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特捜本部に緊迫した空気が流れていた。捜査員と対面するように設けられたひな壇の中央には、捜査第一課長(警視正)、向かって左が署長(警視正)、右が鑑識課長、他に管理官が席についている。
「気をつけ」
捜査一課デスク主任が号令を発する。全員、気をつけの姿勢。
「一課長に敬礼」
直立不動の姿勢で十五度の敬礼。
「休め」の号令。」
捜査員たちが座る。
身が引き締まる状態。捜査本部独特の雰囲気で始まる。
進行は、捜査一課事件担当係長(警部)だ。
「木村デカ長」
「はい」
捜査員たちの視線が木村に向けられた。
「それでは始めます。新大久保で発生した劇団員殺人事件についての情報を伝えます。凶器については、まだ見つかっていません。害者の部屋、マンション、現場周辺の建物、空地や公園等で、凶器の捜索を行いましたが発見できませんでした。引き続き捜索範囲を広げて行っていますが、ホシが現場から相当離れた場所に捨てたか、ホシがまだ持っている可能性がないとは言えません。犯行現場に残された遺留物ついて、複数の人物の物が採取されました。毛髪、指紋、そして若干の体液。体液は主に唾液です。精液は採取できませんでした。血痕は害者自身の物であることを確認。それ以外の血痕・血液は採取できませんでした。また、害者の爪には害者以外の皮膚片は発見されませんでしたので、害者が抵抗した形跡はない可能性が高いと考えられます。ただ、ホシが長袖や長ズボンを着用していた場合は、争いがあったとしても皮膚片が残らない可能性があります。指紋は多数採取されました」
木村は事件担当係長をチラッと見た後、一呼吸置き
「遺留物から複数の人物が特定されました」
「身近な人物なのか」
「誰だ」
「特定できるのか」
複数の捜査員が同時に言葉を発した。
「現時点では、複数の人物が特定されたという事実だけです。特定された人物を書き出します。浦辺俊一。田中敦。竹下太一。赤木沙紀。佐々木明美。串間剛。そして」
木村はホワイトボードに七人の氏名を書いた後、複数の直線を引いた。
「その直線はどういう意味だ」
捜査員が問いかけた。
木村は事件担当係長をチラッと見た後
「特定できない人物です。指紋データベースにも登録されていません。もっとも、特定できない指紋が付着していても不自然ではありません。引っ越し業者、工事関係の業者、家具や電気器具などの配送業者といった人物が触れていたという可能性が低くありません。ただ、特定できない指紋について、ホシのものである可能性はゼロではありません。また、マンションの住人に捜査協力の依頼をしていますが、応じていただけない方もいます」
「劇団員六名か。全員か。この中にホシがいる可能性が高いだろ。男女間のトラブル、仕事上のトラブル、そのへんだろ。まあ、マンションの住人もあり得るな。ホシはあれだけの容姿だ。そんな存在に強く興味がそそられるってことはあるだろう。挙動不審な人物はどうだった」
「住人の中に挙動不審な人物はいました。ただ、警察官に対する抵抗感や拒絶感、不安感といった感情が顔や態度に出ることもありますので、慎重に見極めなければいけません。それに、強姦目的で殺害されたわけではない可能性が高いということです。また、携帯電話が見当たりませんでしたが、財布に紙幣と硬貨が残されていました。通帳と印鑑もありました。引き出しが開けられたり、クローゼットが荒らされたりしていませんでしたので、やはり窃盗目的ではないようです」
「仕事上のトラブルは」
木村は事件担当係長をチラッと見た後
「これからです」
「木村デカ長」
突然、吉野が挙手した。
「はい」
「よろしいでしょうか」
「どうぞ」
