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避けて通れない課題
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翌朝、いつもの慌ただしい時間が刻まれていく。午後には、ヘアカラーについての社内会議がある。わたしなりに考えたことがあって、いつもより緊張感の高まる朝だった。かおりのことも気になっていた。きのうの夜に電話しようと思ったけれど、その日に過ごした余韻を消したくなかったので、電話するのはやめた。
その日のかおりは、めずらしく遅刻寸前に会社に飛び込んできた。少し疲れた表情にも見えた。上野さんも気づいただろうか。わたしは、メールをチェックして、回答できるものには返信して、一息つくために席を離れた。かおりもわたしを追うように席を離れた。
「きのうはごめんね」
少し声がかれているのか、疲れたような口調でかおりが言った。
「遅かったの」
「十二時回っちゃった」
「盛り上がったのね」
「意外とね」
「でも、気をつけてね。こんな状態がいつまでも続くとは思えないし、どこかでつじつまが合わなくなるよ。きっと。わたしもどこまでフォローできるか、わからないしね」
「わたしが何とかうまくやるわよ」
「かおりだけの問題じゃないと思うよ。相手があることだし、ふたりもね」
「まあね。それはそうと、あさりには電話なかったよね」
「わたしも外出していたからよくわからないけれど、たぶんなかった」
「わたしの携帯には頻繁に入ってきたのよ。着信音は消していたの。七回か八回くらいあった。上野さんからだった。わたしが携帯を頻繁にチェックしていたので、きのうの人もちょっと不思議に感じたようだった」
「やっぱり無理があるのよ、こんなことしてたら、いつかばれるよ」
「悪いことしているとは思ってないの。わたし独身だし、誰と付き合おうと自由でしょ」
かおりは、少し開き直っているようだった。
それにしても、十二時を回るほどいっしょ過ごしたということは、相手はかおりのことを気に入っているということかもしれない。このまま事が進めばどうなるのだろう。予想はつきそうだ。すべてが百パーセントまあるく収まるとは思えない。とりかえしのつかないことにならなければいい……そう願っている。
「亜仁場さん。今日の打ち合わせの準備はOK?」
わたしが席に戻ると、権藤課長が聞いてきた。
「自分の考えはまとめています」
「ああ、よかった。今日は亜仁場さんにまかせようかなと思っていたんだ。若い人の意見を優先した方がいいかなと」
「わたしも自信があるわけじゃないですし、サポートはお願いします」
ふと、上野さんを見ると、かおりのことをいぶかしげに見ていた。きのうの件が気になるのだろう。わたしも上野さんの立場だったら気になるに違いない。携帯が鳴っているのに出ないなんて、おかしいし、怪しい。それも七、八回も鳴っているのに。わたしだったら、自宅に押しかけているかもしれない。かおりは上野さんの視線に気づいているのだろうか。ふたりの関係は無視できない状態。ますます気になってきた。
昼食時になった。いつもは、かおりといっしょに食べに行くところだけれど、会議の準備があったので、わたしはコンビニで済ませた。今日の会議のメンバーは前回と同じで、宣伝部の佐伯課長と男性スタッフの堀井さん、女性スタッフの田村さん、そして、権藤課長とわたしの五人のメンバーだ。わたしと権藤課長は、会議室に向かった。一時五分前、会議室の入口で、宣伝部のメンバーといっしょになった。部屋の中心にあるコの字型のテーブルにメンバーは起立状態でスタンバイした。
「お集まりいただきありがとうございます。今回はヘアカラーについての第二回目の会議になりますが、クライアントに対して時間的に早く提案したいと思いますので、活発な意見をお願いします」
権藤課長が冒頭に言った。
「前回にも言いましたが、カラーはダーク系のブラウンを基調に考えればいいと思います。染めたときのムラが多少あっても、そんなに目立たないということで」
堀井さんが言った。
「街を歩いて、ふと思ったのですが、ブラウン系は多いですね。特に明るい感じのブラウン。ゴールドに近いカラーも多いです。現時点では、そういうことです。わたしは、この状況がしばらくは続くと思いますが、調和ということを突き詰めて考えると、ブラック系の回帰へ向かうような感じもします」
わたしが言った。
「やっぱり、ブラウン系がメインでしょ。ブラウンに対する憧れは誰もが持っていると思うな」
堀井さんが言った。
「わたしも前回も言ったように、憧れるということから考えると、自分が本来持っている色とは別の色を選ぶということに関心があります。ブラウン系が基調かなと思います」
田村さんが言った。
「僕も前にも言ったように、黒髪がいいな。日本人は日本人としてもって生まれた髪の色を大事にすべきだと思う」
佐伯課長が言った。
「個性を表現するにはブラウン系がいいのかなって思う。街を見ても、黒髪は少ないよ。特に若い人たちは」
権藤課長が言った。
「黒髪の人は今は少ないと思いますが、黒髪回帰というか、きれいでハリのある黒に向かい始めると思います。アジアでは、黒に対する美の追求が始まっています。他のアジアの人たちでは、自国の色を尊重した美しさを競い合っています。日本にもこの波が押し寄せてきそうな予感があります」
わたしが言った。
「西洋に対する憧れは強いよ。だから、ブラウン系は続く。きれいなブラウンを追い求める流れは変わらないよ。あえて黒に染めるのは、白髪染めのイメージがあるから、若い人には抵抗があると思うな」
堀井さんが言った。
「黒に馴染むブラウン系を考えるとかもあると思います。ダークブラウンより黒に近い色とか」
田村さんが言った。
「髪が伸びるにしたがって、生え際の違和感がどうしても出てくるんだよな。だから、黒を基調にした色を考えていく方向もあるね。流行とは関係なくね」
権藤課長が言った。
「カラーリングは個性ありきだと思うな」
堀井さんが言った。
色についての意見交換のあと、沈黙が続いた。
しばらくして権藤課長が口を開いた。
「ブラウン系の追求はクライアントも考えているテーマだと思う。われわれの役目は斬新なものを提案することだ。色だけじゃなく、付加価値でもいいんだ」
「カラーリングをしているわたしの友人が気にしていることは、生え際の違和感もありますが、髪全体のごわつき感だとも言っていました。いろいろなメーカーのものを試しているようですが、ぴったりこれがいいというのはないそうです」
田村さんが言った。
「カラーリングの成分は髪に多少きついのかな。髪の質は人それぞれにいろいろあるから、なかなかぴったりとはいかないものなのかな」
権藤課長が言った。
「仕上がりについては、素人が説明書を見ながらのカラーリングと、美容院などでプロがやるカラーリングとは、けっこうな差が出ると思います。もちろん仕上がり状態を維持するには、そのあとのアフターケアも大切だと思います。ですから、求められている要素のひとつに美しい仕上がりを素人が簡単にできるということが予想されます」
「ごわごわした仕上がりだと、髪にボリューム感が出て、重そうに見えるんだ。きれいに見えても不均一なボリューム感がマイナスイメージになっている」
堀井さんが言った。
「不均一なボリューム感?」
佐伯課長が言った。
「わたしも聞いたことがあります。カラーリングだけの影響でもないでしょうが、髪が傷んでしまって、うまくまとまらないことが原因だそうです。それと、色が染まりきっていない状態、例えば元の髪の色とカラーリングした髪の色が混在した状態が目立ってしまうと、ボリューム感が出てしまったり、カラーの美しさが損なわれてしまったりすることがあるようです」
わたしが言った。
「かといって、てかり過ぎても白髪染めのイメージがするし、つやが出ればいいっていう問題じゃない気がする」
堀井さんが言った。
「素人が均一にムラなく染めるのはけっこうたいへんなことだろう。まだらの問題はテクニック次第じゃないか。家庭用でどこまで追求できるかだ」
佐伯課長が言った。
「わたしは、美しい黒髪を追求したい。日本人の美しさは日本人しか出せない気がする」
わたしが言った。
「亜仁場さんは、やっぱ黒髪ですか」
堀井さんが、ちょっと軽蔑気味の口調で言った。
