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第2話 勉強
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授業が終わって振り返ると、絢音が眼鏡を外して顔を上げた。髪を縛ってスポーティーな印象があるが、目元は優しくて表情は柔らかい。私を見てにっこりと微笑む。
「千紗都は、6時間目が終わった後が一番いい笑顔をしてる」
「だとしたら、1時間目の前が一番憂鬱な顔をしてるかもね」
「かも、じゃない」
断言された。学校指定の通学バッグに教科書を詰め込む。ユナ高ではリュックが許可されているが、私も絢音もまだ指定のバッグを使っている。せっかく買ったしと思うが、涼夏は早々にリュックに切り替えた。先輩たちはほとんどリュックだ。両手が空くのは確かに楽そうではある。
「眼鏡、コンタクトにしないの?」
何気なく聞くと、絢音は眼鏡ケースをバッグにしまいながら可笑しそうに頬を緩めた。
「私、目は悪くないから」
「その眼鏡は?」
「なんだろうね。何かが私に眼鏡をかけさせる……」
深刻そうに呟いて、チラリと私を見上げる。あまりにもくだらなくて思わず噴いたが、結局何かはわからなかった。度は入っていないらしい。気持ちの切り替えスイッチみたいなものだろうか。マンガでは時々見るが、そんなことをする人間が現実に、しかも私の友達にいるとは思わなかった。
ホームルームが終わって涼夏がやってくると、とりあえず今の情報を共有するべく、椅子に座ったまま絢音を指差した。
「絢音が授業中にかけてる眼鏡、伊達なんだって」
「そんな……。私は驚きを隠せない」
「だよね」
「いや、千紗都がそれを今まで知らなかったことが」
涼夏が目を丸くすると、絢音が口元に手を当ててくすくすと笑った。とても可愛らしい仕草だが、今はそれにときめいている場合ではない。
「私、もしかして仲間外れにされてた? 二人のこと、友達だと思ってたのに……」
呆然と首を振ると、涼夏がポンと私の肩に手を乗せた。
「千紗都がそんなことも知らなかったなんて。友達だと思ってたのに」
じんわりと、肩から涼夏の熱が伝わってくる。顔を上げると、涼夏は勝ち誇った表情で私を見下ろしていた。何の勝負かはわからないが、ここは素直に負けを認めよう。
3人揃って立ち上がると、黒板の方から視線を感じた。目だけで様子を窺うと、チャラい男子が2人、何やらソワソワした様子でこっちを見ていた。帰宅部の男子で、同じ帰宅部の私たちと仲良くなりたいらしい。何度か声をかけられているが、冷たくあしらっている。
目で牽制して教室を出ると、涼夏がやれやれと首を振った。
「あいつらも懲りないねぇ」
「涼夏も千紗都も可愛いから、友達になりたいんだよ」
絢音がふふっと笑う。その笑顔も、男子を何人か殺せそうだ。うちのクラスは帰宅部が一番豊作だと、男子が品のない評価をしているのは知っているが、生憎こちらはそういうものに興味がない。
校舎を出ると、いつも通り1つ先の古沼駅を目指して歩き出した。今日は涼夏はバイトがあるが、遠回りして帰るくらいの時間はある。
周りに人がいなくなると、絢音が右手で私の左手を、左手で涼夏の右手を握って満足そうに頷いた。完全にお父さんとお母さんと手を繋ぐ子供の構図だが、この中ではほんの数センチだが絢音が一番背が高い。子供の手を引く親の構図か。
「それで、あの眼鏡は何? 何かの封印?」
改めて眼鏡の話題を振ると、絢音は可笑しそうに肩を震わせた。
「千紗都がそんな厨二っぽいことを言うとは思わなかった」
「いや、違う。絢音の行動が厨二っぽいから、それに釣られたんだって!」
「そういうことにしてあげる」
「そういうことだから!」
極めて遺憾だと強く訴えたが、絢音はふんわりした笑顔で楽しそうに笑うだけだった。この笑顔の前では、ムキになって説明するのがバカバカしくなる。
「私も、なんか伊達かーって流しちゃったけど、理由は知らないや」
向こうで涼夏が首を傾げる。二人の視線に挟まれて、絢音は困ったように微笑んだ。
「ただの験担ぎみたいなものだよ。そんなに期待されても、面白い話は何も出てこない」
「絢音、可愛いから、勉強してる時の無防備な素顔を見られないようにしてるとか」
