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十八章 砕け散る相貌
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「なんだッ!」
地鳴りとともに突風が押し寄せてきた。千の刃が飛散し荒れ狂うような冷たく烈しい風だった。
辺りの木々がメキメキと悲鳴を上げ、枝をしならせ、無数の葉を降らせた。中には、パンと乾いた音をたて、裂けた幹もあった。
ウェイグは両手で頭を守りながら、風が治まるのを待った。
地鳴りは一瞬のことで、間もなく風もやんだ。幸い、倒れてくる樹木はなかったが、足許はいつまでも揺れているような気がした。耳の奥では幹の裂ける音が谺し続けていた。
ウェイグは頭上を見上げた。
「ラーナ!」
彼女は、樹上から滑るように下りてきた。フードや襟で隠れた顔は目許しか見えない。が、見開かれた双眸を見ただけで、彼女が驚き恐れているのは充分に知れた。
「大丈夫か?」
ラーナは目を丸くしたまま、こくりと頷いた。そして西の方角を指差し、
「あっち、爆発あった。木が吹き飛んで、それで……」
まるで要領を得ない事を言った。
ウェイグは相手の肩に手を載せた。
「待って。とりあえず、落ち着こう。深呼吸だ」
「うん……」
こちらからまず呼吸を整えると、ラーナもそれに続いた。
「まさか、山が火を噴いたわけじゃないよね?」
「近くに山ある。でも噴火じゃない。山の麓、急に爆発した」
「山の麓が、爆発……?」
あり得ない。
そう易々と動揺を払拭できるものでもないか。
ウェイグは懐疑的だった。
しかし先の凍えた風が、腹の底にわだかまっていた。身体は冷えているのに、額に次々と脂汗がにじんだ。
「それ、もしかしたら……」
一つだけ心当たりがあったのだ。
俯けば、赤土の大地。
それが不意に、断崖の際のような心許なさを感じさせた。
「……魔獣かもしれない」
「魔、獣……ッ!」
ラーナから吼えるような声が返った。
ウェイグはそれを愕然と見返したが、すぐに憐憫の情から眉尻を下げた。
彼女は〈ウズマキ〉の言葉を思い出しているに違いなかった。ハガーが魔獣だという疑いを払拭できずにいるのだ。
「違うさ、きっと」
だが、そんな根拠などどこにもない。
人は人。
化け物は化け物だ。
「ここから離れよう」
「……」
しかしラーナは、頑として首を縦に振らなかった。駄々をこねる子どものように。
「ハガーさんは魔獣じゃないさ。人が魔獣になるはずなんてないんだから」
それでも諭し続けるしかなかった。
早急にここを離れなければ危険だ。
〈トロイの悲劇〉。
かつて、魔獣によって一つの街が滅びた事もある。
そこまで凶悪なものが出没するのは稀でも、魔獣が人の手に余るのは事実だ。魔獣は人智を超えた災厄なのだ。
ウェイグはラーナに手を伸ばしたが、掴めたのは虚空だけだった。
ラーナはかぶりを振り続けていた。
焦燥と怒りが、ゴッと燃えあがった。
「死にたいのか、君はッ! 早く逃げないと殺されるぞ!」
「ダメだ、魔獣を放っておいちゃ……」
ラーナは震えた声で答える。見れば、足許まで震えている。
なのに、こちらを見つめる眼差しだけが揺るがない。
ウェイグは焦燥に炙られながら、同時にラーナの気迫に気圧されつつあるのを自覚した。
「逃げるんだ……!」
それを魔獣の恐怖がねじ伏せた。
今度こそラーナの手を掴んでいた。
彼女といられた時間は短い。
彼女の事は、ほとんど何も知らない。
だからといって、それが目の前の命を見捨てていい理由にはならない。ここにある繋がりを諦めていい言い訳にはならない。
「逃げるんだよ!」
「イヤだッ!」
ところが、想い空しく、掴んだ手は振り解かれた。
ラーナは跳ねるように駆けだした。
「おいッ!」
ウェイグは手を伸ばした。あとを追おうとした。
たちまち足許から震えがこみあげた。戦慄に揺さぶられた。
次いで湧き上がってくるのは諦念だった。
命は、繋がりは、掴もうとしても、この指の間をすり抜けていく。
人は運命に逆らうことなどできない、と。
「……くそ」
遠ざかるラーナの背中から目を逸らした。
ウェイグは伸ばした手を引っこめようとして、胸を抉る痛みを自覚した。
そして今一度、己に問いかけた。
――そうやってまた諦めるつもりか?