「昔でいえば、カラーリングイコール白髪染めだった。でも今は、カラーリングはカラーリング、白髪染めは白髪染め、むしろカラーリングは白髪染めのイメージを超えるまでになったことを考えると、ブラウン系に代えてブラック系が主流になってもおかしくない。状況が逆転することもあるかもしれないな。亜仁場さんが言ったように、日本人にしか出せない美しさ。日本人にしか出せないということは、長所を引き出すこと。どう見ても他国の人たちに負けている点を争っても勝てないからね」
権藤課長が言った。
「持って生まれたものを大事にしようということですね」
田村さんが言った。
「でも、劣等感を刺激することも戦略だと思います。日本人は外国人に弱い。特に西洋人には劣等感を抱いている人たちは多いですよね。その劣等感を取り除いていこうとする施策が有効でしょう。コテコテの西洋人スタイルを追求すること。足の長さは無理にしても、外観は小細工で変えられますからね。バブルは崩壊しても、美容と健康ついての関心は高まり続けています。それを考えると、日本人が持っていないもの、コンプレックスをおおいに刺激することが有効だと思います」
堀井さんが言った。
「ただ、まわりとの違和感が強すぎると、中に入っていけない気がします。わたしみたいな性格だと特に意識します。プライベートではいいかもしれませんが、会社や社会というパブリックな場面では耐えられそうもありません」
田村さんが言った。
「そこまで大げさに考えなくてもいいよ。カラーリングをもっと身近にしたいな」
佐伯課長が言った。
「アジアンビューティーを追求したいですね。アジア人しかないもの、日本人しかないもの。絶対あるはずです。他の国に負けない何かが。短所をカバーするのではなく、長所を伸ばしていく何かです」
わたしが言った。
「亜仁場さんが言うように、黒を追求してみようか。黒への回帰は来るような気がする。日本人に一番合うのは黒かもしれない。持って生まれたものだからね」
権藤課長が言った。
しばらく沈黙が続いていたけれど、黒回帰への方向で会議は終わった。
それから数週間は、黒髪へのアンケート調査や企画書づくりで忙しい日々をおくった。
企画書づくりが進むなか、社員旅行の日が近づいてきた。仕事に追われていると、あっという間に時間が過ぎていく。こんな感覚で歳をとっていくのかなとも思ってしまう。それと、社員旅行の直前になると、キャンセルする社員が必ず出てくる。仕事の都合で行けなくなる人たちだ。工夫をすれば行けるのだろうけれど、行きたくない気持ちがあるから、そのまま流れてしまうのだなって思う。わたしも、どちらかと言うと積極派でない。積極派でないわたしは、旅行をキャンセルする理由を用意周到に考えることも苦手なので、なんとなく参加しているような感じだ。まわりの人たちとのコミュニケーションも大切だとも思うから、前向きにも考える。
「あさり」
「えっ。あ、かおり」
「ちょっといい」
かおりが声をかけてきた。ちょっと不安そうな顔をしていた。かおりはわたしを社外に連れ出して、一呼吸おいて言った。
「わたしに対する上野さんの猜疑心がどんどん強くなっているのよ」
「だから、そうでしょ。よほど鈍感な人でない限り、わかっちゃうわよ」
「そうかな。細かいことを気にする人じゃないと思っていたのに」
「それとこれとは別じゃない? 男女の関係って、ちょっとしたニュアンスでビビッとくるものがあるのよ」
「あさりにそう言われるとは思わなかった」
「なにそれ、かおりのことを考えているのに」
「あ、ごめん、ごめん。この前なんか、家に突然来るからびっくりしちゃった。平日の夜だったから、わたしも家にいたんだけど、誰かといっしょにいるのかと思ったのかな」
「電話じゃ、信用できないんじゃないの。そうなったら、すべてが言い訳に聞こえるんじゃないの。かおりもハッキリさせなくちゃ。とりかえしのつかないことになる前にね」
「器用に付き合っている人っているじゃない?」
「でも、同時に真剣にふたりと付き合っている人って少ないわよ。どちらかが事情を知っているか、本気じゃないかだと思うのよ。それにしても、かおりはどうなの。どちらと本気で付き合いたいの。結婚する気はあるの」
わたしが言った後、かおりは少し黙っていた。
「わたしみたいな生き方って、いけないのかしら」
「相手があることだから、だと思うの」
それから、二週間経って、社員旅行の日がやってきた。集合は羽田空港、札幌一泊二日の旅だ。空港ロビーには、あわただしく人々が行き交っていた。ビジネスの人たちは、どこかピリピリ張りつめた表情をしている。旅に出かけようとしている人たちはやわらかな表情で会話を楽しんでいる。わたしの会社の人たちも、普段とは違う顔をしている。緊張感で張りつめた表情ではなく、どことなくやわらかな表情。きっと、家庭でもそんな表情をしていそうな自然な雰囲気が漂っている。ふと見ると、望月さんの表情もやわらかい。普段の近づきがたい印象とは違う。人間は本質的にはやさしい動物なんだと思ってしまう。仕事モードだと、常に何かと戦っているから、やわらかくなれないんだ。わたしもそうかもしれない。
飛行機を見て思い出したことがある。車と飛行機のスピード競争をやっていたこと。車はF1で走っているような形のもので、飛行機は戦闘機だった。確か六百メートルの距離とそれ以上の距離の二種類の競争だった。結果は、六百メートルでは車が勝った。それ以上の種目では飛行機に軍配が上がった。テレビに映った動きを見ていたけれど、車がこんなにも速く走れるなんてびっくりした。ロケットが水平に飛んでいく感じがした。ドライバーの目には風景がどんな感じで流れていくのだろうかと思ったものだ。わたしだったら、走りきる前にコースから外れてしまうに違いない。
「なにぼーっとしてるのよ」
かおりが声をかけてきた。
「えっ」
「搭乗時間よ」
かおりはいつもの変わらず軽快だ。
「わかった」
わたしたちは、札幌行きの便に乗るため、搭乗ゲートに向かった。
「旅行中は仕事のことを忘れて、ぱーっといこうよ」
かおりが弾けた。
「そうだね」
わたしもなんとなく同調した。後ろを見ると、権藤課長は佐伯課長たちといっしょに歩いている。望月さんはひとりで颯爽と歩いている。上野さんは同僚と話しながら歩いている。上野さんは、ここではかおりのことが気にならないらしい。かおりに対する視線も自然な感じで流れている。休戦状態だ。ほっとしている。あえて無視するのも社員旅行の鉄則、いや暗黙の了解かもしれない。べたべたするのもされるのも、いい印象を与えないし、受けないからだ。
知り合いに聞いた話で、同じ営業所内で社員同士が結婚したところ、しばらくしてどちらかが転勤になったというのがある。社内恋愛禁止と表向きに言っている会社はないと思うけれど、感情的に違和感を抱く環境というか社風がまれにあるのかもしれない。わたしたちの会社は自由な雰囲気だ。まわりを見ても社内結婚はちらほらある。
千歳空港に着いて、一行はそこからバスで札幌へ向い、観光スポットを二ヵ所まわってから、宿泊する旅館に着いた。その旅館は、団体客を想定しているのか、大型の観光バスが何台も駐車できそうで、とても大きく、研修施設のようでもあった。入り口も大きく、スタッフが一列に並んで、わたしたちを迎えてくれた。宴会までには一時間あるので、わたしたちは温泉に入ることにした。部屋に着いて、中を見てみると、和洋折衷のつくりだ。ツインベッドの洋室と六畳の和室が融合したタイプで、リゾートの雰囲気を漂わせている。この部屋には、わたしとかおりと、後輩のふたりが泊まることになっている。荷物を置いて、露天風呂に行くことにした。旅館は増築を繰り返したこともあって、お風呂場をはじめ、食堂や娯楽場などを結ぶ通路が迷路のようになっている。都会のオフィスビルのようにきちっと区画された通路に慣れ親しんでいると、違和感というより、異国に迷い込んだような情緒を感じる。最初から計画されたものではなく、後から加えていく手づくりのような雰囲気を感じさせるからかもしれない。お風呂場につながる通路を進むと、温泉独特の匂いがする。匂いというよりも香りかな。からだにまとい始める香りが少しずつ心を鎮めてくれそう。
お風呂から出る頃には、旅館のスタッフが宴会場の準備を終える頃だった。各宴会場を見ると、一の膳がきちんと並べられていた。わたしたちは身づくろいをするため、部屋に戻った。あらためて部屋を見ると、はじめは気づかなかったけれど、洋室と和室の境目に段差がないのだ。よくあるのは、和室の障子の敷居が高くなっているつくりだったような気がした。かおりに聞いてみると、こう言った。
「これは、バリアフリーの発想よ。お年寄りやからだの不自由な人が、つまずいて転ぶことがないように、段差をなくした設計なのよ。最近、よくあるわよ」
「あっ。バリアフリーね。新聞や雑誌広告で聞いたことがあるけれど、これが実際のバリアフリーなのね」
