アクトレスの残痕

ぬくまろ

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 連は小田急線に乗っていた。
 京王線『国領駅』から南東へ、狛江通りを小田急線『狛江駅』方向に歩くこと約十五分。左側、狛江通りに沿ってその建物はあった。明都大学付属西部病院である。建物の正面玄関から入り、ゆっくり歩を進める。二十メートルほど進むと、右側に三基のエレベーターがあった。真ん中のエレベーターの扉が開いていたので、エレベーターに乗り込む。階数ボタンを押そうとするも、その階は既に点灯していた。かごには、本人を入れて七人の人物が乗っていた。階数ボタンは4のみ点灯していた。かごの中を何気なく見る。視線が合わない。いや、合わせてくれない。着いたようだ。扉が開くと、押し出された。「あっ」と叫んだ。危うくつまずきそうになった。エレベーターから降り、廊下を右に進む。壁に沿ってベンチが配され、どのベンチにも人が座っていた。心なしかうなだれている人たちが多いように見える。廊下の突き当たり、屋外階段のドアの手前で、立ち止まった。
〈トントン〉
「はい、どうぞ」
「失礼します」
 中野連がお辞儀をすると、白衣の人物は会釈を返した。
「まあ、座ってください」
「はい。本日はお忙しい中、お時間をいただき、誠にありがとうございます」
 連は緊張した面持ちであいさつし、名刺を差し出した。
「最初に言っておきますが、守秘義務がありますので、一般論として語らせていただきます。それでよろしいでしょうか」
「はい。よろしくお願いいたします」
「それにしても、あなたは粘り強いというか、しつこいというか、断っても断っても電話をかけてくる。見方を変えれば、ストーカーですよ。うん」
「あー、はい。まあ」
 連は困惑した表情をみせる。白衣の人物の口は笑っているのに目が笑っていないからであろうか。
「驚愕館ですか。雑誌? スクープの取り合い、大変でしょうね」
 白衣の人物は名刺の右下の角を浅くつかんでいた。さっと投げるようなしぐさ。
「当社の場合は、スクープというよりも真実を追求するという姿勢で取り組んでいます」
「ほう、真実を追求ですか。今回の取材もそういうことですか」
「はい」
「どのような真実を追求するつもりですか」
 白衣の人物は、つかんでいた名刺をテーブルの上にさっと投げた。連は名刺に視線を移し、そのまま凝視した。相当警戒しているようだ。今回の取材の目的について、正確には伝えていない。そのほうがいいと思ったからだ。なぜなら、今頭の中で整理できていない現象や事象があるからだ。現時点では不透明だ。真実ではなかったら、周辺の人物に迷惑がかかる。ネットに掲載されてしまったら、取り返しのつかないことになってしまう。しかし、警戒されてしまったら、正確な情報を聞き出すことができない。連は白衣の人物に視線を移した。
「事件が起こるかもしれないのです。それを未然に防ぎたいのです。具体的にどのように起こるのかは推測できませんが、心配なのです。お願いします」
 連は頭を下げた。
「事件? 聞き捨てならないな。具体的に説明してほしいもんだ」
「えっ、と」
 連は後悔していた。事件と聞いてしまえば、気にならない人は少ない。いや、いないはずだ。聞いた人は事件に巻き込まれるかもしれないと思ってしまうだろう。しまった。連はどう対応するか、頭をフル回転させた。
「申し訳ございません。現時点でどのような事件が起こるのかは、まったくわかりません。起こらないかもしれません。ただ、事件が起こる可能性がゼロでない限り、取材を続けていくつもりです。真相を追求するために、取材活動、情報収集活動を行っていますが、私たち出版社だけではできません。様々な方にお力を貸していただかなくては、真相解明につかながりません。今回は、先生のお知恵、お力を貸していただきたく参りました。よろしくお願いいたします」
 連は深々と頭を下げた。
「うーん」
 白衣の人物は腕を組み、うなった。
「お願いいたします」
「それでは、約束をしてください」
「はい。どのようなことでしょうか」
「私が話す内容については、事件や犯罪に直結することはありません。しかし、私が話した内容を基に、あなたがどのように行動するのか、私は予測できません。万が一、あなたの行動によって、あらぬ方向に逸脱するようなことがあったら、即刻報告してください。どうですか。守れますか」
「あっ、はい」
 強い警戒心を抱いている。過去に何かあったのか。それとも、事件というワードに敏感に反応したに過ぎないのだろうか。連の顔に疑問符が浮かぶ。
「わかりました。万が一、事件に巻き込まれるようなことが発生したら、法的措置を講じるつもりです」
