何ごとも起こりませんように」
 今日もこの言葉が響いている。
「あさり。ちょっと面白い話があるの。今日の夜、時間ある?」
「あるけど。どんな話?」
「詳しいことはそのときに。じゃあね」
 鈴木かおり。わたしの同僚だ。歳は同じだけど、中途入社の彼女は、キャリアをアピールして入ってきただけあって、いつもテキパキしている。頭の回転が速く、スキがない。わたしと対照的だ。今も、キャリアのパワーアップのために仕事に対して意欲的だ。いっしょにいると元気をもらっているようで、楽しくなる。そんな彼女のいい話ってなんだろう。ちょっとドキドキする。
 午前中、メールを見ながら、ひとつひとつの用件を処理していく。最近、どこでもそうだろうけれど、メールでのやりとりが頻繁になり、パソコンに向かっている時間がとても長い。複雑な用件の場合、内容をかみ砕こうとしても細かいニュアンスが伝わってこないものもけっこうある。そんなとき、担当者に聞いてみようと電話しても、外出中でいないことがしょっちゅうある。結局、あと回しになってしまう。送ってくる方は、メールを発信したことによって、用件の半分は終わった気になるのだろう。返信までの時間が長かったりすると、時間の分量を印籠にしていろいろ突いてくる。電話時代の方が、気持ちやニュアンスをやりとりできて、わたしなりに仕事はスムーズだった。メール時代になって、文字や行間にそれぞれの思い込みがどんどん膨れ上がっているような気がする。会って話すと穏やかなのに、活字だと威圧的になる人。そういう人には、必ず電話でフォローするようにしている。社内気配りができないと、いざというとき助けてもらえないし……。結局は自分のためか。
 今手がけている仕事は、化粧品の開発に関する情報やデータ収集だ。開発予定商品に類似する商品の価格帯や使っている人たちのライフスタイルについての情報などを集め、分析して、新製品を出すにあたっての基礎資料をつくること。どんな商品をどのような人たちにいつ世に出すかを決めるにあたっての出発点となる資料だ。この資料が完璧ならすべてOKということではないが、新製品企画の出発点になる重要な資料だ。これで商品が完璧で、売り出し方法が完璧なら、このプロジェクトは大成功。となればいいけれど、実際フタを開けてみないとわからない。完璧な計画のはずが人気が出なかったり、あまり期待していなかったものが、急激な勢いで売上を伸ばしていくことはよくある。
「口紅の色、何色くらいもってるの」
 権藤課長が言った。
「えっ。八色くらいかな」
「どういう風に使い分けているの」
「そのときの気分しだいですね」
 そう言ってはみたが、はっきり使い分けているわけでもなかった。店頭で見ての衝動買いで増えちゃった感じ。
「例えばデートのときはこの色、何かの会合で大勢の人たちと会うときはこの色とか。これだと決めてはいないんだ」
「そういう人もいるとは思いますが、わたしは違いますね。それと、デートって言われましたけれど、わたしにはいいでしょうけど、人によってはセクハラなんていわれちゃうかもしれませんよ。念のため」
「あはは。そうか、気をつけなくちゃ。それにしても気軽に市場調査もできないな」
 男の人ってかわいそう。なんでもセクハラって言われちゃう可能性はあると思う。悪気がなくても会話のはずみで言葉は出てくるものだから、多少は許してあげたい。ほんとうにデートに誘いたいときに、セクハラなんて言われちゃほんとにかわいそう。心の内を打ち明けるときって、そのルールのぎりぎりのラインで言葉を表現することだってある。特に社内恋愛だと、一か八かの賭けに似た勇気がいるかもしれない。でも、逆に女性にとっては使い勝手のよい言葉かもね。
「ぼくが見た雑誌の中に、こんなことが書いてあったんだ。女性が男性に対してアピールするときに気をつけていることとして、口紅の色がアンケートの上位にあった。コスメアドバイザーがその理由として、言葉に表情を持たせようとして、唇の動きに気を使っているのではないか。そして、口紅の色を動きにのせて、思わせぶりな雰囲気をつくることを楽しんでいる感覚。それをリップランゲージって言っていたかな。ボディランゲージって言葉があるけれど、これ見よがしなボディランゲージよりスマートなアピール方だと思ったよ」
「そうですか。でもそういう人たちって、話術に長けている人が多くて、リップカラーはサブ的な要素じゃないんですか」
「それもあるかもしれないけど、意識してそうすることによって、豊かな表情になるってこともあるんじゃないか。自分を磨くということで。くちびるはもの言うボディだもんな。磨きがいのあるパーツだよ」
 課長の言っていることは面白いかもしれない。意識するかしないかで見え方も変わってくるだろう。気持ちをそこに集中させることで、緊張感が保てる。その緊張感が見られるに値する体をつくるということか。全身をコチコチに意識すれば、生まれ変われるだろうか。