「涼夏までそういうこと言うんだ。私はちょっと二人の認識を改める。厨二方向に」
そっちに改める必要はまったくない。
3人並んで歩きたかったので、近くの仁町女子の帰宅集団に巻き込まれないよう、住宅街を抜けて古沼までやってきた。バイトに行ってくると手を振る涼夏に手を振り返すと、隣で絢音がいつものハグで送り出した。もはや何の疑問も抱かないくらい当たり前にやっているが、もしかしたらこの子は帰国子女で、情熱的な海外の風習が自然と出るのだろうか。
「今日はどうする?」
絢音が少しだけ前かがみになって、私の顔を覗き込んだ。この無意識のあざとさは驚異的に可愛いし、ボディータッチも多い子だから、中学時代はさぞモテたことだろう。もちろん、男子にはしていないと思うが。
「勉強か遊びか」
「千紗都の好きな方でいいよ。勉強も遊びの一つでしかない」
「うわー。言ってみたいわ、その台詞!」
思わず身を仰け反らせて声を上げた。完全に名言だ。勉強も遊びの一つとか、まったく意味がわからない。
勉強は苦手ではないが、好きでもない。学生の本分として頑張っているが、将来何の役に立つのだろうという疑問はいつだって持っている。それは私だけではないだろう。
「じゃあ、勉強で」
どうせやらなくてはならないなら、誰かを巻き込みたいし、それを楽しめる人なら巻き込むことに罪悪感を抱く必要もない。だから、絢音と二人の時はよくマックやファミレスでノートを開いている。
絢音の手を引いて、駅から少し離れたマックに入った。案の定席はそれなりに空いていて、二人用のテーブルを2つくっつけて横並びに座った。バッグから教科書を出しながら帰国子女説を確認すると、絢音は呆れたように首を振った。
「今日の千紗都は、なんか発想が面白いね」
「いや、私は生まれてこの方、あんなにも自然にハグする人と会ったことがないから」
「うん。私も千紗都と涼夏にしかしてないよ」
「そうなの? なんで?」
意外に思って眉を上げた。手練れの手つきなので、てっきり中学の頃、あるいはもっと昔から自然にしているかと思った。そう訴えると、絢音はシェイクのストローをくわえながら、なんでもないように言った。
「したいと思う子に会わなかったから」
「私と涼夏は、したいと思う子なの?」
「可愛すぎて興奮する。しかも、私のこと構ってくれるし」
「どう反応しろと……」
絢音は大切な友達だ。構ってあげてるなんて思ったことはないし、むしろ私は、いつだって自分が遊んでもらっていると感じている。
それにしても、自分が可愛いかはともかく、涼夏は確かに可愛い。美人だ。だけど、ハグをしたいという感情が湧いたことはない。あるいは一度したらそうしたい欲求が出てくるのだろうか。
首を傾げると、絢音は太ももの横に投げ出していた私の手を握って、うっとりと微笑んだ。
「触れ合うって、気持ち良くない? ハグは健康にもいいらしいよ? フリーハグとかしてる人もいるし」
「効果は同意する」
「嫌じゃないよね?」
そう言って、絢音が言葉にわずかな不安を含ませた。私は慌てて首を振ると、とりあえずぴったりと身をすり寄せてから、女子高生二人がはしゃいでいる風に絢音を抱きしめた。
「嫌なことを我慢する性格に見える?」
「涼夏はともかく、千紗都は少し心配」
「全然。うん。確かに気持ちいい」
私より少しだけ背は高いが、華奢な体つきをしている。もちろん、女の子特有の柔らかさがあって、いい香りがして、温もりも心地良い。胸部は少々スレンダーだと、冗談で済む口調で言うと、絢音が少しだけ体を離して私の胸に手を当てた。
「千紗都はいい発育をしてる」
少し揉んで手を離す。何気なくされたが、絢音に胸を揉まれたのは初めての気がする。
ハグも、会っていきなり始めたわけではない。最初は別れ際に握手をするくらいだった。それから少しずつボディータッチが増えていき、いつの間にかハグするようになって、しかもそれを当たり前のように感じている。今胸に触れたのも、そういうボディータッチ計画の一環かもしれない。怖い子だ。1年後には一体何をされているのだろう。
改めて教科書を開く。暗記系は二人でやる意味があまりないので、やはり数学だろうか。そういえばふと、先日涼夏と社会主義の話をしたことを思い出したので、絢音にも聞いてみた。
