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二十五章 自分である為に
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「あッ、あがあああああぁあああぁあああぁぁああ!」
ハガーの身体が宙に浮かび上がり、目、鼻、耳――穴という穴から闇色の煙を噴きだした。それはたちまち縒り合わせられ束と化し、再び分かれ、漆黒と紫紺の毛皮と化して全身を覆った。
ジュスティーヌの興味は、そこで失せたようだった。欠けた足を引きずって坂を下り始めた。
「逃がすか……ッ!」
レイラはその後を追う。ほとんど転がるように駆けだした。
ようやくここまで追い詰めた。今が復讐を果たすときだ。
七年間、蓄積してきた瞋恚が、胸をどす黒く染め上げた。
「ゴアアアアアアアアアァアァアアアァァァアア!」
しかし咆哮が、雷鳴が、レイラの闇を穿った。
千々に裂けた天からは、雷の槍が降った。紫に色づいたそれが魔獣の身体を貫いた。空虚な双眸に白銀の焔が燈された。
魔獣が降りたつ。
やや離れた地点で雪煙が舞いあがる。
レイラはそれを尻目に、もう一つの影を捉えた。
悄然と身を起こしたその女の名は、ラーナ・ヴァンといった。
『ありがとう』
レイラは、彼女の温もりを反芻した。
握りこんだ手には、今なにもない。冷たいだけだ。
いつまでも温かくなどなってくれない。
当然だった。
何も掴んでこなかったのだから。
目の前の誰かと手を繋ぐことすら、ずっと拒んできたのだから。
「……ジュスティーヌ」
仇敵の背中が、徐々に遠のく。
今度こそ決着をつけられるかもしれないのに。
いま追わなければならないのに。
足は前へ進んでくれなかった。
「ゴアアァッ!」
魔獣が地を蹴る。
ラーナを睨みながら。
「クソッ」
レイラは右手を真横に打ち振った。
ロープが跳ねあがり宙を馳せた。風を切り、雪煙を裂き、茫然と佇むラーナの身体に絡みついた。
魔獣が爪を振りかぶる!
「うああぁあぁああぁぁぁあああッ!」
次の瞬間、レイラの異能と膂力が、ラーナを宙へ浮かび上がらせた!
「ゴファ……!」
寸毫の差で、魔獣の爪は虚空を裂いた。
緩やかな放物線をえがき落下するラーナを、レイラは受けとめた。いきおい斜面に投げだされ、二人は抱き合いながら転がった。
雪をかぶって真白になり、やがて動きを止めると、レイラはラーナの顔の横に手をついた。
「バカが」
ラーナが愕然と見上げた。
「……どうして」
「理由なんてどうでもいい。お前、あいつを信じてるんだろ。信じられたんだろ。その思いは、勝手に手を離されただけで涸れてしまうようなものか」
レイラは答えも聞かず立ちあがった。
「立て、ラーナ。お前があいつを救いたいなら」
坂を駆け下りてくる異形を見上げながら、手を差し伸べた。
「やっと手にした自分を、自分で手離したりするな」
レイラの異能が刃を振りあげる。真っ向から撃ちあったところで勝機はないというのに。威圧的に鎌首をもたげ、驀進する巨躯を迎え撃つ。
「ゴアアアアッ!」
雪の粉が散り、魔獣が跳ぶ!
「ガァルォ……ッ!」
ところが魔獣は、ふいにびくんと震え姿勢を崩した。
「……ッ!」
レイラは背後から衝撃を受けた。
視界が反転し、魔獣の悲鳴が耳もとをかすめた。
頭上を凄まじい圧が吹き抜けた。
間もなく背後に地響きが轟いた。
「何を考えてるんだッ!」
叱咤したのは、背中から覆いかぶさったラーナだった。彼女の虹彩に一瞬、火の粉を散らしたような光がともった。
レイラは瞬時に状況を把握し、顔をしかめた。
「耳もとで叫ぶなと言っただろ」
「殺されるところだった!」
「お前がさっさと動かないからだ」
二人はいがみ合いながら立ちあがり、全身の毛を逆立て起き上がる魔獣を見下ろした。
「いいの、魔女放っておいて」
「いいわけないだろ」
レイラは今度こそフットワークを踏み、両腕のロープを波打たせた。
「だから、さっさとあいつを楽にしてやるんだ」
ラーナからの一瞥があった。
言葉はなかった。
口を一文字に結び頷いただけだった。
それで充分だった。
二人は、二手に跳び分かれた。
「ゴアアアアアアアォン!」
憤怒の咆哮。
間もなく魔獣は、レイラに狙いを定めた。
雪面の白に漆黒と紫紺の傷が刻まれる。
「はッ!」
レイラは異能の力で跳んだ。
死の爪牙が鼻先をかすめた。目を開けていられないほどの風圧が押し寄せ、女の華奢な肉体は雪上に投げだされた!
