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第16話 風邪

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 昨日の夜から若干の違和感はあった。喉が少し痛かったし、熱っぽかった。だから夜更かしもせず、大人しく早く寝たのに、朝起きたら症状が悪化していて、私はベッドの上で絶望した。認めたくはないが、風邪を引いてしまったようだ。
 今日はバイトがあるので、風邪など引いていない設定にしてベッドの縁に座った。部屋は暑いのに寒気がする。親に心配をかけてはいけないので、いつも通りに振る舞って、食欲は皆無だったが朝ご飯も食べた。どうにか共働きの二人を見送ったところで力尽きた。頭がひどく痛む。
 残念だが、バイトは行けそうにない。急に休む時は、なるべく仲間内でシフトを調整してくれると有り難いと店長から言われている。奈都なつは今日は部活があるが、他のバイト仲間とはまだそこまで仲良しではない。仕方なく奈都に電話すると、スマホ越しに奈都の明るい声がした。
『おはよう。朝からどうしたの?』
「奈都……」
 友達の声を聞いたら何だか胸が熱くなって、思わず涙が込み上げてきた。異変を察知したのか、奈都が慌てた様子で声を上げた。
『チサ、どうしたの!? 声が少しおかしいよ?』
「風邪引いたみたいで……。奈都、今日部活だよね?」
 力無く尋ねると、奈都が泣きそうな声で言った。
『そんなのどうでもいいよ。看病しに行こうか? 一人? お父さんもお母さんも休めなかった?』
「親には心配かけたくない」
『限度があるでしょ! それはいいや。じゃあ、私が看病に行く!』
「いい。寝てるから。バイトを代わって欲しくて……」
 ゴホゴホと咳き込むと、奈都が「ああ」と呟いてから、苦しそうに声を絞り出した。
『わかった。そっちは私が全部なんとかするから、チサは薬飲んで寝てて!』
「ありがとう。ごめんね、部活なのに。ごめん……」
 泣きながら鼻をすすると、奈都が悲鳴じみた声を上げた。
『そんなの本当にどうでもいいから! 大人しく寝てて!』
「うん……」
 電話を切ると、胃の辺りが気持ち悪くて、ふらふらとトイレに入った。無理に食べたが、消化できそうにない。床に膝をついて、片方の手を口に突っ込む。喉の奥を触って胃の中の物を全部吐き出すと、多少楽になった。もっとも、起きた時の状態に戻っただけだ。
 手を洗って歯を磨くと、部屋に戻ってベッドに倒れ込んだ。エアコンはかけたが、汗が止まらない。スポーツドリンクが飲みたいが、そんなものは常備していないし、買いに行けるような体調ではない。
 頭が痛い。薬を飲んだ方がいいだろうか。風邪の時に熱が出るのは、菌を殺すためだから、薬で熱は下げない方がいいと聞いたことがある。同じように、食欲がないのも無理に食べない方がいいらしい。素直に体の反応に任せるのが、一番早く治ると聞いてそうしているが、これだけ痛いと寝ることもできない。
 仕方なく頭痛薬だけ飲んだ。熱は測っていないが、38度くらいだろうか。39度とかあったらどうしよう。病院に行った方がいいだろうか。夜までに治りそうにない。親にどうして言わなかったんだと怒られるだろう。心配もかけてしまう。仕方ない。昼くらいから調子が悪くなったことにしよう。
 それにしても寂しい。本音を言えば奈都に来て欲しかったが、風邪をうつすわけにはいかないし、バイト先に迷惑をかけないのが先決だ。奈都も、私が抱く罪悪感を理解したからすんなりと承諾したのだ。もし逆の立場だったら、バイト先に謝って奈都の看病に行っている。
 帰宅部の二人はどうしているだろう。涼夏すずかは今日はバイトだから、今頃気合を入れてメイクでもしているだろうか。絢音あやねも今日は夜に塾があるが、日中は何をするのだろう。ギターの練習でもするのかもしれない。
 みんな忙しい。正確には、なるべくたくさん遊べるように、塾とバイトのシフトを重ねている。もっとも、空いていたからといって、看病に来いとは言えない。親よりは甘えやすいが、友達の域を超えたお願いだ。
