未完のクロスワード

ぬくまろ

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建前と本音

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 それから二週間経った月曜日の朝、駅から会社へ向かう途中の歩道で、わたしの背中に大きな声が貼り付いた。
「おはよう」
 かおりだった。
「あっ、おはよう。何かいいことあったみたいね。そのウキウキ感なんなの」
「きのうまた会ってきちゃった」
 普段のかおりより、一段とハイテンションだった。
「誰と」
「あのエンジニアと」
「ああ。あの人」
「きのうはドライブだったの。職業柄なのか車が好きらしく、車種は忘れたけど、ふたり乗りの赤いスポーツカーだった。おとなしそうな顔に似合わず、けっこうとばすのよね。カーブなんか、怖かったわよ」
「まあ、楽しそうね。よかったじゃない。このままうまくいったりして」
「休日の穴埋めでいいのよ」
 かおりの絶好調の足取り。そのリズムに、ふたりの会話は乗った。
 最近自分の席に座るのが苦痛になった。二週間前、かおりのプライベートな情報を提供するのを断ってからだ。望月さんの視線が以前にも増して突き刺さるのだ。自分では良くないと判断して断った。でも、望月さんにとっては、先輩として頼んだのに断るなんてと思っているに違いない。自分の席に座っていると、望月さんの視線がちくちく刺さるのがわかる。ここから逃げることができない。悪いことをしているわけじゃないのに、なんでこんな目にあわなければならないのか。情けなくて、つらい。この件は、かおりには言っていない。かおりに言って、かおりが望月さんに文句を言ったら、望月さんはわたしが告げ口をしたといって、いやがらせをするに決まっているから、この問題はこれ以上大きくしたくない。わたしの中で消化するしかないのだ。あのとき、直接話して断ればよかったのだろうが、面と向かってはいいづらく、メールで断ったのがいけなかったのだろうか。
〈きのう依頼された件、できそうもありません。申しわけありません〉
 わたしがメールで送信したら、望月さんからすぐに返信があった。
〈できないというのは、どういうわけ。いやだからということかしら〉
 そのとき、直接言えばよかったと思った。後悔した。ほんとうの気持ちを伝えるのは難しい。伝えられたとしても、相手がどう思うかは別のことだ。わたしはいつもこのことで悩んでしまう。
 それにしても、かおりはかおりで公私ともに順調にいっている。うらやましい。そんなかおりを見ていると、何事に対しても積極的に、あまり深く考えすぎない方がうまくいくような気がしてきた。わたしは考えすぎるから、前に進めないのかなあ……。
 メール着信。かおりからだ。
〈さっきの話の続き。車の運転は怖かったけれど、いろんなところに連れて行ってもらった。ドライブが趣味みたいだから、見所を知っているのよね。観光案内してもらっちゃった。全部向こう持ちでね。楽しいよ〉
 わたしはちょっと落ち込んでいたので、
〈よかったね。今はね〉
 返信した。
 かおりはほんとうに器用だ。自分でも言っていたけれど、同時進行できちゃう。上野さんは気づいていない。いや、気づいていないのだろう。男性は鈍感なのだろうか。わたしだったら気づくと思う。たぶん。
「亜仁場さん」
 はっ。その声は、もしかして。
「アンケートの結果はまだなの」
 望月さんだ。
「まだ、全部集まっていないので。集まりしだい、まとめます」
 約束の期日にはなっていなかったが、何か責められているような空気に押され、緊張して答えた。それにしても、望月さんの口調が一段と冷めたものとなった。これから先が思いやられる。

 それから一カ月が過ぎ、会社帰り、かおりといっしょになった。駅前のコーヒーチェーン店に誘われ、カウンター席に座った。かおりは、コーヒーを一口飲んで、カップを置いて、視線を壁に向け、ゆっくり口を開いた。
「あの人、返却した」
「えっ」
