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第二話・貴方の未来に祝福を。
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俺は氷室さんに連れられ、電車を乗り継いで氷室さんの実家に来ていた。
直ぐに出掛けたが、流石に七時過ぎと夜遅くなってしまい、完全に招かれざる客だった。
氷室さんのお父さんは、娘を心配する親らしい苛立ちを見せていた。
しかし、氷室さんのお母さんは、そんな俺をリビングに通し、温かいコーヒーを出してくれたあたり、いい人なのだろう。
お父さんは、娘と一緒に別室で話し合いをしていた。
その間、お母さんは、優しい性格ながらも、少し冷たい視線を俺に向けていた。
理由はよく分からないが、まあ男が女の子の実家にやってきたら、そういう反応をするのが普通だろう。
コーヒーを飲みながら、リビングで俺と氷室さんのお母さんで互いを見合っていた。
「私の顔に何か付いていますか?」
「いえ、すみません」
氷室さんのお母さんは、かなりの綺麗な人だから見惚れてしまった。
氷室さんとは別のタイプの美人であり、おっとりとした雰囲気を出している。
だが、大人として凛とした部分もあり、それが逆に綺麗である。
「あら、姫乃と私は全然似てないからびっくりしたのかしら?」
「……ええ、でも雰囲気は似ていると思いました」
学校ではお姫様と呼ばれ、のほほんとしているのに、腹の中はまったく見せないあたりとか、親子である。
まあでも、顔合わせをした瞬間、氷室さんのお母さんと紹介され、ああそうなんだろうなと思えるくらいに似ていた。
そういう意味では、家族なのだ。
お母さんが言うには、見た目の話であったらしい。
「ああ、それは氷室さんから聞いてますので……」
「あの姫ちゃんがそう言ったんですか?!」
姫ちゃん……。
「ええ、氷室さんからは軽く話は聞いています」
そうとはいえ、家庭の事情を聞いて、無闇やたらに深掘りするわけにはいかないし、必要最低限しか知らない。
今だって、氷室さんが話してくれた内容から、ある程度状況を察しているだけだ。
「う~ん。姫ちゃんがそう判断したなら、石城くんは良い人なのね」
「どうなんでしょうかね? 俺にはよく分かりません」
「やだわぁ。地味な人が彼氏だなぁって思っていた」
……なんかディスられているが、気にしないことにした。
そもそも彼氏ではないし、氷室さんが決めあぐねていたから、付き添いに来ただけである。
彼女との付き合いだって、実質的に今日が初めてである。
俺は、手ぶらで娘さんのお家に伺うのも悪かったから、手土産を持ってきた。
それが悪かったのか。
氷室さんのお父さんは、何故かブチ切れていた。
今は、氷室さんがお父さんを宥めていて、落ち着くまで待っていた。
「ごめんなさいね。あの人、娘のことになると見境ないの。大人なのに大人げないわ」
「別に構いませんよ。親子の仲がいいのなら、それが一番です」
お母さんは、こちらが気付かないくらいに少しばかし微笑むと、本題に入る。
「貴方は、娘が好きだから、親に紹介される為に。ここまでやってきたのではないのでしょう?」
心の内まで見られている。
そう感じるような声色である。
落ち着いた声だったが、母親としての強さがあった。
だが、それに臆する俺ではない。
「ええ。そうです。しかし、部外者である俺からは言えることはありませんので、詳しいお話は氷室さんが戻ってきてからでお願いします」
「そう……。貴方の言葉を尊重するわ」
「ありがとうございます」
お母さんは、子供である俺の意思を汲んでくれた。
対等な人間として接してくれた。
それはなによりも有り難いことだった。
俺は、素直に頭を下げる。
それからコーヒーを飲み終える頃に、お父さんと氷室さんが戻ってきた。
「貴様なぞに、お父さんなどと呼ばれる筋合いはないわぁ!!」
ええ……。
シリアスな空気を一人で破壊する。
娘と話し合い、落ち着いたから戻ってきたのではないのか。
荒れている父親を見て。
「チッ」
氷室さん??
彼女は舌打ちをしていた。
ゴミでも見る目である。
まあ、思春期の女の子なら、普通の感覚なんだけど。
それを氷室さんがすると怖い。
……聞いた話よりも家族仲は良さそうだったが、父親は普通に嫌いらしい。
自分の娘をお姫様扱いするくせに、自由に行動させてあげていなかった反動か、思春期の娘さんは荒れていた。
氷室さんが、一人暮らしする決心をしたのは正しかったのではないか。
いや、そもそも一人暮らしした理由ってお父さんのせい……。
そう考えるほどに、嫌われていた。
「パパ、駄目よ」
ボコッ。
配膳用のトレイで頭部を強打する。
ママ専用ハイゼントレイ。
ええ。
なにこれ。
どういう意味なの。
……多分、こういう世界観なのだろう。
殴られて大人しくなったお父さんは、自分の席にコーヒーがないのに気付いて、声を掛ける。
「ママ、コーヒーは?」
「お客様用しかありません。これから真剣な話をするのですから、邪魔するようでしたらパパは自分の部屋に戻ってください」
「ひぃ……」
ママは強い。
睨み付けただけでお父さんは黙るのであった。
氷室家のヒエラルキーは、お母さんが高いようである。
連れ子と、実の娘二人をまっすぐに育てている人だ。
誰よりも人としての気概がある。
折れることはないのだ。
下の子は、小学生ながらも塾に行っているらしい。
このまま、この場で煩くして騒ぎ立てるなら、車を出して迎えに行って頂いた方が静かで助かる。
……正論という棒で、ぶん殴るのだった。
「すみません」
意気消沈しているお父さんは、あまり会話に入らなくなる。
娘さんを迎えに行く時間までは、静かにするつもりらしい。
「静かで結構。……姫乃、それでお話って何かしら」
「……」
氷室さんは、ママに対する気持ちを出せずに言葉に詰まるが、それを急かすことなく待ってくれていた。
娘が立ち上がろうとする時には手伝うことなく、自分一人で立ち上がるまで優しく見守る。
それが、彼女の愛である。
母とは偉大なのである。
二人の間には、血を越えた愛がある。
月日の積み重ねからか。
それ以外の何かは分からないが、俺の両親にも劣らないものだった。
氷室さんは、確かに愛されている。
それだけは分かる。
それから少しの間を空けて、氷室さんは話し出す。
私は、ママが大好きであり、ずっと感謝していること。
幸せな日々の中で生きている。
それがどれほど大切なことで、幸せであるかなんて、誰にも分からないくらいに愛している。
それでも、自分の中には亡くなったお母さんだって大切だ。
しかし。
その愛が、確実に今のママへの負担になっていることも知っていた。
夫婦とは、二人で一つだ。
そうだというのに、亡くなった人を今だに想い続けるのは、間違っている。
そうではないのかと。
間違っている。
それでも、お母さんもママも愛している。
この世界で誰よりも大好きだ。
途切れ途切れ。
氷室さんは、ママに語るのだ。
子供らしく、純粋な気持ちをお母さんにぶつける。
本人が真面目過ぎるから、難しく考えてしまうのだろう。
だが、母とは、そんなことは気にしない。
我が子を想うだけでいい。
それだけで幸せなのだ。
子供を育てることを、世間では自分の人生を削り、消費しているように表現するが、それは間違いだ。
我が子の為に命を削ることは誉れである。
日本人として、女性として、母としてこれほどの幸せはないだろう。
その為に私は生まれてきたのだと思えるほどに愛していた。
氷室さんのお母さんは、娘の悩みを聞いても迷いなく断言する。
「私は、貴方が初めてママと呼んでくれた日ことを忘れていないわ。それは何よりの祝福だった」
理解はしていた。
幼き頃の姫乃からしたら、亡くなった実の母は何よりも偉大だった。
数年の絆は、母が居なくなっても消えることはない。
私が母の代わりにはなれたとしても、母を越えることは一生叶わない。
彼女が本当に欲する愛をあげることは、私には出来ないと。
血は何よりも濃い。
赤く流れるのは、愛のかたちだ。
それでも、自分が決めた道。
