欲貌のシンデレラ

笹野にゃん吉

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十一章 逃避か否か

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 ラーナがイノシシを仕留めると、ハガーは感嘆の声を上げた。

「なるほど……今のが異能の力ってわけか」
「イノシシに使うのは……怖いけど」

 荒い息をつきながら、ラーナはイノシシの背から下りる。今回は突進してきた相手の目を眩ませ、反転したところを後ろから仕留めた形だ。

「だろうな。そのままぶつかられたら、肋の一本や二本じゃすまねぇ」
「死にかけたことあるよ」

 ハガーが愕然と目を剥いた。

「マジかよ。よく生きてたな、おい」
「比較的小さい相手だったから」

 へえと愉快そうに喉を鳴らしながら、ハガーはイノシシの解体に取りかかる。
『怪我の所為で狩りはできねぇが、細けぇことなら任せろ』とは本人の言だ。

 しかし解体作業も決して楽な労働ではない。傷がひらいたりしないだろうか?
 ラーナは気を揉みつつも、小石や枝を拾い集め、焚火の用意を始めた。

 が、杞憂だった。
 国営キャラバン隊に選出されただけあって、ハガーの手際は凄まじかった。
 イノシシの腹に刃が入った途端、ハガーの手は滑りだした。まるで、水を裂くような手捌きだった。ラーナはついつい作業の手を止め魅入ってしまった。
 迅速に、けれど丁寧に。
 次々と取り出される内臓は、ぬらりと光り傷一つ見られない。毛皮はハガーの手に吸いつくように剥ぎ取られ、あっという間にピンクの肉があらわとなる。

 狩人は獣に通暁つうぎょうして然るべきだ。
 だが、本当に優秀な狩人は、同時に自身の肉体をも知悉ちしつしているものである。
 ハガーからは、それが見てとれる。
 最小限の動きや力でナイフを操り、次の工程へ移行するまでの筋肉の弛緩や緊張を無駄なく力に変換しているのだ。加えて、傷ついた部位への負担を軽減し、現在の自身が発揮できる能力を正確に引き出している。
 ラーナが火を焚き始めた頃には、すでに涎の湧くような肉の塊がきれいに整頓されていた。

「よし、さっさと喰って売れるものは売りに行こうぜ」
「うん」

 ラーナは早速、木の枝に肉を刺し炙りはじめた。
 すると、ハガーが突然あっと手を叩いた。

「なに?」

 訊ねてみれば、今度は莞爾かんじと笑った。

「神の恵みだ。村を出る前にな、好いものを譲り受けた。すっげぇぞ」
「ふぅん」

 もったいぶったハガーに対するラーナの反応は淡白だった。
 期待は抱いた分だけ、裏切られた際の悲しみが大きくなるものだ。
 ラーナはその点、賢明な生き方を心得ていた。

「……はっ」

 ところが、荷物袋から取り出されたものを見て、ラーナは目を剥いた。瞳を輝かせ、身を乗りだした。
 それは赤みがかった白い拳大の石だった。

「もしかして、岩塩?」
「おうよ。塩をかけた肉はウマいぞ?」

 ラーナはごくりと喉を鳴らした。肉から滴った脂が炎に落ちて、ジュっと音をたてた。
 食べ頃になると、ハガーが岩塩を削ってふりかけてくれた。塩は脂と混じり合い、肉の照りを一段と引き立たせた。

「あ、ああ、ありがとう……!」
「礼なんていいから、さっさと喰え。うっめぇぞ」

 深く頷いて口許の包帯を下げると、ラーナは矢も楯もたまらず肉にかぶりついた。
 瞬間、脂の匂いが鼻腔を満たし、塩気と旨味が舌に融けた。噛めば溢れる肉汁で溺れそうだ。しかし塩で引きたてられた旨味が、咀嚼をやめさせてくれない!
 名残惜しくも呑みこめば、胃の腑でカッと熱が燃えあがった。それが廻る血液とともに沁み、指先にまで活力を満たす。

「ウゥッ……!」

 美味いの一言は、もはや声にならなかった。絶頂のなかに耽溺たんできし、いつまでも貪っていたかった。喰ったばかりなのに腹の虫が鳴りそうだ。
 ハガーも肉にかぶりつくと、声もなく膝を打った。
 二人で黙々と腹におさめていけば、イノシシ一頭などあっという間だった。
 指に付いた脂を舐めているとき、ようやくハガーが、そういえばよ、と口を開いた。

「無事〈ガラスの靴〉が手に入ったら、報酬はどうする?」

 ラーナは、ああと気のない返事をした。まだ肉の余韻に浸っていた。
 そこに寄越されたのは、無論、嘆息だった。

「ああ、じゃねぇよ。大事な話してんの解ってるか?」
「ごめん、解ってる。とりあえず、ロープとナイフ買うお金は欲しい」

 ハガーが呆気にとられたように瞬いた。

「待て。〈ガラスの靴〉の価値って知ってるか? 小遣い貰うんじゃねぇんだぞ」
「でも欲しい物ないし」

 ハガーは頭を抱えた。

「夢か、これは?」
「現実」
「じゃあ、なんでお前は、こんな旅してんだ?」

 もっともな質問とともに、怪訝な眼差しが向けられた。

「ハガーさんに会ったから」
「肉と一緒にヤバい葉っぱも炙ったか?」
「ううん」
「意味が解らん」
「最初は〈ガラスの靴〉を手に入れるつもりだった」
「ますます解らん」
「全部手に入れるつもりだった。欠片じゃない。〈ガラスの靴〉の力が欲しかった」
「……」