「あのエンジニア。ドライブしたでしょ。あれから三回会ったの。車であちこち連れて行ってもらえるのはいいんだけど、それしかないのよ。車には詳しくて、アクセルワークがどうのこうのと説明されても、よくわからないし、わたしが興味なさそうな顔をしているのに、しゃべりまくるのよね」
「返却するっていっても、ものじゃないんだから。ちゃんと断ったの」
「システムで紹介されたわけだから、相性が合わなかったら、形式的に断れるの。そこがいいところよね。知り合いからの紹介だと、そうはいかないし、知り合いとの関係もギクシャクするじゃない」
「システムだからって、結婚を前提に、真剣に入ってくる人が多いわけでしょ。やっぱり、人と人との付き合いだから、スジは通した方がいいわよ」
「いや、あれこれ言うと、勘違いされるから、シンプルイズベストよ」
「そうかな」
「まあ、それはそれとして、本題があるの。新しい人を紹介してもらっちゃった」
「えっ。もう次の人。立て続けね。気持ちの整理がついていないのに」
 わたしは、あきれてしまった。
「気持ちの整理? 別に整理しなくても次は次、これはシステムだからみんな割り切って考えているはずよ。あさり、ちょっとカタいんじゃない?」
 かおりは、当たり前だという口調で、さらりと言った。そして、続けた。
「今度の人は、商社マン。前の人は少しカタかったので、今度はやわらか系を希望してみたの」
 間を空けずに、新しい人を見つけるなんて、かおりはけっこうやり手かも。それとも、これはシステムだから、情報をインプットし、ボタンを押しさえすれば、自動的にカードが次々と提示されるのか。受け取ったカードが意にそわなかったら、返却時期はいつでもOKということが暗黙の了解だとしたら、システムとしては完璧だ。情が入り込まなければの話としては……ね。
「そのエンジニアも最初はいいと思って付き合い始めたんでしょ。三回会って、そんなに早く結果が出るの。その人なりの性格がすべてわかってしまうものなの。感情的に合うようなところはなかったの」
「興味あることが違うみたいだし、性格的に合うかどうかより、それ以前の、スタートから違っていたのよね。それより、あさりも社会経験として参加してみたら、割り切って考えたら、すごいシステムよ。待っていれば、良さそうな人を紹介してくれるわけだから。それに、年齢的にも今が売り時よ。二年経ったら、三十を越えるわけでしょ。データの世界だから、三十越えたら、向こうも躊躇するよ。男って少しでも若いのを選ぶでしょ」
 わたしは、ハッとした。三十という数字は意識しないようにしていたが、人から言われると、期限を突きつけられたようで居心地が悪い。意識しないようにしているけれど、その数字は言われたくない。だって……。
「でも、データとか情報とかですべてがわかってしまうなんておかしい」
「おかしいと言ったって、データとか情報とかはやっぱり正直なのよ。不特定多数の中から、条件が合うような人を見つけるのは、宝くじとはいかないけれどそれに近い確率よ。職場を除いてはね」
 かおりが言うように、不特定多数の中から、ピッタリの人を見つけることは至難の業かもしれない。だからといって、データで相性ピッタリの人を見つけることだって、そんなにうまくいくとは思わない。
「簡単に断って、相手は傷つかないの」
「そういうことを考えていたら、進めないわ。誰にも旬があるからね」
かおりは、自分に言い聞かせるようにつぶやいた。そして、続けた。
「無難に過ごそうとしたら、何もできない気がしない?」
「しない」
 わたしは、返せる言葉がなかったので、こう言うしかなかった。
 その日以来、かおりが発した“無難に過ごす”という言葉が頭から離れなくなった。わたしに対する励ましとしても、非難としても聞こえる。“今日も、何ごとも起こりませんように”……わたしが何気なく思っている気持ちを、他人に押し付けられたようで、自分の中で整合性がとれないまま生きていることを言われているようで、しっくりこない。無難に過ごすのは後ろ向き? いけないこと? 旬の年齢って他人が決めること? ……解決できない問題が頭の中をぐるぐるまわる。