母と呼ばれずとも構わない。そう願うのは、他人の家庭に入ってきた自分のエゴだと分かっていた。
しかし、あの娘は私をママと呼んでくれた。
それだけでいい。
「……私は、誰よりも幸せよ」
人とは、最初から家族になれるわけではない。
断ち切れぬ絆が出来て始めて家族なのである。
二人の間には血の繋がりはなくとも、それを補って余りある関係があった。
無償の愛。
男には理解出来ない存在が故に、男性は黙ることしか出来ない。
氷室さんは、お母さんに抱き付き、幼き日の頃のように泣き付く。
「私もママがママで幸せだよ」
幼少期に母を失い、誰よりも不幸だったとしても、全てが不幸だったわけではあるまい。
不幸だったからこそ、二人目の母に出逢えた。
ママに愛してもらい、幸せだった。
そこには、お母さんに会いたいという気持ちと同じように、ママへの想いも強い。
だから彼女は葛藤をしてしまうのだ。
愛する気持ち。
その二つから、一つは絶対に選べない。
氷室さんからしたら、どちらも大切なのだ。
どれだけ悩んでも選ぶことは出来ない。
だが、ママのことを思えば、お母さんのことは口にせず、遠い過去に置き、忘れるべきだろう。
大切な過去として、大切な思い出として、閉まっておくべきだ。
命の価値は、現在から未来にある。
過去にはない。
生きているを大切にするのは、生きている人間の至極真っ当な考えだ。
だが。
お母さんは、それを良しとしなかった。
娘を愛する。
それは、娘の全てを愛することだ。
「ママは姫乃を愛しているわ。でも、お母さんのことを忘れちゃ駄目。貴方にとって大切なものは、全部諦めちゃ駄目よ」
母親として、少しの諦めも許さなかった。
全てを抱き締めて放さないで。
貴方の気持ちを大切にして。
それが貴方の知る愛のかたちだから。
そう言うのだった。
嗚呼、そうだ。
愛している娘に、諦めろと言う母親などいない。
誰よりも笑顔でいて欲しい。
幸せになって欲しいと願うのだ。
抱き締めた娘の身体は小さく。
初めて母親として抱き締めた時と、寸分違わず変わらないのであった。
二人の間に、幾月幾年の月日が流れようとも、その温もりがいつでも母親としての使命と、人の持つ命の重さを教えてくれる。
血の繋がりはない。
しかし、そうではないからこそ、互いに繋がりを求めてきた。
親子の血が流れていない関係は歪だと人は言うだろうが、それ以上の関係がそこにはあったのだ。
男には理解出来ない。
……多分そう、理解することなど一生出来ない。
男は命を奪えても、命を生み出すことは出来ない。
故に、男は生まれながらに、女性という存在に恋い焦がれ、愛してしまう。
その価値を一生知らぬが故に。
永遠をかけて、一人の女性を愛せるのだ。
抱き締めていたのは、数分か。
時間としては短いものだったが、二人の関係を修復し、強固なものにするのには永遠よりも尊い価値があった。
氷室さんのお母さんは、最愛の娘に最後に一言残す。
「姫乃、貴方は貴方でいることに価値があるの。だから、迷ったら貴方の心に問いかけなさい。……そこには、椿姫さんと私がいるわ」
その時は、私達二人で貴方を愛する。
我が子が迷わないように。
光の先を照らすだろう。
それは、娘を愛するという気持ち。
祝福とは、そういうものだ。
いい話だった。
感動して泣けてしまうほどに。
目頭が熱くなる。
お母さんはこちらを見る。
「……石城くんもありがとう。娘の為に損な役目を担ってくれて、ごめんなさいね」
「いえ、この場において。娘さんが幸せであることが何よりのことですから」
氷室さんは、大切に育てられてきた。
今は、それだけでいい。
あんなに不安そうだった氷室さんが、今この瞬間、心の底から愛を感じ。
互いに分かり合うことが出来たのだ。
人の幸せは、自分の幸せだ。
俺の母親は、いつもそう言っていた。
人は、生まれたからには人を大切にし、人の幸せを願い続ける必要がある。
いつまでも笑っていられるように。
人は生きる義務がある。
貴方が貰った幸せは、隣の人に。
返しなさい。
隣人を愛せよ。
その時、貴方は貴方を愛することが出来るという。
……そうなのか。
いや、そうなんだろう。
だから、今の俺は幸せだったのか。
母親が居なくなってから、遠く忘れていた感情だ。
氷室さんは、それを思い出させてくれる。
氷室さんのお母さんからしたら、家族のいざこざに巻き込んでしまったと思っていたが、俺はまったく損などしていない。
「姫ちゃんの彼氏だけあってか、高校生なのに立派ねぇ」
「え?」
「えっ」
ゴゴゴゴゴ。
「姫ちゃん……?」
ママ、キレる。
その背後には、可視化出来るほどの怒りの感情を身に纏っていた。
この世で最も怒らせてはならない存在。
それが母親だ。
何で彼氏でもない人を、他人の家のいざこざに巻き込んでいるのだ。
厳格な母親は娘に怒り、娘に甘い父親は必死に娘をフォローする。
だが、それが余計に腹立たしかったようだ。
「パパ。貴方は邪魔だから、未姫のお迎え行ってきて」
居るだけで迷惑である。
「でも……」
「二度目はないわよ」
お父さんは、渋々ながら塾が終わる妹を迎えに行くことになった。
一言で追い出す。
それを見ていた俺は、無意識に背筋を伸ばしてしまう。
「あら、なにかしら?」
「いえ。何もありません」
女性に睨まれたら、男は黙るしかない。
お母さんは、溜め息を吐く。
「なんにせよ、石城くんのご両親に今度ご挨拶しないといけないわね」
「あ、いや。それは大丈夫です」
「そういうわけにはいかないでしょう?」
「いや、すみません。両親は他界してますので……」
そういうと、何ともしがたい表情をしていた。
あ、反応が氷室さんと似ている。
親子だなぁ。
「重要なことは最初に言いなさ~い!!」
それから怒られたりしながら、他人の家庭の話を聞くだけでは悪いので、俺の両親の話を少しだけした。
まあ、俺の話には感動出来る部分がないから、割愛するが。
その話を聞いていたお母さんは、涙を流していた。
「ハヤちゃん、うちの子になりなさい!」
そんな可哀想な子は、見捨てられない。
私がママになってあげる。
ママに甘えていいのよ。
ママの胸を貸してあげるわ~。
氷室さんのお母さんは、そう言って両手を広げるのだ。
「いや、意味が分からないのですが……」
何でママが、ママになるのだ。
ママのゲシュタルト崩壊している。
隣にいる娘さんが、真顔である。
よくわからないけれど、母親の奇行に慣れている様子だった。
俺の母親も、息子の溺愛具合は大概だったが。
貴方のお母さんって、そちら側の人間なんだな。
愛が重い。
母なる大地よりも母である。
まあ、じゃなきゃ、結婚してまで人様の娘さんを引き取り、しっかりとした人間には育てないか。
奇行が目立つが、尊敬出来る人だった。
「ハヤちゃん、コンビニのお弁当ばかり食べちゃ駄目よ。一人暮らしなら手作りを食べなきゃ。つらい時は、命が通ったものを食べることが一番のクスリよ」
松屋とコンビニ弁当で、毎日の食事を済ませていたのがバレて怒られる。
成長期なんだから、ちゃんとした料理を食べなさい。
出来合いをレンチンではなく、フライパンを使用した手料理がいい。
料理には愛がないといけない。
お母さんの言うことは分かる。
だが、俺には高い家事スキルがあるわけでもないし、自分一人のために手作りをするのも難しい。
男の子は、みんな面倒臭がりだからな。
料理のイロハを知っていても、自分のためとなると、炒飯を作るのも嫌なのだ。
「あらそう? なら、お隣さん同士だし、うちの子と一緒にご飯を食べればいいわ。この子、こんな性格しているけど、料理だけは得意だから。味は保証するわ」
娘は、性格が悪い上に、くよくよするわ、そのくせ顔がいいから社会性だけは高いから外っ面は良く見える。
しかし、仲良くして深く知ると、料理以外は取り柄がない。
遠回しにそう言ってくる。
「えっと、親子で仲良しなのか、そうじゃないのかはっきりしてください」
「あら、仲はいいわよ。でも甘やかさないだけ。甘やかすと、この子の為にならないもの。……それに、男の子からしても、可愛い女の子の手料理が食べれたら嬉しいでしょ?」
ん~。
どうだろうか。
「……」
氷室さんに睨まれた。
なんで??
好感度が下がるところありましたか??