「ファアァッ、ゴ……!」
追撃はなかった。
魔獣はその場でカッと目を見開き、硬直していた。
ラーナの異能だと解った。
と同時に、
「ラーナ、退けッ!」
魔獣の攻撃であることも解っていた。
耳を澄ませば聞こえてくる。
……コオオオォォ。
凍てついた空気の上げる嘆きの声が。
辺りに舞う雪片が、魔獣へ引き寄せられるように落ちていく。雪面の白が陽炎のごとく立ちのぼる。
魔獣の四肢の付け根、額から伸びた角の微細な穿孔に吸いこまれていく。
レイラはロープに力をくわえ加速しながら、当惑に立ち尽くしたラーナへ舌打ちを送った。
やむなく左腕のロープを飛ばした。
ラーナは我に返ったように駆けだし、自らそれを掴んだ。
左腕が悲鳴を上げた。
レイラ自身叫びだしそうだった。稲妻のような痛みが意識を蝕んだ。
パアアァアアァアァァアァァアアアァアン!
しかし痛みが喉を破るより前に、咆哮を轟かせたのは大気だ。
魔獣を中心に半球の衝撃が爆ぜた。
それが地の果て、空の果てを喰らうまで、ほんの刹那。
雪を洗い、大地を抉った衝撃波は、早急に爆心地を離れた二人を易々と追い詰めた!
「ごはッ!」
エビ反り姿勢で吹き飛ばされるレイラ!
背中から地面に叩きつけられバウンドし、斜面を転がり落ちる。
岩肌に打たれ、肌を裂かれ、樹木にぶつかり、ようやく止まった。
「く、あっ……」
雪の粉を刷いた地面を血反吐が赤く汚した。
震えを堪え立ちあがれば、全身が燃えるように熱かった。左腕の痛みが麻痺して感じられるほどだった。
腋や肋に手をやり感触を確かめる。
肋骨は何本か折れたかもしれない。
幸いなのは、骨が皮膚を破っていないこと、左腕を除けば手足に大きな損傷がないことだ。
まだ戦える。
そう己を鼓舞したとき、左腕のロープが切れているのに気付いた。
とっさに辺りを見回すも、ラーナの姿は見当たらない。雪の勢いは衰えつつあったが、密集した木々に視界を阻まれていた。どうやら、随分下まで転がってきたらしい。
「……とりあえず」
ラーナの事はあとだ。
レイラは左腕に残ったロープを解いた。腹に巻き直し、縮れた先端に血の唾を吐きかけた。
……ドド……ドドッ。
そこへ跫音が迫る。重く容赦ない死の音だ。
魔獣が来る。
右腕を振りロープを呼び戻すと、目が覚めたように全身が疼いた。
今や得物はロープに結びついた一振りだけだ。
ラーナの安否も定かではない。
それに先の衝撃波。
まさかここまでの痛手を負うとは。
山麓の森で放たれたときより、威力が増しているのではないか。
勝ち目はあるか?
自問した。
答えはすぐに出た。
――否だった。
もはや勝機はない。
生き残るためには逃げるしかない。異能の力を最大限に発揮すれば逃れられる望みはある。
だが、残されたラーナはどうなる?
『ありがとう』
まだ生きていたとしたら、見捨てることになりはしないか?
「……うるさいな」
それがなんだ。
勝手についてきただけの女がどうなろうと関係ないはずだ。
それなのに声が、温もりがまとわりついてくる。
ドド、ドド、ドドッ!
