6 / 12
ふたりの時間
しおりを挟む
土曜日の朝、いつもより二時間遅く起きた。寝覚めたというより、目覚まし時計をセットして起きた。休日も目覚ましをセットするようになったのにはワケがある。用事がないときでもセットする。雑誌で見た記事でこんなことが書いてあった。
〈……睡眠のリズムは崩さない方がいいですね。睡眠のリズムが崩れると、休み明けの出勤時がよけいに気だるく感じてしまうのです。憂鬱になってしまう要因のひとつです。睡眠のリズムを崩さないためには、休日の起床時間を普段の起床時間の二時間増しにしておいた方がいいでしょう。個人差もありますが、リズムを整えることができます。寝不足気味なら昼寝をすればいいでしょう。……〉
この記事を読んで以来、わたしは実行してきた。なんとなく体調がいいような感じがする。二十五歳を過ぎてから、美容や健康についての情報に敏感になっているので、簡単で効果がありそうなことは取り入れるようになった。ただし、運動系はだめ。運動はからだにいいことはわかっているし、食事制限だけのダイエットよりも健康的なのもわかっている。ただ、実際にからだを動かして、呼吸がばたばたして苦しくなってくるともうだめ。こんな苦しい思いをしてまで、続けたいとは思わないのだ。きっと、からだが運動に向いていないのだ。
征治さんと会うのは久しぶりだ。会おうと思えば会えるけれど、最近は電話で用件を済ませてしまうことが多く、会わずに完結してしまう。今日は、顔を見たかったので、わたしから誘った。電話では、百パーセントのコミュニケーションがとれないから、どこかはがゆさが残った。ひとり暮らしだと、電話を切ったあとのさみしさに似た余韻が部屋に充満していく。やはり、ストレスがたまっているときとか、落ち込んだときは人と会うのが基本に思える。人恋しくなるから。
いつも会うときは、映画を観ることが多かった。人と会うには手っ取り早い口実になる。見たい映画があって、ひとりじゃなんとなくさみしいときも、誰かを誘えばその気持ちを補えるし、楽しみや感動も共有できるのはいい。それと、コミュニケーションがぎこちないふたりの関係を緩和する意味でも効果がある。スクリーンを見ていれば、無理にしゃべらなくてもいいし、間が持つから、いっしょにいるだけで楽しいときは、映画鑑賞は最高だ。ただ、これが繰り返されるとむなしくなる。話したいことや相談したいことがあっても、すぐに話せない。何のために会っているのか、それがむなしい。そんなことで、今日会うときはじっくり話したいと思ったので、映画鑑賞はやめようとわたしから言った。そうしないと、今までの流れから映画を観ることになってしまうから。今日は、じっくり話したい。
待ち合わせの場所に行くために、いつもの通勤電車に乗り、視線を外に伸ばして流れる景色に意識をまかせた。何度も経験することだけど、通勤で電車に乗っているときに見えなかったものが見えてくる現象が起こる。通勤時では、車窓を通して入ってくる街や人、車が無機質な画像でしかなかったものが、プライベートな時間の中では車窓を通した景色が網膜にしっかりと到達する。建物や人のディテールが鮮明に映り込むのだ。自分が住んでいる街の表情が読み取れる。それだけでうれしくなってしまう。通勤電車のわたしでないわたしがいるのだ。
今日の待ち合わせ場所は、近年あちこちで見られる都心の再開発エリア。東京に住む前に、その街を歩いたことがあったが、車がやっと通れる程度の幅しかない道が多く、車の音が近づいてくるたびにドキッとした記憶がある。今はすっかり変わって、高層ビルに大きな広場、レストラン、アミューズメントスポット、緑を生かしたスペースなどが空間を活かして配置されている。まさに人々が憩う街づくりの典型だ。ひとつだけ気になっているのは、高層ビルのデザイン。その威圧的なシルエットは正面に近いところから見ると、そこに集う人たちを見下ろしているような錯覚さえ覚える。意図的ではないと思うけれど、人にやさしさを投げかけているとは思えない。再開発の象徴ここにあり、みたいな存在感である。訪れる人よりも、そこに居る人を中心に考えてつくっている気がするのは、わたしだけだろうか。
待ち合わせ場所は、庭園の一角、人通りの少ないところ。緑があれば、多少待たされても平気なので、待ち合わせ場所のまわりで緑があればそこを選ぶことにしている。人と会うことは、その人をよく知っていても、待ち合わせるたび、少しドキドキする。前に会ったときと同じ顔の人はいない。会うたびに違う表情を見せてくれる。いい表情をしているとこっちまでいい気分になるから、人と会うことは人生の楽しみ。一期一会という言葉があるけれど、ほんとうにその瞬間を大切にしたいとずっと思っている。東京でひとり暮らしをしてからそんな気持ちが続いている。男性でも女性でも、人とどこかでつながっていたい、わたし。
庭園と高層ビルをつなぐ広場の人波から、見覚えのあるシルエットが近づいてくる。きっと、征治さんだ。遠くからでもなんとなくわかる。歩き方でその人なりが出るものだ。約束の時間の五分前には来る。わたしはだいたい十分前だから、わたしがいつもだいたい五分待つ。
「やあ、久しぶり」
征治さんがさわやかな表情で言った。
「こんにちは。久しぶり。お茶しようか」
わたしたちは庭園のまわりを少し歩きながら、高層ビルの隣に建つショッピングアーケードに向かった。
「あさりは、こういう場所にけっこう来るの」
「うんん。そんなに来ない。街としてはきれいだと思うんだけど、人をやさしく包み込む感じがしないから、こういう場所はたまに来るだけ。ひとりじゃさみしいでしょ。征治さんはどうなの」
「僕も苦手だな。雑居ビルが並ぶ街にいることが多いね。落ち着くし」
「雑居ビル?」
「事務所が雑居ビルだから、毎日いるわけだけどね。ははっ」