うん。そうかも知れない。
氷室さんの手料理なら、学校中の人間が発狂して喜ぶだろう。
料理を奪い合い、暴動に発展する。
殺してでも食べたい。
容易にイメージ出来るのだった。
氷室さんの手料理は、それくらい貴重なものだ。
他のやつなら、絶対に食べたいと二つ返事で即答するだろう。
「……まあ、そうなんでしょうね」
何故か知らないが、外堀が埋められていた。
「姫ちゃん、男の子を抑えるならまずは胃袋よ」
「別に石城くんとはそんな関係じゃないけど……」
「ああいう子は、基本的に誰にでも優しいから、油断は駄目よ。あのやる気のない感じで、グイグイ系が好きな人は多いの。今ここで他の人よりリードを取らなきゃ」
何だか、不穏なことを言っているが、二人とも小声でやりとりしていて聞き取れなかった。
「ハヤちゃん、好きな食べ物とかある?」
「カレーですかね……」
「普通ね」
「普通の人ですから」
俺を何だと思っているのだ。
カレーや唐揚げ。ハンバーグが大好きな普通の高校生である。
そもそもそれが嫌いな男の子はいないはずだ。
それを聞いたお母さんは、今日はママ特製のカレーを作るから食べていきなさいと言ってくれた。
「いえ、それは申し訳ないです」
「お家に帰ったら、どうせコンビニのお弁当で済ませてしまうのでしょ? 絶対に駄目よ」
氷室家のカレーは甘口。
すりおろしりんごが入っている。
小学生の未姫ちゃんが食べられるようになっているという。
まあ、帰らせてくれる気がしないから、晩御飯だけ……。
そう思ったのが運の尽き。
母は強し。
獲物を捉えた。
鋭い眼光をしていた。
それから晩御飯を頂き、少しばかしゆっくりしていた。
テーブルの向かい側には、塾から帰ってきた未姫ちゃんがいた。
血を分けた姉妹ではないから、顔立ちは似ていないが、お母さんにはしっかりと似ている。
小学生ながらも、顔の幼さよりも、しっかりとした印象が強い。
カレーを食べている時から、ジッとこちらを見ていた。
流石に、ご飯時に喋るとママに怒られるからか静かにしていたが、食べ終わるとこちらに問いかけてくる。
「ハヤちゃんは、お姉ちゃんのどこが好きなの?」
いきなりあだ名呼び??
隣ではお姉ちゃんがむせていた。
「このクソガキがぁ……!?」
氷室家父、吠える。
しかし、次の瞬間には、ママに殴り殺される。
「えいっ」
トレイによる一撃で静かになった。
お盆って便利だな。
しかも、誰も倒れた父親のことは気にしない。
そのまま会話を続ける。
「お姉ちゃん、まあ顔はいいけど、ことある毎にクソ重感情ぶつけてくるタイプでしょ? 恋人にしたら絶対に面倒くさいよ??」
いや、そういうのは肉親が言うのは可哀想……。
まあでも、氷室さんの場合はそういうところも可愛いと思われそうだから気にしなくていいと思う。
俺がそう思っていたら、妹ちゃんは付け加える。
「駄目だよ。ハヤちゃんが注意しなきゃ! 普通の人は、彼氏を実家に呼ばないよ!!」
「……姫ちゃん、状況判断に困ると、力技に出るから」
母子共に、肉親に対して正当な評価をしてて笑うわ。
氷室さんは、まあ。
パワー系だし、無茶苦茶することはあるが、女の子だし愛嬌があっていいと思うが。
「違うよ。お姉ちゃんは、美人だからって自己肯定が強いだけ。普通の人が同じことしたら、どんだけ自分が大好きで、頭がお花畑なんだよって反感を買うもの……痛い痛い。お姉ちゃんやめて~」
妹ちゃんは、ほっぺたを引っ張られていた。
「未姫は少し黙ってて?」
「ほら。性格悪い~」
「性格いいわよ!」
「……いや、性格いい人間は自分でそんなことは言わないよ」
火に油を注ぐな。
お姉ちゃんがもっと怒っているぞ。
姉妹で喧嘩しているけど、そのわりには仲良しだと思う。
二人がやり取りしている中、俺はお母さんに話し掛ける。
「お母さん、少しお話してもいいですか?」
「あら。みゆママって呼んで」
う、うん。
この人が氷室家で一番面倒くさいのではないか。
ママ呼びして欲しいらしいが、ママではないのでそれはやめておく。
「……みゆさん。俺が思うに、氷室さんの問題はそんなに深刻ではなかったんじゃないですかね?」
数時間お邪魔した感じ、家族間の仲も悪いわけではないし、姉妹で喧嘩していてもちゃんと分かり合っている。
普通の幸せな家庭。
不仲ではないだろう。
わざわざ俺が付き添いをし、家族の話に介入した意味があったとは到底思えない。
「ん~。まあ、そうかもしれないけど、その問題に対してどう捉えるかは姫ちゃんの考えだから。彼女がつらいと感じたならそうなのよ。……私達が取るに足らないと考えるのは間違いよ」
我々は切羽詰まっていないから正常な判断が可能だが、悩んでいる人はそうもいかない。
つらいから悩むのだ。
悩むから、問題から抜け出せなくなる。
我々は、氷室さんの話を否定せず、聞いてあげることに意味がある。
みゆさんの話を聞き、納得してしまった。
自分だって、悩んでいる時には誰かに話したいし、相談に乗ってもらいたいと思う。
そこに正しさなどない。
悩んでいたり困っていたりする時に、誰かが側にいるだけで人は安心するのだ。
氷室さんは、ずっと前から言えずに悩みを抱えてきた。
だが、みんなに話したことで、笑顔になれた。
一人だったら無理だろう。
「社会は厳しく言うけれど、人は生きているだけで十分えらいわ。笑顔で居られるのだって、尊い幸せよ」
悩みなんてない方がいい。
娘達の小さな悩みであっても、全て聞いてあげたい。
みゆさんは、まだ三十代だ。
自分の未来だって色々あっただろう。
そんな人が、若い頃から二人も娘を育て、正しい道を進めるように無償の愛を注いでくれる。
だからこそ、彼女の言葉は重かった。
愛は何よりも偉大だ。
絶対的なものだからこそ、人は美しいと思うのだ。
我が子を見守るみゆさんのその横顔は、とても美しかった。
それに気付いたみゆさんは。
「きゃ~、ヒロインはママだったのねぇ~」
「いや、違いますけど」
……俺はオタクじゃないから、鋭いツッコミは出来ないんだが。
女性として美しいとは言ったが、それはあくまで一般的な感想だ。
流石の俺でも、同級生のお母さんは狙わない。
しかも経産婦だぞ。
実の娘が引いている。
「石城くん。流石に、娘がいる人様の母親を口説くのは違うと思うわよ……」
「ママにはパパがいるでしょ! ハヤちゃんもママに色目を使わないの!!」
喧々囂々。
姉妹から、非難されるのだった。
俺が悪いのか。
いや、なんで俺がこんな目に合っているのだ。
人様の家庭に入り込み、カレー食べてゆっくりしていたせいか。
想定以上に仲良くなり過ぎたようであった。
娘二人は、母親に怒る。
「結婚したんだから、年下に甘えないでよ」
「そうだそうだ」
パパを愛しているんでしょ。
愛でるなら、妥協してパパにしなさい。
浮気よ、浮気。
「パパは床で寝てま~す」
寝かせたんだよなぁ。
何も聞いていないからノーカンである。
トレイで強打したのを俺は見ていた。
果たして、愛している人にここまでの仕打ちが出来るのだろうか。
逆に考えよう。
愛があるから、本気でパパを殴り飛ばせる。
……全く動かないが大丈夫か?