 こんなわたしは恋愛について苦い経験がある。初恋は小学生だったが、それは異性を友だちとして好きになったということに過ぎない。異性を恋人として強く意識したのは高校一年生のときだ。男女共学だったので、異性を常に意識する環境にいたということになる。それだから、自然とカップルがあちこちにできる。男女共学の中でもオープンな環境だったと振り返ると、そう思う。先生の考え方がそうであったので、校風が自由な雰囲気で包まれていた。ただ、面と向かっては言いづらいので、グループ交際がメインとなって、そこから自然とカップルになるのだ。ここまでは、ありがちなパターンだ。
 初期の段階では、数字で割り切りようにカップルもきれいに分かれて成立していたが、人の気持ちは変化するし、ましてや思春期なので、めまぐるしく気持ちが変わる。興味の対象が次々と変わる。それがわたしの場合、性格的にも押しが強くなかったこともあり、けっこう告白されることが多く、友だち感覚の延長として、相手を変えていた。悪気があったわけじゃなく、ただ友だちとして、おしゃべりをしたり映画を見たりして楽しむことが好きだった。そして、そんなにコロコロ相手を変えるわたしを見て、同性として面白くない人たちが出てきた。わたしも逆の立場だったらその人たちの気持ちを理解できたのかもしれないが、そのときはそんな余裕もなかった。
 それが原因で無視されるようになり、孤立してしまったことがあった。学校では同性はとても重要な存在で、励ましあったり、支えあったり、異性とは違った意味で、生きていくうえでの強力なサポーターなのに、そのサポーターに無視されたわたしはとてもつらい思いをした。さらに拍車をかけたのは、付き合っている男の子たちの行動。その付き合いの流れの中で、からだを求めてくることが多く、拒絶反応が出た。わたしは会っておしゃべりしたり、喫茶店に行って甘いものを食べたりするだけで、その日が楽しい人種であるのに、相手は違うスタンスの人が多いことに気づき、そして落胆した。異性に対して、ほんのちょっぴりだけど嫌悪感を抱くようになった。同性からは無視され、異性にはそういう気持ちが芽生え、どうしようもない時期があった。それ以来、人を好きになることがちょっと臆病になった気がする。手紙をもらったり、声をかけてくれたりして、アプローチは歳相応にあるけれど、踏み込めない状態……それが今のわたしかも。
「かおり、あせっている気がするんだけど」
「何が」
「紹介されて、別れて、またすぐに紹介されて。それに、三十歳までにあと二年と言っているしね」
「ちょっと待って。あさりは、時間的な尺度でしかわたしを見ていないのよ。誰だって初対面の人はどういう人かはすぐにはわからないし、会ってみないと相性はわからない。その結果、相性が合わなかったら、別れるのは当然でしょ。それに三十歳までに二年と言ったのは、三十歳を過ぎるとプロフィールが不利になるからね。少しでも有利な方がいいじゃない。あせっているんじゃなくて、当てはめているだけよ」
 かおりは主張したが、わたしには少し無理があるような口調に感じた。
「そう。でも上野さんの存在がどこにもないような気がする。気のせいかな」
「そんなことないよ。わたしに中で、くっきりした枠の中で考えているから、見失うことはないよ」
 かおりはよくわからないことを言ったが、わたしはそれ以上追求しなかった。
帰りの地下鉄の中で揺られながら、車内広告をただ見ていた。今まで気づかなかったが、週刊誌や月刊誌の中吊り広告と同じくらいの割合で、結婚式場の案内広告があった。日々、視界には入っていたんだろう、でも、目の中、頭の中には入っていなかった。しあわせそうな花嫁の写真。ウエディングドレスも華やかだ。わたしも憧れているし、結婚して、しあわせになりたいと思っているグループだ。自分で積極的にさがしに行くのか、ビビッとくる人が現れるまで待つのか、人によってそれぞれだろうが、わたしの頭の中にはそれ以上のものはインプットされていない。
 ふと耳を澄ますと、女性どうしの話し声、会社帰りの仲良しどうしのふたりだろうか。結婚式場の広告を見ながら話している。
