未完のクロスワード

ぬくまろ

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 そして次の日、いつもの席で、いつもどおりパソコンに向かっている自分がいた。
「権藤課長、明日休みをとってよろしいでしょうか」
 征治さんに会うために休みをとった。平日の征治さんに会いたかったし、仕事の風景も見てみたかった。急に会いたくなったと言ったら、征治さんは何て言うだろう。わたしが頼みごとをしたとき、嫌な顔をしない人だと思っていても、平日に会いたいと言ったら、戸惑うだろうか。
 征治さんは、快く返事をくれた。

 次の日、新大久保駅に着いた。改札を出て大久保通りの正面に立ち、ファックスでもらった地図を見ながら、大久保通りを右に進んだ。街の風景はちょっとオリエンタルな色彩を帯び、その表情には活気があった。三分ほど歩いて、路地を右に曲がるとその看板が見えた。
[木村行政書士事務所]
 ビルの二階にその事務所はあった。征治さんが言っていた繁華街に建つ雑居ビルのイメージとは違い、比較的きれいで落ち着いた雰囲気があった。階段を上がって、二階の通路の右側に事務所のドアがあった。ドアをノックすると、アシスタントらしき人の声がして、ドアを開けてもらうと十二畳ほどの広さの事務所内で、征治さんが打ち合わせをしていた。目が合うとにっこり微笑んでくれた。仕事中だったのでどんな顔をされるのか冷や冷やだったけれど、いつもの征治さんの表情で少しほっとした。征治さんの打ち合わせが終わるまで、入れてもらったお茶を飲みながら待った。
 十分ほどで、征治さんの打ち合わせが終わり、征治さんがわたしのところに近づいてきた。
「やあ。じゃあ、行こうか」
 わたしは促がされて事務所を出た。
「アジアの方?」
「場所柄、多いね。前にも言ったと思うけれど、僕が主にやっているのは、帰化の許可申請書の作成なんだ。だから、この場所を選んだわけだけどね。それにしても、平日とはめずらしいよね。有給休暇でもとったの」
「うん。有給を取った。迷惑だった?」
「いや、そんなことないよ」
「雑居ビルって言っていたけれど、きれいなビルじゃない?」
「そう見える? ここにいるものにとっては雑居ビルなんだけどね」
「新大久保って、初めて降りた。征治さんみたいな街ね」
「それどういう意味」
「落ち着いた雰囲気があるっていうこと」
 街の人や道行く人には、中国や韓国などのアジア系と思われる人たちが多いように感じた。この街はオリエンタルな雰囲気が漂う。そして、街が活きているって感じかな。都心の繁華街とは違った体温を感じる。しばらく歩いて、征治さんの行きつけと思われるお店に、わたしたちは入った。
「この前の休みを利用して、社員旅行があったのよ」
「どこに行ったの」
「北海道に一泊で」
「北海道で一泊か。慌ただしいね」
「親睦と慰労のためだから、どこでもいいのよね。宴会さえできれば」
「僕も大きな会社にいたときは、恒例だったもんな。若い人は前向きじゃなかったが、儀式みたいなものだからしょうがないかな」
「ところで征治さん。前の会社を辞めて、今の事務所を開くまでのいきさつはいろいろ聞いたと思うけれど、それ以外にも葛藤みたいなことはあった?」
「漠然としているね。昔? それとも大昔のこと?」
「どちらでも。何か転機になったことでもいいし、何かに影響を受けたことでもいい」
「商社時代のことを話そうかな。学生から社会人になるときだったからいろいろ考えることがあったな。誰でもそうだろうけどね」
「そうだよね」
 征治さんもそんな時期があったんだと思い、ちょっぴり安心した。
「昔、格闘技をやっていた時期があってね。団体競技とは違って、一対一の勝負、自分ひとりだけの力で白黒が付く格闘技に興味があってね。高校時代からやっていて、本格的にやり始めたのは大学に入ってからだった。突きや蹴りの基本的な練習があって、組み手というものがあるんだよ」
「組み手?」
「組み手とは、一対一で戦う練習試合みたいなものかな。本気で戦うんだけど、毎回ドキドキで生きた心地がしなかった。でも、同じ屋根の下で練習している人たちと何回も戦っていると、そのうち手の内がわかってくるんだよ。強い相手と弱い相手がわかってきて、強い相手の長所短所もわかってしまう。それでなぜか、自分がだんだん強くなっていく錯覚に陥ったんだ」