ショッピングアーケードのエントランス脇のオープンカフェにわたしたちは入った。飲み物を注文し、お店の人が去ったあと、征治さんが静かに口を開いた。
「元気でやってる?」
「元気なのか、元気じゃないのかわからない。ばたばたして、気持ちが追いついてこないことが多いみたい」
「今いくつだっけ」
「二十八」
「その年齢だと、いろいろと覚えなきゃならないことって多いよな。だから、忙しい毎日の中で、からだと気持ちが一致してこないことはあるよ。僕も二十八のときは、仕事をこなせばこなすほど、わからないことがどんどん増えて、よく壁にぶつかったもんだ」
「言われたことをこなすのが精一杯。それも満足にできているかどうか……。」
「そう思うことでいいんだよ」
「えっ」
「与えられたことに満足している人はそんなこと言わないよ。その時点で満足しているから、なんの疑問も抱かない。あさりは、今を満足していないから、疑問が生じるんだよ。自分に対する疑問は、完全な答えに到達するとは限らないけれど、ヒントを必ず連れてくる。そんなに焦らなくてもいいよ。とにかく、与えられたことに全力投球だ」
「そうかな」
「僕なんかその年齢の頃は、仕事が終わったらとにかく飲みに行ったね。そのとき会社勤めだったから、同じ会社の人たちといっしょに行くことが多かった。たまに学生時代の友だちと行くとかね。居酒屋で飲んで食って、そしてカラオケ。飲んで、歌えばストレスを発散できたな。あの頃は。出勤の朝には、リセットされた自分がいたな。それに、自分に満足しているかどうかなんて考えていなかったな。そういう意味では、あさりの方がちゃんとしているよ」
「わたし、考え込んじゃうタイプなのかもしれない。仕事でもなんでもそうなんだけど、人からいろいろ言われてしまうと、間違ったことやっているのかなと、すぐに落ち込んでしまうからね。自覚はあるのに、なかなか抜け出せない」
「まあ、人間はそんなに強くないから、なかなか思うようにはいかないよ。生きていくうえでは他人も絡んでくるからな」
征治さんの声が途切れあと、わたしは視線を少し伸ばした。わたしより若そうな夫婦がベビーカーを押している姿が視界に飛び込んできた。わたしより若くて、結婚して、子どもがいる。家族の典型的な風景だ。目標? 憧れ? 今はよくわからない。でも、気になるっていうことは、意識しているのかな。結婚はめぐりあうタイミングもあるし、相性もある。早いか遅いかでは測れないものだ。結婚には適齢期がある。適齢期があるっていうことはどういうこと。外れてはいけないものなの。目標としなければならないものなの。
「そういえば、征治さんの仕事のこと、あまり聞いたことがないわよね」
「そうだね」
「事務所開いているんでしょ」
「うん。新大久保で行政書士の事務所を開いているよ。行政書士って、どんなことやっているのかわかる?」
「よくわからない」
「ひと言でいえば、国や役所に提出する各種の許認可申請書の作成や作成についての相談にのることかな」
「許認可申請書?」
「会社の設立書類や風俗営業などの許可申請書類、それと売買契約書、事実証明に関する書類などがある。一般の人たちがなかなかできないことを、僕たちが代わりにやるということ。法律に基づいた書類を作成することは、一般の人ではわかりにくいことが多いからね。僕たちプロが、正確かつ迅速に手続きを進めるというわけだ。日本では、行政書士に関する法律は千五百以上あるともいわれているし、作成できる書類は一万点以上あるともいわれている。それだけ業務が広範囲にわたっているということ。まあ、街の身近な法律屋さんと思ってくれればいいよ」
「街の法律屋さん? 難しそうね。弁護士とは違うの」
「弁護士とは違って、紛争の解決に尽力するということではないんだ。例えば、紛争が発生したら、その解決を図ることは時間も費用もかかってしまうよね。かっこよくいえば、行政書士は、紛争を未然に防止するために、いろいろサポートしていく予防法務を担うプロだね。申請書類などをきちんとつくることが紛争の予防につながるっていうわけだ」
「争いを未然に防ぐための専門家ね。なんとなくわかったような気がする」
「具体的に作成できる書類は、さっきも言ったように会社設立書類、養子縁組届、帰化の許可申請書、車両の通行許可手続書類、建築基準法による確認申請書。めずらしいところでは、家庭麻薬製造許可申請書やけし栽培許可申請書なんてのもある」
「いろいろあるのね」
「僕が主にやっているのは、帰化の許可申請書の作成だね。事務所の場所柄、日本以外の人たちが多いからね」
征治さんは、あまり自分のことを話さない人だった。でも今日は、いろいろ聞けてちょっとうれしくなった。
「征治さんのことが少しわかったようで、うれしい」
「えっ。まあね。あさり、あのビルの展望室に行ってみようか。東京の街を一望できるらしいから」
征治さんが、高層ビルに目を向けながら言った。
「ええ」
わたしは、残ったコーヒーを飲んで、立ち上がった。
展望室へ向かうエレベーターは混んでいた。東京に建つ展望室付きの高層ビルのほとんどのエレベーターは混んでいる。ここに限ったことではない。やはり高層ビルの売りというか、目玉というか、特長は展望室なのだろう。最新の技術を取り入れて建てられたビルそのものより、人はどこにいても自然や外の風景に触れていたいものだ。
エレベーターに乗れば、あっという間に着いてしまうが、上がっていくときの気圧の変化で耳が圧迫されるのがいやだ。少しずつ改善されてはいるけれどもまったくゼロじゃない。体調の悪いときは降りた後も不快感が続くときがある。エレベーターを降りても、たくさんの人たちがいた。あちこちで歓声を上げながら東京の風景を見ていた。わたしたちもガラス張りのスペースに近づき、下界を見下ろした。静止したミニチュア風景の中で小さな石が移動している。それは車。今度はさらに目を凝らすと、砂の粒が弱い風で吹かれているように動いている。それは人。その他のほとんどが動いていない。東京の街から外へ目を向けると、そこには山が見える。東京を囲んでいるよう見える。東京をちょっと抜け出せば、自然が広がっている。上京するまでは、自然に対する気持ちが少しも動かなかった。でも今、東京に居るわたしは、自然に対して気持ちが少し動き始めている。
