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第9話 料理(2)

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 イエローラインに乗ると、真っ直ぐ私の家に行くことにした。先程の話は前振りだったのか、涼夏が一緒に料理を作ろうと言い出したのだ。正直あまり興味がなかったが、作れるに越したことはない。それに、涼夏の手料理は食べてみたい。
 空いていたシートに並んで腰かけると、涼夏が明るい声で言った。
「たまにご飯がない時があるんでしょ? そんな時、自分の分だけでも作れたらいいじゃん?」
「外食命令が出ると、千円もらえるの。お釣りは自分のものになるから、自分で作るメリットを感じない」
 私が淡々とそう答えると、涼夏は私の顔を見て何か言いかけて、口を閉ざしてふっと視線を逸らせた。微妙に傷付く動きだ。呆れられただろうか。涼夏の顔の横に、「この子、ダメだな」という吹き出しが見えた。
 涼夏はしばらく無言で足元を見つめてから、ぽつりと呟くように言った。
「今日は、和食と洋食、どっちがいい?」
「それより、今の私の発言はスルーなの? なじってくれてもいいから、無視はやめて」
「ハンバーグとか作ってみる?」
「ねえ、お願い。私をなじって。つまらなくて卑しい女だって罵って!」
 そう懇願すると、涼夏は口を半開きにして、ドン引きしたように身を引いた。もうダメだ。私が両手で顔を覆って首を振ると、涼夏が隣でくすくす笑った。
 最寄り駅で降りてスーパーに寄る。せっかくだから両親の分も作り、それを事前に伝えろと言われたので、気が乗らなかったが母親にメールすると、レンチンできるものを作れとか、冷ましてから冷蔵庫に入れろなど、淡々と指示された。自分から食事を作るなど、一度も言ったことがないから、ひょっとしたら驚かれたり喜ばれたりするのではないかと期待したが、そんなことはなかった。
「私のやる気は失われた……」
 メールを見せながら肩を落とすと、涼夏は材料をカゴに入れながら「ドンマイ」と肩を叩いた。
 家に帰ると、とりあえず食材を冷蔵庫に入れた。今から作るとまだ早いので、少し部屋でくつろぐことにする。エアコンを入れながら適当に座るよう促すと、涼夏はテーブルの前にちょこんと座って、ポンポンと私のベッドを叩いた。
「これが愛のベッドか」
「愛のって?」
「ナッちゃんと1時間以上、ハグしたベッドでしょ?」
 私を見上げて、涼夏がからかうようにニッと笑った。私はやれやれと首を振って、涼夏の隣に腰を下ろした。
「涼夏、そのネタ大好きだね」
「いやー、なんか衝撃的だったから。1時間ってすごくない?」
「試してみる?」
 そう言って真顔で見つめると、涼夏はごくりと息を呑んで、わかりやすく顔を赤くした。動揺する涼夏をふわりと抱きしめる。まだエアコンもかけたばかりで、私も涼夏も汗でベタベタだ。湿度を感じながら涼夏の髪に顔を埋めると、甘い香りがした。
「えっと……あの……」
 涼夏が困ったように手を動かして、たどたどしく私の背中に置いた。鼻息が荒い。体が怯えたように強張っている。
「深呼吸して力を抜いて」
「本当にするの?」
「今16時半前だから、17時半までだね」
 いつもの声音でそう告げながら、涼夏の体を抱きしめたまま、ゆっくりとカーペットの上に横たわった。布団の上の方が体は痛くならないだろうが、さすがにこんな汗まみれで寝たくない。そう思っての行動だったが、仰向けに寝かせた涼夏に体重を預けた瞬間、失敗したと思った。