 頭が痛い。死にそうだ。私が死んでも、涼夏は友達が多いし、奈都も友達が多いし、絢音はバンドができる仲間がいる。みんなきっと大丈夫だ。それはそれで寂しいが、彼女たちの人生の重荷にはなりたくない。
 思考がどんどんネガティブになる。ベッドの中で悶えたり唸ったり、寝たり起きたりを繰り返していたら、頭上でスマホが鳴った。時計を見ると、薬を飲んでから2時間ほど経っていた。思ったよりは寝ていたらしい。
 スマホを取ると、絢音からだった。通話ボタンをタップすると、前置きなしで絢音が言った。
『今家の前にいるから、開けて。エントランスは他の人に紛れて入ってきた』
「あの、私、風邪を……」
『ナツから聞いた。ドアを開けるのが千紗都ちさとの最後の仕事だから』
 いきなりのことで頭が混乱したが、とにかくベッドから起き上がった。奈都が絢音に声をかけたのだろう。もしかしたら、涼夏の耳にも届いているかもしれない。だとしたら、涼夏は今日一日、ずっと私のことを気にしながらバイトをすることになる。それは申し訳なく思うが、今日はもう頭が回らないので絢音に任せよう。
 ドアを開けると、絢音が入ってきて鍵をかけた。靴を脱いで私の体を支えるように抱きしめると、額に手を当てる。
「だいぶ熱いね。しかも、汗でベタベタじゃん」
 眉をひそめながら私を部屋に運んで、ベッドに押し倒した。大きなバッグを開けて、無造作にスポーツドリンクを取り出す。私が求めていた水分だ。
「それが飲みたかった。絢音は、私をわかってる」
「そうだね」
 キャップを開けると、絢音はなんでもないようにドリンクを自分の口に含んだ。自分で飲むのかと突っ込みたかったが、そんな元気もなく呆然と見つめていると、絢音が私の両肩に手を置いて顔を近付けた。唇が触れ合って、生温かいスポーツドリンクが私の口に注ぎ込まれる。
 相変わらず、この子は頭がおかしい。絢音は私をわかっているが、私が絢音を理解するのは難しいようだ。
「風邪、うつるよ?」
 ドリンクを零さないように言ってみたが、絢音は小さく笑っただけだった。
 口の中2杯分飲まされると、干涸びていた体に水分が戻ってくる感覚があった。ぐったりとベッドに体を預けると、絢音がドリンクのキャップを閉めながら言った。
「服の替え、勝手に探すよ?」
「うん。テキトーに漁って」
 かすれる声でそう言って目を閉じた。絢音が引き出しを開けたり、換気のために窓を開けたり、部屋の外に出て行ったり、忙しく動き回る気配がする。わざわざ来てもらって、まだお礼の一つも言っていないが、このまま任せよう。しばらく休んでいると、絢音が戻ってきて私の体を起こした。
 水の音がしたので見てみると、お湯を入れた洗面器でタオルを絞っていた。体を拭いてくれるらしい。看病というより介護に近くなってきた。
 絢音が剥がすように私のシャツを脱がせて、ブラジャーのホックを外した。途端に肩が楽になる。今思えば、風邪の時くらいノーブラで良かったかもしれない。
 目を閉じて肩で息をしていると、絢音が私の首から肩、腕、腋、指、そして何故か念入りに胸やお腹をタオルで拭きながら、くすっと笑った。
「弱ってる千紗都、可愛い」
「変態」
「もちろん、弱ってなくても可愛い」
 柔らかいタオルが気持ちいい。時々胸に触れながら一通り体を拭くと、絢音が片手でむにっと胸を挟んで、先端を口に含んだ。さすがに目を開けて、ジトッと睨んだ。
「何をしてるの?」
「千紗都、美乳だよね。写真撮って涼夏に送ってもいい?」
「ダメ」
 絢音はしばらく私の胸に舌を這わせてから、新しいシャツを着せた。綺麗になった体に乾いたシャツがとても爽快だ。
 もう一度ベッドに横になると、絢音が私の膝を立たせた。そしてお尻の方からパジャマのズボンに手をかけて、下着ごと一気に剥ぎ取る。さすがに動揺したが、もう着せ替え人形にでもなったつもりで委ねることにした。
 絢音がタオルを絞って、私のおへその下から足の先まで、前側を満遍なく綺麗に拭いた。ごろんと転がしてうつ伏せにすると、今度はお尻から膝の裏、ふくらはぎや足の裏を念入りにタオルで擦る。気持ちはいいが、さすがに友達に股やお尻を拭いてもらうのは恥ずかしい。私が枕に顔を押し付けて唸っていると、絢音がタオルを置いて私の体をもう一度仰向けにした。