「私たちは害者と親しい人物を調べてみました。仕事と私生活の両面です。仕事上で密接な関係にあったのは、もちろん劇団員です。劇団員たちが所属する星成塾では、舞台公演を控えています。主役は、害者である藤堂さくらに決まっていました。しかし、それに納得していない劇団員がいます。赤木沙紀については、はっきりしています。害者の私生活の面では、恋人である浦辺俊一との関係ですが、捜査を始めたときと比べて大きく変わっていません。別れ話が出ていたというレベルです。ですが、これから新真実が出てくるかもしれません。害者に好意を寄せていた人物として、田中敦と竹下太一が挙がっていました。また、竹下についてはよくわかりません。プライベートについてはあまり語らず。プライベートで親しい劇団員はいません」
「ホシは列挙した人物の中にいるということですかね」
事件担当係長が問うた。
発言はなかった。しんと静まりかえった。捜査員たちは口を真一文字に結び、ホワイトボードを見つめていた。室内の空気はさらに圧縮されていく。
「係長」
吉野が挙手した。
「どうぞ」
事件担当係長が促した。
「はい。ホシの心には、憎しみと保存が共存しているのではないかと思います」
「なにぃ? 憎しみと保存? どういう意味だ」
捜査員たちはあきれた口調で問いかけた。
「はい。まずは、殺害の方法です。アイスピックのような鋭利な刃物での一突きです。一突きで仕留めたい。そういった衝動があったと考えられます。そして、殺害後の行動です。害者の髪、および衣装を整えたこと。ホシは害者の美しさを残しておきたかった。保存しておきたかったと推測されます」
「根拠があるのか。そんなの当て推量(あてずいりょう)だ。いくらでも想像できるだろ。客観的にものを見なければだめだろ。やめろ、やめろ」
ある捜査員が遮った。
細井は木村の顔色をうかがった。木村は無表情であった。
「続けます。憎しみと保存がどのように共存するのか。私なりに推量しました。ホシの心には、憎しみと保存が共存しているのではないかと言いましたが、憎悪と愛情に言い換えられるのではないかと考えています」
「吉野デカ長。何を言っているのかまったくわかりません。もっとわかりやすく説明してください」
事件担当係長が苛立つ。
「憎悪と愛情。憎しみを抱いていたホシが、愛情を抱くようになったのか。あるいは、愛情を抱いていたホシが、憎しみを抱くようになったのか。どちらかであると推量しました。憎しみを優先するのであれば、害者の外形を整えることはなかった。愛情を優先するのであれば、殺害されることはなかった。多いのは、愛情を抱いていたホシが、憎しみを抱くようになったパターンです。ストーカー殺人事件にみる心理の変化です。害者に好意を寄せていた人物は複数存在します。そして、害者に憎悪を抱いていた人物は未だに存在しません。しかし、適度な敵意を持っていた人物は複数存在します。ただ、憎悪や敵意と、愛情を共存させていた人物の存在は現時点で確認できていません」
「ホシは誰だと推量しているんだ。当て推量で頭の中にあるだろう? ふっ」
木村があきれ顔でため息をついた。
「わかりません」
「わかりません?」
「はい。共存が確認できないのです」
「共存が確認できない? なんだそれ」
「ホワイトボードの人物に、現時点でそれを確認できないんです」
「確認できないっていうのは、能力の問題だろ。まあそもそも、憎悪と愛情の共存と事件は関係ないよ。変質者なら、どちらを持っていなくても実行するだろうに。的外れだ」
「そうだ、そうだ」「創作に付き合っている場合じゃない」
周辺が苛立ち始めた。
「経験のある方から見れば私はまだまだ未熟者に映ると思います。しかし、私は警察官として、自分の職責を常に自覚しながらポリスマインドの向上に努めているつもりです。未熟者の説明ではありますが、もう少し聞いていただけますでしょうか」
「ポリスマインド? ポリスガールマインドだろ。ふん」
発言したのは、新都心警察署・刑事課・殺人犯捜査係 警部補 鈴本(すずもと)一男(かずお)だ。吉野の顔はみるみる赤くなった。両方の拳を握り、目をつむった。指導と取るのか、屈辱と取るのかは、信頼関係によって決まるものだ。吉野が選択したのは