「東京って狭いだろ。狭いけど、経済の中心なんだ。大企業も個人会社も切磋琢磨しながら活きている」
「狭いよね。でも、みんなここに集中している。怖くなることもある」
「怖い?」
「つぶされるんじゃないかと思うときがあるから」
「つぶされるというか、人の心が見えなくなるときがあるよ、僕にも。本心を見せていいのか、いけないのか迷っている人たちがいるのも事実。だけど、この街は来るものを拒まないというか、何でも受け入れてくれる懐の深さがある。そういう意味では、人にやさしい街といえるのかな」
「人にやさしい街? そうなのかな。ゆっくりしていると、置いて行かれそうな気分になるのよ」
「うん。孤独だとそう感じるかもしれない」
征治さんが、表情を変えずに余韻を残したままさらりと言った。
孤独か。どきりとした。孤独だから、置いて行かれそうに感じたり、さみしくなってしまったりするのかな。話し相手はいるのに孤独に感じるって、どういうことなのかな。
「征治さんは、孤独に感じることってあるの」
「……ときどきね」
征治さんは、一呼吸おいてから言った。
「そんなときはどうしているの」
「仕事に没頭するよ。よけいなことを考えずにすむからね」
「それで忘れられるの? わたしだったら、仕事に集中できたとしても、ひとりの部屋に戻ったら、その思いはぶり返してくる」
ふたりは、しばらく沈黙した。
「この街を選んだということは、この街が好きだからね。ここから街を見下ろすと、小さなことにこだわってばかりじゃ、もったいない。そんな感じがするね」
征治さんは、笑った。わたしも、ほっとした。
ふたりは、エレベーターで一階に戻ったあと、再び庭園に向かって歩いた。
「征治さん。今やっている仕事って、天職だと思う?」
「えっ。もちろん、選んでよかったよ」
征治さんはきっぱりと言った。
「サラリーマンだったんでしょ」
「うん。普通のサラリーマン。商社の営業マンだった。仕事も人間関係もそれなりに楽しかったよ。ただ、あるとき学生時代の友だちから電話があったんだ。いつもは元気で明るいヤツなんだけど、その日は落ち込んでいる様子だった。木村って言われて、しばらく沈黙があって、そうしたら“俺切られた”って言うんだ。いわゆる会社をクビになったっていうことなんだ。びっくりしたよ。何がびっくりしたって、彼はスポーツマンタイプで成績も優秀だったから、どこにいても成功すると思っていたからね。僕に足りないところを全部持っていたヤツなんだ。それが、突然クビだろ。理由を聞いたら、上との確執らしいんだ。初めのうちは、言いたいことを言い合っても、それなりの評価をもらっていた。それがだんだん煙たがれるようになり、しまいには無視されるようになった。そして、ある朝呼び出され、解雇通告だ。その理由が、“君にとっても会社にとってもこれからのいい方向を考えた。申しわけないけど、辞めてくれないか”ということだった。彼は、その瞬間、頭の中が真っ白になり、そのあと、何か言われたけれど耳に入ってこなかったらしい」
「リストラとは違うんでしょ」
「違うね。オーナー企業だったから、特定の人の意向が強く反映される。雇われている側は弱いよ。対抗するとしたら裁判しかないよ。彼は、今までやってきたことがすべて否定されたようで、悔しくて、虚しくて、どうしたらいいのかわからなくなってしまった。次の会社を決める意欲もなくて、しばらく休んでいたな」
「すべてが否定?」
「僕も、それを聞いてびっくりして、それにショックだった。社会人になってそんなに経っていないから、社会の仕組みがよくわからなかった。組織の論理というものがね。本では読んでいたが、実際にはよく理解できなかった。だから、自分の近くで不条理な出来事に遭遇したとき、うまく対応できなかったな。それで組織の中の自分というものがイメージできなくなった。そして、それから三ヵ月くらい経ったとき、独立してみようとふっと思ったんだ」
「征治さんも考えるところがあったのね」
「人間だからね。感情の動物だから、スマートにはいかないよ。僕の場合、法学部だったから、法律を活かしたい気持ちがあって行政書士を選んだ」
「よかったね。自分のやりたいことが見つかって」
「そうだね。得意分野というよりも、何が好きかなって考えただけなんだけどね」
「好きなことか。好きなことが見つかればいいよね」
「あさりだって、好きなことや興味のあることはあるだろ? 食べていけるかどうかは別として」
「うん」
わたしの好きなことって何だろうと考えたけれど、答えが間に合わなくてとりあえず返事した。
「あさり、会社の中で友だちはいる?」
「えっ。うん」
「大事にしなよ。いざというとき、助かるからね」
「うん」
「どこか行きたいところある」
征治さんが聞いてきた。でも、話しをしているだけで心地よかった。
「どこでもいいよ」
「じゃあ。ディズニーランドでも行ってみようか」
「これから?」
「パレードもあるし、まだまだだよ」
わたしたちは、地下鉄の駅へ向かった。
地下鉄からJRに乗り継いで、舞浜駅に着いた。改札口を出ると、陽が落ちかけているせいか、建物や木々の輪郭がとてもやわらかく、風景にやさしさを添えていた。わたしたちは、ディズニーランドの方向へ歩き出した。
「ここに来ると、日常を忘れられるよなあ」
征治さんは、空を見上げながら言った。
「何度も来てるの?」
「まあね」