ヒキガエルのように倒れ込んでいた。
成人男性を一撃で殴り倒す。
二児の母は強いのであった。
みゆさんは語る。
「貴方達二人への愛は永遠よ。でも~、パパへの愛は、その限りではありませ~んっ!!」
この前のデートでは、娘には洋服買ったのに、私には買ってくれない。
……いや、仲良しだろ。
そう考える俺達だったが、三十代の夫婦仲を良いも悪いも聞きたくもないので、一切の口を挟まず、スルーするのであった。
下手にツッコミを入れて、火傷をしたくなかった。
その会話に触れたくない。
三人の気持ちは一体となっていた。
小学生の未姫ちゃんですら、口を開かない。
子供に気を遣わせる大人。
未姫ちゃんは、呟く。
「次の土日はお姉ちゃんの家に行っていい?」
「え、ええ。まあ、本当に。……たまになら。ちょっとだけなら、いいわよ……」
氷室さんは、否定しなかった。
何ならメチャクチャ動揺していた。
あの両親を、実家にいる妹は一人で相手をしないといけない。
それがどれほどの負担か。
姉だからこそ、理解していたのだ。
妹に両親の相手という、面倒事を押し付けたことを。
だから、実家から遠い高校に通うことにしたのかも知れない。
未姫ちゃんは、姉が一人暮らししてから一ヶ月ほど我慢していたが、それも限界であった。
「未姫も、高校生になったら一人暮らししたいなぁ……」
両親の面倒は見れない。
未姫ちゃんは闇堕ちしていた。
まあ、その気持ちは分からんでもないから、何も言えない。
未姫ちゃんは、何を思ったか。
悪巧みをする小悪魔みたいな表情をした。
「あ、未姫は全然、ハヤちゃんの家でもいいよ」
俺の家に来るなら、お姉ちゃんの家でいいじゃん。
住所一緒だし。
徒歩二歩だぞ。
ドアトゥドアだ。
「全然違うよ!」
そう思うのだが、そこは譲らないのだった。
「ママもハヤちゃんのお家に行きたいわぁ~」
……それはやめて下さい。
色々ときついっす。
クラスメートの母親が居たら、俺の脳がバグるわ。
神視点。
それからしばらくの間、他愛ない会話をして時間を過ごしていた。
案の定、ハヤトは終電を逃した。
未姫ちゃんのわがままにより、氷室家withハヤトによるスイッチで四人バトルをして楽しんでいたから、時間はかなり過ぎてしまった。
長居するつもりはなかったが、次の日が土日だったので、それでもいいかと諦めていた。
流石、私の娘。
……計画通りだ。
ハヤトは、ママの策略に嵌まったのだ。
ゲームを終えて気が付いたら、いつの間にか客間には布団が用意されていた。
優しい人間がその状況を見たら、自分の家には帰れない。
まあ、それはいい。
それよりも、氷室家の家長であるお父さんが、いつの間にか存在ごと消されていたことにハヤトは恐怖していた。
うるさい奴がいない。
ママ曰く。
……パパは疲れたから寝たわ。
物理技。
貴方がトレイで殴り飛ばしたんだろうが。
次の日の朝、お父さんはいつもより目覚めが良かった。
それは、別のお話である。
ハヤトは、みゆさんからのご厚意により客間を借りて、布団に入り寝ていた。
他人の家で寝るのは初めてだ。
だけども、夜遅かったからか、普通に色々あり過ぎて疲れたからか。
瞼は自然と重くなる。
一方その頃。
深夜だというのに、氷室姫乃は、母親をリビングに呼び出し、紅茶を淹れて一緒に飲んでいた。
先ほどまで、いっぱい話した。
そして、急用にせよ、夜遅くに話すことなどないのに。
姫乃が時間を指定してきたのには理由がある。
この時間なら、妹の未姫が疲れて寝ているからだ。
妹には知られたくない。
あくまで姉としての体裁は保ちたい。
姫乃は、出来た姉ではなかったが、妹には良い姉でいたかったのだ。
母であるみゆは、それを知っていたから、深くは追及しなかった。
温かい紅茶を飲みながら、姫乃の動向を見守る。
「ママ、何度も呼び出してごめんなさい」
「ううん、構わないわ。だって姫ちゃんは私の娘だもの」
抱きしめるように優しくそう言うが、姫乃からしたら、それが何よりもつらくなる。
「ごめんなさい。……私、一番最初に石城くんに酷いことを言ってしまったの。ご両親が事故に合ったことを知らなかった。……違う。そうとはいえ、一人暮らしをするくらいなら、常識を今からでも親から教わりなさいと言ってしまった。私は取り返しの付かないことをしてしまったの」
今なら分かる。
石城くんは、誰よりも両親に愛され、誰よりも両親を愛していた。
それだけのものを貰って生きてきた。
その人には、永遠に会えない。
私はその思い出を汚した。
彼からしたら、心が殺されるくらいの一言だろう。
私のことを殺したいくらい憎んだはずだ。
彼は、そんな状況ですら、自分を律し、親の教え通りに、怒りを我慢していた。
人には優しくしなさい。
それは、両親から受け継いできたものだ。
悲しくも姫乃は、今は亡き、ハヤトの母親に助けられていた。
彼は、誰よりも優しい。
だから、姫乃のママや妹ですらも、すぐに打ち解けたのだ。
しかし、彼が出来た人間であるほど、自分が吐いた言葉の汚さが際立ち、人間としてどんなに愚かな存在かと悟ってしまう。
多分、彼は気にしないだろう。
そういう日もあるさ。
そう言って許してくれる。
「そうね……。でも、ハヤちゃんは貴方を許したのでしょう? なら、自分を責めずに許してあげなさい」
人が発した言葉は、死ぬまで撤回は出来ない。
物語なら、人の心に残るように。
作者は数十回、数百回と言葉を反芻して、綺麗な言葉で物語を書く。
しかし、実際の人間は、意識して言葉を紡がない。
悪口を言う時に、その人に一生恨まれると思って悪口は言わない。
背後から殺されても、人は死ぬまで自分の愚かさを理解出来ないのだ。
人とはそういうものだ。
あの時、軽々しく発した言葉は、姫乃の人生において、永遠に残る呪いだった。
それほどの後悔だった。
彼が見せた怒りと悲しみの目を、一週間以上、忘れることは出来なかった。
結果的に、ハヤトが姫乃に対して怒らなかったのは偶然でしかない。
投げたサイコロの出目がよかっただけだ。
蝶が羽ばたくように、日にちや場所が少しでも違えば、死ぬまで許しはしなかっただろう。
それほどの失言。
圧倒的な呪いだ。
それでも彼は許してくれたのだ。
両親に愛され。
両親を愛していた。
家族と過ごした時間は、ハヤトにとって大切なものばかりだったはずだ。
それでも、自分の境遇を受け入れ、他の人には不幸になってほしくないと、ハヤトは思っていた。
私のことを全力で助けてくれる。
誰よりも優しい人。
「ハヤちゃんは優しいわ。……姫ちゃんを助けてくれたのだって、姫ちゃんが可愛いからなんて関係なく、彼が元々優しかったからよ。ハヤちゃんはね、死ぬまで人を助けて、死ねる人。そこに一切の後悔はしない人よ。……それほどの人は、そうそういないわ。ご両親と別れる最後の瞬間までずっとハヤちゃんを愛してくれたから、彼は誰よりも優しいのね」
貴方が百回困っていたら、百回助けてくれる。
それが彼にとっての普通なのだ。
理解はし難いけれど、そういう人間はいる。
自分が死ぬまで、自分がお人好しだと気付かない。
「そんなのおかしいわ。誰よりもつらくて、幸せになるべきなのは石城くんなのに……」
お母さんに会いたいのは、私よりも彼だった。
死ぬ直前まで残せるものを全部貰った私よりも。
何でもなかった日に、全てを取り上げられた彼の悲しみは計り知れない。
家族と過ごしてきた家も街も、知り合いさえも全て失ったのに。
それでも彼は、私を許してくれたのだ。
それを聞いて、みゆは言う。
「姫乃。貴方には分からないかも知れないけど、それでも人を哀れんではいけないわ。自分の言葉に後悔もしては駄目よ。ただ、ハヤちゃんの幸せを願ってあげなさい」
人は、誰かに救ってほしいとは思わない。
赤子でさえ、倒れて泣いても、自分の足でまた歩くことが出来るのだ。
ハヤちゃんも同じ。
今はまだ、つらい記憶を思い出す日々だとしても、生きていればそれがいつしか祝福になる日も来よう。
普通の日々を過ごし。
過ごしていけばいい。
生きてさえいれば。
幸せな日はいつか来る。
彼はいつか知るだろう。
最愛の人の横顔に、今は亡き母親の面影を見て。
同じような笑顔をする誰かを好きになる。
その時に、自分がどれほど愛されていたか。
初めて、母の愛を知るのだ。
ずっと祝福されている。
死んでも。失っても。
人が生きている限り、その血に流れ、紡がれてきたものが無くなることはない。