「いきなりだけど、日本は格差が開きすぎたから、社会主義の平等性に、私は強く惹かれてる」
「ああ、こないだの現社の?」
絢音がぱちくりとまばたきしてから、したり顔で頷いた。
「私もまだしっかりとはわかってないけど、社会主義っていうのは、やる気も出ないし、自由も制限される政策だって認識」
「自由が制限されるのは嫌だなぁ」
「ソ連は崩壊したけど、キューバとかはまだ社会主義で、確か病院とか学校とか全部無料だって。税金もかからないけど、給料はみんな同じですごく安い」
学年4位らしい知識を披露して、絢音は満足げに頷いた。私など、キューバがどこにあるかも知らないが、地理と歴史の話はしていないのでそれは置いておく。
今の話だと、社会主義も十分な魅力を感じる。そもそも、確か資本主義の欠点を補うために生まれた政策だったはず。両極端がいけないのであって、取り入れる要素はあるのではないか。
「絢音はどっちがいいと思う?」
「難しいことはわからないけど、私は今に満足してる」
私の質問に、絢音はさらっとそう答えた。テーブルの上に片肘をついて、眩しそうに細めた目で私を見つめる。まるで恋人の横顔を眺めるような瞳だが、口にしているのは社会主義の話だ。
私がじっと見つめ返すと、絢音は何か言いたげに唇を動かしてから、微かに頷いて顔を上げた。
「私は勉強が好きだし、教科書の内容は色々覚えてる。テストでいい点も取れる。でも、あんまり自分の意見は持ってない」
「どういうこと?」
「読書感想文みたいなのは苦手ってこと」
バカにもわかる例え話をして、絢音は眉尻を情けなくゆがめた。それから両手を組んで突き出すように伸ばして、明るい瞳で言った。
「自分で考えるのが得意じゃないってわけでもないけど、ついて行く方が楽っていうか、その方が好きっていうか。だから涼夏や千紗都といると居心地がいい」
「涼夏はそうだね。私も涼夏に引っ張ってもらうのは嫌いじゃない」
涼夏と二人の時、私はよく涼夏に手を引かれる。あの感覚を、私も心地良いと感じている。「同じだね」と笑うと、絢音は否定するように首を振った。
「千紗都も私の手を引いてくれる。千紗都は人に合わせられるんだよ。私とか涼夏とか、あと今澤さんとか、一緒にいる人にすごく自然に合わせてる。すごいなって思う」
「そういう褒められ方は初めてだ。自覚はないけど、ありがとう」
確かに、あまり意識はしていないが、涼夏といる時と絢音といる時とでは、自分の役割が違うように感じる。奈都といる時も、二人といる時とはまた全然違うかもしれない。もちろん、その組み合わせによっても立ち位置が変わる。だけど、涼夏と絢音は、あまりそういうことがない。
「それって、いいことなのかなぁ」
「無理してないならいいんじゃない?」
「無理どころか、意識すらしてない」
あっけらかんと笑うと、絢音も楽しそうに微笑みを浮かべた。
すっかり雑談になってしまったが、改めて教科書を開く。数学もそんなに苦手ではない。そもそも絢音ほどではないが、私も成績は悪くない。帰宅部で時間はたくさんある。部活動を頑張っている子には負けられない。
あるいは、こうして頻繁に絢音と勉強している成果かもしれない。もちろん家でもやっているが、私は誰かと一緒の方が勉強が捗る。勉強に限らず、何もかも、私は誰かがいないと捗らない。
1時間ほど集中して、その後さらにしばらく喋ってなお、店の外は明るかった。この季節は本当に日が長い。
トレイを戻して店を出ると、路上にはちらほらとサラリーマンの姿があった。交通量も心なしか増えているように感じる。もう会社も終わる時間だ。
「今日は勉強、付き合ってくれてありがとう」
ブラブラと駅に戻りながらそう言うと、絢音は私の手を握って大きく振った。
「勉強は遊びだから。お礼を言われることは何もしてない」
「秀才は言うことが違いますなぁ。でも本当に、毎日絢音と涼夏が構ってくれるから助かってる。二人の塾とバイトが重なってないのは、奇跡的だ」
絢音の塾が火曜日と金曜日、そして涼夏はバイトを月、水、木に入れている。おかげで私は、毎日二人の内のどちらかと遊ぶことができる。それはとても奇跡的だと思った瞬間、初めてそのことに違和感を覚えた。