夕方近くのこの時間だというのに、入場ゲートのまわりは人であふれていた。家族連れやカップルが多い、その中に混ざって会社帰りと思われる人たちがいる。みんな笑顔だ。笑顔が多いと、そのまわりはしあわせな雰囲気に包まれる。
「夕方に来る人たちも多いんだよ。僕なんかひとりで来たこともあるよ」
「ひとりで? それで楽しいの?」
「乗り物に乗りに来ているわけじゃないからね。パーク内を歩いているだけで、日常を忘れられるというか、ほっとするんだ。なぜか。疲れたときに、別世界に身を委ねるっていう感じかな」
「わたしだったら、ひとりじゃさみしいな。こんなにぎやかな場所にひとりでいると、よけい孤独になっちゃいそう」
「まわりと比べちゃうとそう思うかもしれない。僕の場合は、自分のペースで楽しんでいるから少しも気にならないよ。でも、今日はあさりといっしょだから、もっと楽しいかも」
「かも?」
「ははっ。まあ、パレードまで時間があるからちょっと歩いてみようか」
ふたりはしばらく歩いて、鉄道のアトラクションの前で足を止めた。
「これけっこう好きなんだよ。乗ってみよう」
そんなに混んでいなかったので、ふたりで並んだ。スタッフはテキパキとお客さんを誘導していた。元気なスタッフを見ていると、わたしまで元気になってくる。テーマパークは夢を与えるところだから、それなりの演出は必要だ。演出とわかっていても、いい意味でだまされる心地よさがいい。征治さんの表情も少しやわらかくなっている。その表情を見ていると、人には、オンとオフの切換えが必要だと気づく。普段見られない顔が見られるから。それも、いい表情の顔が。十分ほど経って、わたしたちの番がやってきた。
「これに乗ると、作り物だとわかっていても目の保養になるんだ、木々の緑とかレールに敷かれた石が人工的にレイアウトされ、動物や開拓時代の生活シーンも人工的であっても、なぜかほっとするんだ。巨大なジオラマに入り込んだ気分かな」
「だから、ひとりでも来るのね」
「まあね。ただの懐古趣味かもしれないかもね。仕事は前向きに考えながらやっているけれど、ふっと振り返りたくなるときがあるからね」
「わたしなんか、振り返ってばかりだから、どの時点が前向きなのかわからなくなっちゃう」
「あさりの場合、意識してじゃなく、プラス方向とマイナス方向が無意識に入れ替わっているのかもしれない」
「無意識に?」
「そう。僕は不器用だから、意識的に切り替えなきゃならない。あさりは、半分天然ボケが入っているからね。あははっ」
「えーっ」
「でもそれって、うらやましいよ。変な意味じゃなくてね。ストレスをまともに受けていないよ、きっと。まとも受けている人は、いつも感情が高ぶっていて、イライラしているからね。あさりは、感情の起伏がそんなに激しくないだろ」
「そんな言い方じゃ、得なのか、損なのかわからないわ」
「見方を変えれば、わかるよ」
征治さんの言っていることが、半分わかったような気がした。
アトラクションから降りると、パレードを見る人たちが場所を確保するため、ビニールシートを敷いていた。わたしたちも近くのベンチに座って、パレードを待つことにした。
「人にやさしい環境はこうでなくちゃね」
征治さんが切り出した。
「そうよね。こうゆう環境にずっといれば、やさしくなれるかな」
「かもね。住んでいる部屋を模様替えすれば、気分が変わるよ。あさりの部屋もテーマパーク風にしてみたらどう。毎日が楽しくなるかもね」
「テーマパークか。壁紙をオレンジやピンクのパステルカラー、照明はシャンデリア風、飾り窓に、ヨーロッパ調の装飾ドア……いろいろ考えるだけでも楽しいね」
「雑誌で見たけど、実際にそうした家もあったな。部屋の壁はピンクで、全体的にメルヘンチックだった。ぬいぐるみやクッションもコーディネートされていて、そこに載っている写真だけを見ていたら、テーマパーク内のショップようだった。こだわりだね。こだわり」
「こだわりね」
「こだわりがあれば、変われるよ」
しばらくすると、遠くからざわめきに混ざって軽快な音楽が流れてきた。パレードの始まりだ。わたしたちもパレードを見るため、人波に流されながら歩き始めた。音がだんだん大きくなり、パレードの先頭が近づいてきた。さらに、人波の中をくぐり抜け、パレード全体が見られる位置まで移動した。
「きれいね」
目に飛び込んでくるほどに、鮮やかできれい。
「光と音楽の最高の調和。感情にうったえてくるものがあるんだ。心が真っ白になる瞬間。世の中の嫌いなものがなくなる瞬間だ」
征治さんは、パレードに視線をロックしたまま、ひとりごとのように言った。
それからふたりは、パレードが通り過ぎるまで、ひと言もしゃべらなかった。
「洗われたよ。心が」
「よかったね」
「生きていてよかった。欲望が流されていく感じだ」
「ほんとに」
わたしは、征治さんと同じ気持ちが共有できて、しあわせだった。征治さん、ありがとう、と心の中でつぶやいた。
〈……睡眠のリズムは崩さない方がいいですね。睡眠のリズムが崩れると、休み明けの出勤時がよけいに気だるく感じてしまうのです。憂鬱になってしまう要因のひとつです。睡眠のリズムを崩さないためには、休日の起床時間を普段の起床時間の二時間増しにしておいた方がいいでしょう。個人差もありますが、リズムを整えることができます。寝不足気味なら昼寝をすればいいでしょう。……〉
この記事を読んで以来、わたしは実行してきた。なんとなく体調がいいような感じがする。二十五歳を過ぎてから、美容や健康についての情報に敏感になっているので、簡単で効果がありそうなことは取り入れるようになった。ただし、運動系はだめ。運動はからだにいいことはわかっているし、食事制限だけのダイエットよりも健康的なのもわかっている。ただ、実際にからだを動かして、呼吸がばたばたして苦しくなってくるともうだめ。こんな苦しい思いをしてまで、続けたいとは思わないのだ。きっと、からだが運動に向いていないのだ。