運命という便利な言葉を使って。
いつも自分で選んできたくせに。
……俺はクズだ。
そう、クズだ。どうしようもない大馬鹿者だ。
だが、こうして自己を否定することすら慰めだ。
本当に向き合わなければならない事実から目を背けるための方便だ。
間違いを正すのに必要なのは、くだらない言葉を千も万も並べることではない。
たった一つの正しさを、己が身で体現することだ。
「クソぉ……!」
ウェイグは顎をあげた。
足許の赤土を散らした。
「待て、ラーナッ!」
駆けだしていた。最大限の力で地を蹴っていた。
人は後悔する生き物だ。
失敗を避けられないから、それだけではない。
誰も自らが可愛いからだ。
向き合い、足掻くことをやめれば、楽になれると知っているからだ。
だが、楽になる事で、己が満たされるとは限らない。
俺は、もう後悔したくない。
ウェイグは息を荒げながら、ラーナの隣に並んだ。
「どうする、つもりだ……ッ!」
目が合った。意外にも澄んだ静かな眼差しだった。
「真正面から挑んだりしない。魔獣だって、生き物。目が合って、口ある。形ある。だから、隙もある」
いまいち要領を得ないが、不思議と言いたいことはわかった。
「奇襲をかけるんだね?」
「うん」
「できる、のか?」
「しなくちゃ」
頑なだった。
何故、そこまで拘るのか解らなかった。
解らないが、どうでもよかった。
彼女を独りで行かせるわけにはいかない。協力するにせよ、折を見て逃がすにせよ、自分だけが踵を返し、不幸なフリをし続ける人生などクソだ。飢えて死ぬより、よほど惨めだ。
「ゴアアアアアァアアアッゴッ!」
その時、どこからか獣の咆哮が轟いた。肌が、鼓膜がビリビリと張りつめ、足がすくんだ。
「……ぅ!」
ラーナも同じらしかった。
やはりこの先に、魔獣がいる。
本当にやるのか?
ウェイグは視線で問うた。
ラーナは逡巡なく頷いた。
最悪だった。逃げ出したかった。怖くてこわくて仕方なかった。
それでもウェイグは足を止めなかった。
次第に、樹皮の裂けた木々が、そこここで見られるようになる。無数の折れ枝に足をとられ、落ち葉が地面を転がってシャラシャラと音をたてていた。
さらに進んで行けば、倒木が増えはじめる。
遮るものが一つふたつと消え、ある地点を越えたところで青々と聳立する壁があらわとなった。
魔獣の禍々しい体躯ではなかった。
五つの峰をもつ山々だった。
ウェイグはそれを知っていた。己の生まれ育った村で、ここより遥か南の地で、何度も眺めたことがあったから。
「……〈悪魔の手〉」
かつて大軍勢の進撃を恐れて付けられた異名。
それが今は本当に、悪魔の手のように見える。
何故ならその麓には、二つの邪悪が対峙していたからだ。
「ゴアアアアアアアアアアアァ!」
一方は、同心円状に薙ぎ倒された木々の中心で、暴れ狂う虎だった。
無論、ただの虎ではなかった。
虎型の魔獣だ。
その巨躯は、禍々しい漆黒と紫紺で縞に彩られていた。獲物を睨め付ける双眼は、宵を穿つ月の白銀だ。四肢の付け根、尾の先端、額の中央からは真紅の角が伸びている。
爪牙が振りかぶられると同時、それらの角もまたブゥンと風を断つ。行き場を失くした風は、圧となってウェイグたちの許にまで押し寄せた。
「……ッ!」
もう一方は、二人も知る人影だった。
残された株にロープを巻き付け加速しながら、紙一重で猛攻をかいくぐる、赤貌の悪鬼――〈ウズマキ〉。
「あいつまでいるのか」
禿げあがった樹木の陰に身をひそめ、ウェイグは毒づいた。
何故、奴が魔獣と闘っているかは知らない。別段知りたくもない。
問題なのは、奴が敵なのか味方なのかということ。
そして、魔獣が倒木の中心にいることだ。あんなところにいられたのでは奇襲のしようがない。
「どうする?」
ラーナに意思を訊ねた。
魔獣。あの禍々しい姿だけで悍ましい。
一挙手一投足は重い。真紅の角が風を断つ音は、耳もとで聞こえる。〈呪痕〉もちにされる前に、命を刈り取られるだろう。
やはり、先の爆発を起こしたのはあれだ。
依然として〈ウズマキ〉の意図も解らない。
だからこそ、ラーナの決断は驚異だった。
「〈ウズマキ〉に加勢する」
「は?」
否、狂気だった。
こちらを見返した目は、爛々と光っていた。
何かの間違いであって欲しかった。悪夢なら覚めて欲しかった。
しかし魔獣へと向き直るなり、ラーナは木陰からとび出した!