「はい」
 と言ったものの、新たな事件が起きた場合、目の前にいる人物に何らかの影響を及ぼす可能性はゼロではない。しかし……ここで引き下がるわけにはいかない。右の拳を握った。目の前にいるのは、明都大学付属西部病院の精神科医高畑(たかはた)誠(まこと)氏である。連はある人物についての情報収集を行っている。その中で気になったことがあったのだ。精神科への通院歴である。
「それでは、まず始めに、解離性障害とはどういうものなのかを解説します。簡単に言うと、自分が自分であるという感覚が失われてしまう障害です。例えば、ある出来事の記憶がすっぽり抜け落ちていたり、まるでカプセルの中にいるような感覚がして現実感がない、いつの間にか自分の知らない場所にいる、などが起こる状態です。通常、私たちは自己として、思考や記憶、知覚、感情、行動が本来は一つにまとまっています。これらの感覚をまとめる能力が失われて、ばらばらになってしまった状態を解離といいます。ただ、解離自体は、からだに備わった心の防衛本能の一つ、つらい体験を自分から切り離そうとして起こります。症状が軽くて一時的なものであれば、健康な人でもあり得ます。しかし、解離状態が慢性化し、日常的に症状が出て、自分でコントロールすることができなくなり何か他の形で苦痛が生じる、社会生活に支障をきたすなどの段階になると、解離性障害といえます。ここまではよいですか」
「はい」
「解離性障害といっても一つではありません。様々な症状があります。世界保健機構の診断ガイドラインにリストアップされている解離性障害のカテゴリーにある主な症状を解説しましょう。その症状とは、解離性健忘、解離性とん走、カタレプシー、解離性昏迷、離人症、解離性てんかん、多重人格障害等です。多重人格障害については、アメリカ精神医学会の診断ガイドラインでは解離性同一性障害と名づけられていますので、この名称を用いることにします。まずは、解離性健忘についてです。解離性健忘とは、ある心的ストレスをきっかけに出来事の記憶をなくすものです。多くは数日のうちに記憶がよみがえりますが、ときには長期におよぶ場合もあります。解離性とん走について。解離性とん走とは、自分が誰かという感覚が失われるのです。つまりアイデンティティが失われるということであり、失踪して新たな生活を始めるなどの症状を示します。学校や職場において極度のストレスにさらされ、しかもそれを誰にも打ち明けることができない状態で突然始まり、それまでの自分についての記憶を失うことが多くみられます。飲酒や身体疾患による意識障害、認知症などでは説明できないものを指します。カタレプシーは、からだが硬く、動かなくなること。解離性昏迷は、からだを動かしたり、言葉を交わしたりできなくなること。離人症は、自分が自分であるという感覚が障害され、あたかも自分を外から眺めているように感じられる症状です。自分がまるで夢のなかにいるように思い、現実の出来事に現実感がなく、映画の画面を見ているように感じられます。また、自分が今、ここにいるという意識がなくなり、自分の体も自分のものではないかのように感じられます。ただ、同じような状態は、入眠時や疲労時などには、健常者にもみられることがあります。また、うつ病や統合失調症といった多くの精神疾患の部分症状として現れることがあるので、こうした疾患の診断のなされている場合は、あえて離人症という診断はつけません。解離性てんかんについては、心理的な要因で、昏睡状態になる、体が思うように動かせなくなる、感覚が失われる等の症状が現れます。解離性同一性障害について。この障害は、きわめて特徴的な症状を示すのです。患者は複数の人格を持ち、それらの人格が交代で現れます。人格同士はしばしば、別の人格が出現している間はその記憶がない場合が多く、生活上の支障をきたすことが多くなるのです。以上、解離性障害の概要について解説してきました」
「はい」
「近年になって精神科の臨床場面でも解離が多くみられるようになったことは一般的な精神科の実感であろうし、私も実感しています。ただ、解離性障害の診断の過剰な拡大化にも注意をしなくてはなりません。解離は健常者から病気の水準まで関連する幅広い概念なのです。よく『私にもそのような症状があります。解離性障害かもしれません』と不安を述べる方がいらっしゃいますが、そのような自己判断は危険です。解離性障害の診断のためには、専門家の診察が必要です。解離性障害の診断のためには、解離症状のために顕著な苦悩がみられたり、社会的に支障が生じたりすることが必要とされます。ですから、簡単な診断基準をみて解離を診断してはいけません。解離の診断のためには多くの経験が必要であり、本やネットに載っている情報から速断することは危険です。必ず精神科の医師に相談していただきたい。強く思います」