思わず立ち止まって顔を上げると、絢音は苦笑いを浮かべて私を見つめていた。私は呆然としたまま口を開いた。
「もしかして、わざと?」
「むしろなんで気付かないのか不思議でしょうがない。涼夏が、千紗都を一人にしないように、わざと私の塾のない日にバイトを入れてるんだよ」
当たり前のようにそう言われて、私は思わず両手で顔を覆ってしゃがみ込んだ。まだ絢音が塾に行き出してからひと月くらいしか経っていないが、確かにその頃、涼夏は一度バイトのシフトを変えている。能天気に奇跡だと思っていたのは、さすがに恥ずかしい。
慰めるように私の肩を叩く絢音を、私は恨めしそうに見上げた。
「眼鏡のことと言い、私だけ知らないことが多すぎる。さては二人は仲良しだな?」
立ち上がって嫉妬を表明すると、絢音が口元に手を寄せてくすっと笑った。
「時々天然なの、いいキャラだと思う。涼夏のことは好きだけど、千紗都が思ってるより涼夏のことは知らないよ」
「そうなの?」
「それも気付かないの? 天然っていうのは、バカの婉曲表現だっていうから気を付けてね」
絢音が同情の眼差しを向ける。気を付けたいが、何のことを言っているのかわからないので降参すると、絢音は仕方なさそうにため息をついた。
「私が涼夏と二人だけで帰ることはないんだよ。さっき色んな組み合わせの話をしてたけど、私と涼夏のいる空間に、千紗都がいないことがない」
簡単なことだった。3人の中で、私だけが暇している。しかも、涼夏が私のためにバイトのシフトを絢音の塾とずらしているから、3人で一緒に遊ぶこともほとんどない。もちろん、たまにはバイトのシフトがずれて3人で遊ぶこともあれば、私一人の時もあるが、私だけがいないことはない。
「二人はそれでもいいの? 私が、その……邪魔な時って、ない?」
私がいるせいで二人の友情が深まらないということがあったら、それはとても嫌だ。私が思わず顔をしかめてそう尋ねると、絢音は私の方に身を乗り出して、いたずらっぽく笑った。
「土日は時々千紗都に内緒で会ってるから大丈夫」
「それはそれで傷付くんだけど」
「冗談。ちょいちょい学校で二人だけの時もあるし、それに、私も涼夏も、千紗都が好きなんだよ」
そんな嬉しいことを言いながら、絢音がグイッと私の手を引いた。絢音に手を引かれるのは珍しい。
建物の陰に入って、絢音が私の体を抱きしめる。陰と言っても人目はあるが、女の子同士ならじゃれ合っているだけに見えなくもないだろう。
せっかく好きと言ってくれたので、お返しをするように背中を引き寄せて指を這わせると、絢音がしがみつくように私の制服を掴んで、耳元で熱っぽく囁いた。
「千紗都の手つき、ヤラしい……」
「いや、普通のハグだから。何が普通かはよくわかんないけど」
「自覚なしか。同じことしてあげる」
そう言いながら、絢音が私の背中を撫で回した。背筋がゾワゾワして、時々くすぐったい。確かにこれは、ハグの域を超えている気がしないでもない。触れ合う胸やお腹の柔らかさが気持ちいい。絢音が少しだけ足を前に出して、私の膝の間に自分の膝を割り込ませた。スカートの布越しに、太ももの滑らかな感触が伝わってくる。
「千紗都のエッチ」
絢音が片手で私の髪をかき上げて、耳に唇を押し当てた。そして、何を血迷ったのか、舌先を耳の中に入れてペロリと舐める。
「ひぃっ!」
突然のねっとりとした感触に、私は思わず悲鳴を上げて体を離した。耳に触れると、指先に湿り気を感じた。痛いほど心臓が速く打って胸を押さえると、絢音はちろっと舌先で唇を舐めて、挑発的な目で私を見た。
「千紗都に乗せられて、変なことしちゃった」
「何も乗せてないし!」
「ギリギリを追及してるつもりだけど、もし一線を見誤ったら言ってね」
そう言うと、絢音はバッグを肩にかけ直して、何事もなかったようにひらひらと手を振った。
「また明日」
「うん。今度、一緒に涼夏を冷やかしに行こう」
「それいいね」
楽しそうにそう言って、絢音が帰っていく。なんとなくもう一度耳に手を当てて、じっとその背中を見送った。さっき冗談で思ったが、あの子は本当にボディータッチ計画を進行させているのかもしれない。
ギリギリの追及。確かに、驚いたけど嫌ではない。むしろ、あの秀才がこの先この計画をどう進めていくのか楽しみなくらいだ。