征治さんと会うのは久しぶりだ。会おうと思えば会えるけれど、最近は電話で用件を済ませてしまうことが多く、会わずに完結してしまう。今日は、顔を見たかったので、わたしから誘った。電話では、百パーセントのコミュニケーションがとれないから、どこかはがゆさが残った。ひとり暮らしだと、電話を切ったあとのさみしさに似た余韻が部屋に充満していく。やはり、ストレスがたまっているときとか、落ち込んだときは人と会うのが基本に思える。人恋しくなるから。
いつも会うときは、映画を観ることが多かった。人と会うには手っ取り早い口実になる。見たい映画があって、ひとりじゃなんとなくさみしいときも、誰かを誘えばその気持ちを補えるし、楽しみや感動も共有できるのはいい。それと、コミュニケーションがぎこちないふたりの関係を緩和する意味でも効果がある。スクリーンを見ていれば、無理にしゃべらなくてもいいし、間が持つから、いっしょにいるだけで楽しいときは、映画鑑賞は最高だ。ただ、これが繰り返されるとむなしくなる。話したいことや相談したいことがあっても、すぐに話せない。何のために会っているのか、それがむなしい。そんなことで、今日会うときはじっくり話したいと思ったので、映画鑑賞はやめようとわたしから言った。そうしないと、今までの流れから映画を観ることになってしまうから。今日は、じっくり話したい。
待ち合わせの場所に行くために、いつもの通勤電車に乗り、視線を外に伸ばして流れる景色に意識をまかせた。何度も経験することだけど、通勤で電車に乗っているときに見えなかったものが見えてくる現象が起こる。通勤時では、車窓を通して入ってくる街や人、車が無機質な画像でしかなかったものが、プライベートな時間の中では車窓を通した景色が網膜にしっかりと到達する。建物や人のディテールが鮮明に映り込むのだ。自分が住んでいる街の表情が読み取れる。それだけでうれしくなってしまう。通勤電車のわたしでないわたしがいるのだ。
今日の待ち合わせ場所は、近年あちこちで見られる都心の再開発エリア。東京に住む前に、その街を歩いたことがあったが、車がやっと通れる程度の幅しかない道が多く、車の音が近づいてくるたびにドキッとした記憶がある。今はすっかり変わって、高層ビルに大きな広場、レストラン、アミューズメントスポット、緑を生かしたスペースなどが空間を活かして配置されている。まさに人々が憩う街づくりの典型だ。ひとつだけ気になっているのは、高層ビルのデザイン。その威圧的なシルエットは正面に近いところから見ると、そこに集う人たちを見下ろしているような錯覚さえ覚える。意図的ではないと思うけれど、人にやさしさを投げかけているとは思えない。再開発の象徴ここにあり、みたいな存在感である。訪れる人よりも、そこに居る人を中心に考えてつくっている気がするのは、わたしだけだろうか。
待ち合わせ場所は、庭園の一角、人通りの少ないところ。緑があれば、多少待たされても平気なので、待ち合わせ場所のまわりで緑があればそこを選ぶことにしている。人と会うことは、その人をよく知っていても、待ち合わせるたび、少しドキドキする。前に会ったときと同じ顔の人はいない。会うたびに違う表情を見せてくれる。いい表情をしているとこっちまでいい気分になるから、人と会うことは人生の楽しみ。一期一会という言葉があるけれど、ほんとうにその瞬間を大切にしたいとずっと思っている。東京でひとり暮らしをしてからそんな気持ちが続いている。男性でも女性でも、人とどこかでつながっていたい、わたし。
庭園と高層ビルをつなぐ広場の人波から、見覚えのあるシルエットが近づいてくる。きっと、征治さんだ。遠くからでもなんとなくわかる。歩き方でその人なりが出るものだ。約束の時間の五分前には来る。わたしはだいたい十分前だから、わたしがいつもだいたい五分待つ。
「やあ、久しぶり」
征治さんがさわやかな表情で言った。
「こんにちは。久しぶり。お茶しようか」
わたしたちは庭園のまわりを少し歩きながら、高層ビルの隣に建つショッピングアーケードに向かった。
「あさりは、こういう場所にけっこう来るの」
「うんん。そんなに来ない。街としてはきれいだと思うんだけど、人をやさしく包み込む感じがしないから、こういう場所はたまに来るだけ。ひとりじゃさみしいでしょ。征治さんはどうなの」
「僕も苦手だな。雑居ビルが並ぶ街にいることが多いね。落ち着くし」
「雑居ビル?」
「事務所が雑居ビルだから、毎日いるわけだけどね。ははっ」
ショッピングアーケードのエントランス脇のオープンカフェにわたしたちは入った。飲み物を注文し、お店の人が去ったあと、征治さんが静かに口を開いた。
「元気でやってる?」
「元気なのか、元気じゃないのかわからない。ばたばたして、気持ちが追いついてこないことが多いみたい」
「今いくつだっけ」
「二十八」
「その年齢だと、いろいろと覚えなきゃならないことって多いよな。だから、忙しい毎日の中で、からだと気持ちが一致してこないことはあるよ。僕も二十八のときは、仕事をこなせばこなすほど、わからないことがどんどん増えて、よく壁にぶつかったもんだ」
「言われたことをこなすのが精一杯。それも満足にできているかどうか……。」
「そう思うことでいいんだよ」
「えっ」
「与えられたことに満足している人はそんなこと言わないよ。その時点で満足しているから、なんの疑問も抱かない。あさりは、今を満足していないから、疑問が生じるんだよ。自分に対する疑問は、完全な答えに到達するとは限らないけれど、ヒントを必ず連れてくる。そんなに焦らなくてもいいよ。とにかく、与えられたことに全力投球だ」
「そうかな」