「ポリスガールマインドなんて言葉はありません。もし、広告のコピーライターがそのようなキャッチコピーを提案してきたら、その場で突き返します」
「何? 突っ返す?」
「もう一度確認させていただきます。男性警察官も女性警察官もポリスマインドを自覚して日々仕事に打ち込んでいます。ですから、ポリスガールマインドという言葉は存在しません。私は言葉の意味を大切にしたかっただけで、それ以外の意図はありません」
「なにっ! 君は警察における組織と活動において、何も理解していないようだ。今、簡単に教えてやろう。こっちを見ろ。ここにホシのもの思われるタバコが二本あるとする。一つは、新品のタバコが一本。多少の型崩れがあるが、犯人が触れている可能性が高いものだ。もう一つは、吸殻だ。非常に短いが、犯人が吸ったと思われるものだ。ただし、靴で踏み潰されている。タバコの銘柄はどちらも国産だ。そこでだ。吉野君。質問だ。君なら、どっちのタバコから有用な情報を採取できると思う? その理由も述べてくれ」
鈴本は腕を組むと不敵に笑った。
「えっ」
吉野は戸惑っていた。
「無理か」
鈴本は薄ら笑いを浮かべた。
「あのう。答えられません」
吉野はうつむいた。
「ほう。答えられない? 難しかったか。降参か」
鈴本は、組んでいた腕を解き、後頭部で指を組みながら、視線をゆっくり天井に移した。
「あのう。私が答えられないのはそういうことじゃありません。難しいというよりも、答えることができない質問です。質問には瑕疵があるからです」
「何? 瑕疵がある? 私の質問に答えることができないだけだろ。それを認めたくないんだろ。そんな言い訳で誤魔化すつもりか。君は、初級幹部として大きく欠けているところがある。それは素直さだ」
鈴本の視線は、鋭い矢のように一直線に吉野を射た。
「わかりました。お答えします。私なりの主観を入れてお答えします。答は新品のタバコです。犯人が触れている可能性が高いということなので指紋が検出されます」
吉野は、言葉を鋭く飛ばした。
「それだけか」
鈴本も鋭く返した。矢のような視線が再び吉野に射られた。まるで、獲物を追い詰めた猟犬のようだ。ホスピタリティはまったくない。
「吉野君。答えは新品のタバコ? それだけか。考察した結果が、新品のタバコか。ふっ」
「はい。私なりの主観を入れてお答えしました」
「吉野君。もう一度、初任科から始めるか。考察不足だ」
「鈴本係長。せめて、初任補習科からとおっしゃってください」
「な、なにっ?」
鈴本の顔は、不意打ちを食らったかのように歪んだ。巡査部長らしからぬその返しに即応できなかったようだ。
初任科と初任補習科について……初任科と初任補習科は警察学校でのカリキュラムのことで、警察官採用試験に合格した者は、まず警察学校の初任科で警察官として必要な知識や技能を学ぶ。期間は、大卒程度で採用された者は六ヵ月間、短大卒・高卒程度で採用された者は十ヵ月間である。初任科を終了すると、それぞれの警察署で実務研修が二、三ヵ月間あり、それを終えると初任補習科生として再び警察学校に入校し、現場実習を踏まえた研修を受ける。この初任補習科の終了をもって、新採用時の研修がすべて終了となり、一人前の警察官として各警察署に配置され、現場での任務に就くことになる。
場の空気が凍った。
吉野は言い終えると、視線を床に移し、ロックした。
「なんだと。補習科? ふざけるな! 私に歯向かうつもりか」
「歯向かうつもりは毛頭ございません。初任科から始めると時間がかかります。巡査部長としての現場経験があるので、初任補習科で学んだほうがいいと思ったからです。長期間、給料をもらいながら授業を受けるのは気が引けます」
「鈴本係長。考察不足だという理由を教えてください」
「すぐに答を求めようとする。自分で考えようとしない。それも考察不足だ」