 ハガーが真顔で口を噤む。ラーナの姿を上から下まで眺め、下から上へと戻っていく。
 目が合うと「まだ、そのほうが解る」と疲れた息とともに吐きだした。

「今は違うのか?」
「できれば欲しい。でも、そこまで気力あるかどうか。やっぱり国まで敵に回すなんて無謀だし……」
「賢明だ。もう一度訊くが、それならどうして旅を続ける?」

 問いながらハガーは立ちあがる。
 そして、すぐに歩き出してしまう。
 ラーナは慌てて立ちあがり、その隣に並んで歩いた。

「ハガーさんを助けたかった」
「だから、なんでオレが出てくる?」
「似てると思ったから」
「なにが?」
「ボクは魔獣に故郷を滅ぼされた。ハガーさんは〈ウズマキ〉や野盗に仲間を殺された。似てると思った」

 ハガーは前を見据えたまま、風のような足取りで木々の間を進んでいく。

「自分を重ねたわけか」
「うん。ごめん……」
「べつにいい。仲間を喪ったのは事実だ。それで孤独を感じてるのもな。ところで、ヴァンは師匠を山に置いてきたんだったか?」

 ようやくハガーが振り返った。

「……うん」

 なのにラーナは、たまらず目を伏せていた。
 師匠の話がでると胸が痛くて前を向いていられなかった。

 旅を始めたばかりの頃は、ふざけた地図を寄越したのに腹も立った。
 きっとあの頃は、まだ帰れると思っていたのだ。
 所詮、その程度の覚悟だったのだ。

 国を敵に回してでも――。

 大仰な言葉で虚勢を張っていただけだった。
 だが今は、実際に長い距離を歩いてきてしまった。

 師匠……。

 胸に居ついた師の存在が、恨めしいどころか恋しいほどに膨れあがっていく。
 いまさら思い出される別れ際の表情は、けれど鮮明だった。
 待てと呼び止めた声、地図を握らせてくれた肌の感触まで、まだ身体中に残っている。

 ……くそ。こんなボクとハガーさんが似てるわけない。

 多くを失っても、ハガーは正しい道を歩んできたはずだ。悲しみに囚われたとしても、己の行いを悔いて責める必要はどこにもないはずだ。

 ところが彼は、かすれた声でこう返した。

「お前の言う通りかもしれん」

 と。

 驚いて顔を上げれば、ハガーは遠くを見据えていた。
 ラーナはその視線を追ったが、彼がなにを見ているのかはわからなかった。あるのは木々の間隙に淀んだ闇ばかりだった。

「オレにも置いてきた奴がいる」

 奴らとは言わなかった。
 だから殺された仲間たちの事ではなかった。
 なのにハガーの横顔は、仲間の死を嘆くよりもなお悲痛に歪んだ。

「国営猟師になったのは最近のことなんだ。ただの猟師だった頃もあるが、二十五くらいの歳かな、ある村に住みついた。それから庶猟士として飯を喰ってきた」

 猟師が庶猟士になるというのは、まま聞かれる話だ。
 だが決して簡単にはなれないし、優秀な腕をもつ者なら、猟師を続けていたほうが楽に生活できる場合もある。
 どうしてと訊ねるとハガーは、恥じらう様子もなく女だと答えた。

「穏やかで器量の好い女だった。一目見たら胸が熱くなってな、爪先が外へ向かなくなっちまった」

 歯の浮くような話を、ハガーは静かに語った。

「夫婦になるまで、色んなことがあったぜ。だが、何一つ苦にならなかった。あいつといられなくなる、それ以上の苦痛はなかったから。無事、結ばれたときは泣けた。一つしかなかった人生に、もう一つの道ができたような気がしてな。そんな幸せがあるなんて思ってもみなかった」

