アクトレスの残痕

ぬくまろ

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「失礼します」
「誰?」
 串間が向かっていた出入り口に現われたのは、デカ長吉野だ。
「失礼します」
 さらに、出入り口に現われ、吉野の左側に立っているのは、中野巡査だ。
「どなたですか?」
 串間は立ち止まり、怪訝な顔をした。見知らぬ人たちが自分たちの領域にいきなり入ってきた。当然に問う。
「エントランスのドアが開いていましたので、勝手におじゃましました。新都心署から来た吉野です。劇団員の藤堂さくらさんが殺害された事件のことで、ちょっとお聞きしたいことがあります。少しお時間をいただけますか」
「どういう意味で、僕たちはいろいろ聞かれるのですか」
 田中が訝しげに問うた。
「藤堂さくらさんについてです」
「だから、僕たちはどういった扱いになるのですか。この中に犯人がいるという前提で、いろいろ聞かれるのですか」
 田中は不快感を露わにした。
「そんなことはありません。裁判でも推定無罪の原則がありますように、犯人と決めつけて、いろいろお伺いすることはありません。被害者のことをよく知っている人たちに、被害者のことを教えていただくというスタンスで動いています」
 吉野は丁寧な口調で答えた。
「藤堂さくらさんが、あのような形で生命を終えなければならなかったことについて、劇団員皆様の悲しみは察するに余りあるものがあります。私たち警察としては、一刻も早く犯人を捕まえるため、情報を収集しながら検挙活動にあたっています。そのためのご協力をお願いできないでしょうか」
 吉野の左側に立っている中野が軽く会釈した。
「藤堂さんと特に親しい方はいらっしゃいますか」
 みんなの視線が吉野に向けられた。ただの視線でない。なぜそんなこと聞く。そいつが犯人だというのか。警察はもう知っているんだな。というような、射るような視線だ。
「ここの劇団員たちは一つの方向に向かっていつも稽古しています。仲間の結束は固い。そういう意味で親しいと言えますが……」
「串間さん。特に、と聞いていますよ」
 田中が串間の言葉を遮った。
「特に親しいのは浦辺さんですが、今ここにはいません」
 赤木が言い放った。
「どちらに、いらっしゃいますか」
 吉野は怪訝な声で問うた。
「さっきまでここにいたのですが、出て行ってしまったのです」
「どうして出て行ってしまったのですか」
「ちょっとしたやりとりがあって、それが気に入らなかったみたい。それで消えました」
 赤木の顔が紅潮している。
「責任者の方はいらっしゃいますか」
「塾長の串間です」
 吉野の視線は、串間を既にとらえていた。このスタジオに入ってきたときに、誰が責任者なのか薄々わかっていたが、念のために確認したというニュアンスだ。
「ちょっとお時間よろしいですか。ここではなくて、別に部屋があれば、そこでいろいろお聞きしたいのですか」
「うーん。ふっ。はい」
 串間の返事は一瞬、間があった。竹下の横顔をチラッと見た後だった。
 串間が歩き出した。吉野は串間の後に続いた。
 二人がスタジオを出て行った後、潮が引いたように静寂が訪れた。
 出入り口の近くに立っている中野は、一人ひとりを観察している。観察しているといっても、じろじろ見ているわけではない。スタジオ全体を見回すように、さりげなく視線を動かしているのだ。しかし、表情やその変化を見逃さないよう細心の注意を払う。スタジオの中には、田中、佐々木、赤木、竹下がいる。四人はスタジオを出るそぶりは見せない。串間の聴取が終わるまで、ここで待機するつもりなのだろう。息が詰まる静寂だ。誰かに何かを話したい。それぞれがそれぞれに視線を送るが、視線が合うと、すぐにそらす。聞こえるのは、気まずさをごまかす咳払いだけだ。佐々木の目は真っ赤だ。泣きはらしていたからだ。今も完全には止まっていない。誰かが声をかければ、また泣き出しそうだ。赤木が涙を見せたのは最初だけだ。つらそうな表情ではあるが、何かに不快感を抱いているのか、口を真一文字に結んでいる。田中はパイプ椅子に座り、両手で膝頭をつかみ、貧乏ゆすりをしている。目がうつろだ。頭の中では、目の前のスタジオの風景とは違ったシーンが展開されているに違いない。くちびるが震えている。何かにおびえているようにも見える。田中の左側、三メートルほどのところに、竹下があぐらをかいている。一メートルほど先に、視線をロックし、口角を上げたり下げたりしている。事件について、何か思い当たる節があるという表情もうかがえる。涙を流していないのは竹下だけだ。
 中野は一人ひとりの表情を一通り観察し終えたようだ。深呼吸を一回。視線を天井に向けた。そして、スタジオの中をゆっくり見回し始めた。中野に視線を送る者はいない。沈黙が流れ、どことなく気まずい空気が漂い始めた。
