Shine

水原渉

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「にじのおかがくえん?」
 菜沙はその名前に聞き覚えがあった。どこでかは思い出せない。少なくとも、翠自身は過去の話を一度もしたことがなかったし、パパの口からでもない。
「きっとニュースで聞いたんだよ。ちょっと前に……ほら、私が大変だったとき」
「あっ、うん……」
 菜沙は翠が来る少し前、保奈ちゃんの身辺が騒がしかったことを思い出した。あの時はそれが自分の身の回りで一番の事件だと思っていた。しかし、それからすぐに翠が来て、多くの出来事があり、すっかり忘却の彼方にあった。
「ここで虐待があったの。それがニュースになって」
「ぎゃくたい?」
「大人が子供を叩いたりすること。もちろん、お父さんはそんなことしてないよ?」
「翠ちゃんも叩かれたの?」
「たぶん。でも、翠ちゃんだけじゃなくて、たくさんの子供たちが虐待を受けてたの」
 保奈ちゃんのパパは、虹ノ丘学園の職員だった。家では滅多に仕事の話をすることはなく、保奈ちゃんもパパは子供たちを相手にする仕事をしていることくらいしか知らなかった。翠のこともほとんどが憶測だったが、絶対の自信があったので、すべて断定形で話した。
「ここはお父さんもお母さんもいない子供たちが生活するところなの」
 それは100%正解ではなく、むしろ両親がいない子供は少数だったが、訂正する人はいなかったし、訂正の必要もなかった。翠には両親がいなかったから。
「虐待のことがニュースになって、ここは閉鎖しちゃって、子供たちは他の施設に移ったんだって。理由はわからないけど、翠ちゃんはお父さんが菜沙ちゃんのパパにお願いして、引き取ってもらった」
 菜沙はまた一度に多くの情報を与えられて混乱していた。翠のことを教えてくれるのは嬉しかったけれど、話のつながりが見えない。
「ミドリちゃんが、その『ぎゃくたい』を受けてたから、学校でいじめられたの?」
「ううん。虐待は関係ない。お父さんもお母さんもいないことはからかわれてたみたいだけど……。それよりも、『施設の子供』っていうのが……」
「しせつのこども?」
「こういうところの子は、悪い子が多いの」
 いや、それはすごい偏見。ただ、実際に問題のある子供を抱えていることが多く、一部の子供が悪さをするのは事実だった。もちろん、一般家庭の子供だって悪さをするのだから、何も施設の子供が特別なわけではなかったが、世間はそうは見ない。
 虹ノ丘学園での日常的な虐待がニュースになったとき、児童養護施設という場所がクローズアップされた。そのときマスコミは、施設の子供たちのマイナスなイメージも多く伝えた。情報の取捨をできる大人はともかく、そのニュースを見聞きした子供たちはそれを鵜呑みにし、「親のいない施設の子供は乱暴で、人の物を平気で盗んだりする悪いヤツ」というイメージを持った。
 そして、それがまだ子供たちの記憶から消えるより先に、翠が虹ノ丘学園の出だと広がり、子供たちの偏見が翠に集中した。
 菜沙が呆然と立ち尽くす横で、保奈ちゃんが両手で顔を押さえて叫んだ。
「そんなつもりじゃなかったの! こんなことになるなんて思わなかったの!」
「えっ……?」
 驚いて保奈ちゃんを見ると、保奈ちゃんはその場にしゃがみ込んで、大きな声で泣き出した。泣きながら、何度も何度も謝った。