「ほんとうに強くなったんじゃないの?」
「練習しているから、力はついてきているのは事実だけど、パンチ力とか持久力とかはね。まあ、基礎体力だよ。でも、必ずしも強くなっているとは限らないんだ。工夫が足りなかったのかなって思ってる。あるとき、外国の選手と戦う機会があってね。日本人相手の練習の延長上にあると思って、練習試合に臨んだんだ。そうしたら、パンチが当った瞬間にショックを受けた」
「殴られたの?」
「いや。こっちが打ったんだ。でも、届かなかった」
「届かなかった?」
「骨に届かなかったんだよ。からだのつくりが違うんだ。頑丈な筋肉で全身が覆われている感じかな。こっちの打ったパンチがはね返ってくるような感覚だった。効いているのか効いていないのかわからない。たぶん、効いていないんだろう。それがものすごいショックでね。狭い世界しか知らない僕にとっては、カルチャーショックに近かったね」
「カルチャーショック? わたしには、そういう世界ってわからない」
「そうだろうね。実際に身を置いてみないとわからないかもしれない。話を元に戻すと、いろいろな国の人たちと練習した。そして、みんな共通して屈強だった。その中で、親しくなった人がいてね。練習試合はもちろん、私生活でも関わるようになったんだ。性格的にもあったんだろうね」
「どこの国の人?」
「ロシア系かな」
「ロシア系?」
「本人がそう言っていた。はっきり言わないのか、本人もわかっていないのかは、僕もわからないけれど、言いにくそうにしているってことは、聞かない方がいいってことがあるからね。だから聞かないし、何かあったら向こうのほうから言ってくるよ。こちらとしては、待つことのみ」
「そうね。目的は人さまざまだからね」
「それで話を聞くうちに、戦闘地域に暮らしていたことがわかったんだ。軍隊にもいたらしい。それで、からだの出来具合が違ったんだと納得したよ。そして、あるとき西の空を見ていることに気づいたんだ。毎日、夕日が沈むまでじっと見ている」
「たそがれているの?」
「うーん。少しは正解かな。はじめのうちは聞かなかったけれど、故郷のことを考えているのって聞いたら、うっすら涙を浮かべて、軽くうなずき、しばらくして『一日の終わりをしっかり見る。朝を迎えることができないかもしれない。だから、最後になるかもしれない太陽を見てるんだ』と静かに言った。僕はそれを聞いて、言葉が出なくなってしまった。言葉が出なくなって、その意味を知りたくて、僕もいっしょに夕日を見続けたんだ。夕日が沈むまで、ずっと」
「そう」
 わたしはそれを聞いて、自分の枠に収まりきれない出来事が、世界にはとても多くあるように思えて、せつなさよりも重い感情があふれ、胸が急に痛くなった。
「そういうことがあって、故郷に近い夕日は日本にあるだろうかと彼が言い出したんだ。それで機会があるごとに、電車や車で日本のいろんなところを回ったな。海岸線や丘の上、川べりなど、思いついたところに行ったね。地図と勘をたよりにして」
「地図と勘だけで、ひたすら回ったの?」
「そうだね。ひたすら回った。それで、一年ほどたった頃に、その場所にめぐり会えたんだ。その場所は、北海道の留萌にあった。小高い丘に建つレストランだった。僕たちは遅めの昼食を食べ終えて、駐車場に戻ろうとした。車に近づこうとしたとき、光が突然目に射し込んできたんだ。さらに近づいてみると、夕日が海に落ちてゆこうとしていた。ブルーとグレーの中間色の空に、夕日の光源がくっきりと映り、そこを中心としてオレンジ色のグラデーションで神秘的な雰囲気に染められていたんだ。僕が目を奪われたと同時に、彼も叫んだ『これだ。この太陽だ』と。その後は、言葉はいらなかった。夕日が海に包まれるまで、ふたりで見続けた」
「彼の故郷と同じような夕日だったの?」
「そうだね。その後、車に乗ってしばらく走ってから、彼が『日本とつながっている』とぽつりと言った。この国がますます好きになったとも言っていた」
「彼にとって、夕日は深い意味をもっているのね。わたしにとっても夕日は一日の終わりを意味するものでも、必ず明日が来る一日の終わりだものね。明日がつながるかどうかわからない夕日とは違うのね」