「僕なんかその年齢の頃は、仕事が終わったらとにかく飲みに行ったね。そのとき会社勤めだったから、同じ会社の人たちといっしょに行くことが多かった。たまに学生時代の友だちと行くとかね。居酒屋で飲んで食って、そしてカラオケ。飲んで、歌えばストレスを発散できたな。あの頃は。出勤の朝には、リセットされた自分がいたな。それに、自分に満足しているかどうかなんて考えていなかったな。そういう意味では、あさりの方がちゃんとしているよ」
「わたし、考え込んじゃうタイプなのかもしれない。仕事でもなんでもそうなんだけど、人からいろいろ言われてしまうと、間違ったことやっているのかなと、すぐに落ち込んでしまうからね。自覚はあるのに、なかなか抜け出せない」
「まあ、人間はそんなに強くないから、なかなか思うようにはいかないよ。生きていくうえでは他人も絡んでくるからな」
征治さんの声が途切れあと、わたしは視線を少し伸ばした。わたしより若そうな夫婦がベビーカーを押している姿が視界に飛び込んできた。わたしより若くて、結婚して、子どもがいる。家族の典型的な風景だ。目標? 憧れ? 今はよくわからない。でも、気になるっていうことは、意識しているのかな。結婚はめぐりあうタイミングもあるし、相性もある。早いか遅いかでは測れないものだ。結婚には適齢期がある。適齢期があるっていうことはどういうこと。外れてはいけないものなの。目標としなければならないものなの。
「そういえば、征治さんの仕事のこと、あまり聞いたことがないわよね」
「そうだね」
「事務所開いているんでしょ」
「うん。新大久保で行政書士の事務所を開いているよ。行政書士って、どんなことやっているのかわかる?」
「よくわからない」
「ひと言でいえば、国や役所に提出する各種の許認可申請書の作成や作成についての相談にのることかな」
「許認可申請書?」
「会社の設立書類や風俗営業などの許可申請書類、それと売買契約書、事実証明に関する書類などがある。一般の人たちがなかなかできないことを、僕たちが代わりにやるということ。法律に基づいた書類を作成することは、一般の人ではわかりにくいことが多いからね。僕たちプロが、正確かつ迅速に手続きを進めるというわけだ。日本では、行政書士に関する法律は千五百以上あるともいわれているし、作成できる書類は一万点以上あるともいわれている。それだけ業務が広範囲にわたっているということ。まあ、街の身近な法律屋さんと思ってくれればいいよ」
「街の法律屋さん? 難しそうね。弁護士とは違うの」
「弁護士とは違って、紛争の解決に尽力するということではないんだ。例えば、紛争が発生したら、その解決を図ることは時間も費用もかかってしまうよね。かっこよくいえば、行政書士は、紛争を未然に防止するために、いろいろサポートしていく予防法務を担うプロだね。申請書類などをきちんとつくることが紛争の予防につながるっていうわけだ」
「争いを未然に防ぐための専門家ね。なんとなくわかったような気がする」
「具体的に作成できる書類は、さっきも言ったように会社設立書類、養子縁組届、帰化の許可申請書、車両の通行許可手続書類、建築基準法による確認申請書。めずらしいところでは、家庭麻薬製造許可申請書やけし栽培許可申請書なんてのもある」
「いろいろあるのね」
「僕が主にやっているのは、帰化の許可申請書の作成だね。事務所の場所柄、日本以外の人たちが多いからね」
征治さんは、あまり自分のことを話さない人だった。でも今日は、いろいろ聞けてちょっとうれしくなった。
「征治さんのことが少しわかったようで、うれしい」
「えっ。まあね。あさり、あのビルの展望室に行ってみようか。東京の街を一望できるらしいから」
征治さんが、高層ビルに目を向けながら言った。
「ええ」
わたしは、残ったコーヒーを飲んで、立ち上がった。
展望室へ向かうエレベーターは混んでいた。東京に建つ展望室付きの高層ビルのほとんどのエレベーターは混んでいる。ここに限ったことではない。やはり高層ビルの売りというか、目玉というか、特長は展望室なのだろう。最新の技術を取り入れて建てられたビルそのものより、人はどこにいても自然や外の風景に触れていたいものだ。
エレベーターに乗れば、あっという間に着いてしまうが、上がっていくときの気圧の変化で耳が圧迫されるのがいやだ。少しずつ改善されてはいるけれどもまったくゼロじゃない。体調の悪いときは降りた後も不快感が続くときがある。エレベーターを降りても、たくさんの人たちがいた。あちこちで歓声を上げながら東京の風景を見ていた。わたしたちもガラス張りのスペースに近づき、下界を見下ろした。静止したミニチュア風景の中で小さな石が移動している。それは車。今度はさらに目を凝らすと、砂の粒が弱い風で吹かれているように動いている。それは人。その他のほとんどが動いていない。東京の街から外へ目を向けると、そこには山が見える。東京を囲んでいるよう見える。東京をちょっと抜け出せば、自然が広がっている。上京するまでは、自然に対する気持ちが少しも動かなかった。でも今、東京に居るわたしは、自然に対して気持ちが少し動き始めている。
「東京って狭いだろ。狭いけど、経済の中心なんだ。大企業も個人会社も切磋琢磨しながら活きている」
「狭いよね。でも、みんなここに集中している。怖くなることもある」
「怖い?」
「つぶされるんじゃないかと思うときがあるから」
「つぶされるというか、人の心が見えなくなるときがあるよ、僕にも。本心を見せていいのか、いけないのか迷っている人たちがいるのも事実。だけど、この街は来るものを拒まないというか、何でも受け入れてくれる懐の深さがある。そういう意味では、人にやさしい街といえるのかな」
「人にやさしい街? そうなのかな。ゆっくりしていると、置いて行かれそうな気分になるのよ」
「うん。孤独だとそう感じるかもしれない」
征治さんが、表情を変えずに余韻を残したままさらりと言った。