坂の上は、雪の白が厚い。そこに黒々とした巨大なシルエットが見えてくる。見る間に大きくなる。馳せている。
判断の遅れは死を意味する。
今すぐ動かなければ終わりだ、何もかも。
解っている。
解っているのに。
「……」
動けなかった。
ひどく疲れた心地がした。
胸に穴が空いたように虚しかった。
手中の温もりを錯覚する度、力は抜けていくような気がする。
「どうして」
レイラは樹木に背をあずけ虚空を仰いだ。
ジュスティーヌを殺すことだけが目的だった。それだけが生きる意味だった。それを標にしなければ、生きてこられなかった。
なのに今は、復讐を考えることすら億劫だ。
自分の歩んできた道程が、ことごとく無価値に思えて。
アタシは何のために生きてきた?
振り返った道には、足跡がなかった。
ただ縹渺として乱雑に散らばる記憶があるばかりだった。
「ゴアアァァアアアアアァアァアアアァァァアア!」
牙を剥きだした魔獣の形相が、眼前に迫る。その口腔は暗く、ひどく空虚だった。
レイラは瞼を閉ざそうとした。
その天地の欠けた僅かな視野に。
「うおおぉおおおぉぉおおおおぉおおッ!」
巨大な牙が横切った。
「ゴアオオオォォオォオオオン!」
次の瞬間、天高く血がしぶいた。
牙が魔獣の脇腹に突き刺さり、その身をのたうたせた。
否、牙ではなかった。
それは剣だった。
「レイラちゃん!」
そして魔獣の爪を躱し駆け寄ってきたのは、自分を見限ったはずのパートナーだった。
空っぽの手のひらを、力強い手が握った。
「ウェイグ、さん……?」
レイラは目を瞠った。信じられなかった。夢を見ているような気分だった。
「よかったよ、生きていてくれて……」
けれど解る。
全身に疼く痛みが、夢ではないと告げている。
手のひらから伝わってくる温もりも、彼がここにいることを教えてくれる。
「どうして……?」
訊ねるとウェイグは笑った。名残惜しげに手を離し、魔獣へと向き直りながら。
「残念ながら、説明してる時間はないね」
その時、魔獣が唸り地を砕いた。よろめきながら憤然と灰色の蒸気を吐きだした。
「でも、そうだな。俺はね」
ウェイグは振り返らず、腿の十字架を抜いた。
「俺が俺であるために、ここへ来たのさ!」
青年と魔獣は、同時に地を蹴った。
ハガーの身体が宙に浮かび上がり、目、鼻、耳――穴という穴から闇色の煙を噴きだした。それはたちまち縒り合わせられ束と化し、再び分かれ、漆黒と紫紺の毛皮と化して全身を覆った。
ジュスティーヌの興味は、そこで失せたようだった。欠けた足を引きずって坂を下り始めた。
「逃がすか……ッ!」
レイラはその後を追う。ほとんど転がるように駆けだした。
ようやくここまで追い詰めた。今が復讐を果たすときだ。
七年間、蓄積してきた瞋恚が、胸をどす黒く染め上げた。
「ゴアアアアアアアアアァアァアアアァァァアア!」
しかし咆哮が、雷鳴が、レイラの闇を穿った。
千々に裂けた天からは、雷の槍が降った。紫に色づいたそれが魔獣の身体を貫いた。空虚な双眸に白銀の焔が燈された。
魔獣が降りたつ。
やや離れた地点で雪煙が舞いあがる。
レイラはそれを尻目に、もう一つの影を捉えた。
悄然と身を起こしたその女の名は、ラーナ・ヴァンといった。
『ありがとう』
レイラは、彼女の温もりを反芻した。
握りこんだ手には、今なにもない。冷たいだけだ。
いつまでも温かくなどなってくれない。
当然だった。
何も掴んでこなかったのだから。
目の前の誰かと手を繋ぐことすら、ずっと拒んできたのだから。
「……ジュスティーヌ」
仇敵の背中が、徐々に遠のく。
今度こそ決着をつけられるかもしれないのに。
いま追わなければならないのに。
足は前へ進んでくれなかった。
「ゴアアァッ!」
魔獣が地を蹴る。
ラーナを睨みながら。
「クソッ」
レイラは右手を真横に打ち振った。
ロープが跳ねあがり宙を馳せた。風を切り、雪煙を裂き、茫然と佇むラーナの身体に絡みついた。
魔獣が爪を振りかぶる!