「え、ちょっ……クソッ!」
ウェイグはそれに続いてしまった。
当惑も苛立ちも恐怖も、すべて燃焼させ地を蹴っていた。
俺もいよいよイカれてきたな……!
二人して弧を描きながら、魔獣の背後へ回りこもうとした。
〈ウズマキ〉は敵意を見せなかった。むしろ、協力の意思を見せた。
ロープを用いた広範囲の移動を制限し、身体の捻りやバックステップだけで爪牙を躱しはじめたのだ。
「ゴアアァッ!」
一方、魔獣は深く踏みこんだ。風が唸った次の瞬間、大地がかすかに震撼し、蜘蛛の巣状の亀裂を刻んだ。風圧だけで、ウェイグたちはよろめいた。
〈ウズマキ〉は、風圧すらも利用した。攻撃の瞬間、ロープで背後の株を掴み跳び離れたのだ。さらに、バネのように縮んだロープを一挙に伸長し、その身を撃ちだし斬りつけた。
攻撃としては浅かった。毛皮がわずかに濡れるばかりだ。
しかし執拗なヒット・アンド・アウェイは、魔獣の注意を引き付ける。両者、徐々に円の中心から離れていく。
「……」
ウェイグは魔獣の背後をとった。
すらりと腰の剣を抜いた。
もうどうにでもなれという気持ちだった。
同時に、これは勝てるかもしれないと細やかな昂揚が胸に波打った。
大上段に構え、後足目がけ振り下ろした!
「危ないッ!」
ところがその時、真横からラーナがとびこんできた。
「なッ……!」
視界が傾ぎ、刃は空を斬った。
ウェイグは悪態を吐こうとした。
そこへ、
ブゥン!
真上から叩きつけるような衝撃が襲った。
否、真上からの攻撃ではなかった。
それは頭上を横切った尾の風圧に過ぎなかった。
背筋が凍りついた。反して喉が熱くなった。
蒸気が鼻先をかすめた。
くるりと反転した魔獣が、月色の眼でウェイグを見た。
そこへ飛来する〈ウズマキ〉の短剣。
魔獣は尾を振るだけで、それを撃ち落とした。
ダメだ、殺される。
恐怖に支配されながら、しかしウェイグの身体は反射的に動いた。
「ゴルウァ!」
魔獣が前足を振り下ろす!
「ヌアァ……!」
ウェイグは、それを剣で受けた!
凄まじい衝撃が襲った。
まるで、夜の闇を身一つで受けとめたかのように。
全身の骨が悲鳴をあげる――!
「く、ぅ……ぁ!」
剣の側面を使い、かろうじて横へ受け流した。
凝った血がどっと勢いを取り戻す。
恐怖が薄らぎ、世界が白む。
次が来る。
ウェイグは足許に円弧をえがき、巧みに重心をうつし替え待ち構えた。
「……?」
しかし何も来ない。
「グファ……」
魔獣は呆けたように口を開き、動きを止めていた。
ウェイグはこれを隙とは捉えず、後退った。
〈ウズマキ〉ですら当惑した様子で身構えた。
「はぁッ!」
ただ一人動いたのはラーナだった。滑りこむように魔獣の側面へ回りこんだ。短剣ひとつで距離を詰め、躊躇なく獣の脇腹へ刃を突き立てた!
「ゴ、オオオォオオォォォオオォ!」
魔獣が苦悶の声を上げた!
たちまち獣の意識は、怒りで塗りたくられたようだった。
四肢や尾を遮二無二ふり回し暴れ出した。
破壊の渦が吹き荒れた!
「まずい……ッ!」
土埃を巻きこみ、黒い旋風が倒木を、切り株を貪った!
ウェイグと〈ウズマキ〉は、さらに距離をとった。
ところが、ラーナの姿がない!
「バカが」
〈ウズマキ〉の声だった。
呪いは、ロープに倒木の破片を巻きつけ投げた。
破壊の渦は、それを一瞬で木っ端に変えた。
旋風が霧散し、魔獣がひたと〈ウズマキ〉を睥睨した。
「ラーナ!」
木っ端とともに残像が揺曳し、魔獣の像がひとつに結ばれた。その脇腹に、ラーナはしがみついていた。
「ゴアアアァアアアァァァアアアアアァ!」
魔獣が地を蹴ると同時、ラーナは刃を抜き、地面を転がった。
ウェイグとラーナ、二人の一瞥が交錯した。
「怖かった」
「当たり前だよ」
やり取りは短い。お喋りに興じる時間はない。
〈ウズマキ〉が株を掴んで大きく後退し、魔獣が虚空を裂いて大地を割る。
ウェイグは突きの構えをとり踏みだす。
それをまたも尾の横薙ぎが阻む。
「やっぱりダメか……!」
〈ウズマキ〉の刃が宙に弧をえがき襲いかかる。毛皮を裂く。浅い。怯みもしない。
こんな奴に勝てるのか……?