それが、人間だから。
理解出来なかった。
なんで自分の為に涙を流してくれるのか。
理解出来ない。
お隣さんなだけなのに、どうして気にかけてくれるのか。
好きではなかった。
だが、家族に似た感情はある。
互いに互いが幸せでいて欲しい。
あの人だけは、不幸になっていい人ではない。
そんな世界は許せない。
そう願っていた。
願い続けていた。
それが愛なのかどうなのかは、まだ分からない。
ちゃんと話したのは、今日が初めてだ。
だけど、一生分の話をしたくらいに。
人の心に触れた気がしたのだ。
十数年の月日を鮮明に思い出すほどのとても長い一日だった。
今日という日を忘れることはない。
忘れるわけがない。
我々は、たくさんの想いを抱き締めて生きている。
流した涙は、まるで宝石のように綺麗に輝くのだ。
直ぐに出掛けたが、流石に七時過ぎと夜遅くなってしまい、完全に招かれざる客だった。
氷室さんのお父さんは、娘を心配する親らしい苛立ちを見せていた。
しかし、氷室さんのお母さんは、そんな俺をリビングに通し、温かいコーヒーを出してくれたあたり、いい人なのだろう。
お父さんは、娘と一緒に別室で話し合いをしていた。
その間、お母さんは、優しい性格ながらも、少し冷たい視線を俺に向けていた。
理由はよく分からないが、まあ男が女の子の実家にやってきたら、そういう反応をするのが普通だろう。
コーヒーを飲みながら、リビングで俺と氷室さんのお母さんで互いを見合っていた。
「私の顔に何か付いていますか?」
「いえ、すみません」
氷室さんのお母さんは、かなりの綺麗な人だから見惚れてしまった。
氷室さんとは別のタイプの美人であり、おっとりとした雰囲気を出している。
だが、大人として凛とした部分もあり、それが逆に綺麗である。
「あら、姫乃と私は全然似てないからびっくりしたのかしら?」
「……ええ、でも雰囲気は似ていると思いました」
学校ではお姫様と呼ばれ、のほほんとしているのに、腹の中はまったく見せないあたりとか、親子である。
まあでも、顔合わせをした瞬間、氷室さんのお母さんと紹介され、ああそうなんだろうなと思えるくらいに似ていた。
そういう意味では、家族なのだ。
お母さんが言うには、見た目の話であったらしい。
「ああ、それは氷室さんから聞いてますので……」
「あの姫ちゃんがそう言ったんですか?!」
姫ちゃん……。
「ええ、氷室さんからは軽く話は聞いています」
そうとはいえ、家庭の事情を聞いて、無闇やたらに深掘りするわけにはいかないし、必要最低限しか知らない。
今だって、氷室さんが話してくれた内容から、ある程度状況を察しているだけだ。
「う~ん。姫ちゃんがそう判断したなら、石城くんは良い人なのね」
「どうなんでしょうかね? 俺にはよく分かりません」
「やだわぁ。地味な人が彼氏だなぁって思っていた」
……なんかディスられているが、気にしないことにした。
そもそも彼氏ではないし、氷室さんが決めあぐねていたから、付き添いに来ただけである。
彼女との付き合いだって、実質的に今日が初めてである。
俺は、手ぶらで娘さんのお家に伺うのも悪かったから、手土産を持ってきた。
それが悪かったのか。
氷室さんのお父さんは、何故かブチ切れていた。
今は、氷室さんがお父さんを宥めていて、落ち着くまで待っていた。
「ごめんなさいね。あの人、娘のことになると見境ないの。大人なのに大人げないわ」
「別に構いませんよ。親子の仲がいいのなら、それが一番です」
お母さんは、こちらが気付かないくらいに少しばかし微笑むと、本題に入る。
「貴方は、娘が好きだから、親に紹介される為に。ここまでやってきたのではないのでしょう?」
心の内まで見られている。
そう感じるような声色である。
落ち着いた声だったが、母親としての強さがあった。
だが、それに臆する俺ではない。
「ええ。そうです。しかし、部外者である俺からは言えることはありませんので、詳しいお話は氷室さんが戻ってきてからでお願いします」
「そう……。貴方の言葉を尊重するわ」
「ありがとうございます」
お母さんは、子供である俺の意思を汲んでくれた。
対等な人間として接してくれた。
それはなによりも有り難いことだった。
俺は、素直に頭を下げる。
それからコーヒーを飲み終える頃に、お父さんと氷室さんが戻ってきた。
「貴様なぞに、お父さんなどと呼ばれる筋合いはないわぁ!!」
ええ……。
シリアスな空気を一人で破壊する。
娘と話し合い、落ち着いたから戻ってきたのではないのか。
荒れている父親を見て。
「チッ」
氷室さん??
彼女は舌打ちをしていた。
ゴミでも見る目である。
まあ、思春期の女の子なら、普通の感覚なんだけど。
それを氷室さんがすると怖い。
……聞いた話よりも家族仲は良さそうだったが、父親は普通に嫌いらしい。
自分の娘をお姫様扱いするくせに、自由に行動させてあげていなかった反動か、思春期の娘さんは荒れていた。
氷室さんが、一人暮らしする決心をしたのは正しかったのではないか。
いや、そもそも一人暮らしした理由ってお父さんのせい……。
そう考えるほどに、嫌われていた。
「パパ、駄目よ」
ボコッ。
配膳用のトレイで頭部を強打する。
ママ専用ハイゼントレイ。
ええ。
なにこれ。
どういう意味なの。
……多分、こういう世界観なのだろう。
殴られて大人しくなったお父さんは、自分の席にコーヒーがないのに気付いて、声を掛ける。
「ママ、コーヒーは?」
「お客様用しかありません。これから真剣な話をするのですから、邪魔するようでしたらパパは自分の部屋に戻ってください」
「ひぃ……」
ママは強い。
睨み付けただけでお父さんは黙るのであった。
氷室家のヒエラルキーは、お母さんが高いようである。
連れ子と、実の娘二人をまっすぐに育てている人だ。
誰よりも人としての気概がある。
折れることはないのだ。
下の子は、小学生ながらも塾に行っているらしい。
このまま、この場で煩くして騒ぎ立てるなら、車を出して迎えに行って頂いた方が静かで助かる。
……正論という棒で、ぶん殴るのだった。
「すみません」
意気消沈しているお父さんは、あまり会話に入らなくなる。
娘さんを迎えに行く時間までは、静かにするつもりらしい。
「静かで結構。……姫乃、それでお話って何かしら」
「……」
氷室さんは、ママに対する気持ちを出せずに言葉に詰まるが、それを急かすことなく待ってくれていた。
娘が立ち上がろうとする時には手伝うことなく、自分一人で立ち上がるまで優しく見守る。
それが、彼女の愛である。
母とは偉大なのである。
二人の間には、血を越えた愛がある。
月日の積み重ねからか。
それ以外の何かは分からないが、俺の両親にも劣らないものだった。
氷室さんは、確かに愛されている。
それだけは分かる。
それから少しの間を空けて、氷室さんは話し出す。
私は、ママが大好きであり、ずっと感謝していること。
幸せな日々の中で生きている。
それがどれほど大切なことで、幸せであるかなんて、誰にも分からないくらいに愛している。
それでも、自分の中には亡くなったお母さんだって大切だ。
しかし。
その愛が、確実に今のママへの負担になっていることも知っていた。
夫婦とは、二人で一つだ。
そうだというのに、亡くなった人を今だに想い続けるのは、間違っている。
そうではないのかと。
間違っている。
それでも、お母さんもママも愛している。
この世界で誰よりも大好きだ。
途切れ途切れ。
氷室さんは、ママに語るのだ。
子供らしく、純粋な気持ちをお母さんにぶつける。
本人が真面目過ぎるから、難しく考えてしまうのだろう。
だが、母とは、そんなことは気にしない。
我が子を想うだけでいい。
それだけで幸せなのだ。
子供を育てることを、世間では自分の人生を削り、消費しているように表現するが、それは間違いだ。
我が子の為に命を削ることは誉れである。
日本人として、女性として、母としてこれほどの幸せはないだろう。
その為に私は生まれてきたのだと思えるほどに愛していた。
氷室さんのお母さんは、娘の悩みを聞いても迷いなく断言する。
「私は、貴方が初めてママと呼んでくれた日ことを忘れていないわ。それは何よりの祝福だった」
理解はしていた。
幼き頃の姫乃からしたら、亡くなった実の母は何よりも偉大だった。
数年の絆は、母が居なくなっても消えることはない。
私が母の代わりにはなれたとしても、母を越えることは一生叶わない。