「今でも、段差をつくって、デザイン的に空間を仕切るようなやり方もあると思うわ。どちらがいい悪いじゃなくてね。デザインや機能としてはどちらも存在するのよ」
宴会の時間になった。わたしたちは宴会場に向かった。わたしにとって宴会とは、おいしいものが食べられるうれしさと、会社の儀式のような堅苦しさが入り混じっている感覚がある。席順が決まっているので、そう感じるのかもしれない。わたしは席順にしたがって、後のほうに座った。部長のあいさつがあって、そして乾杯。しばらく食べることに集中。会場のあちこちから話し声が沸き始める。わたしもいつもと同じようにかおりとおしゃべり。おいしい料理のうれしさと、ほろ酔い気分も重なって、すこし解放的な気分になってきた。
「かおり。付き合いはどうなっているの」
わたしは、商社マンのとのことが気になって聞いてみた。
「そうね。いい感じなのかな」
お酒が入っているせいなのか、かおりは満面の笑みで返事をした。
「いい感じ?」
「向こうは結婚したがっているみたい。会うたびにプレゼントはくれるし、それもブランド品。わたしが気に入っているものを言うと、次会うときに用意してくれるのよ。たぶん、わたしをつなぎ止めようとしているんでしょうけれど、悪い気はしないじゃん。人柄も悪くないし……そういう気分でもあるのよ」
「上野さんのことはどうするの」
「うん」
かおりは何かを考えているようで、消化しきれない課題があるような表情と口調で、含みを持たせた。
「ふたりと真剣に付き合うなんて無理でしょ?」
わたしはさりげなく聞いてみた。
「そうなのよ。でもいいものは手に入れたいし、どうなるのかな」
「なりゆきにまかせるつもりなの。わたしは反対」
しばらく沈黙が続いた。わたしはふと上野さんの方に視線を向けてみた。上野さんは同僚と楽しそうにお酒を飲んでいた。わたしから見ても、会社から見ても、かおりと上野さんの結びつきは強いように思える。かおりはどう思っているのだろう。まわりがそう見ているとは思っていないのだろうか。かおりが商社マンを選べば、上野さんとも会社ともギクシャクするに決まっている。かおりがそのことを考えないはずはない。それでもまだ決めかねているということは、何かが引っかかっているのだろうか。
「なりゆきにはするつもりはないわ。なりゆきにするつもりはね。でも、向こうからやってくるものを拒む理由はあるかしら。求められているのに、わざわざ。もったいないでしょ」
「もったいない?」
「出会いは大切にしたいじゃない。だから、今が一番いいとき」
「確かに出会いは大切だけれど、結婚となると違うんじゃない」
「同じよ。最終的にはひとり。でも、わたしはギリギリで生きていく。っていうか楽しみたいの。今は独身だから、なんの罪もないでしょ。それより、前にも言ったように、あさりも楽しまなきゃ」
「付き合うとか、別れるとかは、今はかおりの自由だからいいけれど、結婚が絡んでくるんだからこの先は慎重に考えなよ」
わたしがそれだけ言うと、かおりは半分納得したような表情を見せながら、お酒を注ぎに上座のほうに歩き出した。わたしがひとりで食べていると、しばらくして人の気配がした。横を向くと、望月さんが赤くなった顔で笑っていた。
「亜仁場さん。さあ、どうぞ」
いつもはあまり愛想がいいとはいえない望月さんが、酔っ払っているのか、機嫌のいい振る舞いでビールを注いでくれた。
「ありがとうございます」
「そんな、肩肘張らなくてもいいじゃない。飲みましょう」
ほんとうに酔っ払っているみたいで、上機嫌な望月さん。
「お酒好きなんですか」
「まあ、少しはね。それより、わたしのこと怖いと思っているでしょ」
「いえ。そんなこと」
ほぼ当っているので、それ以上の言葉が出なかった。
「ちゃんと顔に書いてあるわよ。それより、わたしが不倫してたの知ってたでしょ」
ドキリとした。わたしが黙っていたので続けて言った。
「もうとっくに別れたわよ。男って、だんだんしつこくなるのね。だから、嫌になって」
少しろれつが回らなくなりながらも、望月さんは力を込めて言った。
「そうですか」
「そうですかって、他人事じゃないのよ。実は、わたしも臆病になっているのかもしれない。どういうことかわかる。それはね、相手がわたしに対してかなり好意的であっても、わたしはつかず離れずがいいの。というのは、結婚前提とかじゃなくて、付き合った人は何人もいるわ。自慢するわけじゃないけどね。でもね、すべてを許しちゃうとさ、はっきり言って、からだを許しちゃうとさ、みんな同じなのよ。みんな俺の女みたいな扱いをするのよ。ふたりのときもそうだし、他人がいるときもそうだしね。女は所有物じゃないんだから、そういうのは嫌よね。わかるでしょ」
望月さんは、普段と違って、感情的な口調でわたしに語ってくれた。望月さんを人間として少し理解できたように感じた。そして、どうして男性に対して線を引くようになったのか少しわかった。
「上野さんを鈴木さんに取られたとき、最初は悔しかったわよ。上野さんを取られたこともそうだけど、鈴木さんに取られたことのほうが悔しかった。勝負に負けたことが悔しかった。でも数ヵ月して、だいぶ落ち着いた頃、上野さんのことほんとに好きだったのかなって考えたとき、そうじゃなかったのかなとも思えるようになった。取る、取られたという感情の上に、上野さんが乗っかっていたのかなって思ったの。だから今は、上野さんに悪いと思っている。前に、亜仁場さんと立ち話したときがあったじゃない。それで、わたしが上野さんと鈴木さんのこと聞いたこと憶えている?」
「憶えています」
「なんで聞いたと思う? それはね、鈴木さんがわたしに似ているような気がしたから。性格的に。鈴木さんもわたしと同じように思っているような気がしてね。上野さんのことが好きだという感情よりも、わたしに取られたくない気持ちの方が強いんじゃないかと。上野さんは女に対しては誠実な人なのよ。相手の気持ちをフィルターを通さないで純粋に受け取る人だと思う。相手の不純な動機なんか汲み取れそうもない。鈴木さんにとって、わたしがいなくなったとき、上野さんを純粋に好きになれるかどうかということね。だからあのとき、亜仁場さんにふたりのことを聞いてみたのよ」
望月さんがわたしに熱く語った。
あのときの望月さんの気持ちが理解できた。普段、仕事で毎日顔を合わせていても、望月さんのことがわからなかった。お酒のせいもあって、本音が聞けた。わたしがかおりを見ている目と、望月さんがかおりを見ている目が一致したように感じた。でも、友だちとして、かおりのすべてを言えない。
「そうだったんですか。あのとき、なぜわたしに聞いてきたのかなって思っていたんです。ただ、わたしもふたりの関係はよくわからなかったんです」
「そうかもしれないわ。男と女の関係なんて、当人しかわからないものよね。でも、女から見ると、上野さんはこれといったワンポイントの魅力はないけれど、イザとなったときにサポートしてくれそうな魅力があるのよね。包容力みたいな。逆に、そこがいいように扱われちゃうところの危険性もあるのよね。だから、サブキープみたいな要素もあるのかなってね。わたしが言うと負け惜しみみたいに聞こえるかもしれないけど、鈴木さんも同じこと思ってないかってね。亜仁場さんは、ふたりはいっしょになると思う?」
わたしは返事に困った。望月さんに見透かされているような気がして、嘘を言える雰囲気でもないし、本音も言えない。
「わたしもほんとうにわからないんです」
今の最良の答えを言葉にした。
「それはそうと、亜仁場さんはそういう話はないの。あまり聞かないわよね。鈴木さんと同い年でしょ。付き合っている人はいるんでしょ」
わたしの目を覗き込むように、望月さんは聞いてきた。
「友だち付き合い程度ならいます」
望月さんがいろいろ本音を語ってくれたので、まったくの嘘を言うのは忍びない気がして、そう言った。
「そういう言い方って、ずるい。でしょ。結婚とかは考えていないの」
「そんなことはぜんぜん」
「そういうことだと、振り回されるわよ。付き合ってしばらくしたら、自分で見極めなきゃダメ。結婚するのかしないのかを、自分の中ではっきり意識することよ。そうしないとズルズルいっちゃうわよ。なりゆきになって、言いなりになって、自然消滅か、さようなら。そうなっちゃうわよ。結婚するんだったら、相手にその気があるのかないのかを見極めること。ただの友だちでいたいんだったら、相手の無理な要求には突っぱねるくらいの気持ちがないと流されちゃうからね」