戦闘の興奮で昂った意識に、忘れていた恐怖が流れこんできた。
「ガァ……ッ!」
その時、またも魔獣が動きを止めた。
反してラーナがとび出した。
ビョウ!
否、ラーナだけではない、〈ウズマキ〉もだ!
〈ウズマキ〉は両腕の袖から伸びたロープで襲いかかると同時、どこからか三本目の短剣を抜きその手に構えた。
一拍遅れてウェイグも地を蹴った。
「……いィ!」
が、咄嗟に足をとめた。
何故かは解らなかった。
ふいに、首筋がナイフを突きつけられたように粟立った。
「退がれェ!」
ウェイグが叫ぶと、魔獣は総毛立ち白銀の眼を剥いた!
「グルゥアアアアァァアア!」
次の瞬間、がむしゃらに爪牙が振るわれた!
ふたたび破壊の渦が吹き荒れた!
「あぶな……ッ!」
ラーナはすんでのところで仰け反り止まった。
しかし!
「ぐあァッ!」
〈ウズマキ〉が破壊の渦に巻き込まれた!
遥か後方の木々へ吸いこまれるようにして弾き飛ばされたではないか!
ウェイグとラーナは、それを絶望の面持ちで見た。
白銀の双眸へ向きなおると、見返してきたのは、恐怖に凍てついた自分自身だった。
「ガアアァ……」
間もなく魔獣も二人を見返した。
剥きだした牙の隙間から濃い蒸気を吐きだしながら。
ヤバい、殺される……。
剣の切っ先が下がる。
戦意が砕ける。その亀裂から流れこむ、死の予感に身がすくむ。
「グルァ……ッ」
ところがその時、異変は起きた。
「ゴ、ガガ、ッ!」
魔獣が総毛立ち、痙攣を始めたのだ。
爪がメキメキと地を砕いた。
輪郭が霞みのごとく揺らぎ始めた。
体毛の一本が灰となって散った。
風が吹けば、灰は濃さを増した。
真紅の角が、風を斬る爪牙が、白銀の双眸が、夢幻のごとく風に消えていく。
「あ、ああ……っ!」
やがてその中から、ゆらりと人影が立ちあがった。
怯えた目で二人を見たそれは髭面の男だった。
「ウソだ、そんな……!」
ハガーだった。
どさり、とラーナがくずおれた。
ウェイグは驚きと悍ましさに震えあがった。
ハガーが踵を返し、駆けだした。
「ま、待て!」
一拍遅れ、ウェイグは地を蹴った。
が、すぐに足を止めた。
木々の間から、よろめき現れた人物を見たからだ。
「う、っ……あ……」
〈ウズマキ〉だった。
重傷だった。腹部の布が裂け、赤い肉が覗いていた。
助けるべきだ。良心が囁いた。
奴は化け物だ、呪いだ。別の声が言った。
一抹の逡巡の後、ウェイグは駆けだした。
「おい、お前! 大丈夫か!」
〈ウズマキ〉の許へと。
〈ウズマキ〉は虚空を掻きむしるように手を伸ばした。
「逃が、さん……」
そして糸が切れたように倒れこんだ。
「おい!」
ウェイグはそれを受けとめた。意識を失くした身体は重かった。反して腹部からは血が滲みだしてくる。
両腕のロープはちぎれ、仮面には大きく亀裂が走っている。傷は腹部だけではなさそうだ。今すぐ休ませてやらなくては――。
項垂れたラーナも心配だが、ひとまず〈ウズマキ〉を優先することにした。意外にも華奢な身体を抱えあげ、なるべく滑らかな倒木を枕に選んで横たえた。
その時、顔面を覆っていた仮面がピシと痛々しい音をたてた。
悲鳴のようだった。慟哭のようだった。
しかし次の瞬間、仮面が割れたとき、絶望を吐きだしたのはウェイグのほうだった。
「え……なん、で」
仮面の中から、頭髪がさらりと散った。
こそばゆく、吐き気がするほど生々しい感触が手に触れた。
光に透けるような美しい髪だった。
ストロベリーブロンドの頭髪だった。
蒼白とした顔は、この世に二つとない美貌だった。
「なんでだよ……レイラちゃん」
捜し求めたパートナーが、そこにいた。
地鳴りとともに突風が押し寄せてきた。千の刃が飛散し荒れ狂うような冷たく烈しい風だった。
辺りの木々がメキメキと悲鳴を上げ、枝をしならせ、無数の葉を降らせた。中には、パンと乾いた音をたて、裂けた幹もあった。