「社会的に支障が生じるということですが、具体的のどのような状況になるのですか」
「うーん。そこですか。そこが聞きたいということですね」
「はい。例えば、ニュースになる出来事のような」
「うーん。あなたの考え方は極端だ。危なっかしいですね。そこだけをクローズアップしようとしている。それでは誤解を招いてしまう」
「先生。誤解を招くような言い方をしてしまい、申し訳ありません。私が知りたいのは、日常的な支障もそうですが、特異な事例を教えていただきたいのです」
「特異な事例? それを記事にされたら、それこそ誤解を招く、偏見を持たれるじゃないですか。あなたの狙いはなんですか? どのような記事を書こうとしているのですか?」
「申し訳ありません。現時点で、詳細は言えないのです」
 連は深々と頭を下げた。
「詳細は言えない? 特異な事例ですか? 驚愕館か」
 高畑は名刺に視線を落とした。
「お願いします」
 連はさらに深々と頭を下げた。
「うーん」
 高畑は連をチラッと見て続けた。
「それでは、広く知られる特異な事例を解説しましょう。ビリー・ミリガンを知っていますか」
「はい。詳細は知りませんが、二十四の人格を持つ人物ですよね」
「そうです。1955年、アメリカに生まれた男性です。1977年、オハイオ州で三件の暴行事件が発生しました。被害者は三人の女性。彼には強盗の前科があり、採取された指紋から、彼は逮捕されました。裁判の計画を進めるにあたり、弁護士との打ち合わせに際に、犯行の記憶がないと訴えた。さらに、『自分はビリーではない。ビリーは今眠っている』と言い出した。弁護士は彼に不信を抱き、接見を重ねる中で、彼の異常性を感じ取り、精神鑑定を受けさせることにした。依頼を受けた精神科医はビリーと面会しました。そのときビリーがこう言ったそうです。『自分はデイヴィッドで、ビリーは頭の中で眠っている』と。最初は演技あると疑っていたそうですが、四回目の面会で、デイヴィッドからアーサーという人格に変わるのを目前で見たとき、ビリーは多重人格であると確信したそうです。その後、検事立会いのもと、別の精神科の診断を受けることになったのですが、二人の前で、年齢、国籍、性別さえも異なる様々な人格が次々と現れたということです」
 その後三十分にわたり、二十四の人格についての詳細な説明を受けた。
「それでは、ビリーはなぜ多重人格になったのか。ビリーは幼い頃、実の父親を自殺で亡くしています。その後、養父から身体的虐待や性的虐待を受け、自己防衛のために様々な人格を作り出していたことが、その後の診断でわかったのです。人格が複数生まれ、自分の与(あずか)り知らないところで時間が進んでいることにわけのわからなくなったビリーの人格は、十七歳のときにビルの屋上から飛び降り自殺を図ります。しかし、飛び降りる直前に、別の人格が止めるのです。それで自殺は失敗し、ビリーは長い間眠らされることとなったのです。逮捕されたビリーの精神治療が、1978年3月に開始されました。人格を一つにする治療のために、ビデオテープに撮った違う人格の彼を見せるという方法です。そうした治療を繰り返していくことで、人格が少しずつ統合され、法廷で証言できる程度に人格が安定しました。1998年12月、ビリーは多重人格によって事件を引き起こしてしまったと判断されて、裁判で無罪が言い渡されました。その後については、いろいろありますが、のちにビリーが多重人格を克服したと判断されました。ビリーは名前を変えてカリフォルニアで生活していました。しばらく消息不明でしたが、2014年12月、オハイオ州の病院で、癌のため亡くなりました。五十九歳でした」
 高畑はゆっくり目を閉じた。
「多重人格は克服されたのでしょうか」
「私は直接診ていませんのでわかりません」
「先生が直接診てきた患者さんについてはどうですか」
「ライターさんはいつもそうだ。そのようなやり方で情報を強引に入手しようとする傾向がある。私は医師です。守秘義務がありますので、お答えできません」
 高畑の目に凄味があった。患者を守り抜く目だ。
「申し訳ありません。そのような意図はなかったのですが、誤解を招いてしまって申し訳ありません」
 連は頭を下げた。
「あなたは何かの事件を追っていますよね」
 連は頭をゆっくり上げた。お互いの目が衝突する。
「はい。私はいつも何かを追いかけています。追われることもありますが、気持ちはいつも追いかけています」
 問いに対する答にはなっていない。そんなことわかっている。連の目が語る。
「まあ、あなたにも守秘義務があるでしょうから」