「知的好奇心が疼く」
 うっとりするようにそう言って、私の体に顔を近付ける。この子はきっと頭がおかしいのだ。来てくれたお礼に絢音の好奇心に付き合ってあげると、絢音はしばらく舌先で私の体をなぞってから、満足したように顔を離して、新しい下着とズボンを穿かせた。
「私、夕方までリビングにいるから、何かあったら気楽に呼んでね」
 洗面器とタオルを片付けながら、絢音が明るい声で言った。私は小さく首を振った。
「悪いよ」
「何も悪くないから。お姉ちゃんみたいに甘えるか、召使のようにこき使ってね」
 随分と両極端だ。その二択なら前者だろうか。誕生日は私の方が二日早いが、絢音には涼夏とはまた違う包容力がある。
「お姉ちゃん……」
 熱っぽく呟くと、絢音は嬉しそうに微笑んで、もう一度スポーツドリンクを口移しで飲ませてくれた。私は嬉しいが、風邪がうつらないか、それだけが心配だ。
 遊び道具は持ってきたようだが、せっかくなのでタブレットを貸してあげた。動画でも見て過ごしてくれればと思う。絢音の背中を見送ってから目を閉じる。朝みたいな孤独感はなく、誰かいる安心感にとても穏やかな気持ちになった。
 汗の不快感からも解放されて、頭がくらくらするのに任せて睡魔に身を委ねると、意識が混濁した。夢を見たり、何度か目が覚めたり、この世とあの世を行ったり来たりしていたら、やがて完全に目が覚めた。
 トイレに行って戻ってくると、絢音が部屋の椅子に座っていた。時計を見ると3時間以上経っている。友達に来てもらってさんざん看病させた上、ずっと寝ているとか、罪悪感を覚えないでもないが、まあさっき知的好奇心を満たしてあげたのでいいだろう。
 ドリンクを一口飲んでベッドに戻ると、絢音が私の髪をそっと撫でた。
「気分はどう?」
「多少ましになった」
「そう。添い寝してあげようか?」
 絢音がいたずらっぽく笑う。どこまで本気かはわからないが、私が素直に「うん」と頷くと、絢音は驚いた顔をしてから、スカートを脱いで私の隣に体を横たえた。
「弱ってる千紗都、本当に可愛いね。ずっと弱ってて」
 冗談めかしてそう言う絢音を、横から抱き締めたり、上に乗せてみたり、上に乗ってみたりして、落ち着く場所を探した。奈都や涼夏とはまた違う感触にドキドキするが、生憎それを楽しめるほど回復していなかった。
 いいポジションが見つかったので、目を閉じてグッタリしていると、絢音が私の顔に唇を押し当てた。しばらく舌を絡め合って、ほぅっと息を吐く。
「絢音に風邪をうつさないか心配」
「一応さっきから、キスするたびに口をゆすいでる」
「それ、普通の時に言われたらショック死する」
 絶望的な声で訴えると、絢音が「確かに」と笑った。人肌が温かい。胸に手を這わせると、呼吸に合わせて微かに上下していた。
「絢音、生きてる」
「そうだね。千紗都は死にそう」
「生きる。涼夏は?」
「ナツが連絡したと思うけど、二人には私が看病してるって連絡したから安心して。涼夏には寝顔の写真も送っておいた」
 いつの間に撮られたのかわからないが、3時間も寝ていたのだ。それくらいは好きにしてくれていい。そして、まだまだ寝たい。風邪の時は結局、寝る以外に出来ることはない。
 絢音の温もりと匂いを感じながら微睡んでいたら、また2時間ほど眠っていた。目が覚めたら絢音はまだベッドの中にいて、私の髪を撫でていた。
「ごめん。すごく寝てた」
「ごめんもありがとうも要らない」
 絢音はそう言いながら体を起こすと、スポーツドリンクを口に含んだ。それを私に飲ませてから柔らかく微笑む。
「起きなかったらどうしようって、少し困ってた」
「死なないよ?」
「そういう意味じゃない。塾があるしね」
 そう言われて時計を見ると、もう夕方だった。カーテンの向こうは明るいが、一日は確実に終わろうとしている。本当に寝ているだけに絢音を一日付き合わせてしまった。改めてお礼を言うと、絢音は「全然いいのに」と呆れたように息を吐いた。
「一緒に寝れたし、裸も見たし、触ったし、舐めたし、嗅いだし、五感全部が幸せな一日だった」
「絢音、私のこと、大好きだね」
「そうだね。この愛は誰にも負けないって言いたいけど、涼夏とナツもだいぶ千紗都のこと好きだからなぁ」