『しあわせそうだったね』
『そうね。話では聞いていたけど、初めて会った感じでは、お似合いのふたりね』
『とうとう結婚か。付き合い始めて一年も経ってないよね。あっという間に進むもんだよね』
『わたしもこんなに早いとは思わなかった。彼女の性格はおっとりしているから、彼氏のアプローチが強かったんじゃない。会ってみてそんな気がした』
『おとなしかった子が、意外と早く決めるもんだね』
『タイミングよ。職場の環境が大きいんじゃない』
『自宅と会社の往復じゃ、知り合うきっかけは少ないか』
『わたしの友だちなんか、若いときに結婚した人が何人かいるけれど、半分くらい離婚しているのよ』
『半分も』
『短大卒業して二、三年だから、二十二、二十三のときに結婚した人たちね。そのときは結婚に対する憧れが強くて、早く落ち着きたいと思ったらしいのね。まわりの人たちよりも早く結婚する優越感があったって言うのよ』
『そうなの』
『結婚して初めのうちはよかったらしいのね。でも仕事をやめて、考える時間が増えてくると、同世代の人たちのことが気になり始めたんだって。今ごろ、バリバリ仕事をしているんじゃないかとか考え始めちゃって、今の生活はしあわせだろうかとか、堂堂めぐりの日々が続いたらしいのね』
『結婚しなきゃわからないよね。そんなこと』
『そうなんだけど。結局、友だちに自慢するためだけの結婚だったのかなって、そう思った瞬間、ひとりになろうと決めた人がいた』
『その人もわたしたちと同世代だから、まだまだこれからよね』
『わたしたちから見たらそう見えるでしょうね。だけど、その人が言うには、いっしょに暮らすためだけだったら結婚はしないって言っていた。自分のペースを守りたいかららしいの』
『自分のペース? やりたいことをやるっていうこと?』
『それもあるでしょう。あとは、わずらわしいらしいの』
 彼女たちはわたしと同世代だろうか。卓球のような軽快感のある会話が、日常のリアリティを想像させた。結婚に対する憧れをみんな持っているし、悩んでいる。わたしは持っていない。子どもなのだろうか。

「おはようございます」
「おはよう」
 権藤課長は元気だ。わたしは、企画のことで頭がいっぱい。あまり先へ進んでいない。それに、社内旅行の企画も立てなくちゃいけない。行きたくない人が多いのはわかっているけど、社内行事のひとつだから、半分義務みたいなもの。ちゃんとやらなくてはいけない。場所決め担当は、かおりが率先して手をあげ、わたしがサポートの役回りのはずだったのが、気がついたらわたしがメインになっていた。かおりは何気なく人にふるのがうまい、その反対にわたしは知らず知らずのうちに何かをやらされている感じだ。性格的なものなのか、世渡りがあまり上手じゃないのか。両方に当てはまるような気がする。
「権藤課長、今度の社内旅行どこに行きたいですか」
「お酒が飲めて、温泉があればいいね。特別に行きたいところはないんだけど」
「観光とかに興味はないんですね」
「スケジュールに組み込まれてまで、動きたくはないね。観光地を見てまわれるのはいいよ。ただ、時間配分まで決められるのはいやだな」
「今は、パック旅行の方が安いですから、たぶんパックになると思いますよ」
「そうだよな。価格から見ればパックだよな。それには観光がついているからしょうがない」
「わたしは、お料理が第一で、第二は観光。行ったからには郷土料理を楽しみたいし、名所にも行きたいです」
 とにかく場所だけでも予約しないと行けなくなっちゃう。ぎりぎりまで決まらなかったせいか、希望の予約をとれずに社員旅行が中止になったことがあった。担当者はかなりのブーイングを浴びたので、かわいそうだった。仕事で責められるのなら、納得するかもしれないが、社内規則に違反したわけじゃないことで文句を言われるのは気の毒だし、わたしもそんな目にあいたくないから、場所だけはおさえておきたかった。かおりの方に向くと、書類に目を落としていたが、難しそうな顔をしていなかったので、社員旅行について聞いてみた。