彼女が本当に欲する愛をあげることは、私には出来ないと。
血は何よりも濃い。
赤く流れるのは、愛のかたちだ。
それでも、自分が決めた道。
母と呼ばれずとも構わない。そう願うのは、他人の家庭に入ってきた自分のエゴだと分かっていた。
しかし、あの娘は私をママと呼んでくれた。
それだけでいい。
「……私は、誰よりも幸せよ」
人とは、最初から家族になれるわけではない。
断ち切れぬ絆が出来て始めて家族なのである。
二人の間には血の繋がりはなくとも、それを補って余りある関係があった。
無償の愛。
男には理解出来ない存在が故に、男性は黙ることしか出来ない。
氷室さんは、お母さんに抱き付き、幼き日の頃のように泣き付く。
「私もママがママで幸せだよ」
幼少期に母を失い、誰よりも不幸だったとしても、全てが不幸だったわけではあるまい。
不幸だったからこそ、二人目の母に出逢えた。
ママに愛してもらい、幸せだった。
そこには、お母さんに会いたいという気持ちと同じように、ママへの想いも強い。
だから彼女は葛藤をしてしまうのだ。
愛する気持ち。
その二つから、一つは絶対に選べない。
氷室さんからしたら、どちらも大切なのだ。
どれだけ悩んでも選ぶことは出来ない。
だが、ママのことを思えば、お母さんのことは口にせず、遠い過去に置き、忘れるべきだろう。
大切な過去として、大切な思い出として、閉まっておくべきだ。
命の価値は、現在から未来にある。
過去にはない。
生きているを大切にするのは、生きている人間の至極真っ当な考えだ。
だが。
お母さんは、それを良しとしなかった。
娘を愛する。
それは、娘の全てを愛することだ。
「ママは姫乃を愛しているわ。でも、お母さんのことを忘れちゃ駄目。貴方にとって大切なものは、全部諦めちゃ駄目よ」
母親として、少しの諦めも許さなかった。
全てを抱き締めて放さないで。
貴方の気持ちを大切にして。
それが貴方の知る愛のかたちだから。
そう言うのだった。
嗚呼、そうだ。
愛している娘に、諦めろと言う母親などいない。
誰よりも笑顔でいて欲しい。
幸せになって欲しいと願うのだ。
抱き締めた娘の身体は小さく。
初めて母親として抱き締めた時と、寸分違わず変わらないのであった。
二人の間に、幾月幾年の月日が流れようとも、その温もりがいつでも母親としての使命と、人の持つ命の重さを教えてくれる。
血の繋がりはない。
しかし、そうではないからこそ、互いに繋がりを求めてきた。
親子の血が流れていない関係は歪だと人は言うだろうが、それ以上の関係がそこにはあったのだ。
男には理解出来ない。
……多分そう、理解することなど一生出来ない。
男は命を奪えても、命を生み出すことは出来ない。
故に、男は生まれながらに、女性という存在に恋い焦がれ、愛してしまう。
その価値を一生知らぬが故に。
永遠をかけて、一人の女性を愛せるのだ。
抱き締めていたのは、数分か。
時間としては短いものだったが、二人の関係を修復し、強固なものにするのには永遠よりも尊い価値があった。
氷室さんのお母さんは、最愛の娘に最後に一言残す。
「姫乃、貴方は貴方でいることに価値があるの。だから、迷ったら貴方の心に問いかけなさい。……そこには、椿姫さんと私がいるわ」
その時は、私達二人で貴方を愛する。
我が子が迷わないように。
光の先を照らすだろう。
それは、娘を愛するという気持ち。
祝福とは、そういうものだ。
いい話だった。
感動して泣けてしまうほどに。
目頭が熱くなる。
お母さんはこちらを見る。
「……石城くんもありがとう。娘の為に損な役目を担ってくれて、ごめんなさいね」
「いえ、この場において。娘さんが幸せであることが何よりのことですから」
氷室さんは、大切に育てられてきた。
今は、それだけでいい。
あんなに不安そうだった氷室さんが、今この瞬間、心の底から愛を感じ。
互いに分かり合うことが出来たのだ。
人の幸せは、自分の幸せだ。
俺の母親は、いつもそう言っていた。
人は、生まれたからには人を大切にし、人の幸せを願い続ける必要がある。
いつまでも笑っていられるように。
人は生きる義務がある。
貴方が貰った幸せは、隣の人に。
返しなさい。
隣人を愛せよ。
その時、貴方は貴方を愛することが出来るという。
……そうなのか。
いや、そうなんだろう。
だから、今の俺は幸せだったのか。
母親が居なくなってから、遠く忘れていた感情だ。
氷室さんは、それを思い出させてくれる。
氷室さんのお母さんからしたら、家族のいざこざに巻き込んでしまったと思っていたが、俺はまったく損などしていない。
「姫ちゃんの彼氏だけあってか、高校生なのに立派ねぇ」
「え?」
「えっ」
ゴゴゴゴゴ。
「姫ちゃん……?」
ママ、キレる。
その背後には、可視化出来るほどの怒りの感情を身に纏っていた。
この世で最も怒らせてはならない存在。
それが母親だ。
何で彼氏でもない人を、他人の家のいざこざに巻き込んでいるのだ。
厳格な母親は娘に怒り、娘に甘い父親は必死に娘をフォローする。
だが、それが余計に腹立たしかったようだ。
「パパ。貴方は邪魔だから、未姫のお迎え行ってきて」
居るだけで迷惑である。
「でも……」
「二度目はないわよ」
お父さんは、渋々ながら塾が終わる妹を迎えに行くことになった。
一言で追い出す。
それを見ていた俺は、無意識に背筋を伸ばしてしまう。
「あら、なにかしら?」
「いえ。何もありません」
女性に睨まれたら、男は黙るしかない。
お母さんは、溜め息を吐く。
「なんにせよ、石城くんのご両親に今度ご挨拶しないといけないわね」
「あ、いや。それは大丈夫です」
「そういうわけにはいかないでしょう?」
「いや、すみません。両親は他界してますので……」
そういうと、何ともしがたい表情をしていた。
あ、反応が氷室さんと似ている。
親子だなぁ。
「重要なことは最初に言いなさ~い!!」
それから怒られたりしながら、他人の家庭の話を聞くだけでは悪いので、俺の両親の話を少しだけした。
まあ、俺の話には感動出来る部分がないから、割愛するが。
その話を聞いていたお母さんは、涙を流していた。
「ハヤちゃん、うちの子になりなさい!」
そんな可哀想な子は、見捨てられない。
私がママになってあげる。
ママに甘えていいのよ。
ママの胸を貸してあげるわ~。
氷室さんのお母さんは、そう言って両手を広げるのだ。
「いや、意味が分からないのですが……」
何でママが、ママになるのだ。
ママのゲシュタルト崩壊している。
隣にいる娘さんが、真顔である。
よくわからないけれど、母親の奇行に慣れている様子だった。
俺の母親も、息子の溺愛具合は大概だったが。
貴方のお母さんって、そちら側の人間なんだな。
愛が重い。
母なる大地よりも母である。
まあ、じゃなきゃ、結婚してまで人様の娘さんを引き取り、しっかりとした人間には育てないか。
奇行が目立つが、尊敬出来る人だった。
「ハヤちゃん、コンビニのお弁当ばかり食べちゃ駄目よ。一人暮らしなら手作りを食べなきゃ。つらい時は、命が通ったものを食べることが一番のクスリよ」
松屋とコンビニ弁当で、毎日の食事を済ませていたのがバレて怒られる。
成長期なんだから、ちゃんとした料理を食べなさい。
出来合いをレンチンではなく、フライパンを使用した手料理がいい。
料理には愛がないといけない。
お母さんの言うことは分かる。
だが、俺には高い家事スキルがあるわけでもないし、自分一人のために手作りをするのも難しい。
男の子は、みんな面倒臭がりだからな。
料理のイロハを知っていても、自分のためとなると、炒飯を作るのも嫌なのだ。
「あらそう? なら、お隣さん同士だし、うちの子と一緒にご飯を食べればいいわ。この子、こんな性格しているけど、料理だけは得意だから。味は保証するわ」
娘は、性格が悪い上に、くよくよするわ、そのくせ顔がいいから社会性だけは高いから外っ面は良く見える。
しかし、仲良くして深く知ると、料理以外は取り柄がない。
遠回しにそう言ってくる。
「えっと、親子で仲良しなのか、そうじゃないのかはっきりしてください」
「あら、仲はいいわよ。でも甘やかさないだけ。甘やかすと、この子の為にならないもの。……それに、男の子からしても、可愛い女の子の手料理が食べれたら嬉しいでしょ?」
ん~。
どうだろうか。
「……」
氷室さんに睨まれた。
なんで??
好感度が下がるところありましたか??