望月さんが一気にまくし立てた。望月さんの言うことも一理ある。でも、わたしは性格的に押しの強い方じゃないので、そんな気持ちになれない、というよりなったことがない。わたしが黙っていると、笑みを浮かべて自分の席に戻っていった。そこへ、かおりが戻ってきた。わたしと望月さんの会話を見ていたらしい。
「あさり、何を話していたの」
わたしの考え込んでいる表情を見てか、かおりが怪訝そうな顔で聞いてきた。
「付き合っている人がいるかってこと」
かおりと上野さんのことは出さず、会話の後半の話題を出した。
「そう。それにしても望月さん上機嫌に話していたわよね」
「お酒が入っていたからじゃない」
わたしは新鮮な空気が吸いたくなって、外に出てみた。まわりは虫の声しか響かない静寂な夜だった。都会の圧迫した空気と違って、透明感にあふれた空間の中に身を置くと、まわりの空気のやわらかさに包まれ、呼吸を楽にしてくれた。胸に突っかかっていた何かがすうっと夜空に吸い込まれていくのを感じた。征治さんに会いたい。そう思った。
背中に人の気配がするので、振り返るとかおりが立っていた。
「あさり。急に神妙な顔してどうしたの。望月さんに何か言われたの」
「ちょっとね」
「どうしたの」
夜空を見ていると素直な気分になれそうだった。
「付き合うからにはあやふやな態度じゃだめだってこと」
「そんなこと言ってたの」
「付き合ってしばらくしたら、結婚するのかしないのかを、自分の中ではっきり意識しないと、ズルズルいっちゃうからだって」
「まあ、人それぞれじゃない。付き合う時間の長さで決まるわけじゃないしね。自分の中ではっきり意識するには、ビビッとくるものがあるかないかだから、瞬間でわかる場合もあるし、時間をかけてもわからない場合もあるから、そのことで悩んでも仕方ないじゃない」
「それはそうだけれど。わたしの性格的なところを指摘されたようでもあるから。押しの強さはないからね」
「それが、あさりの性格よ。押しの強さで世の中のすべてが動いているわけではないしね。スローライフもあり、スローラブもあり」
「スローラブか。いい言葉ね。かおりの口から出るとは思わなかった」
「わたしだって、相手によってはスローラブのときもあるわよ。今はどうかなあ」
「今のかおりは……わたしにもわからない」
かおりと話していると、肩の力が抜けていく感じがした。友だちっていいもんだと思った。
ふたりで宴会場に戻ると、宴もたけなわ。座敷だから、会社の人たちが飲みながら、あちこちに移動している。わたしたちの席も占領されていて、料理の残りを食べるといった雰囲気ではない。わたしたちは自分たちに部屋に戻ることにした。
「どこの会社でもそうなんでしょうけれど、飲むとすごいよね。はちゃめちゃになっちゃう。権藤課長や佐伯課長も普通のおじさんになっちゃうよね」
わたしは、半分あきれて、半分おかしくて、そう言った。
「これが会社の宴会というもの。前の会社のときもそうだった。似たりよったり」
「ビデオにでも撮って、後で見せてあげたいね」
「あさり。わたしのことどう思ってる」
「えっ。どう思ってるって」
「人間として。ずるいと思ってるでしょ」
かおりはニコニコしながら言った。
「そんなことは思ってないわ。仕事に取り組む姿勢は完璧だし、わたしは足もとに及ばないと思っている。男の人との付き合いについては、ずるいというよりもハラハラしちゃう。こっちから見て気が気でない。ひと言で言えば、危なっかしい」
「危なっかしいか。そうかもしれないな。それを楽しんでいるのかもしれない。刺激がほしいのね自分自身に、きっと」
「めずらしいね。あっさり認めちゃうんだ」
「透き通った夜空を見ているとそんな気分になっちゃったみたい」
「空、きれいだったよね」
「あさり、仕事おもしろい?」
「とにかく、前に進めてるって感じかな」
「それ以外は?」
「それ以外?」
「あさり、わたしはね、仕事に対する取り組み方が少し違うかもしれない。職場に対してかな。あさりは正社員で、入社してからここにいるよね。わたしは派遣から正社員になった。前の会社は派遣のままだった。人材派遣会社に登録して、スキルに応じていろいろな会社に期間を定めて派遣されたり、正社員への予定を含めて派遣されたりするのよ。それで、スキルを研くための研修があってね、そこで知り合った人たちと話す機会があって、いろいろ聞いたのよ。派遣社員は自分のスキルを存分に発揮したい人たちが多いと思うでしょ。実際に多いんだけど、意外と多かったのは、なんと相手探し」
「相手探しって、結婚相手のこと?」
「そう正解。新卒で希望の会社に入れなかった人たちや、はじめから派遣を希望して、狙ったところに入るパターンがある。ある三十半ばの人が言っていたのは、あなたの年齢のときは、つまりわたしの年齢ね、スキルで仕事を切り拓いていこうと思っていたらしいの。でも、同年代の人たちが結婚してそれなりの生活をしているのを聞くうちに、それまで独身でもいいから誰にも束縛されず、自由に生きたいっていう気持ちがあったんだけど、その気持ちが少しずつ薄れてきたらしいの。誰かに寄りかかりたい。誰かに寄りかかって、自由に生きたい……そんな気持ち」
「誰かに寄りかかって、自由に生きたい?」
「わたしはそのときは理解はできても、気持ちはわからなかった。でも、いろいろと話してみると、まわりに何人もいるのよ。そういう考えの人たちが。異口同音に言うには、あなたもそのうちわかるときがくるからっていうこと。そして、ずるくなった方がいいわよって言われた」
「ずるくなる?」
「欲張りなさいとね。スキルを武器にして、やりたいことで稼いで自由に生きるのもひとつ。それと並行して、将来有望な人を見つけて結婚する道をさぐるのもひとつ。同時進行が大切。年齢的に勝負できるものは、フルに使って生きないと後悔するわよって言われた」
「欲張らないと後悔するって、誰にも当てはまることかしら」
わたしは欲張るというと自分を見失いそうで、欲張るという生き方にピンとこなかった。
「わたしも聞いたときは他人事だと思ったわ。でもね、三十近くにもなってくると、後輩がどんどん入ってくるじゃない、仕事ではすぐに抜かれるとは思ってないけど、恋愛や結婚って人生経験と完全にリンクするものじゃないでしょ。自分のキャリアが足りなくても、相手のキャリアに乗っかれば、それはそれで成り立つじゃない。そして、それなりに暮らせるじゃない。そういうことも考えるようになってきたのよ」
「かおりがそんなこと考えているなんて想像しなかった」
わたしはかおりと毎日会っているのに、かおりのことをよく知らなかったことでショックを受けた。理解しているつもりで理解していなかった自分には何かが足りないのか。
「わたしは仕事でも負けたくないし、恋愛でも負けたくないと思ってる。最終的にどういう形になるのかは決めていなしわからないけど、生きていくうえで隙をつくりたくないだけなのよ」
「わたしって世間知らずなのかな。かおりの言っていることが普通なのかな」
かおりの説得力ある話を聞いているうちに、社会に対して幼いのではないかと思ってしまった。目の前にあるものだけを追いかけている自分にちょっぴりさみしさとふがいなさを感じた。
「あさりは、わたしがふたりの人と付き合うことに快く思ってないでしょう。前にも言ってたわよね。わたしは比較しながら付き合っているの。これって悪いことかしら。一生の伴侶になるかもしれない人を選ぶわけでしょ。どうゆう選び方をするのも自由じゃない。後悔しないためにね。いいように解釈して。器用に生きてるってことじゃダメ?」
「まあ、何事に対しても一生懸命にやってる。そんなとこでいい?」
とりあえず、打ち明けてくれたことに敬意を表して、そう答えた。仕事、恋愛、結婚……わたしの中には避けて通れない課題がべったり張り付いている。かおりのような考えじゃないと、どんどん追い抜かれていくのか。器用じゃないと何も手に入らないのか。結局は自分が損するのか。そんなことを考えながら、かおりの顔をぼんやりと見ていた。
「あさり。とにかく何に対しても主導権を握ることよ。ひるんじゃダメ。そうしたら、だんだん見えてくるわよ。歩いていく道が」
お互いに黙ったままの状態が続いた。宴会が終わったのか、しばらくして後輩で同室のふたりが戻ってきたので、その話はやめて、ふたりで温泉に入りに行った。
次の朝、午前の自由時間を過ごして、午後の便で東京へ向かった。
その日のかおりは、めずらしく遅刻寸前に会社に飛び込んできた。少し疲れた表情にも見えた。上野さんも気づいただろうか。わたしは、メールをチェックして、回答できるものには返信して、一息つくために席を離れた。かおりもわたしを追うように席を離れた。
「きのうはごめんね」