鈴本は吉野をじろりと見た。攻撃的な目だ。
「私は新品のタバコと答え、その理由も述べました。それを受けて、鈴本係長は考察不足だとおっしゃいましたが、理由はありませんでした。その理由を聞かせてください」
「ふん。どうしても聞きたいか」
「お願いします」
「教えてやろう。新品のタバコから採取できるのはホシの指紋だ。しかし、靴で踏み潰された吸殻から採取できるのは、指紋、さらには唾液と足跡だ。タバコに残された指紋以外に、ホシのものと思われる遺留物を複数採取できることになる。鑑識活動を通してホシを特定するには、どちらのタバコが有効となり得るか。もうわかるだろう。以上、だぁ」
鈴本は口から“以上”を吐き捨てた。
「ちょっと待ってください。それだけですか」
「なんだ。文句があるのか」
「文句はありません。ただ、質問の瑕疵について、私から説明させていただきたいと思っています。よろしいでしょうか」
「なにっ? まだそんなことを言っているのか。瑕疵なんかない。さっき言ったことがすべだ。以上と言っただろ!」
「鈴本係長」
事件担当係長が口を挟んだ。
「ん? なんだ」
「吉野デカ長の意見、聞いてもいいですか。どのような瑕疵があるのか興味があるんです。その瑕疵に瑕疵があれば、指摘すればいいと思います。いかがでしょうか」
「必要はない。と言いたいところだが、まあ聞いてみましょうか」
「それでは、デカ長、お願いします」
「はい、わかりました。鈴本係長の質問に答えることができないと言ったのには理由があるからです。二つのうちどちらかを選ばなくてはなりませんが、私は選択することができませんでした。なぜなら、正解がない、あるいは両方とも正解だと思ったからです」
矢のような視線が飛んできた。吉野の横顔に刺さった。無言の矢には“憎”の念が込められているようだ。発射元の眼球がまったく動かない。
「それはどういうことですか」
事件担当係長が言葉を挟んだ。
「はい。鈴本係長は、靴で踏み潰された吸殻から採取できるのは、指紋、唾液、足跡とおっしゃいました。確かに採取できる確率は高いと思います。でも、採取できない場合もあります。それは、地面が舗装道路ではなく、土の場合で、さらに雨が降っていたときです。地面が多くの雨を含みとても柔らかく、足跡さえつきにくい状態のとき、靴で踏む潰された吸殻から有用な情報を採取できないこともあるのではないでしょうか。一方で、犯人が触れている可能性が高い新品のタバコは、多少の型崩れがある程度です。犯人の唾液と足跡は採取できませんが、指紋を採取できる確率は高いです。私は、地面の状態が良好でない場合が多いと考え、有用な情報を採取できるのは新品のタバコと答えたのです」
「なるほど。条件設定によってはデカ長の意見もありということですか。でも、鈴本係長はアスファルト舗装やコンクリート舗装を想定しているわけですよね。だから、どちらも……」
「ありだと思います」
吉野は、すかさず言葉を継いだ。さらに
「吸殻も正解。新品のタバコも正解。誰も間違っていないということです」
「なるほど。口頭試問だから、詳細に条件を設定するのは難しいですね」
事件担当係長はすかさず返した。さらに表情を引き締め
「有用な情報を得られるよう、可及的速やかに捜査を続行してください」
「気をつけ」
捜査一課デスク主任が号令を発する。全員、気をつけの姿勢。
「一課長に敬礼」
直立不動の姿勢で十五度の敬礼。
「休め」の号令。」
捜査員たちが座る。
身が引き締まる状態。捜査本部独特の雰囲気で始まる。
進行は、捜査一課事件担当係長(警部)だ。
「木村デカ長」
「はい」
捜査員たちの視線が木村に向けられた。