 劇団員たちの視線が落ちる。床に座ったまま膝を抱える者。壁を背にして座り、腕を組み、床の一点を凝視する者。機材に影にすっぽり隠れるように体を丸める者。中野との関わりを拒むかのように、気まずい空気はさらに濃度を増していく。
「あのう」
 中野が口を開いた。他に誰も口を開く者がいないから、言葉を発したのか。誰に話しかけるわけでもなく、床に向かってつぶやいた。劇団員たちの反応はない。
「みなさんが演じる『Death rule』って、どのような物語なのですか」
 今度は、視線をポスターに移し、興味津々という口調で問いかけた。すると、赤木は目をパッと大きく見開き、『Death rule』について語り始めた。

 あらすじはこうだ。
〈JR新橋駅日比谷口のSL広場で、行き交う人たちにチラシを配っている人物がいる。その人物が配布しているのは、片面モノクロ印刷したA4サイズのチラシ。内容は、自殺志願者を対象にしたセミナーの勧誘であった。広場では忙しい人たちが多く、チラシを受け取る人はあまりいない。受け取っても、タイトルを見て不快に思うのか、そのまま道に捨てたり、丸めてゴミ箱に入れたりで、じっくり読む人なんてほとんどいなかった。
 その中で、深い悩みを抱いていたのか、興味を示した人たちが開催日に会場に足を運んだ。
 セミナー会場は、九階建てのビルの最上階にある。そのビルは、ペンシル型で細長く、ワンフロアに一つの会社や事務所が入っているようなこぢんまりとした感じのものである。参加者全員が揃うと、主催者のあいさつに続いて、セミナーの内容についての説明があった。そこに集まった人たちは自殺志願者だ。今すぐ、あるいは近いうちに死にたいと思っている人たちがほとんどである。主催者もそのことは十分に承知している。最終目的がなんなのかも伝えようとすることもなく時間だけが過ぎていく〉
 というストーリーである。

 中野に語りかける赤木の表情が一変して笑顔になり、口調はとにかく熱かった。口調に連動し、目がキラキラしていた。星が見えた。ときどき流れ星が。
 中野は嬉しかったようだ。満面の笑みを返した。
「さくらが主役をやる予定だったんです。楽しみにしていたんです」
 突然、佐々木が口を開いた。
「そうなんですか」「悩んでもいたな」
 中野と田中はほとんど同時だった。中野は反射的に田中を見た。苦虫を噛み潰していた。
「どのようなことで悩んでいたのですか」
 当然に、中野は問うた。
「役となかなか向き合えない。そんなことを言っていました。まあ、事件とは関係ないと思いますが」
「役と向き合えない?」
「ええ。さくらが演じる予定だったセミナーの主催者ですが、影のある人物なんです。その影を表現するのに苦労していました。背負っている心の闇を表現するには、ただ暗いだけじゃだめ。不安や恐怖を感染させるだけの負のエネルギーを生み出さなきゃいけないんです。見ている人たちを恐怖の底に陥れるイメージかな。それで、さくら」
 田中は、中野に向けていた視線をゆっくり竹下に移した。
 竹下は気づいたようだ。一瞬ビクッとした。
「それで、さくらさんは?」
 中野が問う。
「さくらは悩んで、いやっ。行き詰っていた。何度も何度も稽古を繰り返していたんですが、繰り返せば繰り返すほど、言葉と身体の表現が解離していくと訴えていました。殺気が消えて行ってしまうとも言っていました」
 田中は、中野に向けていた視線を、再びゆっくり竹下に移した。
 中野も、田中に向けていた視線を竹下に移した。竹下は予期していたようだ。無反応であった。というよりも、何が来ても対応できるように、予め透明のバリアを張っていたようにも見える。
「田中さん。何か気になることでもあるんですか。少しでも気になっていることがあるなら、おっしゃっていただけませんか」
「きっと、事件とは関係ないですよ」
「いいえ。小さな点が大きなボールになることだってあります。情報については警察が精査します。どんな些細なことでもいいので、おっしゃっていただけませんか」
 田中は絞首台に視線を移し
「演じるんではなくて、なりきらなければならない。ジキルにもハイドにもならなければならない。でも、通常の人間にはそれができない。だから、自分をどんどん追い込む必要があるんです。僕たちはそれを追求しているんです。究極の人間、究極の舞台」
 田中の顔がみるみるうちに紅潮していく。殺気をはらんだ目が中野に向かう。
「藤堂さくらさんは演技のことで悩んでいたとおっしゃいましたよね。事件との関連に思い当たる節はあるのですか」
 中野が放った直後、八個の目が中野を刺した。田中、赤木、佐々木、そして竹下も。