「今度の新製品も、他社にない色とか機能とかで差をつけるわけですよね。トレンドも必要だけど、心理学をとり入れると面白いかもしれませんね。」
 流行色は業界があらかじめ決める基準となる色で、それに沿ってその年のトレンドカラーが決まる。特にファッションの場合、とにかくトレンドをまとわないと時代に置き去りにされたような気分になる。先行すればするほど余裕ができる。美に対する余裕かな。最近特にその傾向は顕著で、シーズンが終わる前から次のシーズンをまとっている。頭と体の季節感がどんどんずれてゆく。このファッション、コスメは動いて止まらない。
 以前提案されていた企画に面白いものがあった。香る口紅だ。くちびるの乾燥や荒れを防ぐリップクリームには香るものがあった。オレンジ、レモン、アップル、ラベンダーなど、塗るとやわらかに香ってくる遊び心が詰まっていた。それを口紅に応用しようというものだった。意見が分かれたのは、口紅とリップクリームは同じだと言う意見とそれぞれはまったく別物と言う意見だ。結局は、同じくちびるに塗るといっても機能が違いすぎるということでその案は採用されなかった。リップクリームは肌のケアが中心で、自分で楽しむためのアイテムだから、プラスアルファの要素として香りがある。でも、口紅は自分を魅せる、他人に魅せる、異性に魅せる表現アイテムだから、色のイメージと香りを固定させるのは冒険になるということだった。口紅はレッド系、ローズ系、オレンジ系など微妙な色合いの商品が、その境目をあいまいにしながら並んでいる。香りを固定することによって、色の魅力が損なわれることになるのではないかと。それと、香水をつけている場合、その香りと混ざり合って、トータルの香りが変質してしまうことがあるんじゃないかと。最終的には、口紅は魅せるアイテムに特化すべき。香りはユーザーが自分で好みの香水を選ぶ。大人のための商品として企画を進めるべきだということになった。中学生や高校生向きの商品企画の話も出たが、風紀や校則などの面から業界が率先して進めるには危険すぎるとの判断で中止になった。
「ぼくたちの仕事は、素顔以上の魅力づくりの発見だね。女性の素顔の魅力はそれなりに磨けると思うけれど。例えば、基礎化粧品とか、サプリメントとかで。でもそれ以上に、女性がひとまわりもふたまわりもその魅力を自分で引き出すことができればこんなすばらしいことはないね……まあ、そんな気持ちで取り組んでいるよ。だから、誰もが女優になれますようにということ」
 権藤課長は、パソコンをクリックしながら熱く語った。
「誰もが女優ですか」
 女優という言葉。誰もがこの響きに弱い。一般のわたしたちから見れば、画面の向こうにいる特別な存在感がある。スタイル、美しさ、そのしぐさ。普通の人が手に入れることのできないプレミアムな完成品を思い起こさせるのだ。エステやスポーツクラブに通っただけではそうはならないだろうという虚像に近い実像。実像に対するからこそ、憧れる気持ちがどんどん昇華して、とどまるところを知らない。ファッションやコスメの広告で女優やモデルが身にまとえば、スタイルは違いすぎるとわかっていても、自分の姿を当てはめて、その商品を買いたくなるのだ。自分を内面から磨くよりも、外見を着飾るほうが手っ取り早いということ。ほんとうはそれじゃいけないと思っているけれど、興味が目移りするキャラクターなわたしには、今というより瞬間を楽しみたい気持ちがすごく強い。
「例えば、好きな女優さんが着ている服があって、男の人って恋人や奥さんに着せてみたいと思うもんですか」
 わたしはなんとなく聞いてみた。
「そうだね。きれいだと思うけれど、この服を誰が着たらどうだろうとか、誰だったら似合うとか。そんなことはあまり考えたことはないなあ。ぴったりはまり過ぎていたりすると、その人で完結しちゃうから。それ以上の展開は思いつかない。それと、流行もんはみんなが身に付けるから、街中がそのファッションであふれる。かえって個人が埋もれてしまわないかな。ときどきそう思うよ」
 男の人って見方が違う。女はとにかく流行を追いかけ、置いてきぼりにされたくないと思っている人が多いと思う。美しさも先を行っていないと不安になる。
「でも、流行があってこそ個性が咲くということもあるでしょうし、わたしもそうですけれど、美と時代には常に敏感でなきゃと思っています。すべて行動に移すということではないんですが、心掛けとしてありますね」
 権藤課長は社内結婚で、奥さんはわたしより六つ先輩。あまり話したことはないけれど、落ち着いていて綺麗な人だ。美人の奥さんを手に入れたので、まわりに対して美というものにあまり興味を持たなくなったのかなと思うときがある。それはそれで家庭内の平和を保つことにとってとてもすばらしい自然の作用である。また、逆に結婚はしているのに、いろいろな女性に声をかけてお酒を飲みに行っている人も、社外を含めてけっこういる。家庭がうまくいっているとか、いっていないとかは関係ないらしい。まあ、人それぞれ考え方はいろいろ。考え方がコロッと急に変わっちゃう人も知ってるし、興味ある対象が出るか出ないかで決まるものなのかな。
 それからわたしはメールを処理するため、パソコンに目を移す。ふと見ると、テキパキと仕事をこなしているかおりがいる。やっぱりデスクワークは迅速に、そして上司には素早く反応しないと、生き残れないように思ってしまう。人が二時間かかるところを一時間で仕上げないと差がつかないし、認められない……という錯覚に陥る。錯覚でもないか。器用不器用で片付けられる問題か。それとも根本的な能力の問題かわからないけれど、意識してやっているとしたら、すごいこと。これは能力だ。自分をアピールする能力だ。まわりを巻き込む術を知っているということ。どこでも通用する能力だ。ヘッドハンティングされる人材といえば、きっと彼女のことを指すのだろう。彼女の仕事ぶりをあらためて見たとき、日頃から感じていたことを再認識したような気がした。わたしはこの会社しか知らないので、ビジネスマンやビジネスウーマンの一般的実態がどういうものかわからない。けれど、この会社が特に変わった会社でない限り、普通の会社と言えないだろうか。社会を支えているんだという充足感。社会の一部分だという不安感。プラスマイナスの感情が交差する日々。確かな拠り所がないまま、氷のリンクの上に歩いている感じ。でも確かな一歩を残さないと、次の一歩は遠い……緊張感は続く。
〈ランチどこにしようか〉
 かおりがメールで打ってきた。パソコン全盛になってから、ちょっとした用件もメールで交換するようになった。ましてや、私語があまり許されない環境であればメールは最適なコミュニケーションツールになる。ただ、私用メールは規制があるので頻繁にはできないが、今のところ使用頻度の高いツールには違いない。前に、社内メールでデートの申し込みをしたところ、アドレス帳で名前を間違えてクリックして、別の人に送信してしまった人がいた。それ以来、私用メールは規制がさらに強くなった。それで、デートメール送信の本人は事柄が発覚して恥をかいたばかりでなく、しばらくして転勤の辞令が出てしまった。それを聞いてかわいそうだと思ったのはわたしだけだろうか。ちゃんとクリックしていれば、ふたりはギクシャクすることもなく、今ごろはうまくいっていたかもしれない。付き合う前からいきなり公になってしまうと、わたしでも身を引いてしまう。ルール違反のレッテルを貼られたようで、背中に突き刺さる視線に耐えられそうもないからだ。恋愛のクリックミスは取り返しがつかない。
〈和食がいいな。ギンダラ定食〉
〈OK〉
 かおりの返信が届き、わたしはパソコンをOFFにした。
 ランチタイムはわたしを解放する貴重な時間だ。一時間しかないけれど、この時間の過ごし方で、その後の気分は違ってくる。仕事のはかどり方も違うし、とにかくおいしいものを食べて、しゃべっていれば、脳は理論詰のハードモードから感情全開のソフトモードへ切換わり、午後へのリセットは完了する。
 行きつけの料理屋に急いだ。料理屋といっても夜はお酒主体で、ランチタイムのときだけ定食を出すよくある店のパターンだ。こぢんまりとした店が多いので、ランチタイムのときはけっこう混む。席を早くゲットできるかどうかは数分の差が勝負だ。フレックスタイムが導入されている会社といっても、職種柄ランチタイムはコアタイムに挟まれているのでずらせない。ただ、ビジネスマンやOLが一斉に集まってくるということで、そこで面白いのは、他社の人たちの話題である。ピラミッド社会についてのどこにでもあるような内容が多いけれど、中には丸秘情報的な会話をしている人たちもいる。コンピュータのセキュリティ対策には慎重でも、会話のセキュリティ対策は難しいと思った。社員バッチやネームプレートを付けているとどこの会社かわかってしまうのでなおさらだ。興信所や調査機関の人たちにとっては、情報をゲットできるうってつけの場所だと思う。
「ねえ、あさり。最近どお」
 店の人に注文したあと、かおりが言った。
「どおって、仕事のこと」
 聞かれた内容が漠然としていたので、わたしも漠然と答えた。
「仕事もそうだけど。私生活……というより結婚かな。結婚するとかしないとかはどうでもいいんだけど、そのことについて考えてみたことはある」
 それこそ漠然としていた。結婚については他人事だと思っていたからだ。目標というよりも、小さな映画館のスクリーンに映し出す時代劇のように実体感のないもの。考えたことがないことだった。まだ二十代だし。
「結婚って。ないわね。考えの範囲には入ってこないわ」
「今日の夜の話って、そのことなの。詳しいことはあとで話すけれど、あさりも考えたことがあるかなって思って」
 かおりは言った。
 バリバリキャリアのかおりから意外な問いかけだった。仕事モード急上昇中の彼女にとっては、結婚は二の次で、オフィスで輝くことが最優先のように見えたからだ。事実、取引先関連の人からわたし経由でアプローチがあったときも興味を示さなかった。
「かおり、ほんとうに考えているの。考えたことがないのは、かおりのほうじゃなかったっけ」
「そ・う・ねー」
 店の天井を見ながら、つぶやくようにかおりは言った。
 それから私たちは、定食を食べながら、たわいのない話題で盛り上がってランチタイムを終えた。
 オフィスに戻ると、かおりはいつもどおりリズム感のある動きで、テキパキと仕事をこなし始める。外観では、仕事絶好調、悩みはなし。といったことしか読み取れない。わたしには洞察力が足りないのかもと思ってしまう。それとも、誰にでもそれなりの悩みはあるということか。わたしも“何がしあわせなんだろう”と考えてはいるけれど、漠然としていてそれが何なのかも特定できていない。“今日も、何ごとも起こりませんように”わたしの決まり文句は今の心の状態。それだけは言える。
 午後に入って、営業マンが外出していることもあって、オフィス内はがらんとしてきた。クライアントからの電話で用件を取り次ぐことが多くなる時間帯だ。でも、携帯電話が普及したおかげで、込み入った話を受けることは少なくなった。クライアントには不在を伝えるだけで携帯にかけてくれるからだ。それでも逆効果もある。電源を切っていたり、電波の届かない地域にいたりで、携帯につながらないといった怒りに似た電話を受けるといったことだ。本人が直接、そしてすぐに出ることを前提にしている携帯においては、つながらなかったときの不満が充満しやすく、その結果、切れやすい人格がつくられるのだろうか。と思ってしまう。
「明日の会議の資料づくりを始めるか」
 わたしはひとりごとを言った。
 資料づくりに関連して、頭の中で渦巻いていることがある。美に対する追求は女性独特のものかということ。女性は化粧で化けられる。というより装えるかな。鏡を見ながら、ひとつひとつ手を加えていくと、別人のように変われる。素顔を悟られず、そしてキレイになれる。これは特権だ。メイクがうまくいくと、別の人格が乗り移ったように気分が高揚してくる。プラスの作用と考えると、なくてはならないものだ。男の人だっていけると思う。その手のお店に連れて行ってもらったことがあるけれど、化粧をした男の人ってキレイだ。女性と見間違うほど。いや、それ以上に整っていると思った。いっしょに行った人の言う分には、骨格にあるらしい。メリハリのある骨格の凹凸がベースになっているから、化粧映えがしやすいということらしい。それを聞いて、もし日本中の男の人が本格的に化粧を覚え始めたら、女性は対抗できなくなるのではないかと思った。例えば、鳥はオスのほうがダイナミックで美しく整っている。人間がもっと自由になり、男の人が化粧に目覚め始めたら面白い。メイクマン、メイクウーマンが街中にあふれ区別がつかない状況になる……想像するだけでも面白い。可能性は低いけれど、ゼロじゃない。だって、ファッションやヘアースタイルに興味ある人はいっぱいいるわけだし、それは美を追求していることと同じだ。でも、こういう企画は通りそうもない。マニアックだと言われそう。そう思うから、なかなか固定観念から抜け出せない。あーあ。
 明日の会議に口紅とファンデーションについての議案がある。口紅とファンデーションの組み合わせに関する企画で、肌の色に口紅を合わせるのではなく、ファンデーションとの相性でいろいろな色をコーディネートしていこうというものである。一般的に日本人は肌の色に合わせると、ピンク系の口紅が合うといわれている。今回の企画は、その概念を膨張させ、自分の気に入ったものを選んでいただく内容だ。この企画の趣旨が時代に合うのか。この口紅にはどんなファンデーションが合うのか。まだまだ企画段階なので、やらなければならないことは山積みだ。これからも美しさへの追求は果てしないだろう。今よりキレイになりたがっている人はきっと多い。その願望は、女性のDNAに刻まれている共通事項だ。
 企画書づくりを始めて四時間。もう五時だ。今日は六時に退社したいので、あと一時間、ラストスパート。
〈今日、六時に終われるけど。かおりは〉
 わたしはメールを打った。
〈わたしも終われる〉
 かおりからの返信メール。
 六時になり、会社のエントランスの脇で待った。
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