全身に絢音の温もりが残っている。ハグは健康にいいらしい。
今日も楽しかった。二人が私のために時間を作ってくれるから、私の帰宅部活動はとても充実している。
「千紗都は、6時間目が終わった後が一番いい笑顔をしてる」
「だとしたら、1時間目の前が一番憂鬱な顔をしてるかもね」
「かも、じゃない」
断言された。学校指定の通学バッグに教科書を詰め込む。ユナ高ではリュックが許可されているが、私も絢音もまだ指定のバッグを使っている。せっかく買ったしと思うが、涼夏は早々にリュックに切り替えた。先輩たちはほとんどリュックだ。両手が空くのは確かに楽そうではある。
「眼鏡、コンタクトにしないの?」
何気なく聞くと、絢音は眼鏡ケースをバッグにしまいながら可笑しそうに頬を緩めた。
「私、目は悪くないから」
「その眼鏡は?」
「なんだろうね。何かが私に眼鏡をかけさせる……」
深刻そうに呟いて、チラリと私を見上げる。あまりにもくだらなくて思わず噴いたが、結局何かはわからなかった。度は入っていないらしい。気持ちの切り替えスイッチみたいなものだろうか。マンガでは時々見るが、そんなことをする人間が現実に、しかも私の友達にいるとは思わなかった。
ホームルームが終わって涼夏がやってくると、とりあえず今の情報を共有するべく、椅子に座ったまま絢音を指差した。
「絢音が授業中にかけてる眼鏡、伊達なんだって」
「そんな……。私は驚きを隠せない」
「だよね」
「いや、千紗都がそれを今まで知らなかったことが」
涼夏が目を丸くすると、絢音が口元に手を当ててくすくすと笑った。とても可愛らしい仕草だが、今はそれにときめいている場合ではない。
「私、もしかして仲間外れにされてた? 二人のこと、友達だと思ってたのに……」
呆然と首を振ると、涼夏がポンと私の肩に手を乗せた。
「千紗都がそんなことも知らなかったなんて。友達だと思ってたのに」
じんわりと、肩から涼夏の熱が伝わってくる。顔を上げると、涼夏は勝ち誇った表情で私を見下ろしていた。何の勝負かはわからないが、ここは素直に負けを認めよう。
3人揃って立ち上がると、黒板の方から視線を感じた。目だけで様子を窺うと、チャラい男子が2人、何やらソワソワした様子でこっちを見ていた。帰宅部の男子で、同じ帰宅部の私たちと仲良くなりたいらしい。何度か声をかけられているが、冷たくあしらっている。
目で牽制して教室を出ると、涼夏がやれやれと首を振った。
「あいつらも懲りないねぇ」
「涼夏も千紗都も可愛いから、友達になりたいんだよ」
絢音がふふっと笑う。その笑顔も、男子を何人か殺せそうだ。うちのクラスは帰宅部が一番豊作だと、男子が品のない評価をしているのは知っているが、生憎こちらはそういうものに興味がない。
校舎を出ると、いつも通り1つ先の古沼駅を目指して歩き出した。今日は涼夏はバイトがあるが、遠回りして帰るくらいの時間はある。
周りに人がいなくなると、絢音が右手で私の左手を、左手で涼夏の右手を握って満足そうに頷いた。完全にお父さんとお母さんと手を繋ぐ子供の構図だが、この中ではほんの数センチだが絢音が一番背が高い。子供の手を引く親の構図か。
「それで、あの眼鏡は何? 何かの封印?」
改めて眼鏡の話題を振ると、絢音は可笑しそうに肩を震わせた。
「千紗都がそんな厨二っぽいことを言うとは思わなかった」
「いや、違う。絢音の行動が厨二っぽいから、それに釣られたんだって!」
「そういうことにしてあげる」
「そういうことだから!」
極めて遺憾だと強く訴えたが、絢音はふんわりした笑顔で楽しそうに笑うだけだった。この笑顔の前では、ムキになって説明するのがバカバカしくなる。
「私も、なんか伊達かーって流しちゃったけど、理由は知らないや」
向こうで涼夏が首を傾げる。二人の視線に挟まれて、絢音は困ったように微笑んだ。
「ただの験担ぎみたいなものだよ。そんなに期待されても、面白い話は何も出てこない」
「絢音、可愛いから、勉強してる時の無防備な素顔を見られないようにしてるとか」
「涼夏までそういうこと言うんだ。私はちょっと二人の認識を改める。厨二方向に」
そっちに改める必要はまったくない。