「ごめんなさい、ごめんなさい! 私が言ったの。翠ちゃんが虹ノ丘学園から来たって。お父さんも隠してたし、翠ちゃんのことはクラスでも話題になってたから。謎解きみたいに思ってた。みんなの話を聞いて、たぶんそうなんだって思ったから、お友達に話したの。そしたら、そしたらみんなが、翠ちゃんのこといじめて……。そんなつもりじゃなかったの!」
 泣きじゃくる保奈ちゃんの隣で、菜沙はただただ困惑していた。どうしていいのかわからない。何を言えばいいのかわからない。誰を責めればいいのかわからない。
 とうとうわけがわからなくなって、一緒になって泣き出した。すっかり暗くなった空に、二人の泣き声が響き渡った。

 いつもより3時間以上帰りが遅くなった。パパは先に帰っていた。絶対に怒られると覚悟したが、パパは叱りはしなかった。ただ、どこに行っていたのかと聞かれたので、保奈ちゃんと一緒に喋っていたと答えた。嘘はついていない。
 パパは「出かけるから留守番を頼む」と言った。翠のことを聞くと、小さな声で「部屋にいる」と教えてくれた。いつも通りの笑顔らしいが、翠の笑顔ほど信用できないものはない。
「ミドリちゃん、悲しいときに笑うから」
「そうだな。ずっとそういう生活をしてきたんだろう。悲しいときは泣けばいいんだって、菜沙が教えてやってくれ」
 そう言い残して、パパは出て行った。保奈ちゃんの家に行くらしい。きっと翠のことを、保奈ちゃんのパパに相談しに行ったのだ。菜沙にもわかった。
 翠は確かに笑顔だった。食事も用意してあって、二人で食べた。そのときは当たり障りのない話題に始終した。
 その後菜沙は、翠を自分の部屋に呼び、単刀直入に切り出した。
「ミドリちゃんは、『しせつのこども』なの?」
 翠は一瞬驚いた顔をしたけれど、すぐにいつもの笑顔に戻った。
「今日、菜沙ちゃんもわたしのせいでいじめられたの? ごめんね」
「ううん。保奈ちゃんと、ミドリちゃんがいたっていう学校に行ったの」
 今度は驚きを隠せない様子だった。翠は、菜沙は自分の噂話の真相を確認したいのだと思っていたが、どうやら真実の大半をすでに知っているらしい。
 翠は悲しそうに笑った。
「わたしね、今日一日考えて思ったの。菜沙ちゃんには、初めから本当のことを全部話せばよかったって。でも、わかって。わたしにとって、過去は本当に知られたくないものなの」
 そう言ってから、翠は淡々と過去を話した。
 翠は生まれたばかりの状態で捨てられていて、乳児院で育てられた。そのとき里親にめぐり合うことができず、2歳になって虹ノ丘学園に入れられた。
 菜沙が遠慮なく虐待のことを聞くと、翠はため息混じりに肯定した。
「いつくらいからかな。最初はそんなにひどくなかったんだけど……ひどくなったのは1年くらい前からかな」
 具体的な内容は言わなかったし、菜沙も聞かなかった。「大人に叩かれた」というだけで、菜沙には十分恐怖だった。
 翠は保奈ちゃんのパパと仲が良かった。そして、これは菜沙も驚いたのだが、パパが時々虹ノ丘学園を訪れて、翠と会っていたらしい。
 菜沙は不思議がったが、それは翠も同じだった。ただ翠は、菜沙のパパを単に「関係者」だと思っていた。
「でも初めて来た日、啓二さんが俊一さんに、『ほら、似てるだろ』って言ってたの。きっと、わたしが菜沙ちゃんに似てるから、そういうモノミユサンだったんじゃないかな」
 おおっ、難しい言葉を使った!