 中野は半歩下がった。そして、一人ひとりの表情を確認する。痛い視線だ。プライベートなら視線をそらせたい。が、私は警察官だ。私が放った言葉に対して、なぜ全員が同じように反応するのか。瞳の奥を読み取るように、刺し返す。田中の目は、狂気をはらんだままだ。狂気度が増す。赤木の目は、怒っている。何に対しての怒りか。佐々木の目は、おびえか驚きか、読み取りづらい表情だ。竹下のそれは? 怒り? 驚き? 蔑み? よくわからない。いくつもの人格が同時に現われているような目、形相だ。中野が一人ひとりを確認した。誰も口を開こうとしない。無言の圧力で支配される。
「おまたせ」
 一人の人物が入ってきた。続いて、もう一人。声をかけたのは、吉野だ。遅れて入ってきたのは、塾長の串間だ。中野はふっと息を吐いた。無言の圧力から解放されたからだろう。安堵の表情を見せた。
「珠美、行くよ」
 吉野と中野はスタジオを後にした。
 建物から出るや否や
「デカ長。何かわかりましたか」
「劇団員間のトラブル、ありありだね」
「そうなんですか」
「あー、まずは、浦辺俊一。藤堂さくらの現彼だ。一年ほど前から付き合っているらしい。公私ともに仲がよかった」
「仲がよかった? 過去形ですか」
「ああ、公の面では大きな変化はないらしい。役者同士、お互いに認め合っていたから、私情は抑えていたということだ。しかし、プライベートな部分では変化があったということだ。藤堂さくらさんが浦辺に少し距離を置きたいと言っていたらしい」
「別れたいということですよね」
 中野の問いかけに、吉野は首を傾げ
「本心はわからない。塾長の串間が言うには、役者としてお互いに成長するためには、お互いのいいところだけを見ていきたい、というようなことらしい」
「いいところだけを見ていきたいか。役者さんらしいセリフですね。でも、受け取るほうは、別れたいと言われているような気がするでしょうね。遠く離れて行ってしまうニュアンスかな」
「女は別れたい。男は別れたくない。そんなことはよくあること」
「デカ長は、浦辺さんが絡んでいると考えていますか」
「単純な発想だとそうなるね。それと、田中という役者も害者に好意を寄せていた時期があったらしい」
「時期があった? 過去形ですか」
「串間はそう言っていたけど、害者に対する田中の現在の気持ちはどうかな。珠美、ところで竹下という人物、どんな印象だった?」
「竹下さん、よくわからないです。あまり話さない人でした」
「そうか。プライベートなことはあまり話さないみたい。串間もよくわからないらしい。ただ、役作りへの情熱がすごいということだ。絶食してやせたり、食べまくって太ったり。それも、短期間で成し遂げるらしい。プライベートな時間も役作りに費やしているのだろう。役作りに関しては、周りは一目置いていたということね」
「そうですか。私が感じた竹下さんの印象もそうですね。プライベートなことは話さない、話したくない、何か過去があるような雰囲気でした」
「女優について話してくれた。赤木は気が強いらしい。公私ともにその強さを発揮している。特に、男性軍には当たりが強い。普通ならスルーするような事柄でも、自分から突っかかっていくようなところもあるようだ。次に佐々木。佐々木は引っ込み思案な性格だそうだ。自分から前に出るようなタイプではなく、人の指示を待っているようなところがある。繊細ではあるが、根暗ではない。串間が面接したときの第一印象として、主張がないので女優には向いていないと感じたということ。なぜ女優をめざしているのか、応募の動機を聞いても、よくわからなかったらしい。で、なぜ採用したのか。涙目にいとおしさを感じたということみたい。ひいては観客にもそう感じさせる魅力があるのではないか」
 吉野は言い終えると、口を真一文字に結んだ。
 中野は吉野の横顔を見て
「劇団員の中にホシがいると考えていますか」
 吉野は真一文字をさらに固く結び、十メートルほど歩いた後、立ち止まり
「被害者学に注目すると」
 そう言って、再び歩き出した。
 中野は吉野の横顔をちらちら見ながら、歩幅を合わせていた。吉野は黙々と歩いていた。口を開く気配がない。中野は吉野の横顔から街並みに視線を移し、自分が警察官を志望した理由を回想していた。
 中野が警察官になった理由は父親の殉職だった。歌舞伎町交番に勤務していた巡査部長の父親中野良男(よしお)が何者かに殺された。歌舞伎町は日本一の歓楽街と呼ばれており、ある意味で危険であり、この地域を甘く見ている人たちがトラブルに遭遇する機会は多い。
 ある日、飲食店からの通報で良男ともう一人の警官が現場に駆けつけた。そして二人は刺された。店の裏側で倒れており、目撃情報もない。突発的だったのか、計画的だったのかもわからないまま時は流れた。父親が殉職したとき珠美は六歳。小学生になる直前だった。
 そして、入学式のとき父親と一緒に写真に納まる同級生の笑顔を見て、父親を失った自分自身を強く自覚した。『おまわりさんになって犯人を捕まえる』……小学一年生、珠美の歩む道は決まった。
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