「うああぁあぁああぁぁぁあああッ!」
次の瞬間、レイラの異能と膂力が、ラーナを宙へ浮かび上がらせた!
「ゴファ……!」
寸毫の差で、魔獣の爪は虚空を裂いた。
緩やかな放物線をえがき落下するラーナを、レイラは受けとめた。いきおい斜面に投げだされ、二人は抱き合いながら転がった。
雪をかぶって真白になり、やがて動きを止めると、レイラはラーナの顔の横に手をついた。
「バカが」
ラーナが愕然と見上げた。
「……どうして」
「理由なんてどうでもいい。お前、あいつを信じてるんだろ。信じられたんだろ。その思いは、勝手に手を離されただけで涸れてしまうようなものか」
レイラは答えも聞かず立ちあがった。
「立て、ラーナ。お前があいつを救いたいなら」
坂を駆け下りてくる異形を見上げながら、手を差し伸べた。
「やっと手にした自分を、自分で手離したりするな」
レイラの異能が刃を振りあげる。真っ向から撃ちあったところで勝機はないというのに。威圧的に鎌首をもたげ、驀進する巨躯を迎え撃つ。
「ゴアアアアッ!」
雪の粉が散り、魔獣が跳ぶ!
「ガァルォ……ッ!」
ところが魔獣は、ふいにびくんと震え姿勢を崩した。
「……ッ!」
レイラは背後から衝撃を受けた。
視界が反転し、魔獣の悲鳴が耳もとをかすめた。
頭上を凄まじい圧が吹き抜けた。
間もなく背後に地響きが轟いた。
「何を考えてるんだッ!」
叱咤したのは、背中から覆いかぶさったラーナだった。彼女の虹彩に一瞬、火の粉を散らしたような光がともった。
レイラは瞬時に状況を把握し、顔をしかめた。
「耳もとで叫ぶなと言っただろ」
「殺されるところだった!」
「お前がさっさと動かないからだ」
二人はいがみ合いながら立ちあがり、全身の毛を逆立て起き上がる魔獣を見下ろした。
「いいの、魔女放っておいて」
「いいわけないだろ」
レイラは今度こそフットワークを踏み、両腕のロープを波打たせた。
「だから、さっさとあいつを楽にしてやるんだ」
ラーナからの一瞥があった。
言葉はなかった。
口を一文字に結び頷いただけだった。
それで充分だった。
二人は、二手に跳び分かれた。
「ゴアアアアアアアォン!」
憤怒の咆哮。
間もなく魔獣は、レイラに狙いを定めた。
雪面の白に漆黒と紫紺の傷が刻まれる。
「はッ!」
レイラは異能の力で跳んだ。
死の爪牙が鼻先をかすめた。目を開けていられないほどの風圧が押し寄せ、女の華奢な肉体は雪上に投げだされた!
「ファアァッ、ゴ……!」
追撃はなかった。
魔獣はその場でカッと目を見開き、硬直していた。
ラーナの異能だと解った。
と同時に、
「ラーナ、退けッ!」
魔獣の攻撃であることも解っていた。
耳を澄ませば聞こえてくる。
……コオオオォォ。
凍てついた空気の上げる嘆きの声が。
辺りに舞う雪片が、魔獣へ引き寄せられるように落ちていく。雪面の白が陽炎のごとく立ちのぼる。
魔獣の四肢の付け根、額から伸びた角の微細な穿孔に吸いこまれていく。
レイラはロープに力をくわえ加速しながら、当惑に立ち尽くしたラーナへ舌打ちを送った。
やむなく左腕のロープを飛ばした。
ラーナは我に返ったように駆けだし、自らそれを掴んだ。
左腕が悲鳴を上げた。
レイラ自身叫びだしそうだった。稲妻のような痛みが意識を蝕んだ。
パアアァアアァアァァアァァアアアァアン!
しかし痛みが喉を破るより前に、咆哮を轟かせたのは大気だ。
魔獣を中心に半球の衝撃が爆ぜた。
それが地の果て、空の果てを喰らうまで、ほんの刹那。
雪を洗い、大地を抉った衝撃波は、早急に爆心地を離れた二人を易々と追い詰めた!
「ごはッ!」
エビ反り姿勢で吹き飛ばされるレイラ!