ウェイグは両手で頭を守りながら、風が治まるのを待った。
地鳴りは一瞬のことで、間もなく風もやんだ。幸い、倒れてくる樹木はなかったが、足許はいつまでも揺れているような気がした。耳の奥では幹の裂ける音が谺し続けていた。
ウェイグは頭上を見上げた。
「ラーナ!」
彼女は、樹上から滑るように下りてきた。フードや襟で隠れた顔は目許しか見えない。が、見開かれた双眸を見ただけで、彼女が驚き恐れているのは充分に知れた。
「大丈夫か?」
ラーナは目を丸くしたまま、こくりと頷いた。そして西の方角を指差し、
「あっち、爆発あった。木が吹き飛んで、それで……」
まるで要領を得ない事を言った。
ウェイグは相手の肩に手を載せた。
「待って。とりあえず、落ち着こう。深呼吸だ」
「うん……」
こちらからまず呼吸を整えると、ラーナもそれに続いた。
「まさか、山が火を噴いたわけじゃないよね?」
「近くに山ある。でも噴火じゃない。山の麓、急に爆発した」
「山の麓が、爆発……?」
あり得ない。
そう易々と動揺を払拭できるものでもないか。
ウェイグは懐疑的だった。
しかし先の凍えた風が、腹の底にわだかまっていた。身体は冷えているのに、額に次々と脂汗がにじんだ。
「それ、もしかしたら……」
一つだけ心当たりがあったのだ。
俯けば、赤土の大地。
それが不意に、断崖の際のような心許なさを感じさせた。
「……魔獣かもしれない」
「魔、獣……ッ!」
ラーナから吼えるような声が返った。
ウェイグはそれを愕然と見返したが、すぐに憐憫の情から眉尻を下げた。
彼女は〈ウズマキ〉の言葉を思い出しているに違いなかった。ハガーが魔獣だという疑いを払拭できずにいるのだ。
「違うさ、きっと」
だが、そんな根拠などどこにもない。
人は人。
化け物は化け物だ。
「ここから離れよう」
「……」
しかしラーナは、頑として首を縦に振らなかった。駄々をこねる子どものように。
「ハガーさんは魔獣じゃないさ。人が魔獣になるはずなんてないんだから」
それでも諭し続けるしかなかった。
早急にここを離れなければ危険だ。
〈トロイの悲劇〉。
かつて、魔獣によって一つの街が滅びた事もある。
そこまで凶悪なものが出没するのは稀でも、魔獣が人の手に余るのは事実だ。魔獣は人智を超えた災厄なのだ。
ウェイグはラーナに手を伸ばしたが、掴めたのは虚空だけだった。
ラーナはかぶりを振り続けていた。
焦燥と怒りが、ゴッと燃えあがった。
「死にたいのか、君はッ! 早く逃げないと殺されるぞ!」
「ダメだ、魔獣を放っておいちゃ……」
ラーナは震えた声で答える。見れば、足許まで震えている。
なのに、こちらを見つめる眼差しだけが揺るがない。
ウェイグは焦燥に炙られながら、同時にラーナの気迫に気圧されつつあるのを自覚した。
「逃げるんだ……!」
それを魔獣の恐怖がねじ伏せた。
今度こそラーナの手を掴んでいた。
彼女といられた時間は短い。
彼女の事は、ほとんど何も知らない。
だからといって、それが目の前の命を見捨てていい理由にはならない。ここにある繋がりを諦めていい言い訳にはならない。
「逃げるんだよ!」
「イヤだッ!」
ところが、想い空しく、掴んだ手は振り解かれた。
ラーナは跳ねるように駆けだした。
「おいッ!」
ウェイグは手を伸ばした。あとを追おうとした。
たちまち足許から震えがこみあげた。戦慄に揺さぶられた。
次いで湧き上がってくるのは諦念だった。
命は、繋がりは、掴もうとしても、この指の間をすり抜けていく。
人は運命に逆らうことなどできない、と。
「……くそ」
遠ざかるラーナの背中から目を逸らした。
ウェイグは伸ばした手を引っこめようとして、胸を抉る痛みを自覚した。
そして今一度、己に問いかけた。
――そうやってまた諦めるつもりか?