少し声がかれているのか、疲れたような口調でかおりが言った。
「遅かったの」
「十二時回っちゃった」
「盛り上がったのね」
「意外とね」
「でも、気をつけてね。こんな状態がいつまでも続くとは思えないし、どこかでつじつまが合わなくなるよ。きっと。わたしもどこまでフォローできるか、わからないしね」
「わたしが何とかうまくやるわよ」
「かおりだけの問題じゃないと思うよ。相手があることだし、ふたりもね」
「まあね。それはそうと、あさりには電話なかったよね」
「わたしも外出していたからよくわからないけれど、たぶんなかった」
「わたしの携帯には頻繁に入ってきたのよ。着信音は消していたの。七回か八回くらいあった。上野さんからだった。わたしが携帯を頻繁にチェックしていたので、きのうの人もちょっと不思議に感じたようだった」
「やっぱり無理があるのよ、こんなことしてたら、いつかばれるよ」
「悪いことしているとは思ってないの。わたし独身だし、誰と付き合おうと自由でしょ」
かおりは、少し開き直っているようだった。
それにしても、十二時を回るほどいっしょ過ごしたということは、相手はかおりのことを気に入っているということかもしれない。このまま事が進めばどうなるのだろう。予想はつきそうだ。すべてが百パーセントまあるく収まるとは思えない。とりかえしのつかないことにならなければいい……そう願っている。
「亜仁場さん。今日の打ち合わせの準備はOK?」
わたしが席に戻ると、権藤課長が聞いてきた。
「自分の考えはまとめています」
「ああ、よかった。今日は亜仁場さんにまかせようかなと思っていたんだ。若い人の意見を優先した方がいいかなと」
「わたしも自信があるわけじゃないですし、サポートはお願いします」
ふと、上野さんを見ると、かおりのことをいぶかしげに見ていた。きのうの件が気になるのだろう。わたしも上野さんの立場だったら気になるに違いない。携帯が鳴っているのに出ないなんて、おかしいし、怪しい。それも七、八回も鳴っているのに。わたしだったら、自宅に押しかけているかもしれない。かおりは上野さんの視線に気づいているのだろうか。ふたりの関係は無視できない状態。ますます気になってきた。
昼食時になった。いつもは、かおりといっしょに食べに行くところだけれど、会議の準備があったので、わたしはコンビニで済ませた。今日の会議のメンバーは前回と同じで、宣伝部の佐伯課長と男性スタッフの堀井さん、女性スタッフの田村さん、そして、権藤課長とわたしの五人のメンバーだ。わたしと権藤課長は、会議室に向かった。一時五分前、会議室の入口で、宣伝部のメンバーといっしょになった。部屋の中心にあるコの字型のテーブルにメンバーは起立状態でスタンバイした。
「お集まりいただきありがとうございます。今回はヘアカラーについての第二回目の会議になりますが、クライアントに対して時間的に早く提案したいと思いますので、活発な意見をお願いします」
権藤課長が冒頭に言った。
「前回にも言いましたが、カラーはダーク系のブラウンを基調に考えればいいと思います。染めたときのムラが多少あっても、そんなに目立たないということで」
堀井さんが言った。
「街を歩いて、ふと思ったのですが、ブラウン系は多いですね。特に明るい感じのブラウン。ゴールドに近いカラーも多いです。現時点では、そういうことです。わたしは、この状況がしばらくは続くと思いますが、調和ということを突き詰めて考えると、ブラック系の回帰へ向かうような感じもします」
わたしが言った。
「やっぱり、ブラウン系がメインでしょ。ブラウンに対する憧れは誰もが持っていると思うな」
堀井さんが言った。
「わたしも前回も言ったように、憧れるということから考えると、自分が本来持っている色とは別の色を選ぶということに関心があります。ブラウン系が基調かなと思います」
田村さんが言った。
「僕も前にも言ったように、黒髪がいいな。日本人は日本人としてもって生まれた髪の色を大事にすべきだと思う」
佐伯課長が言った。
「個性を表現するにはブラウン系がいいのかなって思う。街を見ても、黒髪は少ないよ。特に若い人たちは」
権藤課長が言った。
「黒髪の人は今は少ないと思いますが、黒髪回帰というか、きれいでハリのある黒に向かい始めると思います。アジアでは、黒に対する美の追求が始まっています。他のアジアの人たちでは、自国の色を尊重した美しさを競い合っています。日本にもこの波が押し寄せてきそうな予感があります」
わたしが言った。
「西洋に対する憧れは強いよ。だから、ブラウン系は続く。きれいなブラウンを追い求める流れは変わらないよ。あえて黒に染めるのは、白髪染めのイメージがあるから、若い人には抵抗があると思うな」
堀井さんが言った。
「黒に馴染むブラウン系を考えるとかもあると思います。ダークブラウンより黒に近い色とか」
田村さんが言った。
「髪が伸びるにしたがって、生え際の違和感がどうしても出てくるんだよな。だから、黒を基調にした色を考えていく方向もあるね。流行とは関係なくね」
権藤課長が言った。
「カラーリングは個性ありきだと思うな」
堀井さんが言った。
色についての意見交換のあと、沈黙が続いた。
しばらくして権藤課長が口を開いた。
「ブラウン系の追求はクライアントも考えているテーマだと思う。われわれの役目は斬新なものを提案することだ。色だけじゃなく、付加価値でもいいんだ」
「カラーリングをしているわたしの友人が気にしていることは、生え際の違和感もありますが、髪全体のごわつき感だとも言っていました。いろいろなメーカーのものを試しているようですが、ぴったりこれがいいというのはないそうです」
田村さんが言った。
「カラーリングの成分は髪に多少きついのかな。髪の質は人それぞれにいろいろあるから、なかなかぴったりとはいかないものなのかな」
権藤課長が言った。
「仕上がりについては、素人が説明書を見ながらのカラーリングと、美容院などでプロがやるカラーリングとは、けっこうな差が出ると思います。もちろん仕上がり状態を維持するには、そのあとのアフターケアも大切だと思います。ですから、求められている要素のひとつに美しい仕上がりを素人が簡単にできるということが予想されます」
「ごわごわした仕上がりだと、髪にボリューム感が出て、重そうに見えるんだ。きれいに見えても不均一なボリューム感がマイナスイメージになっている」
堀井さんが言った。
「不均一なボリューム感?」
佐伯課長が言った。
「わたしも聞いたことがあります。カラーリングだけの影響でもないでしょうが、髪が傷んでしまって、うまくまとまらないことが原因だそうです。それと、色が染まりきっていない状態、例えば元の髪の色とカラーリングした髪の色が混在した状態が目立ってしまうと、ボリューム感が出てしまったり、カラーの美しさが損なわれてしまったりすることがあるようです」
わたしが言った。
「かといって、てかり過ぎても白髪染めのイメージがするし、つやが出ればいいっていう問題じゃない気がする」
堀井さんが言った。
「素人が均一にムラなく染めるのはけっこうたいへんなことだろう。まだらの問題はテクニック次第じゃないか。家庭用でどこまで追求できるかだ」
佐伯課長が言った。
「わたしは、美しい黒髪を追求したい。日本人の美しさは日本人しか出せない気がする」
わたしが言った。
「亜仁場さんは、やっぱ黒髪ですか」
堀井さんが、ちょっと軽蔑気味の口調で言った。
「昔でいえば、カラーリングイコール白髪染めだった。でも今は、カラーリングはカラーリング、白髪染めは白髪染め、むしろカラーリングは白髪染めのイメージを超えるまでになったことを考えると、ブラウン系に代えてブラック系が主流になってもおかしくない。状況が逆転することもあるかもしれないな。亜仁場さんが言ったように、日本人にしか出せない美しさ。日本人にしか出せないということは、長所を引き出すこと。どう見ても他国の人たちに負けている点を争っても勝てないからね」
権藤課長が言った。
「持って生まれたものを大事にしようということですね」
田村さんが言った。
「でも、劣等感を刺激することも戦略だと思います。日本人は外国人に弱い。特に西洋人には劣等感を抱いている人たちは多いですよね。その劣等感を取り除いていこうとする施策が有効でしょう。コテコテの西洋人スタイルを追求すること。足の長さは無理にしても、外観は小細工で変えられますからね。バブルは崩壊しても、美容と健康ついての関心は高まり続けています。それを考えると、日本人が持っていないもの、コンプレックスをおおいに刺激することが有効だと思います」
堀井さんが言った。