うん。そうかも知れない。
氷室さんの手料理なら、学校中の人間が発狂して喜ぶだろう。
料理を奪い合い、暴動に発展する。
殺してでも食べたい。
容易にイメージ出来るのだった。
氷室さんの手料理は、それくらい貴重なものだ。
他のやつなら、絶対に食べたいと二つ返事で即答するだろう。
「……まあ、そうなんでしょうね」
何故か知らないが、外堀が埋められていた。
「姫ちゃん、男の子を抑えるならまずは胃袋よ」
「別に石城くんとはそんな関係じゃないけど……」
「ああいう子は、基本的に誰にでも優しいから、油断は駄目よ。あのやる気のない感じで、グイグイ系が好きな人は多いの。今ここで他の人よりリードを取らなきゃ」
何だか、不穏なことを言っているが、二人とも小声でやりとりしていて聞き取れなかった。
「ハヤちゃん、好きな食べ物とかある?」
「カレーですかね……」
「普通ね」
「普通の人ですから」
俺を何だと思っているのだ。
カレーや唐揚げ。ハンバーグが大好きな普通の高校生である。
そもそもそれが嫌いな男の子はいないはずだ。
それを聞いたお母さんは、今日はママ特製のカレーを作るから食べていきなさいと言ってくれた。
「いえ、それは申し訳ないです」
「お家に帰ったら、どうせコンビニのお弁当で済ませてしまうのでしょ? 絶対に駄目よ」
氷室家のカレーは甘口。
すりおろしりんごが入っている。
小学生の未姫ちゃんが食べられるようになっているという。
まあ、帰らせてくれる気がしないから、晩御飯だけ……。
そう思ったのが運の尽き。
母は強し。
獲物を捉えた。
鋭い眼光をしていた。
それから晩御飯を頂き、少しばかしゆっくりしていた。
テーブルの向かい側には、塾から帰ってきた未姫ちゃんがいた。
血を分けた姉妹ではないから、顔立ちは似ていないが、お母さんにはしっかりと似ている。
小学生ながらも、顔の幼さよりも、しっかりとした印象が強い。
カレーを食べている時から、ジッとこちらを見ていた。
流石に、ご飯時に喋るとママに怒られるからか静かにしていたが、食べ終わるとこちらに問いかけてくる。
「ハヤちゃんは、お姉ちゃんのどこが好きなの?」
いきなりあだ名呼び??
隣ではお姉ちゃんがむせていた。
「このクソガキがぁ……!?」
氷室家父、吠える。
しかし、次の瞬間には、ママに殴り殺される。
「えいっ」
トレイによる一撃で静かになった。
お盆って便利だな。
しかも、誰も倒れた父親のことは気にしない。
そのまま会話を続ける。
「お姉ちゃん、まあ顔はいいけど、ことある毎にクソ重感情ぶつけてくるタイプでしょ? 恋人にしたら絶対に面倒くさいよ??」
いや、そういうのは肉親が言うのは可哀想……。
まあでも、氷室さんの場合はそういうところも可愛いと思われそうだから気にしなくていいと思う。
俺がそう思っていたら、妹ちゃんは付け加える。
「駄目だよ。ハヤちゃんが注意しなきゃ! 普通の人は、彼氏を実家に呼ばないよ!!」
「……姫ちゃん、状況判断に困ると、力技に出るから」
母子共に、肉親に対して正当な評価をしてて笑うわ。
氷室さんは、まあ。
パワー系だし、無茶苦茶することはあるが、女の子だし愛嬌があっていいと思うが。
「違うよ。お姉ちゃんは、美人だからって自己肯定が強いだけ。普通の人が同じことしたら、どんだけ自分が大好きで、頭がお花畑なんだよって反感を買うもの……痛い痛い。お姉ちゃんやめて~」
妹ちゃんは、ほっぺたを引っ張られていた。
「未姫は少し黙ってて?」
「ほら。性格悪い~」
「性格いいわよ!」
「……いや、性格いい人間は自分でそんなことは言わないよ」
火に油を注ぐな。
お姉ちゃんがもっと怒っているぞ。
姉妹で喧嘩しているけど、そのわりには仲良しだと思う。
二人がやり取りしている中、俺はお母さんに話し掛ける。
「お母さん、少しお話してもいいですか?」
「あら。みゆママって呼んで」
う、うん。
この人が氷室家で一番面倒くさいのではないか。
ママ呼びして欲しいらしいが、ママではないのでそれはやめておく。
「……みゆさん。俺が思うに、氷室さんの問題はそんなに深刻ではなかったんじゃないですかね?」
数時間お邪魔した感じ、家族間の仲も悪いわけではないし、姉妹で喧嘩していてもちゃんと分かり合っている。
普通の幸せな家庭。
不仲ではないだろう。
わざわざ俺が付き添いをし、家族の話に介入した意味があったとは到底思えない。
「ん~。まあ、そうかもしれないけど、その問題に対してどう捉えるかは姫ちゃんの考えだから。彼女がつらいと感じたならそうなのよ。……私達が取るに足らないと考えるのは間違いよ」
我々は切羽詰まっていないから正常な判断が可能だが、悩んでいる人はそうもいかない。
つらいから悩むのだ。
悩むから、問題から抜け出せなくなる。
我々は、氷室さんの話を否定せず、聞いてあげることに意味がある。
みゆさんの話を聞き、納得してしまった。
自分だって、悩んでいる時には誰かに話したいし、相談に乗ってもらいたいと思う。
そこに正しさなどない。
悩んでいたり困っていたりする時に、誰かが側にいるだけで人は安心するのだ。
氷室さんは、ずっと前から言えずに悩みを抱えてきた。
だが、みんなに話したことで、笑顔になれた。
一人だったら無理だろう。
「社会は厳しく言うけれど、人は生きているだけで十分えらいわ。笑顔で居られるのだって、尊い幸せよ」
悩みなんてない方がいい。
娘達の小さな悩みであっても、全て聞いてあげたい。
みゆさんは、まだ三十代だ。
自分の未来だって色々あっただろう。
そんな人が、若い頃から二人も娘を育て、正しい道を進めるように無償の愛を注いでくれる。
だからこそ、彼女の言葉は重かった。
愛は何よりも偉大だ。
絶対的なものだからこそ、人は美しいと思うのだ。
我が子を見守るみゆさんのその横顔は、とても美しかった。
それに気付いたみゆさんは。
「きゃ~、ヒロインはママだったのねぇ~」
「いや、違いますけど」
……俺はオタクじゃないから、鋭いツッコミは出来ないんだが。
女性として美しいとは言ったが、それはあくまで一般的な感想だ。
流石の俺でも、同級生のお母さんは狙わない。
しかも経産婦だぞ。
実の娘が引いている。
「石城くん。流石に、娘がいる人様の母親を口説くのは違うと思うわよ……」
「ママにはパパがいるでしょ! ハヤちゃんもママに色目を使わないの!!」
喧々囂々。
姉妹から、非難されるのだった。
俺が悪いのか。
いや、なんで俺がこんな目に合っているのだ。
人様の家庭に入り込み、カレー食べてゆっくりしていたせいか。
想定以上に仲良くなり過ぎたようであった。
娘二人は、母親に怒る。
「結婚したんだから、年下に甘えないでよ」
「そうだそうだ」
パパを愛しているんでしょ。
愛でるなら、妥協してパパにしなさい。
浮気よ、浮気。
「パパは床で寝てま~す」
寝かせたんだよなぁ。
何も聞いていないからノーカンである。
トレイで強打したのを俺は見ていた。
果たして、愛している人にここまでの仕打ちが出来るのだろうか。
逆に考えよう。
愛があるから、本気でパパを殴り飛ばせる。
……全く動かないが大丈夫か?