 そうこうする内に、虐待がニュースになり、虹ノ丘学園は閉鎖になった。ほとんどの子供たちがこの地を離れたがり、他県の施設に移ることになった。そのとき、翠を引き取らないかと菜沙のパパに提案したのが、翠の父親のような立場にあった啓二、つまり保奈ちゃんのパパだった。
「俊一さんならいいなって思ったし、わたしも施設を出たかったから。それから色々あって、わたしは菜沙ちゃんのママとして俊一さんに引き取られることになった」
 「色々」の経緯は言いたくないのではなく、面倒だったので割愛した。後日また翠自身の口から語られることになるのだが、翠を娘として引き取ることに、俊一は難色を示した。いくら何度か会って少々仲良くなっても、所詮は赤の他人である。恋愛対象としてはあまりにも幼すぎるし、彼女の人生を抱え込む気はなかった。
 一度拒否されてからは、翠はもう自分の口から頼みはしなかった。翠にもプライドがあり、同情で置いてもらうことは望んでいなかった。
 そんな翠の思いを余所に、啓二は俊一に何度も頼み込んだ。啓二は園内の虐待のことを把握しておらず、翠もその被害者だったことにひどく心を傷めていたので、どうしても施設から出してやりたかったのだ。
 俊一は悩みに悩んだ末、翠を引き取ることにした。翠は「同情なら結構です」と断ったが、俊一は菜沙のために母親役を務めて欲しいとお願いした。菜沙と雰囲気の似ている翠なら、きっと菜沙と打ち解けてくれると思ったのだ。
 結局それは、俊一の不器用のためにしばらく叶わなかったが、結果として俊一の期待通り二人は仲良くなり、菜沙が寂しがることもなくなった。
 翠の話を聞き終えたとき、菜沙はまた混乱していた。悲しめばいいのか、同情すればいいのか、出られたことを喜べばいいのか。心に素直になるのが一番なのだろうが、その「心」も様々な思いを突きつけてきて、一つに決まらなかった。
「ごめんね、困らせて。でも、同情はしないで。可哀想だなんて思わないで。そう思われるのが嫌だったから話さなかったの。同情されるのは、からかわれるより辛いの」
「今は……楽しいの?」
「うん。菜沙ちゃんや俊一さんといるときはね」
 翠は曖昧な微笑みを浮かべてそう言った。菜沙は学校でのことを思い出してしょんぼりした。慌てて翠が明るい声で付け足した。
「いいの、菜沙ちゃん。どうせわたしは高校まで行くつもりはないし、こうして置いてもらえるだけで幸せだから。学校なんて行かなくていい」
 余計に菜沙は悲しくなった。いつも笑っていた翠が、隠そうともせず不安な顔をしたのはいつも学校の話だった。楽しめるだろうか、なじめるだろうかと、悲観的な発言を繰り返していた。結局、なじめなかった。
 翠は達観した微笑みを浮かべた。
「本当にいいの。前の学校でも同じだったから。いじめられてはなかったけど、ずっと独りだった。だからそんなことより、今は『島内翠』として、菜沙ちゃんや俊一さんと一緒に、普通の人と同じような生活ができるのがすごく嬉しいの」
 本心なのが、菜沙にもわかった。きっと、本当にたくさんの苦しみや悲しみの中を生きてきたのだ。だから、ほんのささいなことが幸せなのだ。
「あたしは、ミドリちゃんの力になれないかな? 今は、ミドリちゃん、独りじゃないって……。あたしがいてもおんなじかな?」
 翠は困った顔をした。菜沙が学校のことを言っているのは間違いない。ただ、ヒビの入ったガラスは修復すればまた使えるが、粉々になってしまってはもう使えない。変な喩えだが、とにかく翠は我慢しすぎた。家族と言っても遠慮があった。今でもある。
「ありがとう、菜沙ちゃん。十分だよ。菜沙ちゃんのおかげで、わたしは独りじゃないよ」
「じゃあ、一緒に学校に……」
「嫌なの。もう行きたくないの。ママは学校になんて行かないものだって、菜沙ちゃんが言ったでしょ?」
「あ、あれは……」
 言いかけた菜沙を、翠は強く抱きしめた。そして耳元で囁いた。
「お願い、菜沙ちゃん、もう言わないで。わたしは、学校なんて行かない方が幸せなの」
 こすれ合った頬が濡れて、菜沙は何も言えなくなった。
 嬉し涙か悲しみの涙か、翠にもよくわからなかった。
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