「ただ、まわりとの違和感が強すぎると、中に入っていけない気がします。わたしみたいな性格だと特に意識します。プライベートではいいかもしれませんが、会社や社会というパブリックな場面では耐えられそうもありません」
田村さんが言った。
「そこまで大げさに考えなくてもいいよ。カラーリングをもっと身近にしたいな」
佐伯課長が言った。
「アジアンビューティーを追求したいですね。アジア人しかないもの、日本人しかないもの。絶対あるはずです。他の国に負けない何かが。短所をカバーするのではなく、長所を伸ばしていく何かです」
わたしが言った。
「亜仁場さんが言うように、黒を追求してみようか。黒への回帰は来るような気がする。日本人に一番合うのは黒かもしれない。持って生まれたものだからね」
権藤課長が言った。
しばらく沈黙が続いていたけれど、黒回帰への方向で会議は終わった。
それから数週間は、黒髪へのアンケート調査や企画書づくりで忙しい日々をおくった。
企画書づくりが進むなか、社員旅行の日が近づいてきた。仕事に追われていると、あっという間に時間が過ぎていく。こんな感覚で歳をとっていくのかなとも思ってしまう。それと、社員旅行の直前になると、キャンセルする社員が必ず出てくる。仕事の都合で行けなくなる人たちだ。工夫をすれば行けるのだろうけれど、行きたくない気持ちがあるから、そのまま流れてしまうのだなって思う。わたしも、どちらかと言うと積極派でない。積極派でないわたしは、旅行をキャンセルする理由を用意周到に考えることも苦手なので、なんとなく参加しているような感じだ。まわりの人たちとのコミュニケーションも大切だとも思うから、前向きにも考える。
「あさり」
「えっ。あ、かおり」
「ちょっといい」
かおりが声をかけてきた。ちょっと不安そうな顔をしていた。かおりはわたしを社外に連れ出して、一呼吸おいて言った。
「わたしに対する上野さんの猜疑心がどんどん強くなっているのよ」
「だから、そうでしょ。よほど鈍感な人でない限り、わかっちゃうわよ」
「そうかな。細かいことを気にする人じゃないと思っていたのに」
「それとこれとは別じゃない? 男女の関係って、ちょっとしたニュアンスでビビッとくるものがあるのよ」
「あさりにそう言われるとは思わなかった」
「なにそれ、かおりのことを考えているのに」
「あ、ごめん、ごめん。この前なんか、家に突然来るからびっくりしちゃった。平日の夜だったから、わたしも家にいたんだけど、誰かといっしょにいるのかと思ったのかな」
「電話じゃ、信用できないんじゃないの。そうなったら、すべてが言い訳に聞こえるんじゃないの。かおりもハッキリさせなくちゃ。とりかえしのつかないことになる前にね」
「器用に付き合っている人っているじゃない?」
「でも、同時に真剣にふたりと付き合っている人って少ないわよ。どちらかが事情を知っているか、本気じゃないかだと思うのよ。それにしても、かおりはどうなの。どちらと本気で付き合いたいの。結婚する気はあるの」
わたしが言った後、かおりは少し黙っていた。
「わたしみたいな生き方って、いけないのかしら」
「相手があることだから、だと思うの」
それから、二週間経って、社員旅行の日がやってきた。集合は羽田空港、札幌一泊二日の旅だ。空港ロビーには、あわただしく人々が行き交っていた。ビジネスの人たちは、どこかピリピリ張りつめた表情をしている。旅に出かけようとしている人たちはやわらかな表情で会話を楽しんでいる。わたしの会社の人たちも、普段とは違う顔をしている。緊張感で張りつめた表情ではなく、どことなくやわらかな表情。きっと、家庭でもそんな表情をしていそうな自然な雰囲気が漂っている。ふと見ると、望月さんの表情もやわらかい。普段の近づきがたい印象とは違う。人間は本質的にはやさしい動物なんだと思ってしまう。仕事モードだと、常に何かと戦っているから、やわらかくなれないんだ。わたしもそうかもしれない。
飛行機を見て思い出したことがある。車と飛行機のスピード競争をやっていたこと。車はF1で走っているような形のもので、飛行機は戦闘機だった。確か六百メートルの距離とそれ以上の距離の二種類の競争だった。結果は、六百メートルでは車が勝った。それ以上の種目では飛行機に軍配が上がった。テレビに映った動きを見ていたけれど、車がこんなにも速く走れるなんてびっくりした。ロケットが水平に飛んでいく感じがした。ドライバーの目には風景がどんな感じで流れていくのだろうかと思ったものだ。わたしだったら、走りきる前にコースから外れてしまうに違いない。
「なにぼーっとしてるのよ」
かおりが声をかけてきた。
「えっ」
「搭乗時間よ」
かおりはいつもの変わらず軽快だ。
「わかった」
わたしたちは、札幌行きの便に乗るため、搭乗ゲートに向かった。
「旅行中は仕事のことを忘れて、ぱーっといこうよ」
かおりが弾けた。
「そうだね」
わたしもなんとなく同調した。後ろを見ると、権藤課長は佐伯課長たちといっしょに歩いている。望月さんはひとりで颯爽と歩いている。上野さんは同僚と話しながら歩いている。上野さんは、ここではかおりのことが気にならないらしい。かおりに対する視線も自然な感じで流れている。休戦状態だ。ほっとしている。あえて無視するのも社員旅行の鉄則、いや暗黙の了解かもしれない。べたべたするのもされるのも、いい印象を与えないし、受けないからだ。
知り合いに聞いた話で、同じ営業所内で社員同士が結婚したところ、しばらくしてどちらかが転勤になったというのがある。社内恋愛禁止と表向きに言っている会社はないと思うけれど、感情的に違和感を抱く環境というか社風がまれにあるのかもしれない。わたしたちの会社は自由な雰囲気だ。まわりを見ても社内結婚はちらほらある。
千歳空港に着いて、一行はそこからバスで札幌へ向い、観光スポットを二ヵ所まわってから、宿泊する旅館に着いた。その旅館は、団体客を想定しているのか、大型の観光バスが何台も駐車できそうで、とても大きく、研修施設のようでもあった。入り口も大きく、スタッフが一列に並んで、わたしたちを迎えてくれた。宴会までには一時間あるので、わたしたちは温泉に入ることにした。部屋に着いて、中を見てみると、和洋折衷のつくりだ。ツインベッドの洋室と六畳の和室が融合したタイプで、リゾートの雰囲気を漂わせている。この部屋には、わたしとかおりと、後輩のふたりが泊まることになっている。荷物を置いて、露天風呂に行くことにした。旅館は増築を繰り返したこともあって、お風呂場をはじめ、食堂や娯楽場などを結ぶ通路が迷路のようになっている。都会のオフィスビルのようにきちっと区画された通路に慣れ親しんでいると、違和感というより、異国に迷い込んだような情緒を感じる。最初から計画されたものではなく、後から加えていく手づくりのような雰囲気を感じさせるからかもしれない。お風呂場につながる通路を進むと、温泉独特の匂いがする。匂いというよりも香りかな。からだにまとい始める香りが少しずつ心を鎮めてくれそう。
お風呂から出る頃には、旅館のスタッフが宴会場の準備を終える頃だった。各宴会場を見ると、一の膳がきちんと並べられていた。わたしたちは身づくろいをするため、部屋に戻った。あらためて部屋を見ると、はじめは気づかなかったけれど、洋室と和室の境目に段差がないのだ。よくあるのは、和室の障子の敷居が高くなっているつくりだったような気がした。かおりに聞いてみると、こう言った。
「これは、バリアフリーの発想よ。お年寄りやからだの不自由な人が、つまずいて転ぶことがないように、段差をなくした設計なのよ。最近、よくあるわよ」
「あっ。バリアフリーね。新聞や雑誌広告で聞いたことがあるけれど、これが実際のバリアフリーなのね」
「今でも、段差をつくって、デザイン的に空間を仕切るようなやり方もあると思うわ。どちらがいい悪いじゃなくてね。デザインや機能としてはどちらも存在するのよ」
宴会の時間になった。わたしたちは宴会場に向かった。わたしにとって宴会とは、おいしいものが食べられるうれしさと、会社の儀式のような堅苦しさが入り混じっている感覚がある。席順が決まっているので、そう感じるのかもしれない。わたしは席順にしたがって、後のほうに座った。部長のあいさつがあって、そして乾杯。しばらく食べることに集中。会場のあちこちから話し声が沸き始める。わたしもいつもと同じようにかおりとおしゃべり。おいしい料理のうれしさと、ほろ酔い気分も重なって、すこし解放的な気分になってきた。
「かおり。付き合いはどうなっているの」
わたしは、商社マンのとのことが気になって聞いてみた。
「そうね。いい感じなのかな」