 わたしは、お店のウインドウ越しに、道で行き交う人たちを見ていた。わたしたちは毎日いろいろな人たちとすれ違って歩いている。そのほとんどは言葉を交わさないし、どのように生活しているのかもわからない。でも、わたしたちは毎日必ず誰かとすれ違って歩いている。いろいろな事情の人たちが集まって、いくつもの社会をつくっている。そして、わたしはその社会の中の一員だ。
「今、その彼はどうしているの」
「祖国と日本を行ったり来たりしている。こっちに来るたびに会っているんだ。将来、どこで生活するのかわからないけれど、安全なら祖国がいいに決まっている。ニュアンスでわかるよ。彼の祖国にいつか行ってみたいな。帰化の許可申請書の作成を仕事に選んだのも、彼に会ったから。いろんな事情で祖国に戻れない人たちのサポートができればいいと思ってね。ところで、今日僕のところに来たのは仕事上の悩み?」
「まあね」
 半分当っている。でも、半分はただ会いたいという気持ち。それを正直に言えないので中途半端な返事になってしまった。
「あさりの年代は悩みが尽きないと思うよ。いい意味でね。僕の歳になると悪い意味で、割り切ったり、あきらめてしまったりすることがあるから」
「悩んで、実行して、解決したと思っても、また同じことで悩んでしまう感じなの」
「前にも言ったように、友だちは大切にしなよ。いっしょにいて、話を聞いてもらうだけでも悩みが解消することもあるからね」
「その中に、征治さんも入っているわよ」
「僕? ははっ」
 征治さんは照れたように笑った。わたしの中ではほんとうのことだった。かおりに悩みを聞いてもらうことで気は晴れる。征治さんにも悩みを聞いてもらうことで気は晴れる。聞いてもらうことで気が晴れる結果は同じでも、微妙に違う何かがある。最初はよくわからなかったけれど、最近少しずつ何かが変化し始めている。安心感よりも、もっと強い力。そんな感情だ。
「征治さんは結婚について考えたことはある?」
 わたしは思い切って聞いてみた。
「結婚? そうだね。今の事務所がもう少し軌道にのってきたら考えるかもね」
「じゃ、今はあんまり考えていないのね。まあ、男の人はいくつになっても結婚できるからね」
「そうかもしれない。女性も社会進出で晩婚化の傾向はある。結婚っていうのは、結婚したくなったときが適齢期っていうだろ。でも、ひとつの壁があるっていうよね。それは、出産。子どもが欲しくない女性を除いて、子どもが欲しい女性にとっては出産時の年齢がクローズアップしてくるよね。男性にはない悩みで、避けて通れないことだよね。だから、結婚というカタチをとらないで、子どもを生む女性もいるけれど、そういう女性は少ないよね。あさりはまだ二十八だよね」
「もう二十八です」
 征治さんはわたしのことまだ若いと思っている。年の差はずうっと変わらないから、そう思っているのだろう。
「もう?」
「そうです。二十五を過ぎたら、あっという間ですよ」
「男性と女性の年齢の比較って難しいよね。自分がそのときの年齢だった頃を基準にするから。僕が二十八のときは、あさりより未熟だったかもしれないな」
「わたしが征治さんのこと好きだって言ったらどうする」
 わたしはさらに思い切って聞いてみた。
「えっ」
 征治さんはわたしの唐突な質問に戸惑ったような、はにかんだような表情をして、テーブルに視線を落とした。わたしはしばらく黙っていた。征治さんはウインドウ越しに道行く人を見ながら答えた。
「いきなりびっくりしたよ。なんて言ったらいいのか。危なっかしい。いや、ひとりにしておけない人だよ。支えていかなくちゃいけないと思っているよ」
 征治さんはひとことひとこと確認しながらそう言った。
「わたしは征治さんのことが好きなんです。いっしょにいると安心できるんです。突然こんなこと言って、びっくりしてるでしょ。でも、言っておかないといけない気がして、言ってみました」
 征治さんにとっては唐突だったかもしれない。でも、わたしの中で行き場のない感情がぐるぐるとまわり続け、そしてそれがもっと加速しそうだったので、征治さんの反応が予想できたとしても言っておきたかった。
「あさりのこと好きだよ。悩んでいるあさりを見ていると、放ってはおけない気分になるから」
 征治さんはわたしの目を見て静かに言ってくれた。