 床が硬い分、涼夏の体の柔らかさと弾力が、ダイレクトに私の体に跳ね返ってくる。二人の間で押し潰される胸、呼吸に合わせて上下するお腹、汗ばんだうなじ、擦れ合う太もも、苦しそうな吐息、むせ返るような匂い。顔の横で両手を握り、一切床に触れないように全体重を乗せると、涼夏が濁点のつくような呻き声を漏らした。
「千紗都、苦しい……」
「このまま1時間」
「無理、死ぬ。すでに息が苦しい」
 仕方がないので体を離して涼夏を抱き起こすと、押し倒すようにベッドに転がした。もう一度上に乗って、片腕を細い腰に巻き付けて、もう片方の手で髪をくしゃっと撫でた。
「ほら、これでもう奈都だけのものじゃなくなったよ?」
「千紗都、どうしたの? なんかもう、一線どころか百線くらい超えてる気がするんだけど」
「涼夏がいけないの」
「一体私の何がいけなかったのか。キスか? あのキスのせいか?」
 おどけたように涼夏が言ったが、私は無視して涼夏の輪郭を手でなぞった。顔を上げると、涼夏が目を閉じて色っぽい顔をしていた。わずかに開かれた唇が色っぽい。可愛いというレベルを超越している。容姿だけでも天使なのに、性格までいいのだから、神は一体この子に何物を与えたのだろう。
 後頭部の下に手を入れながら唇を押し付けると、涼夏はかすかにまぶたを開いて、潤んだ瞳で私を見た。
「ナッちゃんとも、こんなふうだったの……?」
 キスをしたまま、涼夏がかすれる声を漏らす。私はあくまで冷静に告げた。
「いや、奈都とはキスしたことがない」
「正妻だから、大事にしてるんだ……」
「私は涼夏のことも大事にしてる。本気で言ってるなら怒る」
「ごめん……」
 弱々しく謝って、涼夏は私の背中に両手を絡めて目を閉じた。遊びに行く時はどんどん決めてグイグイ引っ張って行くくせに、抱きしめている時はしおらしい。そのギャップがまた可愛い。
 そういう意味では、絢音は反対かもしれない。いつもはにこにことついてくるが、ハグの主導権は常に向こうにある。そもそも今私と涼夏がこうしているのも、絢音が私たちにハグの文化を植え付けたせいだ。
 せっかくだから、キスも1時間してみるかと、角度を変えながら唇をむさぼる。舌を絡め合ったり、唾液を飲んだり飲ませたり、時々体勢を変えてごろごろしていたら、あまりの気持ち良さに頭がおかしくなりそうだった。
 そのまま1時間。体を起こしてベッドの端に座ると、涼夏は仰向けに倒れたままぜぇぜぇと荒い息を吐いた。汗で額に張り付いた前髪が色っぽい。
「初めての舌は、ナッちゃんにあげるんじゃなかったの……?」
 涼夏が熱にうなされるように言って、唾液でベタベタになった口の周りを手で拭った。
「うん。涼夏が可愛すぎたし、奈都とはなんか、キスとかしない気がする」
 生理の日に下着を下ろさせておいて何だが、やはり奈都とは絢音や涼夏とは付き合い方が違う。それは恐らく、中学から一緒だからではなく、奈都が帰宅部ではないからだ。奈都のことは本当に好きだが、絢音や涼夏には感じる運命共同体のようなものを、奈都からは感じない。
「ダメだよ、正妻なんだから」
 涼夏がゆっくりと体を起こして非難する。何か必要のない罪悪感でも感じているのだろうか。
「じゃあ、奈都には何か別の初めてを捧げるよ」
 適当にそう言うと、涼夏は何を思ったのか、両手で顔を覆ってブンブンと首を振った。何を想像しているのかはわからないが、そろそろこの生温い空気を断ち切らなくてはいけない。
 手を引いて無理矢理起こすと、キッチンに引きずり込んだ。綺麗に手を洗って材料を並べる。
「さっ、ハンバーグの作り方を教えてくれるんでしょ?」
「今日はもう無理。千紗都、可愛くて、柔らかくて、いい匂いがした」
「親に作るって言ってあるし!」