「それでは始めます。新大久保で発生した劇団員殺人事件についての情報を伝えます。凶器については、まだ見つかっていません。害者の部屋、マンション、現場周辺の建物、空地や公園等で、凶器の捜索を行いましたが発見できませんでした。引き続き捜索範囲を広げて行っていますが、ホシが現場から相当離れた場所に捨てたか、ホシがまだ持っている可能性がないとは言えません。犯行現場に残された遺留物ついて、複数の人物の物が採取されました。毛髪、指紋、そして若干の体液。体液は主に唾液です。精液は採取できませんでした。血痕は害者自身の物であることを確認。それ以外の血痕・血液は採取できませんでした。また、害者の爪には害者以外の皮膚片は発見されませんでしたので、害者が抵抗した形跡はない可能性が高いと考えられます。ただ、ホシが長袖や長ズボンを着用していた場合は、争いがあったとしても皮膚片が残らない可能性があります。指紋は多数採取されました」
木村は事件担当係長をチラッと見た後、一呼吸置き
「遺留物から複数の人物が特定されました」
「身近な人物なのか」
「誰だ」
「特定できるのか」
複数の捜査員が同時に言葉を発した。
「現時点では、複数の人物が特定されたという事実だけです。特定された人物を書き出します。浦辺俊一。田中敦。竹下太一。赤木沙紀。佐々木明美。串間剛。そして」
木村はホワイトボードに七人の氏名を書いた後、複数の直線を引いた。
「その直線はどういう意味だ」
捜査員が問いかけた。
木村は事件担当係長をチラッと見た後
「特定できない人物です。指紋データベースにも登録されていません。もっとも、特定できない指紋が付着していても不自然ではありません。引っ越し業者、工事関係の業者、家具や電気器具などの配送業者といった人物が触れていたという可能性が低くありません。ただ、特定できない指紋について、ホシのものである可能性はゼロではありません。また、マンションの住人に捜査協力の依頼をしていますが、応じていただけない方もいます」
「劇団員六名か。全員か。この中にホシがいる可能性が高いだろ。男女間のトラブル、仕事上のトラブル、そのへんだろ。まあ、マンションの住人もあり得るな。ホシはあれだけの容姿だ。そんな存在に強く興味がそそられるってことはあるだろう。挙動不審な人物はどうだった」
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「仕事上のトラブルは」
木村は事件担当係長をチラッと見た後
「これからです」
「木村デカ長」
突然、吉野が挙手した。
「はい」
「よろしいでしょうか」
「どうぞ」
「私たちは害者と親しい人物を調べてみました。仕事と私生活の両面です。仕事上で密接な関係にあったのは、もちろん劇団員です。劇団員たちが所属する星成塾では、舞台公演を控えています。主役は、害者である藤堂さくらに決まっていました。しかし、それに納得していない劇団員がいます。赤木沙紀については、はっきりしています。害者の私生活の面では、恋人である浦辺俊一との関係ですが、捜査を始めたときと比べて大きく変わっていません。別れ話が出ていたというレベルです。ですが、これから新真実が出てくるかもしれません。害者に好意を寄せていた人物として、田中敦と竹下太一が挙がっていました。また、竹下についてはよくわかりません。プライベートについてはあまり語らず。プライベートで親しい劇団員はいません」
「ホシは列挙した人物の中にいるということですかね」
事件担当係長が問うた。
発言はなかった。しんと静まりかえった。捜査員たちは口を真一文字に結び、ホワイトボードを見つめていた。室内の空気はさらに圧縮されていく。
「係長」
吉野が挙手した。
「どうぞ」
事件担当係長が促した。
「はい。ホシの心には、憎しみと保存が共存しているのではないかと思います」
「なにぃ? 憎しみと保存? どういう意味だ」
捜査員たちはあきれた口調で問いかけた。
「はい。まずは、殺害の方法です。アイスピックのような鋭利な刃物での一突きです。一突きで仕留めたい。そういった衝動があったと考えられます。そして、殺害後の行動です。害者の髪、および衣装を整えたこと。ホシは害者の美しさを残しておきたかった。保存しておきたかったと推測されます」