運命という便利な言葉を使って。
いつも自分で選んできたくせに。
……俺はクズだ。
そう、クズだ。どうしようもない大馬鹿者だ。
だが、こうして自己を否定することすら慰めだ。
本当に向き合わなければならない事実から目を背けるための方便だ。
間違いを正すのに必要なのは、くだらない言葉を千も万も並べることではない。
たった一つの正しさを、己が身で体現することだ。
「クソぉ……!」
ウェイグは顎をあげた。
足許の赤土を散らした。
「待て、ラーナッ!」
駆けだしていた。最大限の力で地を蹴っていた。
人は後悔する生き物だ。
失敗を避けられないから、それだけではない。
誰も自らが可愛いからだ。
向き合い、足掻くことをやめれば、楽になれると知っているからだ。
だが、楽になる事で、己が満たされるとは限らない。
俺は、もう後悔したくない。
ウェイグは息を荒げながら、ラーナの隣に並んだ。
「どうする、つもりだ……ッ!」
目が合った。意外にも澄んだ静かな眼差しだった。
「真正面から挑んだりしない。魔獣だって、生き物。目が合って、口ある。形ある。だから、隙もある」
いまいち要領を得ないが、不思議と言いたいことはわかった。
「奇襲をかけるんだね?」
「うん」
「できる、のか?」
「しなくちゃ」
頑なだった。
何故、そこまで拘るのか解らなかった。
解らないが、どうでもよかった。
彼女を独りで行かせるわけにはいかない。協力するにせよ、折を見て逃がすにせよ、自分だけが踵を返し、不幸なフリをし続ける人生などクソだ。飢えて死ぬより、よほど惨めだ。
「ゴアアアアアァアアアッゴッ!」
その時、どこからか獣の咆哮が轟いた。肌が、鼓膜がビリビリと張りつめ、足がすくんだ。
「……ぅ!」
ラーナも同じらしかった。
やはりこの先に、魔獣がいる。
本当にやるのか?
ウェイグは視線で問うた。
ラーナは逡巡なく頷いた。
最悪だった。逃げ出したかった。怖くてこわくて仕方なかった。
それでもウェイグは足を止めなかった。
次第に、樹皮の裂けた木々が、そこここで見られるようになる。無数の折れ枝に足をとられ、落ち葉が地面を転がってシャラシャラと音をたてていた。
さらに進んで行けば、倒木が増えはじめる。
遮るものが一つふたつと消え、ある地点を越えたところで青々と聳立する壁があらわとなった。
魔獣の禍々しい体躯ではなかった。
五つの峰をもつ山々だった。
ウェイグはそれを知っていた。己の生まれ育った村で、ここより遥か南の地で、何度も眺めたことがあったから。
「……〈悪魔の手〉」
かつて大軍勢の進撃を恐れて付けられた異名。
それが今は本当に、悪魔の手のように見える。
何故ならその麓には、二つの邪悪が対峙していたからだ。
「ゴアアアアアアアアアアアァ!」
一方は、同心円状に薙ぎ倒された木々の中心で、暴れ狂う虎だった。
無論、ただの虎ではなかった。
虎型の魔獣だ。
その巨躯は、禍々しい漆黒と紫紺で縞に彩られていた。獲物を睨め付ける双眼は、宵を穿つ月の白銀だ。四肢の付け根、尾の先端、額の中央からは真紅の角が伸びている。
爪牙が振りかぶられると同時、それらの角もまたブゥンと風を断つ。行き場を失くした風は、圧となってウェイグたちの許にまで押し寄せた。
「……ッ!」
もう一方は、二人も知る人影だった。
残された株にロープを巻き付け加速しながら、紙一重で猛攻をかいくぐる、赤貌の悪鬼――〈ウズマキ〉。
「あいつまでいるのか」
禿げあがった樹木の陰に身をひそめ、ウェイグは毒づいた。
何故、奴が魔獣と闘っているかは知らない。別段知りたくもない。
問題なのは、奴が敵なのか味方なのかということ。
そして、魔獣が倒木の中心にいることだ。あんなところにいられたのでは奇襲のしようがない。
「どうする?」
ラーナに意思を訊ねた。
魔獣。あの禍々しい姿だけで悍ましい。
一挙手一投足は重い。真紅の角が風を断つ音は、耳もとで聞こえる。〈呪痕〉もちにされる前に、命を刈り取られるだろう。
やはり、先の爆発を起こしたのはあれだ。
依然として〈ウズマキ〉の意図も解らない。
だからこそ、ラーナの決断は驚異だった。
「〈ウズマキ〉に加勢する」
「は?」
否、狂気だった。
こちらを見返した目は、爛々と光っていた。
何かの間違いであって欲しかった。悪夢なら覚めて欲しかった。
しかし魔獣へと向き直るなり、ラーナは木陰からとび出した!