 ぶつぶつそう言いながら、ベッドから降りてスカートを穿く。私が横になったまま眺めていると、荷物をまとめてからそっと私の頬に触れた。
「後は千紗都のご両親に託そう。何時に帰ってくるの?」
「まだ2時間くらいあるかな」
「結構あるね」
「帰って来ても何も言わないけどね。ご飯要らないってくらいは言おうかな。今食べたらまた吐きそうだし」
 目を閉じたまま、長い息を吐く。一人は寂しいが、両親には甘えられないので、いっそずっと絢音がいてくれた方がいい。我が儘を承知でそう言うと、絢音が私の髪を撫でながら言った。
「千紗都の親は厳しいの?」
「全然」
「じゃあ、もっと甘えればいいのに。子供なんだし。恥ずかしい年頃なの?」
「私の心情的な問題」
 ポツリとそう言うと、絢音は次の言葉を待つように息を潜めた。時間はまだ大丈夫なのだろうか。それなら、少し聞いてもらうのも悪くない。今まで誰にも話したことがないが、弱っているせいか、今日は聞いて欲しい気分だ。
「だいぶ昔だけどね、私はずっと一人っ子だし、寂しいとかお姉ちゃんが欲しいとか、そう言って親を困らせてた」
「小さい時でしょ? しょうがないよ。私は逆に、弟に消えて欲しいって言って、親に殴られたことがある」
「それもすごいね」
「まあ、子供だし。それで?」
 絢音がスッと話を戻す。親に殴られる絢音の話とか、もっと聞きたいが、それはまた涼夏がいる時にしよう。
「そんなふうに困らせ続けてたら、ある日、お母さんに泣かれて」
「それでトラウマに?」
「私、お兄ちゃんかお姉ちゃんがいるはずだったんだって」
「ああ」
 絢音はそれですべてを理解したように頷いた。つまり、初めて出来た赤ちゃんは、産まれて来なかったのだ。母親は私が産まれてからも、ずっとそのことを引きずっていた。
「もしかしたら、今はもう気にしてないかもしれない。でも、私はもう絶対に親の前で寂しがるのはやめようって。自分でそう決めたら、甘えるのも下手になって」
 私が寂しがると、親は子供を産めなかった自責の念に囚われる。だから私は、ずっと一人で平気な振りをしている。もしかしたら気付かれているのかもしれないが、お互いにそれを言葉にしたことはない。
「それでナツに甘えてるの?」
「この話は奈都にもしてない。奈都と出会ったのはずっと後だから違うと思うけど、でももしかしたら、私はずっと甘えられる人が欲しかったのかもしれない」
 中学の時、一人が苦手なのに、学校でも孤独になってしまった。どこにも居場所がなく、親にも甘えられない私を受け止めてくれたのが奈都だった。
「思ったよりも深い仲だね」
 絢音が敵わないと首を振る。
「でも、今は絢音も涼夏も本当に大事だよ。だから、ずっと私と一緒にいてね」
 熱にうなされるようにそう言うと、絢音はくすっと笑って私の頬にキスをした。
「それはもちろん。この話は、涼夏には?」
 奈都にもしたことがない話だ。だが、もう解禁で構わない。親にも関わることなので積極的に話したいとは思わないが、絢音に話したことを涼夏に隠すことはしたくない。
「涼夏にはいいよ。むしろ、絢音から話しておいて。私が許可したって言って」
「わかった。ナツには千紗都から話す?」
「わからない。まあ、帰宅部だけの秘密ってことで」
 もう一度目を閉じると、リビングでインターホンが鳴った。郵便だろうと絢音に任せると、バイトを終えた奈都が駆け付けてくれたらしい。
「親も友達も、みんな私を甘やかしてくれる」
 私が深く息を吐くと、絢音が笑って荷物を抱えた。
「私にももっと甘えてね。じゃあ、後2時間は正妻に任せる」
「うん。今日はありがとう。今度何か奢るよ」
「ん。期待してる」
 そんなものは必要ないという顔で、絢音が手を振って部屋を出て行った。玄関で絢音と奈都の話す声がする。看病の引き継ぎが行われているようだ。
 本当に友達に恵まれた。私のどこにそんなに魅力があるのかはさっぱりわからないが、これからもずっと好きでいてくれたら嬉しい。ずっと、お互いに好きでいられたら嬉しい。
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