「根拠があるのか。そんなの当て推量(あてずいりょう)だ。いくらでも想像できるだろ。客観的にものを見なければだめだろ。やめろ、やめろ」
ある捜査員が遮った。
細井は木村の顔色をうかがった。木村は無表情であった。
「続けます。憎しみと保存がどのように共存するのか。私なりに推量しました。ホシの心には、憎しみと保存が共存しているのではないかと言いましたが、憎悪と愛情に言い換えられるのではないかと考えています」
「吉野デカ長。何を言っているのかまったくわかりません。もっとわかりやすく説明してください」
事件担当係長が苛立つ。
「憎悪と愛情。憎しみを抱いていたホシが、愛情を抱くようになったのか。あるいは、愛情を抱いていたホシが、憎しみを抱くようになったのか。どちらかであると推量しました。憎しみを優先するのであれば、害者の外形を整えることはなかった。愛情を優先するのであれば、殺害されることはなかった。多いのは、愛情を抱いていたホシが、憎しみを抱くようになったパターンです。ストーカー殺人事件にみる心理の変化です。害者に好意を寄せていた人物は複数存在します。そして、害者に憎悪を抱いていた人物は未だに存在しません。しかし、適度な敵意を持っていた人物は複数存在します。ただ、憎悪や敵意と、愛情を共存させていた人物の存在は現時点で確認できていません」
「ホシは誰だと推量しているんだ。当て推量で頭の中にあるだろう? ふっ」
木村があきれ顔でため息をついた。
「わかりません」
「わかりません?」
「はい。共存が確認できないのです」
「共存が確認できない? なんだそれ」
「ホワイトボードの人物に、現時点でそれを確認できないんです」
「確認できないっていうのは、能力の問題だろ。まあそもそも、憎悪と愛情の共存と事件は関係ないよ。変質者なら、どちらを持っていなくても実行するだろうに。的外れだ」
「そうだ、そうだ」「創作に付き合っている場合じゃない」
周辺が苛立ち始めた。
「経験のある方から見れば私はまだまだ未熟者に映ると思います。しかし、私は警察官として、自分の職責を常に自覚しながらポリスマインドの向上に努めているつもりです。未熟者の説明ではありますが、もう少し聞いていただけますでしょうか」
「ポリスマインド? ポリスガールマインドだろ。ふん」
発言したのは、新都心警察署・刑事課・殺人犯捜査係 警部補 鈴本(すずもと)一男(かずお)だ。吉野の顔はみるみる赤くなった。両方の拳を握り、目をつむった。指導と取るのか、屈辱と取るのかは、信頼関係によって決まるものだ。吉野が選択したのは
「ポリスガールマインドなんて言葉はありません。もし、広告のコピーライターがそのようなキャッチコピーを提案してきたら、その場で突き返します」
「何? 突っ返す?」
「もう一度確認させていただきます。男性警察官も女性警察官もポリスマインドを自覚して日々仕事に打ち込んでいます。ですから、ポリスガールマインドという言葉は存在しません。私は言葉の意味を大切にしたかっただけで、それ以外の意図はありません」
「なにっ! 君は警察における組織と活動において、何も理解していないようだ。今、簡単に教えてやろう。こっちを見ろ。ここにホシのもの思われるタバコが二本あるとする。一つは、新品のタバコが一本。多少の型崩れがあるが、犯人が触れている可能性が高いものだ。もう一つは、吸殻だ。非常に短いが、犯人が吸ったと思われるものだ。ただし、靴で踏み潰されている。タバコの銘柄はどちらも国産だ。そこでだ。吉野君。質問だ。君なら、どっちのタバコから有用な情報を採取できると思う? その理由も述べてくれ」
鈴本は腕を組むと不敵に笑った。
「えっ」
吉野は戸惑っていた。
「無理か」
鈴本は薄ら笑いを浮かべた。
「あのう。答えられません」
吉野はうつむいた。
「ほう。答えられない? 難しかったか。降参か」