 ハガーの目尻に深いシワが刻まれた。それは実に優しく穏やかなものだった。見ているこちらまで微笑まずにはいられなくなる。

 しかし目尻のシワはすぐに見えなくなった。
 顔の中心に無数のシワが寄り、ハガーはどっと老け込んだように見えた。

「だが、ある時からあいつ寝込むようになってな。仕事も家事も、少しずつできることが減っていって。……そんで血を吐いた」

 そう言ったハガー自身が、まるで血を吐くように苦しんでいるようだった。

「慌てて医者に診せた。治るかって聞けば、渋い顔だ。崖下に落っことされたような気分だったなぁ」

 ハハと続いた笑い声は、ひどく乾いていた。
 ラーナは笑えなかった。

「でも、医者は続けた。ここでは治療できなくても、王都でなら望みがあるってな。ただし、莫大な金が要るらしかった。そんな時だったんだよ。冒険者時代がやって来たのは」

 奇しくもハガーが絶望し、ラーナが故郷を失った五年前、冒険者時代は幕を開けた。

「じゃあ、ハガーさんが置いてきたのは……」
「女房さ。あいつは行かないでくれって引き留めた。でも聞かなかったんだ、オレは……」

 ハガーは泣き笑いのような表情を浮かべる。握りしめた拳が、メキメキと音をたてた。

「日々弱っていくあいつの姿を見ていたくなかった。ましてや、あいつが死ぬところなんて……。だからオレは逃げた。逃げたんだ」
「……」

 ラーナは言葉を失くす。
 だが、必死で考えた。
 ハガーの心を救ってやれる一言を。

 そして、ハガーは本当に逃げたのだろうかと考えた。

 現実を受け入れることを恐れ、そこから目を背けるのは、たしかに逃避かもしれない。
 不幸を受け入れられず、一縷の望みに縋ったものの、人の暗部を見て進むべき道を変えた自分は、間違いなく逃避の者だとラーナは思う。

 しかしハガーは違うのではないか?

 物事は一見すればひとつでも、上下があったり、側面があったりする。弱りゆく妻に胸を痛め、逃げたいと思ったのは事実でも、彼は道を変えたわけではない。

 だからラーナは、たどたどしくも毅然と言った。

「……それは、きっと、逃げじゃない。ハガーさんは立ち向かい続けてるから」

 すると、ひどく虚ろな双眸に見つめられた。
 ラーナは怯まず、激励の言葉を紡いだ。

「進めば置いてくこともある。でも、いつか奥さんのところ戻るつもりなら、それは捨て置いたわけじゃない。逃げたわけでも。二人でまた共にあるために挑み続けてるんだと思う」

 その先にどんな運命が待ち受けているかは分からない。
 それでも妻のために旅をするハガーの想いが、無駄であるはずがない。想い続けるがゆえにここにいる事が、逃避や裏切りであるはずがない。

 ラーナは熱心な眼差しを注いだ。
 ハガーの心が涸れてしまわぬように。
 運命の神に、このまっすぐな男の幸福を願うように。

「ありがとよ、ヴァン」

 ややあってハガーから、柔らかな笑みが返った。

「本当に金、貰っていいのか?」
「うん。小遣いで充分」
「その前に〈ガラスの靴〉を見つけねぇとな」
「だね」

 熱い視線を交わし、前へ向き直ったその時、二人の視界が豁然かつぜんとひらけた。光を遮る木々の連なりが途切れ、西の稜線と重なった夕日が視界の端を真っ赤に灼いた。

 街道にでたのだ。

 ここから先、ショートカットできそうな道はなかった。東西からせり出した山脈がつくる谷。それが唯一の道だった。

 早速、街道を歩きだしたラーナだったが、すぐに異変を感じた。背中にピリと電気が走ったような気がした。
 振り返ってみて、血の気が引いた。

「ハガーさん……?」

 ハガーが立ち止まったまま肩を押さえていたのだ。

「痛むの?」

 慌てて駆け寄ると、ハガーはおもむろに街道の先を指差した。
 そして見る間にわなわなと震えだしたではないか。

 ラーナはその指先が示すものを追った。
 街道があるだけだった。
 左右からせり出した山々に挟まれた谷道があるだけだった。

 なに? なんなの……?

 目を凝らしてみたところで、獣どころか人っ子一人見当たらない道だ。なんの痕跡もない道だ。
 にもかかわらず、ハガーの震えは止まらない。

「いる、いるぞ……野盗が……ッ!」
「え、野盗?」
「あそこだッ!」

 鬼気迫る表情で叫ぶハガー。

 なにを言って……?

 ラーナは狼狽する。
 どう見ても、あるのは谷底の道だけだ。
 人に見紛うものすらない。なにせ樹木の一本もないのだ。岩なら転がっているものの、とても人の形になど見えるはずがない。

「今度こそ奪うつもりか……。渡さん、渡さんぞ……!」

 一瞬、ハガーの目がカッと見開かれた。

「ぅあ……」

 ところが次の瞬間、糸を切られた人形のように力が抜け落ちた。
 膝から崩れ落ちたところを、とっさに受け止めた。

「ちょっ、どうしたの、ハガーさん!」

 肩を揺さぶってみたが反応がない。

「まさか!」

 口許に耳を近付けると、幸い息はあった。脈もあった。
 浮上する安堵は、しかし額に手を置いた瞬間、絶望へと姿を変えた。

「なんて熱!」

 まるで熱した鉄のようだった。
 たまらず手を退けると、額の中央が刃で裂かれたように赤く染まっていた。

「なんだこれ……?」

 血が出ているわけではなかった。
 局所的な発疹のようだが、形が妙だ。
 
 まるで精緻な刺青のように見えた。

「そ、それより医者!」

 ラーナは頭を振り、ハガーを背負った。自分より体格の大きい男だ。重い。だが放置などできない。できるはずがない。

 歯を食いしばり、谷道を進みはじめた。
 火照る身体を、凍えた風が叩きつけてきた。
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