お酒が入っているせいなのか、かおりは満面の笑みで返事をした。
「いい感じ?」
「向こうは結婚したがっているみたい。会うたびにプレゼントはくれるし、それもブランド品。わたしが気に入っているものを言うと、次会うときに用意してくれるのよ。たぶん、わたしをつなぎ止めようとしているんでしょうけれど、悪い気はしないじゃん。人柄も悪くないし……そういう気分でもあるのよ」
「上野さんのことはどうするの」
「うん」
かおりは何かを考えているようで、消化しきれない課題があるような表情と口調で、含みを持たせた。
「ふたりと真剣に付き合うなんて無理でしょ?」
わたしはさりげなく聞いてみた。
「そうなのよ。でもいいものは手に入れたいし、どうなるのかな」
「なりゆきにまかせるつもりなの。わたしは反対」
しばらく沈黙が続いた。わたしはふと上野さんの方に視線を向けてみた。上野さんは同僚と楽しそうにお酒を飲んでいた。わたしから見ても、会社から見ても、かおりと上野さんの結びつきは強いように思える。かおりはどう思っているのだろう。まわりがそう見ているとは思っていないのだろうか。かおりが商社マンを選べば、上野さんとも会社ともギクシャクするに決まっている。かおりがそのことを考えないはずはない。それでもまだ決めかねているということは、何かが引っかかっているのだろうか。
「なりゆきにはするつもりはないわ。なりゆきにするつもりはね。でも、向こうからやってくるものを拒む理由はあるかしら。求められているのに、わざわざ。もったいないでしょ」
「もったいない?」
「出会いは大切にしたいじゃない。だから、今が一番いいとき」
「確かに出会いは大切だけれど、結婚となると違うんじゃない」
「同じよ。最終的にはひとり。でも、わたしはギリギリで生きていく。っていうか楽しみたいの。今は独身だから、なんの罪もないでしょ。それより、前にも言ったように、あさりも楽しまなきゃ」
「付き合うとか、別れるとかは、今はかおりの自由だからいいけれど、結婚が絡んでくるんだからこの先は慎重に考えなよ」
わたしがそれだけ言うと、かおりは半分納得したような表情を見せながら、お酒を注ぎに上座のほうに歩き出した。わたしがひとりで食べていると、しばらくして人の気配がした。横を向くと、望月さんが赤くなった顔で笑っていた。
「亜仁場さん。さあ、どうぞ」
いつもはあまり愛想がいいとはいえない望月さんが、酔っ払っているのか、機嫌のいい振る舞いでビールを注いでくれた。
「ありがとうございます」
「そんな、肩肘張らなくてもいいじゃない。飲みましょう」
ほんとうに酔っ払っているみたいで、上機嫌な望月さん。
「お酒好きなんですか」
「まあ、少しはね。それより、わたしのこと怖いと思っているでしょ」
「いえ。そんなこと」
ほぼ当っているので、それ以上の言葉が出なかった。
「ちゃんと顔に書いてあるわよ。それより、わたしが不倫してたの知ってたでしょ」
ドキリとした。わたしが黙っていたので続けて言った。
「もうとっくに別れたわよ。男って、だんだんしつこくなるのね。だから、嫌になって」
少しろれつが回らなくなりながらも、望月さんは力を込めて言った。
「そうですか」
「そうですかって、他人事じゃないのよ。実は、わたしも臆病になっているのかもしれない。どういうことかわかる。それはね、相手がわたしに対してかなり好意的であっても、わたしはつかず離れずがいいの。というのは、結婚前提とかじゃなくて、付き合った人は何人もいるわ。自慢するわけじゃないけどね。でもね、すべてを許しちゃうとさ、はっきり言って、からだを許しちゃうとさ、みんな同じなのよ。みんな俺の女みたいな扱いをするのよ。ふたりのときもそうだし、他人がいるときもそうだしね。女は所有物じゃないんだから、そういうのは嫌よね。わかるでしょ」
望月さんは、普段と違って、感情的な口調でわたしに語ってくれた。望月さんを人間として少し理解できたように感じた。そして、どうして男性に対して線を引くようになったのか少しわかった。
「上野さんを鈴木さんに取られたとき、最初は悔しかったわよ。上野さんを取られたこともそうだけど、鈴木さんに取られたことのほうが悔しかった。勝負に負けたことが悔しかった。でも数ヵ月して、だいぶ落ち着いた頃、上野さんのことほんとに好きだったのかなって考えたとき、そうじゃなかったのかなとも思えるようになった。取る、取られたという感情の上に、上野さんが乗っかっていたのかなって思ったの。だから今は、上野さんに悪いと思っている。前に、亜仁場さんと立ち話したときがあったじゃない。それで、わたしが上野さんと鈴木さんのこと聞いたこと憶えている?」
「憶えています」
「なんで聞いたと思う? それはね、鈴木さんがわたしに似ているような気がしたから。性格的に。鈴木さんもわたしと同じように思っているような気がしてね。上野さんのことが好きだという感情よりも、わたしに取られたくない気持ちの方が強いんじゃないかと。上野さんは女に対しては誠実な人なのよ。相手の気持ちをフィルターを通さないで純粋に受け取る人だと思う。相手の不純な動機なんか汲み取れそうもない。鈴木さんにとって、わたしがいなくなったとき、上野さんを純粋に好きになれるかどうかということね。だからあのとき、亜仁場さんにふたりのことを聞いてみたのよ」
望月さんがわたしに熱く語った。
あのときの望月さんの気持ちが理解できた。普段、仕事で毎日顔を合わせていても、望月さんのことがわからなかった。お酒のせいもあって、本音が聞けた。わたしがかおりを見ている目と、望月さんがかおりを見ている目が一致したように感じた。でも、友だちとして、かおりのすべてを言えない。
「そうだったんですか。あのとき、なぜわたしに聞いてきたのかなって思っていたんです。ただ、わたしもふたりの関係はよくわからなかったんです」
「そうかもしれないわ。男と女の関係なんて、当人しかわからないものよね。でも、女から見ると、上野さんはこれといったワンポイントの魅力はないけれど、イザとなったときにサポートしてくれそうな魅力があるのよね。包容力みたいな。逆に、そこがいいように扱われちゃうところの危険性もあるのよね。だから、サブキープみたいな要素もあるのかなってね。わたしが言うと負け惜しみみたいに聞こえるかもしれないけど、鈴木さんも同じこと思ってないかってね。亜仁場さんは、ふたりはいっしょになると思う?」
わたしは返事に困った。望月さんに見透かされているような気がして、嘘を言える雰囲気でもないし、本音も言えない。
「わたしもほんとうにわからないんです」
今の最良の答えを言葉にした。
「それはそうと、亜仁場さんはそういう話はないの。あまり聞かないわよね。鈴木さんと同い年でしょ。付き合っている人はいるんでしょ」
わたしの目を覗き込むように、望月さんは聞いてきた。
「友だち付き合い程度ならいます」
望月さんがいろいろ本音を語ってくれたので、まったくの嘘を言うのは忍びない気がして、そう言った。
「そういう言い方って、ずるい。でしょ。結婚とかは考えていないの」
「そんなことはぜんぜん」
「そういうことだと、振り回されるわよ。付き合ってしばらくしたら、自分で見極めなきゃダメ。結婚するのかしないのかを、自分の中ではっきり意識することよ。そうしないとズルズルいっちゃうわよ。なりゆきになって、言いなりになって、自然消滅か、さようなら。そうなっちゃうわよ。結婚するんだったら、相手にその気があるのかないのかを見極めること。ただの友だちでいたいんだったら、相手の無理な要求には突っぱねるくらいの気持ちがないと流されちゃうからね」
望月さんが一気にまくし立てた。望月さんの言うことも一理ある。でも、わたしは性格的に押しの強い方じゃないので、そんな気持ちになれない、というよりなったことがない。わたしが黙っていると、笑みを浮かべて自分の席に戻っていった。そこへ、かおりが戻ってきた。わたしと望月さんの会話を見ていたらしい。
「あさり、何を話していたの」
わたしの考え込んでいる表情を見てか、かおりが怪訝そうな顔で聞いてきた。
「付き合っている人がいるかってこと」
かおりと上野さんのことは出さず、会話の後半の話題を出した。
「そう。それにしても望月さん上機嫌に話していたわよね」
「お酒が入っていたからじゃない」
わたしは新鮮な空気が吸いたくなって、外に出てみた。まわりは虫の声しか響かない静寂な夜だった。都会の圧迫した空気と違って、透明感にあふれた空間の中に身を置くと、まわりの空気のやわらかさに包まれ、呼吸を楽にしてくれた。胸に突っかかっていた何かがすうっと夜空に吸い込まれていくのを感じた。征治さんに会いたい。そう思った。