鈴本は、組んでいた腕を解き、後頭部で指を組みながら、視線をゆっくり天井に移した。
「あのう。私が答えられないのはそういうことじゃありません。難しいというよりも、答えることができない質問です。質問には瑕疵があるからです」
「何? 瑕疵がある? 私の質問に答えることができないだけだろ。それを認めたくないんだろ。そんな言い訳で誤魔化すつもりか。君は、初級幹部として大きく欠けているところがある。それは素直さだ」
鈴本の視線は、鋭い矢のように一直線に吉野を射た。
「わかりました。お答えします。私なりの主観を入れてお答えします。答は新品のタバコです。犯人が触れている可能性が高いということなので指紋が検出されます」
吉野は、言葉を鋭く飛ばした。
「それだけか」
鈴本も鋭く返した。矢のような視線が再び吉野に射られた。まるで、獲物を追い詰めた猟犬のようだ。ホスピタリティはまったくない。
「吉野君。答えは新品のタバコ? それだけか。考察した結果が、新品のタバコか。ふっ」
「はい。私なりの主観を入れてお答えしました」
「吉野君。もう一度、初任科から始めるか。考察不足だ」
「鈴本係長。せめて、初任補習科からとおっしゃってください」
「な、なにっ?」
鈴本の顔は、不意打ちを食らったかのように歪んだ。巡査部長らしからぬその返しに即応できなかったようだ。
初任科と初任補習科について……初任科と初任補習科は警察学校でのカリキュラムのことで、警察官採用試験に合格した者は、まず警察学校の初任科で警察官として必要な知識や技能を学ぶ。期間は、大卒程度で採用された者は六ヵ月間、短大卒・高卒程度で採用された者は十ヵ月間である。初任科を終了すると、それぞれの警察署で実務研修が二、三ヵ月間あり、それを終えると初任補習科生として再び警察学校に入校し、現場実習を踏まえた研修を受ける。この初任補習科の終了をもって、新採用時の研修がすべて終了となり、一人前の警察官として各警察署に配置され、現場での任務に就くことになる。
場の空気が凍った。
吉野は言い終えると、視線を床に移し、ロックした。
「なんだと。補習科? ふざけるな! 私に歯向かうつもりか」
「歯向かうつもりは毛頭ございません。初任科から始めると時間がかかります。巡査部長としての現場経験があるので、初任補習科で学んだほうがいいと思ったからです。長期間、給料をもらいながら授業を受けるのは気が引けます」
「鈴本係長。考察不足だという理由を教えてください」
「すぐに答を求めようとする。自分で考えようとしない。それも考察不足だ」
鈴本は吉野をじろりと見た。攻撃的な目だ。
「私は新品のタバコと答え、その理由も述べました。それを受けて、鈴本係長は考察不足だとおっしゃいましたが、理由はありませんでした。その理由を聞かせてください」
「ふん。どうしても聞きたいか」
「お願いします」
「教えてやろう。新品のタバコから採取できるのはホシの指紋だ。しかし、靴で踏み潰された吸殻から採取できるのは、指紋、さらには唾液と足跡だ。タバコに残された指紋以外に、ホシのものと思われる遺留物を複数採取できることになる。鑑識活動を通してホシを特定するには、どちらのタバコが有効となり得るか。もうわかるだろう。以上、だぁ」
鈴本は口から“以上”を吐き捨てた。
「ちょっと待ってください。それだけですか」
「なんだ。文句があるのか」
「文句はありません。ただ、質問の瑕疵について、私から説明させていただきたいと思っています。よろしいでしょうか」
「なにっ? まだそんなことを言っているのか。瑕疵なんかない。さっき言ったことがすべだ。以上と言っただろ!」
「鈴本係長」
事件担当係長が口を挟んだ。
「ん? なんだ」
「吉野デカ長の意見、聞いてもいいですか。どのような瑕疵があるのか興味があるんです。その瑕疵に瑕疵があれば、指摘すればいいと思います。いかがでしょうか」