「かおり、ちょっといい。社員旅行の件だけど、場所だけでも決めようよ。早くしないと埋まっちゃうよ」
「社員旅行か。男性群は宴会ができればいいんでしょ」
「いつもそうだけど、観光は興味ないみたい」
「一泊だから、近場の温泉地でいいんじゃない」
「いくつかもらってきたものがあるわ」
 かおりは、自分の引き出しの中から、旅行会社のパンフレットを取り出した。箱根、熱海、石和、鬼怒川、伊香保……。中を開くと、宴会付、フリードリンク、食べ放題、大浴場など、いろんな特典をアピールしている。
「けっこう揃えたのね。かおりがいいと思ったところある」
「一泊を想定しているから、バスだったら関東近辺よね。新幹線とか使えば、関西まで足を伸ばせるけれど、乗り遅れる人がいそうで心配よね。バスだったら、多少融通がききそうでしょ」
「どこでもいいから決めちゃって、案内をメールで送れば、肩の荷の半分は降ろせるからね」
「個人的には、箱根とか鬼怒川あたりは行ったことがあるので、伊香保はどう。ここも温泉地だし、そんなに遠くないでしょ」
「そうね。あとで旅行会社に行ってみるわ」
 かおりが言っていたように、男性群は宴会があればいいのだろう。それに社員旅行は、男性群がなんとなくメインな気がする。わたしは、仕事以外のわずらわしいことには時間をかけたくなかった。とにかく早く決めたかった。
 昼食後、勤務時間中だったけれど、許可をとって旅行会社へ出かけた。会社の最寄り駅にある大手旅行会社の支店だ。店の入口周辺にはパンフレットが陳列ラックに整然と並べられている。国内、国外に大きく分かれているが、国内だけでもかなりの数のパンフレットがある。どれをとっても観光コースが概略のスケジュールの中にきちんと組み込まれているので、初めて訪れるところでも安心してまかせることができる。ただ、わたし個人で行くのなら、コースに組み込まれて行動するのは抵抗がある。コースの場合、名所・旧跡のような見所をおさえてくれるのはいいけれど、時間配分まできちっと決められてしまうのが少し嫌だ。添乗員やガイドさんに、ていねいな説明を受けながら案内してもらっても、説明の文字列と目の前の風景とが一致してこないのだ。意味がわからないというのではなくて、からだの中の感情腺に響いてこないのだ。耳から入ってくる情報が角膜でとらえた情報とリンクしていない状態。団体で工場見学している状況に似ている。自分のペースで情報を消化しないと、風景や旅を楽しめない。それに、旅の醍醐味はコースから外れた発見にもある。せせらぎの音。その音の主体となる小川。小川の脇に咲く小さな花。これらは、ぞろぞろ歩く行程では発見しづらい風景だし、自分が発見したプライベートな風景だ。
 
 今回の主旨は社員旅行の企画だから、個人で楽しもうとは思わない。スケジュール通りにことが運べばいいのだ。年齢や好みがさまざまな人たちが同じベクトルで楽しめる企画を考えるのはたいへんなので、パック旅行に寄りかかった方が楽。不満要因もすべて背負わなくて済むし。
 駅に近く、午後間もないこともあって、店内にはお客さんが三組いた。壁には、観光地のポスターがいたるところに貼ってある。言葉よりも、ビジュアルでうったえかけられた方が効く。その場所に身を置いてみたいと思うのだ。“おとぎ話の地、湖水で癒す”というキャッチコピーよりも、湖の清らかさやじゅうたんのような広大な芝の鮮やかさを一枚の写真で見せられる方が、欲求をくすぐる。世界には美しいシーンがてんこ盛りなのだろう。ひとりの人間が目にする風景は、よほど世界を駆けめぐっている人でない限り、そう多くはない。いろんな国や場所に積極的に出かけていかないと、限られた風景の中でしか、思いをはせられない。思い返してみても、思い出は風景とパックになっていることが多いので、いっぱい旅した方が人生は楽しくなりそうだ。
「百五十八番の番号札をお持ちの方、窓口へどうぞ」
 店内アナウンスの呼出し。わたしの番号だ。
「いらっしゃいませ。ご用件をおうかがいします」
 担当者の言葉に促がされながら、わたしはイスに座った。
「社員旅行なんですが。一泊の予定で」
「行く先は決まっていますか。何名さまですか」