3人並んで歩きたかったので、近くの仁町女子の帰宅集団に巻き込まれないよう、住宅街を抜けて古沼までやってきた。バイトに行ってくると手を振る涼夏に手を振り返すと、隣で絢音がいつものハグで送り出した。もはや何の疑問も抱かないくらい当たり前にやっているが、もしかしたらこの子は帰国子女で、情熱的な海外の風習が自然と出るのだろうか。
「今日はどうする?」
絢音が少しだけ前かがみになって、私の顔を覗き込んだ。この無意識のあざとさは驚異的に可愛いし、ボディータッチも多い子だから、中学時代はさぞモテたことだろう。もちろん、男子にはしていないと思うが。
「勉強か遊びか」
「千紗都の好きな方でいいよ。勉強も遊びの一つでしかない」
「うわー。言ってみたいわ、その台詞!」
思わず身を仰け反らせて声を上げた。完全に名言だ。勉強も遊びの一つとか、まったく意味がわからない。
勉強は苦手ではないが、好きでもない。学生の本分として頑張っているが、将来何の役に立つのだろうという疑問はいつだって持っている。それは私だけではないだろう。
「じゃあ、勉強で」
どうせやらなくてはならないなら、誰かを巻き込みたいし、それを楽しめる人なら巻き込むことに罪悪感を抱く必要もない。だから、絢音と二人の時はよくマックやファミレスでノートを開いている。
絢音の手を引いて、駅から少し離れたマックに入った。案の定席はそれなりに空いていて、二人用のテーブルを2つくっつけて横並びに座った。バッグから教科書を出しながら帰国子女説を確認すると、絢音は呆れたように首を振った。
「今日の千紗都は、なんか発想が面白いね」
「いや、私は生まれてこの方、あんなにも自然にハグする人と会ったことがないから」
「うん。私も千紗都と涼夏にしかしてないよ」
「そうなの? なんで?」
意外に思って眉を上げた。手練れの手つきなので、てっきり中学の頃、あるいはもっと昔から自然にしているかと思った。そう訴えると、絢音はシェイクのストローをくわえながら、なんでもないように言った。
「したいと思う子に会わなかったから」
「私と涼夏は、したいと思う子なの?」
「可愛すぎて興奮する。しかも、私のこと構ってくれるし」
「どう反応しろと……」
絢音は大切な友達だ。構ってあげてるなんて思ったことはないし、むしろ私は、いつだって自分が遊んでもらっていると感じている。
それにしても、自分が可愛いかはともかく、涼夏は確かに可愛い。美人だ。だけど、ハグをしたいという感情が湧いたことはない。あるいは一度したらそうしたい欲求が出てくるのだろうか。
首を傾げると、絢音は太ももの横に投げ出していた私の手を握って、うっとりと微笑んだ。
「触れ合うって、気持ち良くない? ハグは健康にもいいらしいよ? フリーハグとかしてる人もいるし」
「効果は同意する」
「嫌じゃないよね?」
そう言って、絢音が言葉にわずかな不安を含ませた。私は慌てて首を振ると、とりあえずぴったりと身をすり寄せてから、女子高生二人がはしゃいでいる風に絢音を抱きしめた。
「嫌なことを我慢する性格に見える?」
「涼夏はともかく、千紗都は少し心配」
「全然。うん。確かに気持ちいい」
私より少しだけ背は高いが、華奢な体つきをしている。もちろん、女の子特有の柔らかさがあって、いい香りがして、温もりも心地良い。胸部は少々スレンダーだと、冗談で済む口調で言うと、絢音が少しだけ体を離して私の胸に手を当てた。
「千紗都はいい発育をしてる」
少し揉んで手を離す。何気なくされたが、絢音に胸を揉まれたのは初めての気がする。
ハグも、会っていきなり始めたわけではない。最初は別れ際に握手をするくらいだった。それから少しずつボディータッチが増えていき、いつの間にかハグするようになって、しかもそれを当たり前のように感じている。今胸に触れたのも、そういうボディータッチ計画の一環かもしれない。怖い子だ。1年後には一体何をされているのだろう。
改めて教科書を開く。暗記系は二人でやる意味があまりないので、やはり数学だろうか。そういえばふと、先日涼夏と社会主義の話をしたことを思い出したので、絢音にも聞いてみた。
「いきなりだけど、日本は格差が開きすぎたから、社会主義の平等性に、私は強く惹かれてる」
「ああ、こないだの現社の?」
絢音がぱちくりとまばたきしてから、したり顔で頷いた。