ヒキガエルのように倒れ込んでいた。
成人男性を一撃で殴り倒す。
二児の母は強いのであった。
みゆさんは語る。
「貴方達二人への愛は永遠よ。でも~、パパへの愛は、その限りではありませ~んっ!!」
この前のデートでは、娘には洋服買ったのに、私には買ってくれない。
……いや、仲良しだろ。
そう考える俺達だったが、三十代の夫婦仲を良いも悪いも聞きたくもないので、一切の口を挟まず、スルーするのであった。
下手にツッコミを入れて、火傷をしたくなかった。
その会話に触れたくない。
三人の気持ちは一体となっていた。
小学生の未姫ちゃんですら、口を開かない。
子供に気を遣わせる大人。
未姫ちゃんは、呟く。
「次の土日はお姉ちゃんの家に行っていい?」
「え、ええ。まあ、本当に。……たまになら。ちょっとだけなら、いいわよ……」
氷室さんは、否定しなかった。
何ならメチャクチャ動揺していた。
あの両親を、実家にいる妹は一人で相手をしないといけない。
それがどれほどの負担か。
姉だからこそ、理解していたのだ。
妹に両親の相手という、面倒事を押し付けたことを。
だから、実家から遠い高校に通うことにしたのかも知れない。
未姫ちゃんは、姉が一人暮らししてから一ヶ月ほど我慢していたが、それも限界であった。
「未姫も、高校生になったら一人暮らししたいなぁ……」
両親の面倒は見れない。
未姫ちゃんは闇堕ちしていた。
まあ、その気持ちは分からんでもないから、何も言えない。
未姫ちゃんは、何を思ったか。
悪巧みをする小悪魔みたいな表情をした。
「あ、未姫は全然、ハヤちゃんの家でもいいよ」
俺の家に来るなら、お姉ちゃんの家でいいじゃん。
住所一緒だし。
徒歩二歩だぞ。
ドアトゥドアだ。
「全然違うよ!」
そう思うのだが、そこは譲らないのだった。
「ママもハヤちゃんのお家に行きたいわぁ~」
……それはやめて下さい。
色々ときついっす。
クラスメートの母親が居たら、俺の脳がバグるわ。
神視点。
それからしばらくの間、他愛ない会話をして時間を過ごしていた。
案の定、ハヤトは終電を逃した。
未姫ちゃんのわがままにより、氷室家withハヤトによるスイッチで四人バトルをして楽しんでいたから、時間はかなり過ぎてしまった。
長居するつもりはなかったが、次の日が土日だったので、それでもいいかと諦めていた。
流石、私の娘。
……計画通りだ。
ハヤトは、ママの策略に嵌まったのだ。
ゲームを終えて気が付いたら、いつの間にか客間には布団が用意されていた。
優しい人間がその状況を見たら、自分の家には帰れない。
まあ、それはいい。
それよりも、氷室家の家長であるお父さんが、いつの間にか存在ごと消されていたことにハヤトは恐怖していた。
うるさい奴がいない。
ママ曰く。
……パパは疲れたから寝たわ。
物理技。
貴方がトレイで殴り飛ばしたんだろうが。
次の日の朝、お父さんはいつもより目覚めが良かった。
それは、別のお話である。
ハヤトは、みゆさんからのご厚意により客間を借りて、布団に入り寝ていた。
他人の家で寝るのは初めてだ。
だけども、夜遅かったからか、普通に色々あり過ぎて疲れたからか。
瞼は自然と重くなる。
一方その頃。
深夜だというのに、氷室姫乃は、母親をリビングに呼び出し、紅茶を淹れて一緒に飲んでいた。
先ほどまで、いっぱい話した。
そして、急用にせよ、夜遅くに話すことなどないのに。
姫乃が時間を指定してきたのには理由がある。
この時間なら、妹の未姫が疲れて寝ているからだ。
妹には知られたくない。
あくまで姉としての体裁は保ちたい。
姫乃は、出来た姉ではなかったが、妹には良い姉でいたかったのだ。
母であるみゆは、それを知っていたから、深くは追及しなかった。
温かい紅茶を飲みながら、姫乃の動向を見守る。
「ママ、何度も呼び出してごめんなさい」
「ううん、構わないわ。だって姫ちゃんは私の娘だもの」
抱きしめるように優しくそう言うが、姫乃からしたら、それが何よりもつらくなる。
「ごめんなさい。……私、一番最初に石城くんに酷いことを言ってしまったの。ご両親が事故に合ったことを知らなかった。……違う。そうとはいえ、一人暮らしをするくらいなら、常識を今からでも親から教わりなさいと言ってしまった。私は取り返しの付かないことをしてしまったの」
今なら分かる。
石城くんは、誰よりも両親に愛され、誰よりも両親を愛していた。
それだけのものを貰って生きてきた。
その人には、永遠に会えない。
私はその思い出を汚した。
彼からしたら、心が殺されるくらいの一言だろう。
私のことを殺したいくらい憎んだはずだ。
彼は、そんな状況ですら、自分を律し、親の教え通りに、怒りを我慢していた。
人には優しくしなさい。
それは、両親から受け継いできたものだ。
悲しくも姫乃は、今は亡き、ハヤトの母親に助けられていた。
彼は、誰よりも優しい。
だから、姫乃のママや妹ですらも、すぐに打ち解けたのだ。
しかし、彼が出来た人間であるほど、自分が吐いた言葉の汚さが際立ち、人間としてどんなに愚かな存在かと悟ってしまう。
多分、彼は気にしないだろう。
そういう日もあるさ。
そう言って許してくれる。
「そうね……。でも、ハヤちゃんは貴方を許したのでしょう? なら、自分を責めずに許してあげなさい」
人が発した言葉は、死ぬまで撤回は出来ない。
物語なら、人の心に残るように。
作者は数十回、数百回と言葉を反芻して、綺麗な言葉で物語を書く。
しかし、実際の人間は、意識して言葉を紡がない。
悪口を言う時に、その人に一生恨まれると思って悪口は言わない。
背後から殺されても、人は死ぬまで自分の愚かさを理解出来ないのだ。
人とはそういうものだ。
あの時、軽々しく発した言葉は、姫乃の人生において、永遠に残る呪いだった。
それほどの後悔だった。
彼が見せた怒りと悲しみの目を、一週間以上、忘れることは出来なかった。
結果的に、ハヤトが姫乃に対して怒らなかったのは偶然でしかない。
投げたサイコロの出目がよかっただけだ。
蝶が羽ばたくように、日にちや場所が少しでも違えば、死ぬまで許しはしなかっただろう。
それほどの失言。
圧倒的な呪いだ。
それでも彼は許してくれたのだ。
両親に愛され。
両親を愛していた。
家族と過ごした時間は、ハヤトにとって大切なものばかりだったはずだ。
それでも、自分の境遇を受け入れ、他の人には不幸になってほしくないと、ハヤトは思っていた。
私のことを全力で助けてくれる。
誰よりも優しい人。
「ハヤちゃんは優しいわ。……姫ちゃんを助けてくれたのだって、姫ちゃんが可愛いからなんて関係なく、彼が元々優しかったからよ。ハヤちゃんはね、死ぬまで人を助けて、死ねる人。そこに一切の後悔はしない人よ。……それほどの人は、そうそういないわ。ご両親と別れる最後の瞬間までずっとハヤちゃんを愛してくれたから、彼は誰よりも優しいのね」
貴方が百回困っていたら、百回助けてくれる。
それが彼にとっての普通なのだ。
理解はし難いけれど、そういう人間はいる。
自分が死ぬまで、自分がお人好しだと気付かない。
「そんなのおかしいわ。誰よりもつらくて、幸せになるべきなのは石城くんなのに……」
お母さんに会いたいのは、私よりも彼だった。
死ぬ直前まで残せるものを全部貰った私よりも。
何でもなかった日に、全てを取り上げられた彼の悲しみは計り知れない。
家族と過ごしてきた家も街も、知り合いさえも全て失ったのに。
それでも彼は、私を許してくれたのだ。
それを聞いて、みゆは言う。
「姫乃。貴方には分からないかも知れないけど、それでも人を哀れんではいけないわ。自分の言葉に後悔もしては駄目よ。ただ、ハヤちゃんの幸せを願ってあげなさい」
人は、誰かに救ってほしいとは思わない。
赤子でさえ、倒れて泣いても、自分の足でまた歩くことが出来るのだ。
ハヤちゃんも同じ。
今はまだ、つらい記憶を思い出す日々だとしても、生きていればそれがいつしか祝福になる日も来よう。
普通の日々を過ごし。
過ごしていけばいい。
生きてさえいれば。
幸せな日はいつか来る。
彼はいつか知るだろう。
最愛の人の横顔に、今は亡き母親の面影を見て。
同じような笑顔をする誰かを好きになる。
その時に、自分がどれほど愛されていたか。
初めて、母の愛を知るのだ。
ずっと祝福されている。
死んでも。失っても。
人が生きている限り、その血に流れ、紡がれてきたものが無くなることはない。
それが、人間だから。
理解出来なかった。
なんで自分の為に涙を流してくれるのか。
理解出来ない。
お隣さんなだけなのに、どうして気にかけてくれるのか。
好きではなかった。
だが、家族に似た感情はある。
互いに互いが幸せでいて欲しい。
あの人だけは、不幸になっていい人ではない。
そんな世界は許せない。
そう願っていた。
願い続けていた。
それが愛なのかどうなのかは、まだ分からない。
ちゃんと話したのは、今日が初めてだ。
だけど、一生分の話をしたくらいに。
人の心に触れた気がしたのだ。
十数年の月日を鮮明に思い出すほどのとても長い一日だった。
今日という日を忘れることはない。
忘れるわけがない。
我々は、たくさんの想いを抱き締めて生きている。
流した涙は、まるで宝石のように綺麗に輝くのだ。
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