孤独か。どきりとした。孤独だから、置いて行かれそうに感じたり、さみしくなってしまったりするのかな。話し相手はいるのに孤独に感じるって、どういうことなのかな。
「征治さんは、孤独に感じることってあるの」
「……ときどきね」
征治さんは、一呼吸おいてから言った。
「そんなときはどうしているの」
「仕事に没頭するよ。よけいなことを考えずにすむからね」
「それで忘れられるの? わたしだったら、仕事に集中できたとしても、ひとりの部屋に戻ったら、その思いはぶり返してくる」
ふたりは、しばらく沈黙した。
「この街を選んだということは、この街が好きだからね。ここから街を見下ろすと、小さなことにこだわってばかりじゃ、もったいない。そんな感じがするね」
征治さんは、笑った。わたしも、ほっとした。
ふたりは、エレベーターで一階に戻ったあと、再び庭園に向かって歩いた。
「征治さん。今やっている仕事って、天職だと思う?」
「えっ。もちろん、選んでよかったよ」
征治さんはきっぱりと言った。
「サラリーマンだったんでしょ」
「うん。普通のサラリーマン。商社の営業マンだった。仕事も人間関係もそれなりに楽しかったよ。ただ、あるとき学生時代の友だちから電話があったんだ。いつもは元気で明るいヤツなんだけど、その日は落ち込んでいる様子だった。木村って言われて、しばらく沈黙があって、そうしたら“俺切られた”って言うんだ。いわゆる会社をクビになったっていうことなんだ。びっくりしたよ。何がびっくりしたって、彼はスポーツマンタイプで成績も優秀だったから、どこにいても成功すると思っていたからね。僕に足りないところを全部持っていたヤツなんだ。それが、突然クビだろ。理由を聞いたら、上との確執らしいんだ。初めのうちは、言いたいことを言い合っても、それなりの評価をもらっていた。それがだんだん煙たがれるようになり、しまいには無視されるようになった。そして、ある朝呼び出され、解雇通告だ。その理由が、“君にとっても会社にとってもこれからのいい方向を考えた。申しわけないけど、辞めてくれないか”ということだった。彼は、その瞬間、頭の中が真っ白になり、そのあと、何か言われたけれど耳に入ってこなかったらしい」
「リストラとは違うんでしょ」
「違うね。オーナー企業だったから、特定の人の意向が強く反映される。雇われている側は弱いよ。対抗するとしたら裁判しかないよ。彼は、今までやってきたことがすべて否定されたようで、悔しくて、虚しくて、どうしたらいいのかわからなくなってしまった。次の会社を決める意欲もなくて、しばらく休んでいたな」
「すべてが否定?」
「僕も、それを聞いてびっくりして、それにショックだった。社会人になってそんなに経っていないから、社会の仕組みがよくわからなかった。組織の論理というものがね。本では読んでいたが、実際にはよく理解できなかった。だから、自分の近くで不条理な出来事に遭遇したとき、うまく対応できなかったな。それで組織の中の自分というものがイメージできなくなった。そして、それから三ヵ月くらい経ったとき、独立してみようとふっと思ったんだ」
「征治さんも考えるところがあったのね」
「人間だからね。感情の動物だから、スマートにはいかないよ。僕の場合、法学部だったから、法律を活かしたい気持ちがあって行政書士を選んだ」
「よかったね。自分のやりたいことが見つかって」
「そうだね。得意分野というよりも、何が好きかなって考えただけなんだけどね」
「好きなことか。好きなことが見つかればいいよね」
「あさりだって、好きなことや興味のあることはあるだろ? 食べていけるかどうかは別として」
「うん」
わたしの好きなことって何だろうと考えたけれど、答えが間に合わなくてとりあえず返事した。
「あさり、会社の中で友だちはいる?」
「えっ。うん」
「大事にしなよ。いざというとき、助かるからね」
「うん」
「どこか行きたいところある」
征治さんが聞いてきた。でも、話しをしているだけで心地よかった。
「どこでもいいよ」
「じゃあ。ディズニーランドでも行ってみようか」
「これから?」
「パレードもあるし、まだまだだよ」
わたしたちは、地下鉄の駅へ向かった。
地下鉄からJRに乗り継いで、舞浜駅に着いた。改札口を出ると、陽が落ちかけているせいか、建物や木々の輪郭がとてもやわらかく、風景にやさしさを添えていた。わたしたちは、ディズニーランドの方向へ歩き出した。
「ここに来ると、日常を忘れられるよなあ」
征治さんは、空を見上げながら言った。
「何度も来てるの?」
「まあね」
夕方近くのこの時間だというのに、入場ゲートのまわりは人であふれていた。家族連れやカップルが多い、その中に混ざって会社帰りと思われる人たちがいる。みんな笑顔だ。笑顔が多いと、そのまわりはしあわせな雰囲気に包まれる。
「夕方に来る人たちも多いんだよ。僕なんかひとりで来たこともあるよ」
「ひとりで? それで楽しいの?」
「乗り物に乗りに来ているわけじゃないからね。パーク内を歩いているだけで、日常を忘れられるというか、ほっとするんだ。なぜか。疲れたときに、別世界に身を委ねるっていう感じかな」
「わたしだったら、ひとりじゃさみしいな。こんなにぎやかな場所にひとりでいると、よけい孤独になっちゃいそう」
「まわりと比べちゃうとそう思うかもしれない。僕の場合は、自分のペースで楽しんでいるから少しも気にならないよ。でも、今日はあさりといっしょだから、もっと楽しいかも」
「かも?」
「ははっ。まあ、パレードまで時間があるからちょっと歩いてみようか」
ふたりはしばらく歩いて、鉄道のアトラクションの前で足を止めた。
「これけっこう好きなんだよ。乗ってみよう」