「私もまだしっかりとはわかってないけど、社会主義っていうのは、やる気も出ないし、自由も制限される政策だって認識」
「自由が制限されるのは嫌だなぁ」
「ソ連は崩壊したけど、キューバとかはまだ社会主義で、確か病院とか学校とか全部無料だって。税金もかからないけど、給料はみんな同じですごく安い」
学年4位らしい知識を披露して、絢音は満足げに頷いた。私など、キューバがどこにあるかも知らないが、地理と歴史の話はしていないのでそれは置いておく。
今の話だと、社会主義も十分な魅力を感じる。そもそも、確か資本主義の欠点を補うために生まれた政策だったはず。両極端がいけないのであって、取り入れる要素はあるのではないか。
「絢音はどっちがいいと思う?」
「難しいことはわからないけど、私は今に満足してる」
私の質問に、絢音はさらっとそう答えた。テーブルの上に片肘をついて、眩しそうに細めた目で私を見つめる。まるで恋人の横顔を眺めるような瞳だが、口にしているのは社会主義の話だ。
私がじっと見つめ返すと、絢音は何か言いたげに唇を動かしてから、微かに頷いて顔を上げた。
「私は勉強が好きだし、教科書の内容は色々覚えてる。テストでいい点も取れる。でも、あんまり自分の意見は持ってない」
「どういうこと?」
「読書感想文みたいなのは苦手ってこと」
バカにもわかる例え話をして、絢音は眉尻を情けなくゆがめた。それから両手を組んで突き出すように伸ばして、明るい瞳で言った。
「自分で考えるのが得意じゃないってわけでもないけど、ついて行く方が楽っていうか、その方が好きっていうか。だから涼夏や千紗都といると居心地がいい」
「涼夏はそうだね。私も涼夏に引っ張ってもらうのは嫌いじゃない」
涼夏と二人の時、私はよく涼夏に手を引かれる。あの感覚を、私も心地良いと感じている。「同じだね」と笑うと、絢音は否定するように首を振った。
「千紗都も私の手を引いてくれる。千紗都は人に合わせられるんだよ。私とか涼夏とか、あと今澤さんとか、一緒にいる人にすごく自然に合わせてる。すごいなって思う」
「そういう褒められ方は初めてだ。自覚はないけど、ありがとう」
確かに、あまり意識はしていないが、涼夏といる時と絢音といる時とでは、自分の役割が違うように感じる。奈都といる時も、二人といる時とはまた全然違うかもしれない。もちろん、その組み合わせによっても立ち位置が変わる。だけど、涼夏と絢音は、あまりそういうことがない。
「それって、いいことなのかなぁ」
「無理してないならいいんじゃない?」
「無理どころか、意識すらしてない」
あっけらかんと笑うと、絢音も楽しそうに微笑みを浮かべた。
すっかり雑談になってしまったが、改めて教科書を開く。数学もそんなに苦手ではない。そもそも絢音ほどではないが、私も成績は悪くない。帰宅部で時間はたくさんある。部活動を頑張っている子には負けられない。
あるいは、こうして頻繁に絢音と勉強している成果かもしれない。もちろん家でもやっているが、私は誰かと一緒の方が勉強が捗る。勉強に限らず、何もかも、私は誰かがいないと捗らない。
1時間ほど集中して、その後さらにしばらく喋ってなお、店の外は明るかった。この季節は本当に日が長い。
トレイを戻して店を出ると、路上にはちらほらとサラリーマンの姿があった。交通量も心なしか増えているように感じる。もう会社も終わる時間だ。
「今日は勉強、付き合ってくれてありがとう」
ブラブラと駅に戻りながらそう言うと、絢音は私の手を握って大きく振った。
「勉強は遊びだから。お礼を言われることは何もしてない」
「秀才は言うことが違いますなぁ。でも本当に、毎日絢音と涼夏が構ってくれるから助かってる。二人の塾とバイトが重なってないのは、奇跡的だ」
絢音の塾が火曜日と金曜日、そして涼夏はバイトを月、水、木に入れている。おかげで私は、毎日二人の内のどちらかと遊ぶことができる。それはとても奇跡的だと思った瞬間、初めてそのことに違和感を覚えた。
思わず立ち止まって顔を上げると、絢音は苦笑いを浮かべて私を見つめていた。私は呆然としたまま口を開いた。
「もしかして、わざと?」
「むしろなんで気付かないのか不思議でしょうがない。涼夏が、千紗都を一人にしないように、わざと私の塾のない日にバイトを入れてるんだよ」
当たり前のようにそう言われて、私は思わず両手で顔を覆ってしゃがみ込んだ。まだ絢音が塾に行き出してからひと月くらいしか経っていないが、確かにその頃、涼夏は一度バイトのシフトを変えている。能天気に奇跡だと思っていたのは、さすがに恥ずかしい。
慰めるように私の肩を叩く絢音を、私は恨めしそうに見上げた。
「眼鏡のことと言い、私だけ知らないことが多すぎる。さては二人は仲良しだな?」
立ち上がって嫉妬を表明すると、絢音が口元に手を寄せてくすっと笑った。
「時々天然なの、いいキャラだと思う。涼夏のことは好きだけど、千紗都が思ってるより涼夏のことは知らないよ」
「そうなの?」
「それも気付かないの? 天然っていうのは、バカの婉曲表現だっていうから気を付けてね」
絢音が同情の眼差しを向ける。気を付けたいが、何のことを言っているのかわからないので降参すると、絢音は仕方なさそうにため息をついた。
「私が涼夏と二人だけで帰ることはないんだよ。さっき色んな組み合わせの話をしてたけど、私と涼夏のいる空間に、千紗都がいないことがない」
簡単なことだった。3人の中で、私だけが暇している。しかも、涼夏が私のためにバイトのシフトを絢音の塾とずらしているから、3人で一緒に遊ぶこともほとんどない。もちろん、たまにはバイトのシフトがずれて3人で遊ぶこともあれば、私一人の時もあるが、私だけがいないことはない。
「二人はそれでもいいの? 私が、その……邪魔な時って、ない?」
私がいるせいで二人の友情が深まらないということがあったら、それはとても嫌だ。私が思わず顔をしかめてそう尋ねると、絢音は私の方に身を乗り出して、いたずらっぽく笑った。
「土日は時々千紗都に内緒で会ってるから大丈夫」
「それはそれで傷付くんだけど」
「冗談。ちょいちょい学校で二人だけの時もあるし、それに、私も涼夏も、千紗都が好きなんだよ」
そんな嬉しいことを言いながら、絢音がグイッと私の手を引いた。絢音に手を引かれるのは珍しい。
建物の陰に入って、絢音が私の体を抱きしめる。陰と言っても人目はあるが、女の子同士ならじゃれ合っているだけに見えなくもないだろう。
せっかく好きと言ってくれたので、お返しをするように背中を引き寄せて指を這わせると、絢音がしがみつくように私の制服を掴んで、耳元で熱っぽく囁いた。
「千紗都の手つき、ヤラしい……」
「いや、普通のハグだから。何が普通かはよくわかんないけど」
「自覚なしか。同じことしてあげる」
そう言いながら、絢音が私の背中を撫で回した。背筋がゾワゾワして、時々くすぐったい。確かにこれは、ハグの域を超えている気がしないでもない。触れ合う胸やお腹の柔らかさが気持ちいい。絢音が少しだけ足を前に出して、私の膝の間に自分の膝を割り込ませた。スカートの布越しに、太ももの滑らかな感触が伝わってくる。
「千紗都のエッチ」
絢音が片手で私の髪をかき上げて、耳に唇を押し当てた。そして、何を血迷ったのか、舌先を耳の中に入れてペロリと舐める。
「ひぃっ!」
突然のねっとりとした感触に、私は思わず悲鳴を上げて体を離した。耳に触れると、指先に湿り気を感じた。痛いほど心臓が速く打って胸を押さえると、絢音はちろっと舌先で唇を舐めて、挑発的な目で私を見た。
「千紗都に乗せられて、変なことしちゃった」
「何も乗せてないし!」
「ギリギリを追及してるつもりだけど、もし一線を見誤ったら言ってね」
そう言うと、絢音はバッグを肩にかけ直して、何事もなかったようにひらひらと手を振った。
「また明日」
「うん。今度、一緒に涼夏を冷やかしに行こう」
「それいいね」
楽しそうにそう言って、絢音が帰っていく。なんとなくもう一度耳に手を当てて、じっとその背中を見送った。さっき冗談で思ったが、あの子は本当にボディータッチ計画を進行させているのかもしれない。
ギリギリの追及。確かに、驚いたけど嫌ではない。むしろ、あの秀才がこの先この計画をどう進めていくのか楽しみなくらいだ。
全身に絢音の温もりが残っている。ハグは健康にいいらしい。
今日も楽しかった。二人が私のために時間を作ってくれるから、私の帰宅部活動はとても充実している。
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