背中に人の気配がするので、振り返るとかおりが立っていた。
「あさり。急に神妙な顔してどうしたの。望月さんに何か言われたの」
「ちょっとね」
「どうしたの」
夜空を見ていると素直な気分になれそうだった。
「付き合うからにはあやふやな態度じゃだめだってこと」
「そんなこと言ってたの」
「付き合ってしばらくしたら、結婚するのかしないのかを、自分の中ではっきり意識しないと、ズルズルいっちゃうからだって」
「まあ、人それぞれじゃない。付き合う時間の長さで決まるわけじゃないしね。自分の中ではっきり意識するには、ビビッとくるものがあるかないかだから、瞬間でわかる場合もあるし、時間をかけてもわからない場合もあるから、そのことで悩んでも仕方ないじゃない」
「それはそうだけれど。わたしの性格的なところを指摘されたようでもあるから。押しの強さはないからね」
「それが、あさりの性格よ。押しの強さで世の中のすべてが動いているわけではないしね。スローライフもあり、スローラブもあり」
「スローラブか。いい言葉ね。かおりの口から出るとは思わなかった」
「わたしだって、相手によってはスローラブのときもあるわよ。今はどうかなあ」
「今のかおりは……わたしにもわからない」
かおりと話していると、肩の力が抜けていく感じがした。友だちっていいもんだと思った。
ふたりで宴会場に戻ると、宴もたけなわ。座敷だから、会社の人たちが飲みながら、あちこちに移動している。わたしたちの席も占領されていて、料理の残りを食べるといった雰囲気ではない。わたしたちは自分たちに部屋に戻ることにした。
「どこの会社でもそうなんでしょうけれど、飲むとすごいよね。はちゃめちゃになっちゃう。権藤課長や佐伯課長も普通のおじさんになっちゃうよね」
わたしは、半分あきれて、半分おかしくて、そう言った。
「これが会社の宴会というもの。前の会社のときもそうだった。似たりよったり」
「ビデオにでも撮って、後で見せてあげたいね」
「あさり。わたしのことどう思ってる」
「えっ。どう思ってるって」
「人間として。ずるいと思ってるでしょ」
かおりはニコニコしながら言った。
「そんなことは思ってないわ。仕事に取り組む姿勢は完璧だし、わたしは足もとに及ばないと思っている。男の人との付き合いについては、ずるいというよりもハラハラしちゃう。こっちから見て気が気でない。ひと言で言えば、危なっかしい」
「危なっかしいか。そうかもしれないな。それを楽しんでいるのかもしれない。刺激がほしいのね自分自身に、きっと」
「めずらしいね。あっさり認めちゃうんだ」
「透き通った夜空を見ているとそんな気分になっちゃったみたい」
「空、きれいだったよね」
「あさり、仕事おもしろい?」
「とにかく、前に進めてるって感じかな」
「それ以外は?」
「それ以外?」
「あさり、わたしはね、仕事に対する取り組み方が少し違うかもしれない。職場に対してかな。あさりは正社員で、入社してからここにいるよね。わたしは派遣から正社員になった。前の会社は派遣のままだった。人材派遣会社に登録して、スキルに応じていろいろな会社に期間を定めて派遣されたり、正社員への予定を含めて派遣されたりするのよ。それで、スキルを研くための研修があってね、そこで知り合った人たちと話す機会があって、いろいろ聞いたのよ。派遣社員は自分のスキルを存分に発揮したい人たちが多いと思うでしょ。実際に多いんだけど、意外と多かったのは、なんと相手探し」
「相手探しって、結婚相手のこと?」
「そう正解。新卒で希望の会社に入れなかった人たちや、はじめから派遣を希望して、狙ったところに入るパターンがある。ある三十半ばの人が言っていたのは、あなたの年齢のときは、つまりわたしの年齢ね、スキルで仕事を切り拓いていこうと思っていたらしいの。でも、同年代の人たちが結婚してそれなりの生活をしているのを聞くうちに、それまで独身でもいいから誰にも束縛されず、自由に生きたいっていう気持ちがあったんだけど、その気持ちが少しずつ薄れてきたらしいの。誰かに寄りかかりたい。誰かに寄りかかって、自由に生きたい……そんな気持ち」
「誰かに寄りかかって、自由に生きたい?」
「わたしはそのときは理解はできても、気持ちはわからなかった。でも、いろいろと話してみると、まわりに何人もいるのよ。そういう考えの人たちが。異口同音に言うには、あなたもそのうちわかるときがくるからっていうこと。そして、ずるくなった方がいいわよって言われた」
「ずるくなる?」
「欲張りなさいとね。スキルを武器にして、やりたいことで稼いで自由に生きるのもひとつ。それと並行して、将来有望な人を見つけて結婚する道をさぐるのもひとつ。同時進行が大切。年齢的に勝負できるものは、フルに使って生きないと後悔するわよって言われた」
「欲張らないと後悔するって、誰にも当てはまることかしら」
わたしは欲張るというと自分を見失いそうで、欲張るという生き方にピンとこなかった。
「わたしも聞いたときは他人事だと思ったわ。でもね、三十近くにもなってくると、後輩がどんどん入ってくるじゃない、仕事ではすぐに抜かれるとは思ってないけど、恋愛や結婚って人生経験と完全にリンクするものじゃないでしょ。自分のキャリアが足りなくても、相手のキャリアに乗っかれば、それはそれで成り立つじゃない。そして、それなりに暮らせるじゃない。そういうことも考えるようになってきたのよ」
「かおりがそんなこと考えているなんて想像しなかった」
わたしはかおりと毎日会っているのに、かおりのことをよく知らなかったことでショックを受けた。理解しているつもりで理解していなかった自分には何かが足りないのか。
「わたしは仕事でも負けたくないし、恋愛でも負けたくないと思ってる。最終的にどういう形になるのかは決めていなしわからないけど、生きていくうえで隙をつくりたくないだけなのよ」
「わたしって世間知らずなのかな。かおりの言っていることが普通なのかな」
かおりの説得力ある話を聞いているうちに、社会に対して幼いのではないかと思ってしまった。目の前にあるものだけを追いかけている自分にちょっぴりさみしさとふがいなさを感じた。
「あさりは、わたしがふたりの人と付き合うことに快く思ってないでしょう。前にも言ってたわよね。わたしは比較しながら付き合っているの。これって悪いことかしら。一生の伴侶になるかもしれない人を選ぶわけでしょ。どうゆう選び方をするのも自由じゃない。後悔しないためにね。いいように解釈して。器用に生きてるってことじゃダメ?」
「まあ、何事に対しても一生懸命にやってる。そんなとこでいい?」
とりあえず、打ち明けてくれたことに敬意を表して、そう答えた。仕事、恋愛、結婚……わたしの中には避けて通れない課題がべったり張り付いている。かおりのような考えじゃないと、どんどん追い抜かれていくのか。器用じゃないと何も手に入らないのか。結局は自分が損するのか。そんなことを考えながら、かおりの顔をぼんやりと見ていた。
「あさり。とにかく何に対しても主導権を握ることよ。ひるんじゃダメ。そうしたら、だんだん見えてくるわよ。歩いていく道が」
お互いに黙ったままの状態が続いた。宴会が終わったのか、しばらくして後輩で同室のふたりが戻ってきたので、その話はやめて、ふたりで温泉に入りに行った。
次の朝、午前の自由時間を過ごして、午後の便で東京へ向かった。
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赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
遅れてきた先生
kitamitio
現代文学
中学校の卒業が義務教育を終えるということにはどんな意味があるのだろう。
大学を卒業したが教員採用試験に合格できないまま、何年もの間臨時採用教師として中学校に勤務する北田道生。「正規」の先生たち以上にいろんな学校のいろんな先生達や、いろんな生徒達に接することで見えてきた「中学校のあるべき姿」に思いを深めていく主人公の生き方を描いています。
六華 snow crystal 5
なごみ
現代文学
雪の街、札幌を舞台にした医療系純愛小説。part 5
沖縄で娘を産んだ有紀が札幌に戻ってきた。娘の名前は美冬。
雪のかけらみたいに綺麗な子。
修二さんにひと目でいいから見せてあげたいな。だけどそれは、許されないことだよね。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
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