「一泊で温泉があり、行程がハードじゃないコース。人数は五十名くらいです」
「いろいろありますよ。関東圏はほとんどカバーできますよ。五十名さまですと、宴会場があるところがいいでしょう。飛行機利用ですと北海道にも行けますよ」
 北海道? そうか、飛行機を利用すれば、よほど奥まったところでない限り、日本全国が範囲になるのか。
「北海道だとどのあたりが、多いですか」
「千歳空港着で札幌周辺の観光が多いですね。登別あたりもおすすめです」
 札幌か。行ったことがないし、行ってみたい気持ちはある。でも、一泊で北海道はもったいない気がする。
「飛行機の乗り降りの時間を考えると、一泊だと慌ただしいですよね」
「飛行機は乗ってしまえばあっという間に着いてしまいますので、バスを利用する普通の旅行と大差ないですよ。参加された方、みなさんそうおっしゃいます」
 大差ないか。でも、札幌の街を大勢で歩くのはちょっと抵抗があるな。気の合う人たち数人でゆったり楽しみたい感じもするし、一泊ではもったいないし。
「料金はどのくらいですか」
「札幌一泊、観光付きで二万円台からです。パックですからこのような価格でご提供できます。航空券や旅館を個人で手配するとこうはいきません」
 この価格だったらいいか。希望を募っている時間はないし、面倒くさいから、決めちゃおうかな。
「とりあえず、予約します」
「ありがとうございます」
 ということで、わたしは社員旅行の予約をした。こういうことはあまり考えずに早く終わらせたい。
「北海道、一泊、予約した」
 会社に戻り、かおりに報告した。
「北海道? いいんじゃない」
 かおりも関心なさそうだった。きっと同世代の人たちは同じ気持ちなのだろう。とりあえず、旅行日程と場所などの概要をメールで各社員に送ろう。メールソフトをクリックした。メールを一通受信した。上野さんからだ。メールを開くと。
〈亜仁場様 おつかれさまです。ちょっと聞きたいことがあります。最近、かおりの様子がおかしいように見えるけど、何か気づいたことある。本人に聞いてみたけど、何もないということらしい。親友から見て気づいたことありますか。 上野〉
 こまった……。上野さんも気づき始めている。どうしよう。なんて言ったらいいのだろう。ほんとうのことは言えないし、言わなかったら上野さんに嘘をつくことになる。かおりを裏切ることは絶対できない。ああ。上野さんに気づかれないですめばいいと思っていたけれど、そんなことは無理だよね。よほど鈍感な人でない限り、付き合っている人のことはわかるよね。どうしよう。やはり、かおりを裏切れない。選択肢はないと思った。
〈上野様 おつかれさまです。かおりの件です。お昼とかいっしょに行きますけれど、大きな変化はないですよ。ただ、仕事で遅くなる日が続くときは体調不良もあるようです。 亜仁場〉
 無難な返事だ。でも、今はこれしかない。わたしは、クリックした。
 それから数日間、わたしは、かおりと上野さんの様子や行動、話しぶりがなんとなく気にかかっていた。普段、望月さんほどではないにしろ冷静沈着気味なかおりの行動が少し落ち着きがないように見える。上野さんについても、わたしにメールを送ってきたこともあって、それ以来、わたしにもかおりのことで何か知っているんじゃないかと思っているだろうし、逆にわたしも上野さんの視線がなんとなく気にかかるようになった。かおりの個人行動とはいえ、わたしも巻き込まれている。ほんとうのことを言っても、言わなくても誰かが傷つくことになる。今、どうすればいいのかわからないし、こんな気持ちでお互い顔を合わせながら、毎日を過ごすのはいやな気分だ。
「かおり、ちょっといい」
 上野さんの視線に耐えるのもいやだし、気分が落ち込んでいくわたし自身を救いたいと思ったので、かおりに声をかけた。
「えっ」
 かおりは特に驚いた表情を見せず、静かに返事した。
「ここじゃなんだから、外で」
 わたしは、仕事が終わってからじゃなく、少しでも早く自分の気持ちを晴らしたいと思ったので、会社の裏通りまでかおりを連れ出した。