「コンビニで買って、レンジでチンしよ?」
 腑抜けた顔で涼夏がそう言って、うっとりする眼差しで私を見つめた。古沼の遊歩道で、親にご飯を作ってあげたらどうかと言っていた天使はどこに行ってしまったのか。感動を返してほしい。
「ご飯炊く? おかずはハンバーグだけ? 親にがっかりされそうだから、何かもう1品欲しいけど」
 なんとなく何をすればいいかはわかるが、何からすればいいかわからない。涼夏がぼんやりと私を見つめながら言った。
「ポテトサラダでも作ろっか」
「それいいね。そうしよう」
「じゃあ、私が作るから、ビデオでも撮ってて。教えるのめんどくさい」
 発案者のくせに怠慢だ。だが、ビデオ撮影というのは悪くないアイデアである。メモには限界があるし、工程もわかりやすい。料理部の時にも使ったのだろうか。
「文明だねぇ。涼夏のお料理チャンネル作ろう」
「私は体中がジンジンして興奮冷めやらないのに、千紗都さんは大人だから全然平気そうだ」
「目指せチャンネル登録者数1万人!」
「髪はボサボサだし、メイクもボロボロだし、嫌だよ」
 疲れた表情で包丁とまな板を準備する。炊飯器の使い勝手も家とは違うだろうに、さっさと米を研いでぶち込むと、材料を切り始めた。一瞬でも余所見をしたら、2つくらい作業を見落としそうな見事な手際だ。
「涼夏って、もしかして神なの? 柱なの?」
「意味がわからない。玉ねぎは先に炒めます」
 あっという間にみじん切りにした玉ねぎをフライパンに投下する。工程に一切の迷いがない。弱めの火でじっくり炒めながら、涼夏が世間話を始めた。プロの余裕だ。
「千紗都はいつも何食べてるの?」
「週に半分くらいは、お弁当かな。親が、家に帰ってから料理するのが面倒だって」
「そっか。まあ、うちも私がしなかったら、もしかしたらそうなったかもだね」
 火を止めて粗熱を取る間に、他の材料を用意する。サラダ用のジャガイモの皮も、あっという間に剥いてしまった。
「なんでそんなに出来るの?」
「そりゃ、料理部に3年もいたら、出来るようになるでしょ」
「私もラケットなんて振ってる場合じゃなかった。涼夏は頭は悪いけど、生きるために必要なことをたくさん覚えてる」
「それ、絶対に褒めてないよね」
 いつの間にか興奮は冷めたのか、いつもの調子でそう言いながらハンバーグのタネを作った。中央部は少し凹ませるらしい。料理は無数にあるのに、この子はそんなワンポイントを全部覚えているのだろうか。
 タネを火にかけると、その間にジャガイモをレンジにかける。当たり前のようにしているが、私だったらハンバーグが完成するまで、ポテトサラダにはお待ちいただくか、先に作って置いておくだろう。
 ハムとキュウリを切り、ハンバーグをひっくり返して蒸し焼きにする。レンジが音を立てると、潰したジャガイモにハムとキュウリを投下して、マヨネーズと合わせて混ぜる。最後に胡椒をかけたら完成だ。
 ハンバーグも焼けたので皿に盛り付ける。一度に4つは出来なかったから、残りは親が帰ってきてから焼けと言われた。肉を焼くだけなら出来そうな気がする。
 先程までハンバーグを焼いていたフライパンでソースを作ると、あっという間に料理が完成した。ご飯が間に合わないくらいの手際だ。
「ビールでも飲みながら、ご飯が炊けるのを待とう」
 涼夏が冷蔵庫から父親の飲んでいるビールの缶を取り出して、キッチンに置いた。私が「うん」と頷いてテーブルに運ぼうとすると、涼夏が顔を赤くして声を上げた。
「冗談だから!」
「何となくそんな気はしたけど、ご飯作ってくれたし、いいのかなって」
「良くないから!」