「ありがとう」
 わたしは不思議とそんな言葉が出た。征治さんの好きだという意味のニュアンスはわからなかったけれど、わたしと征治さんの関係をわたしなりに確認しておきたかった。その気持ちを素直に表現した。わたしたちはお店を出て、大久保通りをしばらく歩いた。街は暮らしの香りを漂わせ、歩く速度を自然と緩めてくれる。
「すぐ先には新宿がある。それとは違って、新大久保や大久保に囲まれたこの地区は、住宅地でもあり商業地でもある。それに、新宿区に住んでいる約一割の人たちは外国籍らしいし、特にこのエリアはそれ以上だろうな、いろんな人たちが集まっている。そんな雰囲気が魅力かな」
 征治さんは歩きながら、ぽつりと言った。そして、わたしは征治さんの人柄に合う街だと思った。

 次の日、かおりは会社を休んだ。そして、次の日も。初日は連絡がなくて休み。二日目はファックスによる休暇届の送信。内容は体調不良とのこと。わたしは二日間とも気になってしょうがなかった。かおりらしくない態度だったからだ。そして、今日も欠勤。会社の人たちも気にしてはいたけれど、外見上は日々の業務に忙殺されていた。わたしは昼休みに電話をしてみた。呼び出し音は鳴る。でも、出ない。ちょっとおかしい。わたしは会社が終わってから、かおりのマンションを訪ねることにした。
〈ピンポーン〉
 マンションのエントランスにあるオートロック付きの自動ドアの前で呼び鈴を鳴らした。反応がない。
 もう一度〈ピンポーン〉
 反応なし。居るのか居ないのか。居留守を使っているのだろうか。インターホンの画面にわたしが映っているのはわかっているはず。頭の中を整理できないまま、もう一度押してみた。
〈ピンポーン〉
 そのとき、ガチャッという音がした。インターホンの受話器を外した音だ。居るんだ、と思った。でも、声がしない。画面に映っているわたしを見ているはずなのに、返答がない。かおり、かおり。わたしは呼びかけ続けた。かおり。そのときだ。うっ、というか細い声がした。かおり。また、わたしは呼びかけた。
 あ・さ・り……。わたしを呼び声がした。でも、とても小さい声。
「かおり。どうしたの。上がってもいい?」
 わたしは問いかけた。すると、マンションのオートロックを解除する音がした。かおりに何があったのか。わたしはいてもたってもいられず、階段を駆け上がった。三階まで上がり、エレベーターホールを通り過ぎ、かおりの部屋で立ち止まった。インターホンを押すと同時に、ドアノブを回した。すると鍵が掛かっていなかったので、すぐに入ることができた。
 かおり。わたしは呼びかけながら、あかりが灯っているリビングへ足を進めた。リビングに入ると、ソファに座っているかおりが見えた。座っているというより、身を沈めているように力なく、視点が定まらないといった感じだった。
「かおり。心配したんだよ」
 生きているかおりを見て、自然と涙が出てきた。かおりは視線を一瞬わたしの方に向けたが、すぐにもとへ戻した。わたしは近づいていき、かおりの隣に座った。かおりの横顔を見ていると、なんと言っていいのか言葉が出ないまま、沈黙が続いた。
「妊娠したみたい」
 かおりがぽつりと言った。
「えっ」
 わたしはもう一回確かめたくて、聞き返した。
「妊娠?」
「妊娠」
 かおりの横顔を見ると、涙をこらえているようだった。わたしは少しずつ状況が掴めるようになってきたので、さらに聞いてみた。
「誰の?」
 唐突かもしれないけれど、口に出さずにはいられなかった。
「それが、わからない」
 かおりは頭を抱え込んだ。
「だから、言ったじゃない」
 わたしは責めるつもりじゃなかったけれど、つい口に出てしまった。
「わたしが悪いのよ」
「ごめんなさい。責めるつもりじゃないの。ただ、かおりが可哀想でそう言ったの」
「わたしがまいた種だから、わたしが考えなくちゃいけないのよ」
「あまり自分を追いつめないで、わたしに何かできることがあったら言って……」
「わたしのからだのことだから、わたしにしかわからないわよ」
 かおりは強い口調で返してきた。
「かおり」
「ごめんないさい。あさり。わたし冷静じゃないのよ。きっと」
 しばらく沈黙が続いた。その沈黙を紛らすために、かおりがラジオをつけた。DJの小気味よい声が部屋に反射し始めた。内容は右から左へ流れ、頭に入ってこない状態で、声というよりも音が響いてる感じがした。でも、この沈黙を打ち消すには、ちょうどいい音だった。
「取り返しのつくことじゃないんだよね。風邪をひいて、それが自然に治るわけじゃないんだよね」
 かおりの言っていることはわかる気がする。そのまま自然には解決しないということ。
「誰の子かどうか、わからないの」
 わたしはいっしょに解決の糸口を見つけたい思いでそう言った。
「ほんとにわからない。ふたりとも関係があったから。今、袋小路よ。ふたりにも、誰にも打ち明けられない。わたしだってわからないから」
 かおりひとりでは解決できない。上野さんや商社マンに打ち明けたところで父性はわからない。このまま生まれてくるまでの間、推定で話しても意味がないし、それぞれの関係にひびか入ることは間違いない。生まれてからわかったとしても、人間関係、いや男女関係がどうなっているのかも想像できない。
「ゼロにしてみたら……どうかしら」
「ゼロ?」
「こういうことを言うのはなんだけれど、言いにくいけれど、友だちだから言うね。おろすのはどう」
「おろす。そうくるのね」
 かおりはわかっていたように、先回りしていたように返事をした。
「今のかおりにとって、一番いいやり方に思えるから。確信はないけれど、今のかおりにとって結婚相手を見つけることが、最優先に思えるのよ。おろすなんてことは、言い方はよくないと思う。でも、かおりにとって、あたたかく迎えてもらえることが大事に思えるの。だから……」
「他人事だからそう言えるのよ」
「かおりのことを考えてそう言っているのよ」
「わたしのこと? 今のあさりにはわからないわよ」
「そうかもしれないけれど、しあわせになりたいでしょ」
 わたしがそう言うと、かおりの目から涙が流れ落ちてきた。かおりはしあわせを見つけたくて、ふたりと付き合ってきた。このまま生むようなことになったら……それを思うとわたしにはそれしか言えなかった。いや、思いつかなかった。
「かおり。今日会えてよかったよ。どうしちゃったのか心配だったから。明日からまた考えようよ」
「うん」
 かおりは力なく返事した。
「明日はどうするの。会社に行く? 休む?」
 返事はなかった。かおりの気持ちを察したら、会社に出ない方がいいと思った。
 かおりのマンションを出て、駅へ向かう途中、何人かの人たちとすれ違った。元気そうに歩いている人よりも、下を向いて歩いている人が多いように見えた。一日の出来事の中で、何かを抱えながら帰宅しているのだろうか。ハッピーエンドで一日を終える人もいる。ハッピーエンドで終わらない人もいる。今日ハッピーエンドで終わっても明日はわからない。その逆もある。時間も人も社会も動いているから、無難に終わる日の方が少ないのかもしれない。だから、人はいつも何かを抱えながら自分の家へ帰っていくものかもしれない。でも、かおりの場合は……時間が解決するものじゃない。何か手を打たなければ……かおりのことを考えながら、そう思った。

 翌朝、予想どおりかおりは出勤しなかった。わたしは先手を打って、会社にはかおりの体調不良を報告した。上野さんの方を見ると、いつもどおり仕事をこなしていた。ただ、かおりの休みが長引くと、上野さんも気が気でないはずだ。どうにかしないと。きのうのかおりとのやりとりを思い返してみた。言い方がきつかったのではないか。もっとやさしい言い方があったのではないか。妊娠しているかおりの気持ちを考えると、ストレートに言い過ぎてはいなかっただろうか。友だちとして助言できたとしても、女性として助言できてはいなかったのではないか。わたしはパソコンのキーを機械的に打ちながら、そんなことを考えていた。
「亜仁場さん」
 背中でわたしを呼ぶ声がした。
「はい」
 振り返ると、上野さんが立っていた。
「きのう、かおりのところに行ったの? 聞いたよ」
「えっ」
 わたしはびっくりした。
「さっき、報告してたでしょ」
「はい」
 わたしはほっと安心した。かおりから直接聞いたのかと思ったからだ。勘違いだった。
「電話に出ないんだよね。そんなに体調悪いの」
「ええ。まあ。女性特有の体調の悪さみたいです」
 わたしはとっさに思いついた。でも、半分当っている。
「女性特有のなんとか休暇にしては長いよね」
「そうですか」
 わたしは平静を装って返事した。
「まあ。女性じゃないからわからないけど」
 上野さんはそう言って、自分の席に戻った。このまま長引けば上野さんはかおりの家に行く。そんな感じがした。わたしは上野さんを見ながら、かおりのおなかの子に思いをめぐらせた。父親がわからない。推定できない。ふたりには打ち明けられない。産むにはリスクが高すぎる。産むまでには父親を決めなければならない。ほんとうの父親を……無理だ。わたしの頭では回らない。わたしは、おろすということを気軽に言ってしまったことをすごく後悔していた。女性としてよりも友だちとしての立場から言ってしまったことを。一晩考えてそう思った。女性としての立場、母親になろうとしている立場、本人じゃなければその気持ちはきっとわからない。自分のからだの一部が変化していくことは、経験したものじゃないと理解できない、きっと。わたしにできることはなんだろう。今日もかおりのところに行くことにした。いや、行かなきゃいけない。

「かおり。何カ月なの」
 きのうと同じように、わたしはかおりの家のリビングにあるソファに座りながら聞いた。
「二カ月」
「最近になってわかったの」
「気分が悪かった日が続いたのね。今までは、二、三日続くことはよくあるのよ。一週間続いたからおかしいなって、それで医者に行ったのよ。生理もなかったしね。その前から、気分の悪い日があったの。でも、忙しさもあり、つい面倒くさくてほっといたのよ」
「できた人にしかわからないと思うけれど、誰の子かは別にして、産みたいよね」
 わたしは率直に聞いてみた。
「うん。誰の子かというより、わたしの子だから産みたい。迷っているところもある。なんで迷っているのかよくわからない。でも、迷っている」
「そうだよね」
 きのうより、わたしは落ち着いていた。
「誰の子だったらいいと思っているの」
「誰の子か。希望はないの。事実を知りたい」
「ふたりと結婚できるわけじゃないよね」
 わたしはなんとなくその言葉が出てきた。
「ふたりともいい人。欲張りすぎたね。わたし」
 かおりは力なく言った。
「そんなことは」
 そうだと思っても、今のかおりの気持ちを考えたら言えない。中途半端な返事になってしまった。
「結婚したいし、子どもも欲しい。順番を間違えたね。わたし。このまま産んで、子どもとふたりでシングルになっちゃおうかな」
「結婚したいんでしょ。そうだったら、結婚も考えなくちゃ」
 明確な答えになっていない。でも、あれほど結婚に憧れていたかおりの理想を簡単につぶしたくはなかった。
「わからないまま産んだら、そうはいかないでしょ。真実を打ち明ければ、ふたりはきっと離れていく。このまま内緒にして、子どもをおろして、そしてその事実を隠して、どちらかと結婚? それで解決できることじゃないわ」
 かおりの言っていることはよくわかる。
「子どもを産むことと、結婚すること。分けて考えるの?」
「今のわたしの事実がそうだから」
 しばらく沈黙が続いた。その沈黙をやわらげるためか、かおりはラジオをつけようとした。
〈ピンポーン〉
 わたしとかおりはインターホンを見た。誰かが映っている。
〈ピンポーン〉
 ふたりで近づいてみた。見たことのある顔。ふたりで顔を見合わせた。お互いに顔が凍りつくのがわかった。上野さんだ。
〈ピンポーン〉
「上野さん」
 かおりは、ひとこと言って、画面を見ていた。
「居留守しかないわよ」
「無理よ。部屋のあかりでわかっちゃう。マンションのエントランスから、わたしの部屋のあかりが見えるわ」
「じゃあ、どうする。今会っても、何も言えないじゃない」
 しばらくするとインターホンの映像が消えた。ふたりで何も映っていない画面を見ていた。ふたりでソファーに戻ろうとした。
 そのとき〈ピンポーン〉
 また鳴った。わたしたちはまた画面を見た。上野さんだ。でも背景が違う。
「あっ」
 かおりは一瞬おびえたように言った。
「かおり」
 わたしは反射的に呼んだ。
「もう前にいるよ」
「えっ。なんで」
「きっと、このマンションに住んでいる人といっしょに入ってきたのよ。誰かが開ければ、いっしょに入れるから」
「このまま、居留守使おうよ」
 わたしはかおりの肩に手を置いて言った。と同時にガチャッという音がした。足もとを見ると、インターホンの受話器が床に落ちていた。しまったと思った。かおりの肩に手を置こうとしたとき、受話器に手が当たってしまったのだ。落ちた音が聞こえてしまった。もうどうしようもない。頭の中が空白の状態で回り続けた。
「あさり。いいよ。ドアを開けるよ」
 かおりは天井を見上げ、自分に言い聞かせるように言った。
「これだけは約束しておこう。できたことは内緒にしよう。ねっ」
 わたしは慌てて言葉をつないだ。かおりは廊下を歩いて、玄関に向かった。鍵を開けて、上野さんを中に入れた。
「どうしたんだ」
 ドアが閉まって、開口一番、上野さんが言った。
「まあ」
「お客さんが来てるの?」
「あさりよ」
「えっ」
 わたしが来ているのが意外だったのか、上野さんは驚いていた。上野さんが一歩一歩近づいて来るのが怖かった。
「こんにちは」
 上野さんがリビングに顔を出したとき、わたしは反射的に言った。
「ああ」
 わたしがなぜ来ているのか、腑に落ちないという感情で返してきた。
「かおり。どうしたんだ」
「体調を崩しちゃった」
 かおりはつくり笑顔で返事した。でも、ぎこちなさは隠しきれない。
「今はどうなんだ」
「あまりよくない」
「明日も休むのか」
「明日になってみてから」
「ちょっとおかしいぞ。かおりらしくないな。そんな言い方」
「わたしらしくない? そうかもしれない。今のわたしは」
「少しやつれているようだね。ところで、亜仁場さんもかおりのことが心配で来てくれたんだ」
 かおりと話していた上野さんが、わたしの様子をうかがうように言った。何でここに居るのだろうという、そんな感じだ。
「はい、そうです。友だちとして心配でしたので」
「そう。とりあえず、かおりの状態が確認できたので、今日は帰るよ。それじゃまた明日」
 上野さんは疑問符を含んだ口調でわたしたちにそう言って、ドアを開けて出て行った。
「何か変な雰囲気を感じたのかな。目つきが懐疑的だったよね」
「わたしたちの顔にも、そんな雰囲気が出てたのよ」
 かおりはぽつりと言った。
「このままの状態が続くと怪しまれるよね。かおり、体調がよければ出てきた方がいいかもしれない。体調がよければね」
 わたしはそう言ったが、かおりは無言のままソファーに座った。職場で見るかおりとは別人のように覇気がなかった。妊娠という事実と、誰の子かわからないという二重の苦しみが、今のかおりにのしかかっている。わたしには理解できないのがはがゆい。女性として支えてあげられない。わたしはかおりの横顔をしばらく見つめ、その余韻を焼き付け、かおりの部屋を出た。
 自宅に着いたのは十一時を回っていた。声もなく、音もない部屋に身を置いていると、わたしまで心細くなってきた。本人しかわからない痛み、それを救うどころか、いやしてもあげられない。こんなとき誰かと話したい。
「もしもし」
「はい。木村です」
「わたし」
「あさり?」
「そう。夜遅いけど、ごめんね」
「どうした?」
「ちょっと落ち込んでいるの」
「どうして」
「困っている友だちを助けてあげられなくて」
「なんで困っているの」
「詳しくは言えないんだけど。言わなきゃわかんないか」
「言いたくなかったら、言わなくてもいいよ」
「相手の立場になって、考えることができなくて悲しいの。本人じゃないと、わからないことかもしれないけどね」
「本人の立場って難しいよ。自分が経験したことであれば、実感として伝えられるよね。経験がないとわからないかもしれない。でも、その近くに立つことはできるかもしれないよ」
「近くに立つ?」
「自分で見たり、人から聞いたりしたことを自分の中に取り入れて、自分なりの考えで、いろいろな事柄に当てはめてみることだよ」
「うーん」
「ちょっと抽象的だったかな。とにかく、助けを必要としている人に手を差しのべてやることが大切なんだ。さりげなく行動すること。どんな小さなことでもね。そこから始まるよ」
「ありがとう」
 征治さんと話していると、不思議と穏やかな気持ちになる。
「少しは役に立ったかな」
「うん。役に立った。おやすみなさい」
「おやすみ」
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