「ねえ、今どうなっているの。相談所の件。誰かと付き合っているの」
「ああ。商社マンとは続いているわ」
 もちろんといった表情で、かおりは言った。
「頻繁に会っているの」
「最初は二、三週間に一回の割合だったけれど、向こうが電話をかけてくることが頻繁になったわ」
「それって、真剣に考え始めているってことじゃないの」
「まあね。そこまでかどうかわからないけれど、悪い気はしないじゃない」
 向こうからのアプローチの変化にあまり気にかけていない様子のかおりだった。
「上野さんも気づき始めているんじゃない。かおりの不審な行動を。この前、上野さんからメールをもらったのよ。」
「えっ」
 かおりは、意外といった表情で言った。
「かおりの様子がおかしいので、何か知っていますかって内容だった。もちろん、ほんとうのことは言えなかったわよ」
「一、 二週間に一回の割合で会っているわよ」
「会っているとか、会っていないとかじゃなくて、上野さんは、かおりの態度の変化に気づいているのよ。きっと、かおりはどこかうわの空なのよ」
 わたしは、ちょっと強い口調で言ってしまった。
「そんなことはないわ。それぞれの相手に、誠意を尽くしているから、そんなことはないわ」
 かおりも少し反発気味の口調で返してきた。
「誠意が伝えきれていないのよ。だから、上野さんは、そんなかおりに気づき始めているのよ」
「バレない自信があるから、大丈夫」
 かおりは、自分に言い聞かせるように言った。
「でも、このままうまくいくことってありえないわよね。このへんで目を覚ましたら」
「えっ。どういう意味。今を楽しんでいるんだから、それでいいじゃない」
「かおりのことを気にかけているから、上野さんはわたしに聞いてきたのよ。直接聞かれたことはなかったの」
「聞かれたけどね。休日に出かけていることが多いんだねって」
「やっぱりね。ちょっと考えてみてよ」
 わたしは、時計を見て締めくくり、ふたりはオフィスに戻った。
 上野さんは結婚を意識し始めているのかもしれない。だから、かおりの休日の行動をチェックしているのだろう。結婚を意識した相手が休日に頻繁に出かけているとしたら気になるはず。どこに行っているのかわかれば安心するだろうけれど、かおりもほんとうのことを言えないので、それが上野さんの不信感になっているのだと思う。そう思うと、上野さんがかわいそうになる。社内恋愛はまわりも気を使う。特にふたりとも身近な立場にいると、もう他人事じゃない。ふたりの距離が長くなったり、短くなったりするたびに、こちらも敏感に反応してしまう。それに嘘が絡んでくると神経衰弱だ。わたしは口が堅いが、いつまで耐えられるだろうか。バラしてすっきりしたい……そんな気持ちも数パーセントある。
「亜仁場さん」
 オフィスに戻ると権藤課長が待っていた。
「はい」
「そろそろヘアカラーの件、進めてみようか。二回目のミーティングをいつやるか」
「そうですね。提案ものんびりしていられないですよね」
「そうなんだよ。採用されるかされないかというよりも、われわれはこういう提案ができますっていうことを示さなきゃいけない。勝ち残るために」
「勝ち残り……ですね」
 勝ち残りか。そう言われ続けてはいるけれど、そこまで考えたことはあまりなかった。甘いのかな。わたしって。現状に満足してしまっている証拠なのかな。この会社に骨をうずめようとしていないから、そんな気持ちが芽生えないのかな。勝ち残るためにという名目からはエネルギーがなかなか湧き起こらない。
「どのメーカーも似たようなカラーを出してきているわけだし、店頭に並べたときにパッケージを見ただけでは、どれを選んだらいいのか迷っている人が多いと思うよ。どう差別化を図るかなんだよな」
 権藤課長は言った。
「わたしがこだわりたいのは、前にも言ったように、時間的に余裕がない人や、時間があっても時間を少しでも短縮したい人向けに、一度のカラーリングで完璧さを得ることができるものです。難しいですけど」