 ビールを冷蔵庫に戻して、ポテトサラダを盛り付けたハンバーグをテーブルに運ぶ。とりあえず写真を撮って絢音に送り付けると、いただきますしてハンバーグを口に入れた。
 大体予想はしていたが、美味しかった。普通に美味しかったが、飛び抜けて美味しいわけでもなければ、独特の個性があるわけでもなかった。ポテトサラダも同じだ。うちでは胡椒をかけないから、その点だけが新鮮だが、予想の範囲内の味だった。
「どう?」
 涼夏がじっと私を見つめる。不安がっている様子はないので、美味しいかも、口に合うかも心配してなさそうだ。ハンバーグが苦手でなければ、万人受けする味だ。
「普通に美味しいよ」
「うん。普通が一番」 
 涼夏がハンバーグを頬張って、満足そうに頷いた。
「高級料理店のハンバーグとか、たぶん毎週食べてたら飽きるけど、これなら飽きない」
「なるほど」
「家庭料理だしね。凝ったのも作れるから、もっと時間がある時に作ろうか。夏休みとか」
「それはいいね。全力で食べるよ」
 ご飯が炊けたので茶碗によそった。こちらも当たり前のように美味しく出来ている。全部何気なくやっているが、私はどれだけ水を入れたらいいかも、いちいち調べないとわからない。ハンバーグにしても、涼夏は一度もレシピを見なかった。本当に、15歳にしてもう、料理の基礎が身についているのだ。
「涼夏、結婚して」
 ご飯と一緒にハンバーグを楽しみながらそう言うと、涼夏は一瞬箸を動かす手を止めてから、何でもないようにサラダを口に入れた。
「いいよ」
「よし。これで私の将来のご飯の心配はなくなった」
 胸を撫で下ろしながら顔を上げると、涼夏は何やら恥ずかしそうに俯いてご飯を頬張っていた。いつどんな時でも可愛い子だ。
 食事中に母親が帰ってくることはなかった。そろそろ帰るという涼夏に、駅まで送ると言ったら、肉でも焼いていろと言われた。来てもらってご飯まで作ってもらって、玄関でバイバイはいくら何でも心が痛むと訴えると、涼夏は明るく笑って言った。
「じゃあ、キスして」
「さっき、いっぱいしたのに」
「あれはあれ」
 涼夏が物を移動するように両手を動かした。やれやれと肩をすくめて、そっと涼夏の体を抱き寄せる。優しく口付けして顔を離すと、涼夏は嬉しそうにはにかんだ。見ているこっちが恥ずかしくなる笑顔だ。
「涼夏、本当に私のこと、大好きだね」
「バレてる!? 秘密にしてたのに!」
「はいはい。私も大好きだよ」
 適当にそう言って、涼夏の背中を見送った。いくら何でも不義理だから、今度ちゃんとお礼をしよう。
 キッチンに戻ると、涼夏の動画を見ながらハンバーグを焼いてみた。丁度焼いている最中に母親が帰ってきたので、熱々を提供したら、「普通に美味しいね」と血筋を感じる評価を口にした。
「普通が一番だから。お父さんのはお母さんが焼いてね」
 最後の一つは押し付けて部屋に戻る。乱れた布団を直すと、まだ涼夏の匂いが残っていた。すっかりご飯に上書きされてしまったが、そういえば1時間抱き合ってキスをしていた。
 思い出したら顔が熱くなった。私とてずっと平常心だったわけではないが、涼夏があまりにもしおらしかったから、意味不明な余裕をかましていた。
 妄想でもなければ、相手がぬいぐるみでもない。意思を持った生身の人間と舌を絡めながら抱き合っていたと思うと、急にうるさいくらい心臓が大きな音を立てた。「今さらかよ」と呆れる涼夏の顔が目に浮かぶ。
 百線を超えた。それでもきっと、高止まりした関係は何も変わらない。帰宅部の活動は順調だ。
 夏休みまで後数日。暑いのは私も苦手だが、とにかくたくさん遊びたい。
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