 高畑はあきれたような表情を見せた。が、瞬時に険しい表情に変わり
「中野さん。これだけは言っておきますが、障害者が罪を犯すのではない。障害者だから、罪を犯すのではないことを。誤解を招くようなことは書かないでください。いいですね」
 約束を破ったら許さない。高畑の目が語る。
「先生」
 連の表情がピリリと引き締まった。
「先生。わかっています。障害者が罪を犯すのではない。罪を犯した者が、犯罪者であると」
 連は一礼して顔を上げた。高畑の口角が上がっていた。呼応するように、連の口角も上がった。
「失礼します」

 連は、明都大学付属西部病院を後にして、狛江通りを歩いていた。取材を基に記事を書き上げることは難しいことではない。それは、取材したことをそのまま書き上げればいいからだ。脚色はしない、余計なことは付加しない、もちろん嘘はつかない。しかし、それだけでは通用しないのだ。録音した内容をそのまま書き起こすことは、プロでなくてもできる。日本語が聞き取れ、ある程度の語彙力を持っていれば、忠実に再現できるはずだ。 
 しかし……それだけでは通用しない。そのまま世に伝えることはできるが、正確に伝わるかどうかはわからない。扱う内容によっては、細心の注意を払わなければ、取材の意図を正確に伝えることはできない。今回の取材もそうだ。先生が危惧の念を抱くのは当然だ。その口ぶりから推察できる。これまでに、自身の意図とかけ離れた解釈をされてしまった経験があるということだ。だからこそ、何度も念を押した。

 驚愕館に帰社した連は、パソコンに向かっていた。集中できたのは三十分ほどであった。突然手が止まった。理由はわかっていた。連は立ち上がり、外出した。ホワイトボードには、“気分転換”の黒い文字が。
 既に日は落ちていた。連は皇居の周りの歩道をひたすら歩いていた。おっと声を上げた。連の真横すれすれから人が前に飛び出したのだ。皇居の周りを走るランナーである。ここを歩いていると、ヒヤッする場面に何度が遭遇する。麹町警察署、丸の内警察署、東京国道事務所、東京第一建設事務所、千代田区役所の連名で、『ランナーの方々へ 皇居周辺の歩道はランナー専用ではありません。歩行者に気をつけましょう。』と書かれた看板が設置されているが、効果はないようだ。もちろん、マナーを守れないランナーは、ランナーのうちの一部であろう、と思いたい。連はときどき立ち止まり、皇居外苑を眺めた。集中力が切れたときにいつもそうしているのだ。歩いては立ち止まり、眺める。これを繰り返すことによって、スーッと何かが降りてくるということが多々あった。「うーん」二十分ほど歩いたであろうが、浮かない表情はそのままであり、何かが浮かんでくる気配はない。立ち止まり、お濠を眺めた。というよりも凝視している。
 あれはいつのことであったろうか。季節は冬、夜であった。あのときもお濠を眺めていた。水面が風に揺らいでいた。きらきら光る、よくある風景である。ぼーっと見ていたそのとき、きらきらが不規則になった。それも大きく揺らいだ。その直後、ボールのようなものが現れた。半円球のところで止まった。サッカーボールより小さい? と思ったとき、ビー玉が光った。二つ。いや、目だ。目が合った、と思ったとき、手のようなものが二つ現われた。水ひれ? と思ったとき、さらに半円球が現れ、円球になった。さらに目が? いや、口だ。横に伸びた。笑ったのか、と思ったとき、すごい勢いで飛び出た。一瞬で、二十メートルほどの高さに達したとき、光の帯というか線になり、凄まじいスピードで夜空へ撃ち抜けた。いや、ワープという表現が的確かもしれない。円球は確認できたが、胴体や足があったのかは、速すぎてわからなかった。水ひれのようなものがあったので、尾びれが付いていたのかもしれない。なぜ笑ったのか。『見つかってしまった』ということであろうか。とにかく速かった。地球上の生物で、あんなに速く移動するものを見たことがない。飛んだというよりも、移動したのだ。一瞬の出来事であったが、なぜかうれしかった。欲を言えば話してみたかった。そして、なにも逃げることはないのにと思いながら、しばらくお濠を眺めていたのだ。今も、ときどき眺めてはいるが、あのとき以来、あの物体に会っていない。飛んで行ったままどこかにいるのだろうか。それとも、お濠に潜んでいて、誰も見ていないときを見計らって、どこかにワープしているのだろうか。それとも、今もワープしているが、見えていないだけなのか。いろいろなイメージが頭の中を駆け巡る。
 連はスマホを取り出した。
「俺だ。情報がほしい」
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