「え、ちょっ……クソッ!」
ウェイグはそれに続いてしまった。
当惑も苛立ちも恐怖も、すべて燃焼させ地を蹴っていた。
俺もいよいよイカれてきたな……!
二人して弧を描きながら、魔獣の背後へ回りこもうとした。
〈ウズマキ〉は敵意を見せなかった。むしろ、協力の意思を見せた。
ロープを用いた広範囲の移動を制限し、身体の捻りやバックステップだけで爪牙を躱しはじめたのだ。
「ゴアアァッ!」
一方、魔獣は深く踏みこんだ。風が唸った次の瞬間、大地がかすかに震撼し、蜘蛛の巣状の亀裂を刻んだ。風圧だけで、ウェイグたちはよろめいた。
〈ウズマキ〉は、風圧すらも利用した。攻撃の瞬間、ロープで背後の株を掴み跳び離れたのだ。さらに、バネのように縮んだロープを一挙に伸長し、その身を撃ちだし斬りつけた。
攻撃としては浅かった。毛皮がわずかに濡れるばかりだ。
しかし執拗なヒット・アンド・アウェイは、魔獣の注意を引き付ける。両者、徐々に円の中心から離れていく。
「……」
ウェイグは魔獣の背後をとった。
すらりと腰の剣を抜いた。
もうどうにでもなれという気持ちだった。
同時に、これは勝てるかもしれないと細やかな昂揚が胸に波打った。
大上段に構え、後足目がけ振り下ろした!
「危ないッ!」
ところがその時、真横からラーナがとびこんできた。
「なッ……!」
視界が傾ぎ、刃は空を斬った。
ウェイグは悪態を吐こうとした。
そこへ、
ブゥン!
真上から叩きつけるような衝撃が襲った。
否、真上からの攻撃ではなかった。
それは頭上を横切った尾の風圧に過ぎなかった。
背筋が凍りついた。反して喉が熱くなった。
蒸気が鼻先をかすめた。
くるりと反転した魔獣が、月色の眼でウェイグを見た。
そこへ飛来する〈ウズマキ〉の短剣。
魔獣は尾を振るだけで、それを撃ち落とした。
ダメだ、殺される。
恐怖に支配されながら、しかしウェイグの身体は反射的に動いた。
「ゴルウァ!」
魔獣が前足を振り下ろす!
「ヌアァ……!」
ウェイグは、それを剣で受けた!
凄まじい衝撃が襲った。
まるで、夜の闇を身一つで受けとめたかのように。
全身の骨が悲鳴をあげる――!
「く、ぅ……ぁ!」
剣の側面を使い、かろうじて横へ受け流した。
凝った血がどっと勢いを取り戻す。
恐怖が薄らぎ、世界が白む。
次が来る。
ウェイグは足許に円弧をえがき、巧みに重心をうつし替え待ち構えた。
「……?」
しかし何も来ない。
「グファ……」
魔獣は呆けたように口を開き、動きを止めていた。
ウェイグはこれを隙とは捉えず、後退った。
〈ウズマキ〉ですら当惑した様子で身構えた。
「はぁッ!」
ただ一人動いたのはラーナだった。滑りこむように魔獣の側面へ回りこんだ。短剣ひとつで距離を詰め、躊躇なく獣の脇腹へ刃を突き立てた!
「ゴ、オオオォオオォォォオオォ!」
魔獣が苦悶の声を上げた!
たちまち獣の意識は、怒りで塗りたくられたようだった。
四肢や尾を遮二無二ふり回し暴れ出した。
破壊の渦が吹き荒れた!
「まずい……ッ!」
土埃を巻きこみ、黒い旋風が倒木を、切り株を貪った!
ウェイグと〈ウズマキ〉は、さらに距離をとった。
ところが、ラーナの姿がない!
「バカが」
〈ウズマキ〉の声だった。
呪いは、ロープに倒木の破片を巻きつけ投げた。
破壊の渦は、それを一瞬で木っ端に変えた。
旋風が霧散し、魔獣がひたと〈ウズマキ〉を睥睨した。
「ラーナ!」
木っ端とともに残像が揺曳し、魔獣の像がひとつに結ばれた。その脇腹に、ラーナはしがみついていた。
「ゴアアアァアアアァァァアアアアアァ!」
魔獣が地を蹴ると同時、ラーナは刃を抜き、地面を転がった。
ウェイグとラーナ、二人の一瞥が交錯した。
「怖かった」
「当たり前だよ」
やり取りは短い。お喋りに興じる時間はない。
〈ウズマキ〉が株を掴んで大きく後退し、魔獣が虚空を裂いて大地を割る。
ウェイグは突きの構えをとり踏みだす。
それをまたも尾の横薙ぎが阻む。
「やっぱりダメか……!」
〈ウズマキ〉の刃が宙に弧をえがき襲いかかる。毛皮を裂く。浅い。怯みもしない。
こんな奴に勝てるのか……?