「必要はない。と言いたいところだが、まあ聞いてみましょうか」
「それでは、デカ長、お願いします」
「はい、わかりました。鈴本係長の質問に答えることができないと言ったのには理由があるからです。二つのうちどちらかを選ばなくてはなりませんが、私は選択することができませんでした。なぜなら、正解がない、あるいは両方とも正解だと思ったからです」
矢のような視線が飛んできた。吉野の横顔に刺さった。無言の矢には“憎”の念が込められているようだ。発射元の眼球がまったく動かない。
「それはどういうことですか」
事件担当係長が言葉を挟んだ。
「はい。鈴本係長は、靴で踏み潰された吸殻から採取できるのは、指紋、唾液、足跡とおっしゃいました。確かに採取できる確率は高いと思います。でも、採取できない場合もあります。それは、地面が舗装道路ではなく、土の場合で、さらに雨が降っていたときです。地面が多くの雨を含みとても柔らかく、足跡さえつきにくい状態のとき、靴で踏む潰された吸殻から有用な情報を採取できないこともあるのではないでしょうか。一方で、犯人が触れている可能性が高い新品のタバコは、多少の型崩れがある程度です。犯人の唾液と足跡は採取できませんが、指紋を採取できる確率は高いです。私は、地面の状態が良好でない場合が多いと考え、有用な情報を採取できるのは新品のタバコと答えたのです」
「なるほど。条件設定によってはデカ長の意見もありということですか。でも、鈴本係長はアスファルト舗装やコンクリート舗装を想定しているわけですよね。だから、どちらも……」
「ありだと思います」
吉野は、すかさず言葉を継いだ。さらに
「吸殻も正解。新品のタバコも正解。誰も間違っていないということです」
「なるほど。口頭試問だから、詳細に条件を設定するのは難しいですね」
事件担当係長はすかさず返した。さらに表情を引き締め
「有用な情報を得られるよう、可及的速やかに捜査を続行してください」
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豪華なパーティーが開催された大邸宅で、一人の招待客が密室の中で死亡して発見される。部屋は内側から完全に施錠されており、窓も塞がれている。調査を進める中、次々と現れる証拠品や証言が事件をますます複雑にしていく。
掃除ロッカーの花子さん
ごまぺん⭐︎
ミステリー
一見普通の小学三年生に見える、上柳花子。
しかし、この小学生は普通の人間とは比べ物にもならない頭脳と身体能力を持っていた。
花子は自分が通う小学校の掃除ロッカーで起きた殺人事件の、意外な犯人を突き止めるのだった。
後悔と快感の中で
なつき
エッセイ・ノンフィクション
後悔してる私
快感に溺れてしまってる私
なつきの体験談かも知れないです
もしもあの人達がこれを読んだらどうしよう
もっと後悔して
もっと溺れてしまうかも
※感想を聞かせてもらえたらうれしいです
リモート刑事 笹本翔
雨垂 一滴
ミステリー
『リモート刑事 笹本翔』は、過去のトラウマと戦う一人の刑事が、リモート捜査で事件を解決していく、刑事ドラマです。
主人公の笹本翔は、かつて警察組織の中でトップクラスの捜査官でしたが、ある事件で仲間を失い、自身も重傷を負ったことで、外出恐怖症(アゴラフォビア)に陥り、現場に出ることができなくなってしまいます。
それでも、彼の卓越した分析力と冷静な判断力は衰えず、リモートで捜査指示を出しながら、次々と難事件を解決していきます。
物語の鍵を握るのは、翔の若き相棒・竹内優斗。熱血漢で行動力に満ちた優斗と、過去の傷を抱えながらも冷静に捜査を指揮する翔。二人の対照的なキャラクターが織りなすバディストーリーです。
翔は果たして過去のトラウマを克服し、再び現場に立つことができるのか?
翔と優斗が数々の難事件に挑戦します!
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