「カラーリングは面倒くさいものなんだよな。あるクラブに行ったとき、コンパニオンが言っていたけど、既染部分と生え際の境目が目立ってくると、幻滅するお客さんがいるらしいんだ。お客さんに、まだらだったら黒髪のままがいいじゃないかって言われたそうだ。酔った勢いだったらしいけれど、ちょっとショックだったみたいだ。それ以来、自分でこまめにカラーリングするようになったらしい。時間があるときは美容院に行くということだ」
「お店の人はプロ意識があるから、気をつかうのでしょうね」
「人間であり、商品であるから。その人目当てに来るお客さんがいるわけだからね。手を抜けないよ」
「美で勝負している人たちにとっては、カラーリングは必修科目ですよね。ところで、クラブには頻繁に行くんですか」
「最近はたまに付き合い程度。交際費が自由に使える時代じゃないからね。それと、亜仁場さんはプロ意識があるからと言っていたよね。でも、彼女たちの多くは兼業らしい。それだけでは食えない人が多いからね。それも昼間に働いている普通のOLが多いんだな」
「普通のOL? わたしみたいな」
「それで、寝る時間がないじゃないかって聞いたら、毎日二、三時間くらいしか寝てないって。それでもやる理由を聞いたら、自分の今の年齢でしかできないことをためしてみたいそうだ。自分を目当てに来てくれる人がいると励みになるとも言っていた」
 励みか。普通のOLをしていても励みはある。企画がうまくいったり、仕事でほめられたりすれば、それは励みになる。自分を目当てに来てくれる人がいる励みって? どんな感じだろう。
「あとそれと、こんなことも言っていたな。普段の自分と違うアイデンティティを見つけたいと。昼間の自分はどこか押さえつけられていて、仮面をかぶっている。だから本来の自分じゃない、抜けがらみたいな気がするらしい。それが、店に来てお客さんと話していると、内側から湧き起こってくるエネルギーを感じて、束縛されない解放感があるらしい。もうひとりの自分に会えることで楽しい時間を過ごせるので、寝る時間がなくても充実しているみたいなんだ」
「へえー。そういう気持ちなれるんですかね」
 わたしも、多少なりとも仮面をかぶっているだろうし、どこか押さえつけられている感じもする。特定の人や出来事によってじゃなくて。それが社会のシステムだからしょうがいないと思ってしまうのが、今のわたしだ。
「きっと店の中では、身分とか建前とか関係なしに人と接することができるからいいんじゃないか。そのコンパニオンだって、仕事で僕と会っていたらそんな気持ちにならないだろうしね。人生は場面ごとに気持ちは入れ替わる……ってことか。ははっ」
 権藤課長は、ちょっと笑ったあと、書類に視線を落とした。
 わたしと権藤課長も設定が違っていたら、上司と部下との関係ではなかっただろうし、恋人になっていたかもしれないと思ったら、ちょっと笑いがこみ上げてきた。人と人って、出会ったときの社会的関係がそのまま続いていく。急展開することはあまりないものか。例外はある。不倫だ。不倫は今までの関係をチャラにするエネルギーを導き出すものだ。雑誌を見ても、ニュースを聞いても、上司と部下や、店のスタッフとお客さんも男女の関係になれば今までの関係は一変する。それが人間というものだ。感情的な動物だから、関係が密接になればなるほど、喜怒哀楽を気軽にぶつけ合えるのだろう。不倫といえば、望月さん。望月さんの不倫のきっかけはなんだろう。機会があったら聞いてみようかな。
 それにしてもヘアカラーの企画を進めなきゃいけない。次のミーティングの招集をかけなくちゃ。明日の土曜日、征治さんと会うことになっている。少し、愚痴でも聞いてもらおうかな。
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所属していた暴走族のリーダー格だった塚本弘平は、毎日喧嘩三昧だった。 そんな彼は、ある事件をきっかけに更生を誓うようになる。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

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