そんなに混んでいなかったので、ふたりで並んだ。スタッフはテキパキとお客さんを誘導していた。元気なスタッフを見ていると、わたしまで元気になってくる。テーマパークは夢を与えるところだから、それなりの演出は必要だ。演出とわかっていても、いい意味でだまされる心地よさがいい。征治さんの表情も少しやわらかくなっている。その表情を見ていると、人には、オンとオフの切換えが必要だと気づく。普段見られない顔が見られるから。それも、いい表情の顔が。十分ほど経って、わたしたちの番がやってきた。
「これに乗ると、作り物だとわかっていても目の保養になるんだ、木々の緑とかレールに敷かれた石が人工的にレイアウトされ、動物や開拓時代の生活シーンも人工的であっても、なぜかほっとするんだ。巨大なジオラマに入り込んだ気分かな」
「だから、ひとりでも来るのね」
「まあね。ただの懐古趣味かもしれないかもね。仕事は前向きに考えながらやっているけれど、ふっと振り返りたくなるときがあるからね」
「わたしなんか、振り返ってばかりだから、どの時点が前向きなのかわからなくなっちゃう」
「あさりの場合、意識してじゃなく、プラス方向とマイナス方向が無意識に入れ替わっているのかもしれない」
「無意識に?」
「そう。僕は不器用だから、意識的に切り替えなきゃならない。あさりは、半分天然ボケが入っているからね。あははっ」
「えーっ」
「でもそれって、うらやましいよ。変な意味じゃなくてね。ストレスをまともに受けていないよ、きっと。まとも受けている人は、いつも感情が高ぶっていて、イライラしているからね。あさりは、感情の起伏がそんなに激しくないだろ」
「そんな言い方じゃ、得なのか、損なのかわからないわ」
「見方を変えれば、わかるよ」
征治さんの言っていることが、半分わかったような気がした。
アトラクションから降りると、パレードを見る人たちが場所を確保するため、ビニールシートを敷いていた。わたしたちも近くのベンチに座って、パレードを待つことにした。
「人にやさしい環境はこうでなくちゃね」
征治さんが切り出した。
「そうよね。こうゆう環境にずっといれば、やさしくなれるかな」
「かもね。住んでいる部屋を模様替えすれば、気分が変わるよ。あさりの部屋もテーマパーク風にしてみたらどう。毎日が楽しくなるかもね」
「テーマパークか。壁紙をオレンジやピンクのパステルカラー、照明はシャンデリア風、飾り窓に、ヨーロッパ調の装飾ドア……いろいろ考えるだけでも楽しいね」
「雑誌で見たけど、実際にそうした家もあったな。部屋の壁はピンクで、全体的にメルヘンチックだった。ぬいぐるみやクッションもコーディネートされていて、そこに載っている写真だけを見ていたら、テーマパーク内のショップようだった。こだわりだね。こだわり」
「こだわりね」
「こだわりがあれば、変われるよ」
しばらくすると、遠くからざわめきに混ざって軽快な音楽が流れてきた。パレードの始まりだ。わたしたちもパレードを見るため、人波に流されながら歩き始めた。音がだんだん大きくなり、パレードの先頭が近づいてきた。さらに、人波の中をくぐり抜け、パレード全体が見られる位置まで移動した。
「きれいね」
目に飛び込んでくるほどに、鮮やかできれい。
「光と音楽の最高の調和。感情にうったえてくるものがあるんだ。心が真っ白になる瞬間。世の中の嫌いなものがなくなる瞬間だ」
征治さんは、パレードに視線をロックしたまま、ひとりごとのように言った。
それからふたりは、パレードが通り過ぎるまで、ひと言もしゃべらなかった。
「洗われたよ。心が」
「よかったね」
「生きていてよかった。欲望が流されていく感じだ」
「ほんとに」
わたしは、征治さんと同じ気持ちが共有できて、しあわせだった。征治さん、ありがとう、と心の中でつぶやいた。
0
お気に入りに追加
1
あなたにおすすめの小説

『脆弱能力巫女の古代女王「卑弥呼たん」門真市ニコニコ商店街に転生す!』
M‐赤井翼
現代文学
赤井です。
今回は、いつもの「ニコニコ商店街」と「こども食堂」を舞台に「邪馬台国」から「女王 卑弥呼たん」がなつ&陽菜の「こっくりさん」で召喚!
令和の世では「卑弥呼たんの特殊の能力」の「予言」も「天気予知」も「雨乞い能力」もスマホや水道の前には「過去の遺物」(´・ω・`)ショボーン。
こども食堂で「自信」を持って提供した「卑弥呼たん」にとっての最高のご馳走「塩むすび」も子供達からは「不評」…( ノД`)シクシク…。
でも、「女王 卑弥呼たん」はくじけない!
「元女王」としてのプライドをもって現代っ子に果敢にチャレンジ!
いつぞや、みんなの人気者に!
そんな「卑弥呼たん」になじんだ、こども食堂の人気者「陽葵ちゃん」に迫る魔の手…。
「陽葵ちゃん」が危機に陥った時、「古代女王 卑弥呼たん」に「怒りの電流」が流れる!
歴史マニア「赤井翼」の思う、「邪馬台国」と「卑弥呼」を思う存分に書かせてもらった「魏志倭人伝」、「古事記」、「日本書記」に「ごめんなさい!」の一作!
「歴史歪曲」と言わずに、「諸説あり」の「ひとつ」と思って「ゆるーく」読んでやってください!
もちろん最後は「ハッピーエンド」はお約束!
では、全11チャプターの「短期集中連載」ですのでよーろーひーこー!
(⋈◍>◡<◍)。✧♡
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
遅れてきた先生
kitamitio
現代文学
中学校の卒業が義務教育を終えるということにはどんな意味があるのだろう。
大学を卒業したが教員採用試験に合格できないまま、何年もの間臨時採用教師として中学校に勤務する北田道生。「正規」の先生たち以上にいろんな学校のいろんな先生達や、いろんな生徒達に接することで見えてきた「中学校のあるべき姿」に思いを深めていく主人公の生き方を描いています。

百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる