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第1話 アイス
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6時間目の授業は可哀想だ。みんな、途中から部活や放課後のことで頭がいっぱいになって、授業のことなど考えていない。あるいはそれは自分だけだろうか。
すぐ後ろの席から、カリカリとシャープでノートに文字を書く音が聞こえる。高校に入って初めての中間試験で学年4位という好成績を収めた絢音は、6時間目だろうと1時間目だろうと同じモチベーションを保っているようだ。あるいは今日は塾がある日なので、6時間目ですらまだ一日の途中なのかもしれない。
ふと隣の男子越しに窓を見ると、春の鮮やかな緑の頭上に淡い青空が広がっていた。ピクニックやハイキングでもしたくなる天気である。あまりじっと見つめていて、万が一にも隣の男子に意識されると嫌なので視線を黒板に戻した。
得意でも苦手でもない現代社会。社会主義というヤツはみんな平等でいいと思う。この国は格差が広がりすぎた。そう考えると、誰かがみんな平等だと他の人より頑張らなくなると言う。平等とはいっても格差は0にはならないし、仕事が好きで働きたい人もいるのではなかろうか。自分は絶対に嫌だけど。
チャイムが鳴って授業が終わる。教室に生徒たちの声が戻る。代わり映えのしないホームルームが終わって、私は体に一日の終わりを伝えるように伸びをした。今日は掃除もないのでこれで終わりだ。掃除当番の涼夏がやってきて、「待っててね」と可愛らしく手を振った。絢音が席を立って一歩涼夏に近付いた。
「私は今日は塾だから、先に帰るね」
「心得た」
鮮やかに笑う涼夏の腋から手を通して、絢音が涼夏の体を抱きしめる。その背中を涼夏が何でもないように撫でて、体を離した。
「千紗都も」
促されて立ち上がると、絢音が私にも同じようにハグをした。甘い香りが鼻腔をくすぐる。いつもより強めに抱きしめ返すと、絢音が「情熱的だね」と笑った。どっちがだと言いたい。
ヒラヒラと手を振って絢音が背中を向ける。後ろで一つに縛った髪がピョコンと揺れる。涼夏も掃除に戻って行って、私は退屈しのぎに壁際に移動して窓からグラウンドを見下ろした。
まだ授業が終わったばかりで、部活動は始まっていない。日も長いし、暑くも寒くもないし、雨も少ないし、日焼けや熱中症にも神経質にならなくていい。体を動かすのにいい季節だ。若者たちには思い切り青春してほしい。自分も帰宅部を満喫しよう。
帰って行く無数の制服を眺めながら、ピョコンという擬音語について考えていると、やがて掃除が終わったのか涼夏が戻ってきて私の肩に触れた。
「お待たせ」
パチッとした瞳で私を見つめる。頬や唇の赤みも、自然には出せない色味だ。元々パーツの整った子だが、わずかなメイクがそれに磨きをかけている。
「相変わらず綺麗……」
うっとりするように目を細めて顎のラインに指先を当てると、涼夏がその手を取って真顔で私を見つめた。
「千紗都の方が可愛いよ」
「そんなお世辞は要らない。涼夏と一緒だと私は恥ずかしくなるから、今日は一人で帰る」
「私はメイクをして、ようやく千紗都の領域に辿り着けるんだよ」
絶対にそんなことはないと思うが、涼夏がお世辞や冗談で言っているわけではないのは、これまでの短い付き合いでよくわかっている。好みはまあ、人それぞれだろう。私も不細工ではないと思うが、涼夏は確実に一つ上の領域にいる。
触れていた手を握って、涼夏がグイッと引っ張った。スクールバッグを肩にかけて、並んで教室を出る。クラスメイトの多くは何かしら部活をやっていて、うちのクラスの帰宅部は、女子では私と涼夏、絢音の3人しかいない。ユナ高は部活動が盛んなことで有名だが、強制というわけではない。
校門をくぐると、すぐに同じ制服の学生で混み合う道を逸れた。ほとんどみんな、最寄り駅の上ノ水まで歩くが、中には一つ先の古沼まで歩く生徒もいる。私たちもゴールデンウィークが終わってからはそうしている。かかる時間は10分ほどしか変わらないのに、人も少ないし、駅も栄えている。それに、時間はたくさんある。
「涼夏は社会主義と資本主義は、どっちがいいと思う?」
最後の授業を思い出しながら聞くと、涼夏はマンガのように噴いてお腹を抱えた。
「ウケた。私とマジメな話をする?」
「働きたくないっていう、怠惰な話だよ」
「働くのは悪くないよ。お金ももらえるし。まあ、バイトだから気楽にそう言えるだけかもだけど」
涼夏が強気の笑顔で頷いた。涼夏は高校に入ってすぐにバイトを始めて、もう給料ももらっている。ユナ高はバイトを容認しているが、それでも申請が必要で、それなりの理由がないと許可されない。自分から聞いたことはないが、前に涼夏が、バイト代は服とコスメと遊びに消えると笑っていた。それもまた嘘ではなさそうだし、無理をしている様子もなかった。謎多き子だ。
「社会主義になったら、涼夏が働いたお金で、私が遊んで暮らす」
そう言って真顔で頷くと、涼夏は私の肩にポンと手を乗せて静かに首を振った。
「たぶん、社会主義ってそうじゃない」
「じゃあ、どう?」
「それはわからない」
その言い方があまりにも重々しかったから、少しだけ見つめ合って、大声で笑った。
「くっだんない!」
大きな公園に着くと、古沼が最寄り駅の仁町女子の集団に飲まれる。受験の時、一応候補に入れた学校だ。制服が可愛かったし、男子がいないのも魅力に感じたが、結局偏差値や学部、設備を考えてユナ高にした。
どっちが良かったかは両方行ってみないとわからないが、ユナ高に入学してすぐ涼夏や絢音と出会えた。それに、クラスは離れてしまったが、中学から一緒の奈都もいる。だからきっと、この選択は正しかった。
「涼夏は他の高校も受験した?」
「急に何? もちろんしたよ。公立も受かったけど、結波にした」
「決め手は共学?」
「そんなわけないでしょ? 評判を調べたら、バイトできるって書いてあったから。設備も綺麗だしね」
なんでもないようにそう言って、涼夏はリュックを背負い直した。オシャレな涼夏にしては質素な黒のリュックだが、あくまで通学用らしい。ゴールデンウィークに遊んだ時は、白い可愛らしいリュックを背負っていた。
それにしても、やはりバイトだ。しかし、今のではっきりわかったのは、涼夏は家のためにバイトをしているわけではない。公立に受かっていたのに私立に来たのなら、家にお金はあるのだろう。貯めているようにも見えないし、本当に前に話してくれた通り、服とコスメと遊びのためにしているのかもしれない。
「4月の給料はいくらくらいだった? あっ、そういうのって、聞いちゃまずい?」
「全然いいけど。4万ちょっとかな?」
「うっわ。私の小遣いの4倍だ」
「ひと月に1万円もお小遣いもらってるって、かなり多いと思うよ? 絢音は頑張って交渉して5千円って言ってたし、私なんてもらってもない」
ため息混じりにそう言って、涼夏はやれやれと首を振った。私は驚いて顔を上げた。
「もらってないの? だからバイトしてるの?」
「バイトするならあげない。バイトしないなら5千円って言われて、私は前者を選んだ」
「そっか……」
呻くように呟いた。「それは厳しい」という言葉はどうにか飲み込んだ。何もしなければあげるはずだった18万円を、涼夏が自分で働くことで親は渡さないで済んだ。それは少しずるいと思うが、涼夏が納得しているなら、家庭の事情にとやかく口を出すものではない。
どうにかそう思い込もうとしたが、不満が顔に出ていたのか、涼夏がくすっと笑って私の頬をつついた。
「さっきも言ったけど、バイトは楽しいよ。5千円は6時間くらい。1日4時間働いてるから、2日分弱。私にとってそれは大したことじゃない」
そう言われても咄嗟に計算できなかったが、数字はともかく、そういうことをきっちり考えられる涼夏は純粋にすごいと思った。私は働いたことがないし、1万円ももらっているお小遣いさえ少なく感じているから、本当に子供だ。
「涼夏といると、私は自分の幼稚さに恥ずかしくなるから、今日は一人で帰るよ」
重苦しくため息をつくと、涼夏があっけらかんと笑った。
「すでに古沼近くだが?」
「それじゃあ、しょうがない。一緒に帰ってあげよう」
「駅に着いたら、今日は何をしよう」
用水路沿いの遊歩道の向こうに、高いビルがちらほらと見え始める。高いと言ってもせいぜい10階とか15階とかそれくらいだが、オフィスビルの他にショッピングセンターもあるし、学生の強い味方である安いファミレスやカラオケもある。古沼はそれだけで十分遊べる場所だが、そこからさらにイエローラインで繁華街に行くこともできる。絢音とは古沼から電車が違うが、涼夏とは定期券の区間がだいぶ重なっている。
「何をしようね」
質問に質問を返してはいけないが、涼夏とはそれでいい。案の定、涼夏はまったく気にした様子もなく、「とりあえず腹ごしらえだ」と笑いながら、私の手を引いてコンビニに入った。
真っ直ぐアイスのコーナーに来ると、涼夏は目を輝かせてケースを見回した。アイスという気分ではなかったし、そんなにお腹も空いていなかったので、温かい眼差しで見つめていると、涼夏が怪訝そうに顔を上げた。
「千紗都は買わないの? なんなら奢るけど」
「大丈夫。お金もあるし、遠慮もしてない」
笑顔を向けると、涼夏はわかったと頷いた。付き合いはまだ短いが、ほとんど毎日一緒にいる。私が本当に、単に買うほどお腹が空いていないだけなのはわかってくれるはずだ。
「しょうがない。じゃあ、少食な千紗都には、私のアイスを半分くれてやろう」
「感謝しかない」
このテンポのやり取りが心地良い。涼夏は真ん中に棒の刺さったアイスを買うと、すぐにそれを開けた。そして何故か遊歩道から逸れて、1本中に入る。ただそれだけで仁町の制服は見えなくなり、まるでどこかに取り残されたように世界が静かになった。
それは大袈裟だが、涼夏は顔の前に水平にアイスを固定すると、「どうぞ」と意地悪そうに頬を緩めた。アイスを受け取ろうと涼夏の手の上から棒に触れると、涼夏はギュッとアイスを握る手に力を込めた。
「持っててあげる」
「涼夏って、時々わけわかんないよね」
私は呆れながら、涼夏の手ごとアイスを持って顔を近付けた。アイスの端に唇をつけると、涼夏はもう片方の手で私の頭を引き寄せるように髪に触れながら、同じようにアイスの反対側をかじった。意味がわからない。
すぐ目の前に涼夏の綺麗な顔がある。上を向いている長い睫毛と、ほんのりと色を帯びた目蓋。そして、からかうようにじっと私を見つめる眼差し。それを真っ直ぐ見つめ返して、私はアイスを飲み込んだ。
「何がしたいの?」
「はたから見たら、キスでもしてるように見えるかな」
「少なくとも、アイスを食べてるようには見えないと思う」
キスがしたいのだろうか。したことがないのでどんな感じかはわからないが、数センチ先にある涼夏の唇はとても柔らかそうだ。
吐息を感じながらアイスをかじる。重なる手が熱い。自分の熱だ。さすがに動揺している。そしてそれが手の平から涼夏に伝わっているのが、妙に恥ずかしい。
目を閉じて髪をかき上げると、涼夏がくすっと笑った。
「今の千紗都の顔、すごくエッチだった」
「友達の奇妙な性癖に付き合う自分の寛大さに惚れ惚れする。でもご馳走様。これくらいでいいよ」
顔を離そうとしたら、涼夏が私の髪を撫でる手に力を込めてそれを制した。
「そっち側半分食べて。少食な私には、このアイスは大きすぎる」
「よく言うわー。2本くらいペロリと平らげる涼夏さんが、よく言うわー」
もらえるものはもらっておこう。だいぶ減ってきたアイスをかじる。小さくなるほど、涼夏の顔が近付いてくる。口の中が冷たいので休憩を挟みたいが、一度顔を離したらこの不思議な時間は終わってしまうだろう。それは少しもったいない。
棒ギリギリまで食べ進めると、いよいよ唇が触れそうになった。これはポッキーゲームの亜種だろうか。何かで見たのか、それとも涼夏が自分で思い付いたのか。後者ならなかなかの想像力だ。
コツンと額を合わせてから、私は手を押し退けるように顔を上げた。涼夏がやれやれと首を振って、残念そうにため息をついた。
「惜しかった。ごく自然に千紗都の唇を奪うチャンスを逃した」
「どこがどう自然だった? っていうか、奪いたいの?」
「溢れる好奇心」
涼夏が自分の胸に手を当てて、うっとりと目を細めた。どうやら冗談のようだが、本気だとまずいと思って、敢えて冗談めかして言っているだけかもしれない。そうだとしたら、行動の割にチキンだ。
遊歩道に戻ると世界に声が戻った。仁町の制服に、時々ユナ高の生徒が交じっている。仁町の子はともかく、さっきのを同じ高校の生徒に見られたらさすがに恥ずかしい。
「何も書いてないからハズレだね」
そう言いながら、涼夏がアイスの棒をゴミ箱に捨てた。元々当たり付きではないのは突っ込み待ちだろうか。意地悪のお返しに、「残念だったね」と慰めるように頭を撫でると、涼夏は無念そうに首を振った。
「そんな反応は求めてない!」
「私は涼夏のその反応を求めてた」
二人であははと笑って空を見上げる。天空は十分に明るい。まだ駅まで歩いてきただけだ。それは駅を利用している全生徒がしていること。帰宅部の活動はこれからである。
「1、メイクのお勉強。2、カラオケ。3、どっかでひたすら喋る。どれがいい?」
涼夏が明るい表情で私を見る。選択肢を絞ってくれたのなら、後は私が決めよう。
「1かな。私も、涼夏と並んでも恥ずかしくない顔になりたいし」
「お願いだから鏡を見て。まあ、ナルシストよりはいいかもだけど、自分の顔にうっとりしてる千紗都も、それはそれで面白そう」
笑いながら、涼夏が私の手を握って引いた。その力強さが心地良い。引かれた反動で隣に並んで、私も自然と微笑んだ。
さあ、今日は何をしよう。帰宅部の活動開始だ。
すぐ後ろの席から、カリカリとシャープでノートに文字を書く音が聞こえる。高校に入って初めての中間試験で学年4位という好成績を収めた絢音は、6時間目だろうと1時間目だろうと同じモチベーションを保っているようだ。あるいは今日は塾がある日なので、6時間目ですらまだ一日の途中なのかもしれない。
ふと隣の男子越しに窓を見ると、春の鮮やかな緑の頭上に淡い青空が広がっていた。ピクニックやハイキングでもしたくなる天気である。あまりじっと見つめていて、万が一にも隣の男子に意識されると嫌なので視線を黒板に戻した。
得意でも苦手でもない現代社会。社会主義というヤツはみんな平等でいいと思う。この国は格差が広がりすぎた。そう考えると、誰かがみんな平等だと他の人より頑張らなくなると言う。平等とはいっても格差は0にはならないし、仕事が好きで働きたい人もいるのではなかろうか。自分は絶対に嫌だけど。
チャイムが鳴って授業が終わる。教室に生徒たちの声が戻る。代わり映えのしないホームルームが終わって、私は体に一日の終わりを伝えるように伸びをした。今日は掃除もないのでこれで終わりだ。掃除当番の涼夏がやってきて、「待っててね」と可愛らしく手を振った。絢音が席を立って一歩涼夏に近付いた。
「私は今日は塾だから、先に帰るね」
「心得た」
鮮やかに笑う涼夏の腋から手を通して、絢音が涼夏の体を抱きしめる。その背中を涼夏が何でもないように撫でて、体を離した。
「千紗都も」
促されて立ち上がると、絢音が私にも同じようにハグをした。甘い香りが鼻腔をくすぐる。いつもより強めに抱きしめ返すと、絢音が「情熱的だね」と笑った。どっちがだと言いたい。
ヒラヒラと手を振って絢音が背中を向ける。後ろで一つに縛った髪がピョコンと揺れる。涼夏も掃除に戻って行って、私は退屈しのぎに壁際に移動して窓からグラウンドを見下ろした。
まだ授業が終わったばかりで、部活動は始まっていない。日も長いし、暑くも寒くもないし、雨も少ないし、日焼けや熱中症にも神経質にならなくていい。体を動かすのにいい季節だ。若者たちには思い切り青春してほしい。自分も帰宅部を満喫しよう。
帰って行く無数の制服を眺めながら、ピョコンという擬音語について考えていると、やがて掃除が終わったのか涼夏が戻ってきて私の肩に触れた。
「お待たせ」
パチッとした瞳で私を見つめる。頬や唇の赤みも、自然には出せない色味だ。元々パーツの整った子だが、わずかなメイクがそれに磨きをかけている。
「相変わらず綺麗……」
うっとりするように目を細めて顎のラインに指先を当てると、涼夏がその手を取って真顔で私を見つめた。
「千紗都の方が可愛いよ」
「そんなお世辞は要らない。涼夏と一緒だと私は恥ずかしくなるから、今日は一人で帰る」
「私はメイクをして、ようやく千紗都の領域に辿り着けるんだよ」
絶対にそんなことはないと思うが、涼夏がお世辞や冗談で言っているわけではないのは、これまでの短い付き合いでよくわかっている。好みはまあ、人それぞれだろう。私も不細工ではないと思うが、涼夏は確実に一つ上の領域にいる。
触れていた手を握って、涼夏がグイッと引っ張った。スクールバッグを肩にかけて、並んで教室を出る。クラスメイトの多くは何かしら部活をやっていて、うちのクラスの帰宅部は、女子では私と涼夏、絢音の3人しかいない。ユナ高は部活動が盛んなことで有名だが、強制というわけではない。
校門をくぐると、すぐに同じ制服の学生で混み合う道を逸れた。ほとんどみんな、最寄り駅の上ノ水まで歩くが、中には一つ先の古沼まで歩く生徒もいる。私たちもゴールデンウィークが終わってからはそうしている。かかる時間は10分ほどしか変わらないのに、人も少ないし、駅も栄えている。それに、時間はたくさんある。
「涼夏は社会主義と資本主義は、どっちがいいと思う?」
最後の授業を思い出しながら聞くと、涼夏はマンガのように噴いてお腹を抱えた。
「ウケた。私とマジメな話をする?」
「働きたくないっていう、怠惰な話だよ」
「働くのは悪くないよ。お金ももらえるし。まあ、バイトだから気楽にそう言えるだけかもだけど」
涼夏が強気の笑顔で頷いた。涼夏は高校に入ってすぐにバイトを始めて、もう給料ももらっている。ユナ高はバイトを容認しているが、それでも申請が必要で、それなりの理由がないと許可されない。自分から聞いたことはないが、前に涼夏が、バイト代は服とコスメと遊びに消えると笑っていた。それもまた嘘ではなさそうだし、無理をしている様子もなかった。謎多き子だ。
「社会主義になったら、涼夏が働いたお金で、私が遊んで暮らす」
そう言って真顔で頷くと、涼夏は私の肩にポンと手を乗せて静かに首を振った。
「たぶん、社会主義ってそうじゃない」
「じゃあ、どう?」
「それはわからない」
その言い方があまりにも重々しかったから、少しだけ見つめ合って、大声で笑った。
「くっだんない!」
大きな公園に着くと、古沼が最寄り駅の仁町女子の集団に飲まれる。受験の時、一応候補に入れた学校だ。制服が可愛かったし、男子がいないのも魅力に感じたが、結局偏差値や学部、設備を考えてユナ高にした。
どっちが良かったかは両方行ってみないとわからないが、ユナ高に入学してすぐ涼夏や絢音と出会えた。それに、クラスは離れてしまったが、中学から一緒の奈都もいる。だからきっと、この選択は正しかった。
「涼夏は他の高校も受験した?」
「急に何? もちろんしたよ。公立も受かったけど、結波にした」
「決め手は共学?」
「そんなわけないでしょ? 評判を調べたら、バイトできるって書いてあったから。設備も綺麗だしね」
なんでもないようにそう言って、涼夏はリュックを背負い直した。オシャレな涼夏にしては質素な黒のリュックだが、あくまで通学用らしい。ゴールデンウィークに遊んだ時は、白い可愛らしいリュックを背負っていた。
それにしても、やはりバイトだ。しかし、今のではっきりわかったのは、涼夏は家のためにバイトをしているわけではない。公立に受かっていたのに私立に来たのなら、家にお金はあるのだろう。貯めているようにも見えないし、本当に前に話してくれた通り、服とコスメと遊びのためにしているのかもしれない。
「4月の給料はいくらくらいだった? あっ、そういうのって、聞いちゃまずい?」
「全然いいけど。4万ちょっとかな?」
「うっわ。私の小遣いの4倍だ」
「ひと月に1万円もお小遣いもらってるって、かなり多いと思うよ? 絢音は頑張って交渉して5千円って言ってたし、私なんてもらってもない」
ため息混じりにそう言って、涼夏はやれやれと首を振った。私は驚いて顔を上げた。
「もらってないの? だからバイトしてるの?」
「バイトするならあげない。バイトしないなら5千円って言われて、私は前者を選んだ」
「そっか……」
呻くように呟いた。「それは厳しい」という言葉はどうにか飲み込んだ。何もしなければあげるはずだった18万円を、涼夏が自分で働くことで親は渡さないで済んだ。それは少しずるいと思うが、涼夏が納得しているなら、家庭の事情にとやかく口を出すものではない。
どうにかそう思い込もうとしたが、不満が顔に出ていたのか、涼夏がくすっと笑って私の頬をつついた。
「さっきも言ったけど、バイトは楽しいよ。5千円は6時間くらい。1日4時間働いてるから、2日分弱。私にとってそれは大したことじゃない」
そう言われても咄嗟に計算できなかったが、数字はともかく、そういうことをきっちり考えられる涼夏は純粋にすごいと思った。私は働いたことがないし、1万円ももらっているお小遣いさえ少なく感じているから、本当に子供だ。
「涼夏といると、私は自分の幼稚さに恥ずかしくなるから、今日は一人で帰るよ」
重苦しくため息をつくと、涼夏があっけらかんと笑った。
「すでに古沼近くだが?」
「それじゃあ、しょうがない。一緒に帰ってあげよう」
「駅に着いたら、今日は何をしよう」
用水路沿いの遊歩道の向こうに、高いビルがちらほらと見え始める。高いと言ってもせいぜい10階とか15階とかそれくらいだが、オフィスビルの他にショッピングセンターもあるし、学生の強い味方である安いファミレスやカラオケもある。古沼はそれだけで十分遊べる場所だが、そこからさらにイエローラインで繁華街に行くこともできる。絢音とは古沼から電車が違うが、涼夏とは定期券の区間がだいぶ重なっている。
「何をしようね」
質問に質問を返してはいけないが、涼夏とはそれでいい。案の定、涼夏はまったく気にした様子もなく、「とりあえず腹ごしらえだ」と笑いながら、私の手を引いてコンビニに入った。
真っ直ぐアイスのコーナーに来ると、涼夏は目を輝かせてケースを見回した。アイスという気分ではなかったし、そんなにお腹も空いていなかったので、温かい眼差しで見つめていると、涼夏が怪訝そうに顔を上げた。
「千紗都は買わないの? なんなら奢るけど」
「大丈夫。お金もあるし、遠慮もしてない」
笑顔を向けると、涼夏はわかったと頷いた。付き合いはまだ短いが、ほとんど毎日一緒にいる。私が本当に、単に買うほどお腹が空いていないだけなのはわかってくれるはずだ。
「しょうがない。じゃあ、少食な千紗都には、私のアイスを半分くれてやろう」
「感謝しかない」
このテンポのやり取りが心地良い。涼夏は真ん中に棒の刺さったアイスを買うと、すぐにそれを開けた。そして何故か遊歩道から逸れて、1本中に入る。ただそれだけで仁町の制服は見えなくなり、まるでどこかに取り残されたように世界が静かになった。
それは大袈裟だが、涼夏は顔の前に水平にアイスを固定すると、「どうぞ」と意地悪そうに頬を緩めた。アイスを受け取ろうと涼夏の手の上から棒に触れると、涼夏はギュッとアイスを握る手に力を込めた。
「持っててあげる」
「涼夏って、時々わけわかんないよね」
私は呆れながら、涼夏の手ごとアイスを持って顔を近付けた。アイスの端に唇をつけると、涼夏はもう片方の手で私の頭を引き寄せるように髪に触れながら、同じようにアイスの反対側をかじった。意味がわからない。
すぐ目の前に涼夏の綺麗な顔がある。上を向いている長い睫毛と、ほんのりと色を帯びた目蓋。そして、からかうようにじっと私を見つめる眼差し。それを真っ直ぐ見つめ返して、私はアイスを飲み込んだ。
「何がしたいの?」
「はたから見たら、キスでもしてるように見えるかな」
「少なくとも、アイスを食べてるようには見えないと思う」
キスがしたいのだろうか。したことがないのでどんな感じかはわからないが、数センチ先にある涼夏の唇はとても柔らかそうだ。
吐息を感じながらアイスをかじる。重なる手が熱い。自分の熱だ。さすがに動揺している。そしてそれが手の平から涼夏に伝わっているのが、妙に恥ずかしい。
目を閉じて髪をかき上げると、涼夏がくすっと笑った。
「今の千紗都の顔、すごくエッチだった」
「友達の奇妙な性癖に付き合う自分の寛大さに惚れ惚れする。でもご馳走様。これくらいでいいよ」
顔を離そうとしたら、涼夏が私の髪を撫でる手に力を込めてそれを制した。
「そっち側半分食べて。少食な私には、このアイスは大きすぎる」
「よく言うわー。2本くらいペロリと平らげる涼夏さんが、よく言うわー」
もらえるものはもらっておこう。だいぶ減ってきたアイスをかじる。小さくなるほど、涼夏の顔が近付いてくる。口の中が冷たいので休憩を挟みたいが、一度顔を離したらこの不思議な時間は終わってしまうだろう。それは少しもったいない。
棒ギリギリまで食べ進めると、いよいよ唇が触れそうになった。これはポッキーゲームの亜種だろうか。何かで見たのか、それとも涼夏が自分で思い付いたのか。後者ならなかなかの想像力だ。
コツンと額を合わせてから、私は手を押し退けるように顔を上げた。涼夏がやれやれと首を振って、残念そうにため息をついた。
「惜しかった。ごく自然に千紗都の唇を奪うチャンスを逃した」
「どこがどう自然だった? っていうか、奪いたいの?」
「溢れる好奇心」
涼夏が自分の胸に手を当てて、うっとりと目を細めた。どうやら冗談のようだが、本気だとまずいと思って、敢えて冗談めかして言っているだけかもしれない。そうだとしたら、行動の割にチキンだ。
遊歩道に戻ると世界に声が戻った。仁町の制服に、時々ユナ高の生徒が交じっている。仁町の子はともかく、さっきのを同じ高校の生徒に見られたらさすがに恥ずかしい。
「何も書いてないからハズレだね」
そう言いながら、涼夏がアイスの棒をゴミ箱に捨てた。元々当たり付きではないのは突っ込み待ちだろうか。意地悪のお返しに、「残念だったね」と慰めるように頭を撫でると、涼夏は無念そうに首を振った。
「そんな反応は求めてない!」
「私は涼夏のその反応を求めてた」
二人であははと笑って空を見上げる。天空は十分に明るい。まだ駅まで歩いてきただけだ。それは駅を利用している全生徒がしていること。帰宅部の活動はこれからである。
「1、メイクのお勉強。2、カラオケ。3、どっかでひたすら喋る。どれがいい?」
涼夏が明るい表情で私を見る。選択肢を絞ってくれたのなら、後は私が決めよう。
「1かな。私も、涼夏と並んでも恥ずかしくない顔になりたいし」
「お願いだから鏡を見て。まあ、ナルシストよりはいいかもだけど、自分の顔にうっとりしてる千紗都も、それはそれで面白そう」
笑いながら、涼夏が私の手を握って引いた。その力強さが心地良い。引かれた反動で隣に並んで、私も自然と微笑んだ。
さあ、今日は何をしよう。帰宅部の活動開始だ。
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