背中から地面に叩きつけられバウンドし、斜面を転がり落ちる。
岩肌に打たれ、肌を裂かれ、樹木にぶつかり、ようやく止まった。
「く、あっ……」
雪の粉を刷いた地面を血反吐が赤く汚した。
震えを堪え立ちあがれば、全身が燃えるように熱かった。左腕の痛みが麻痺して感じられるほどだった。
腋や肋に手をやり感触を確かめる。
肋骨は何本か折れたかもしれない。
幸いなのは、骨が皮膚を破っていないこと、左腕を除けば手足に大きな損傷がないことだ。
まだ戦える。
そう己を鼓舞したとき、左腕のロープが切れているのに気付いた。
とっさに辺りを見回すも、ラーナの姿は見当たらない。雪の勢いは衰えつつあったが、密集した木々に視界を阻まれていた。どうやら、随分下まで転がってきたらしい。
「……とりあえず」
ラーナの事はあとだ。
レイラは左腕に残ったロープを解いた。腹に巻き直し、縮れた先端に血の唾を吐きかけた。
……ドド……ドドッ。
そこへ跫音が迫る。重く容赦ない死の音だ。
魔獣が来る。
右腕を振りロープを呼び戻すと、目が覚めたように全身が疼いた。
今や得物はロープに結びついた一振りだけだ。
ラーナの安否も定かではない。
それに先の衝撃波。
まさかここまでの痛手を負うとは。
山麓の森で放たれたときより、威力が増しているのではないか。
勝ち目はあるか?
自問した。
答えはすぐに出た。
――否だった。
もはや勝機はない。
生き残るためには逃げるしかない。異能の力を最大限に発揮すれば逃れられる望みはある。
だが、残されたラーナはどうなる?
『ありがとう』
まだ生きていたとしたら、見捨てることになりはしないか?
「……うるさいな」
それがなんだ。
勝手についてきただけの女がどうなろうと関係ないはずだ。
それなのに声が、温もりがまとわりついてくる。
ドド、ドド、ドドッ!
坂の上は、雪の白が厚い。そこに黒々とした巨大なシルエットが見えてくる。見る間に大きくなる。馳せている。
判断の遅れは死を意味する。
今すぐ動かなければ終わりだ、何もかも。
解っている。
解っているのに。
「……」
動けなかった。
ひどく疲れた心地がした。
胸に穴が空いたように虚しかった。
手中の温もりを錯覚する度、力は抜けていくような気がする。
「どうして」
レイラは樹木に背をあずけ虚空を仰いだ。
ジュスティーヌを殺すことだけが目的だった。それだけが生きる意味だった。それを標にしなければ、生きてこられなかった。
なのに今は、復讐を考えることすら億劫だ。
自分の歩んできた道程が、ことごとく無価値に思えて。
アタシは何のために生きてきた?
振り返った道には、足跡がなかった。
ただ縹渺として乱雑に散らばる記憶があるばかりだった。
「ゴアアァァアアアアアァアァアアアァァァアア!」
牙を剥きだした魔獣の形相が、眼前に迫る。その口腔は暗く、ひどく空虚だった。
レイラは瞼を閉ざそうとした。
その天地の欠けた僅かな視野に。
「うおおぉおおおぉぉおおおおぉおおッ!」
巨大な牙が横切った。
「ゴアオオオォォオォオオオン!」
次の瞬間、天高く血がしぶいた。
牙が魔獣の脇腹に突き刺さり、その身をのたうたせた。
否、牙ではなかった。
それは剣だった。
「レイラちゃん!」
そして魔獣の爪を躱し駆け寄ってきたのは、自分を見限ったはずのパートナーだった。
空っぽの手のひらを、力強い手が握った。
「ウェイグ、さん……?」
レイラは目を瞠った。信じられなかった。夢を見ているような気分だった。
「よかったよ、生きていてくれて……」
けれど解る。
全身に疼く痛みが、夢ではないと告げている。
手のひらから伝わってくる温もりも、彼がここにいることを教えてくれる。
「どうして……?」
訊ねるとウェイグは笑った。名残惜しげに手を離し、魔獣へと向き直りながら。
「残念ながら、説明してる時間はないね」
その時、魔獣が唸り地を砕いた。よろめきながら憤然と灰色の蒸気を吐きだした。
「でも、そうだな。俺はね」
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