戦闘の興奮で昂った意識に、忘れていた恐怖が流れこんできた。
「ガァ……ッ!」
その時、またも魔獣が動きを止めた。
反してラーナがとび出した。
ビョウ!
否、ラーナだけではない、〈ウズマキ〉もだ!
〈ウズマキ〉は両腕の袖から伸びたロープで襲いかかると同時、どこからか三本目の短剣を抜きその手に構えた。
一拍遅れてウェイグも地を蹴った。
「……いィ!」
が、咄嗟に足をとめた。
何故かは解らなかった。
ふいに、首筋がナイフを突きつけられたように粟立った。
「退がれェ!」
ウェイグが叫ぶと、魔獣は総毛立ち白銀の眼を剥いた!
「グルゥアアアアァァアア!」
次の瞬間、がむしゃらに爪牙が振るわれた!
ふたたび破壊の渦が吹き荒れた!
「あぶな……ッ!」
ラーナはすんでのところで仰け反り止まった。
しかし!
「ぐあァッ!」
〈ウズマキ〉が破壊の渦に巻き込まれた!
遥か後方の木々へ吸いこまれるようにして弾き飛ばされたではないか!
ウェイグとラーナは、それを絶望の面持ちで見た。
白銀の双眸へ向きなおると、見返してきたのは、恐怖に凍てついた自分自身だった。
「ガアアァ……」
間もなく魔獣も二人を見返した。
剥きだした牙の隙間から濃い蒸気を吐きだしながら。
ヤバい、殺される……。
剣の切っ先が下がる。
戦意が砕ける。その亀裂から流れこむ、死の予感に身がすくむ。
「グルァ……ッ」
ところがその時、異変は起きた。
「ゴ、ガガ、ッ!」
魔獣が総毛立ち、痙攣を始めたのだ。
爪がメキメキと地を砕いた。
輪郭が霞みのごとく揺らぎ始めた。
体毛の一本が灰となって散った。
風が吹けば、灰は濃さを増した。
真紅の角が、風を斬る爪牙が、白銀の双眸が、夢幻のごとく風に消えていく。
「あ、ああ……っ!」
やがてその中から、ゆらりと人影が立ちあがった。
怯えた目で二人を見たそれは髭面の男だった。
「ウソだ、そんな……!」
ハガーだった。
どさり、とラーナがくずおれた。
ウェイグは驚きと悍ましさに震えあがった。
ハガーが踵を返し、駆けだした。
「ま、待て!」
一拍遅れ、ウェイグは地を蹴った。
が、すぐに足を止めた。
木々の間から、よろめき現れた人物を見たからだ。
「う、っ……あ……」
〈ウズマキ〉だった。
重傷だった。腹部の布が裂け、赤い肉が覗いていた。
助けるべきだ。良心が囁いた。
奴は化け物だ、呪いだ。別の声が言った。
一抹の逡巡の後、ウェイグは駆けだした。
「おい、お前! 大丈夫か!」
〈ウズマキ〉の許へと。
〈ウズマキ〉は虚空を掻きむしるように手を伸ばした。
「逃が、さん……」
そして糸が切れたように倒れこんだ。
「おい!」
ウェイグはそれを受けとめた。意識を失くした身体は重かった。反して腹部からは血が滲みだしてくる。
両腕のロープはちぎれ、仮面には大きく亀裂が走っている。傷は腹部だけではなさそうだ。今すぐ休ませてやらなくては――。
項垂れたラーナも心配だが、ひとまず〈ウズマキ〉を優先することにした。意外にも華奢な身体を抱えあげ、なるべく滑らかな倒木を枕に選んで横たえた。
その時、顔面を覆っていた仮面がピシと痛々しい音をたてた。
悲鳴のようだった。慟哭のようだった。
しかし次の瞬間、仮面が割れたとき、絶望を吐きだしたのはウェイグのほうだった。
「え……なん、で」
仮面の中から、頭髪がさらりと散った。
こそばゆく、吐き気がするほど生々しい感触が手に触れた。
光に透けるような美しい髪だった。
ストロベリーブロンドの頭髪だった。
蒼白とした顔は、この世に二つとない美貌だった。
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