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八章 創られた命
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松明から放たれるオレンジの輻射光は、未だ旅人二人の顔を鮮明に浮き上がらせるほどではない。ウェイグの目には、幽かに木々の陰影が見てとれる程度だ。
どうする……?
とはいえ、悠長にはしていられない。
逃げるか、隠れるか、迎え撃つか。
何一つとして妙手とも思えぬ中、判断を迫られる。
「……?」
その時、とんと肩を叩かれパートナーを見返すと、彼女は林の奥を指差していた。
あっちへ行くぞということだろうか。
真意を確かめる間もなく、レイラは姿勢を低くして歩きだしてしまう。従うしかない。ウェイグはあとを追った。
この辺りは灌木が多いようだ。残念ながら葉は密に茂ってはおらず、身を隠すには不充分だ。
しかし風に揺れる枝葉の動きにまぎれられたのか、明かりの主に気付かれた様子はない。
ちょうど人一人身を隠せそうな灌木の陰で、レイラは足を止めた。
そして、先にそびえる樹木を指差した。
ウェイグはすぐさま意図を察し、独り、指し示された樹木の陰に急いだ。
心臓がドクドクと鼓動を打っていた。あり得ないと解っていても、明かりの主に聞かれてはいまいかと気を揉んだ。
逸る気持ちを抑え、葉擦れを避ける。足許に注意を凝らし、這う這うの体で進んだ。
すぐにも跳び込んでしまいたい欲求を堪え、やっとの思いで木陰に入った。こめかみに浮いた汗を拭い、しかし間違っても吐息をつかぬよう息を潜める。
……よし。
これで樹木が明かりを隔てる形となった。
身を低くしたまま、ウェイグは近付く影を窺った。
一人か。
松明を手にした、顔の彫りの深い男だった。引き締まった身体をしているが、背は高くない。羽織っているのはコートやローブでなくケープで、足許がよく見える。帯剣はしていない。精々が短剣を携行している程度か。おそらく猟師だろう。
男は注意深く辺りを見渡しながら、ゆっくりと歩み寄ってくる。
やがてウェイグたちが寝床にしていた枝の屋根を見やるや、怪訝そうに眉をひそめた。
「これは……」
男は屋根に近付き屈みこんだ。
枝を固定した杭をしげしげと眺めはじめる。
ここだ。
ウェイグは腿の短剣を抜き、木陰からとび出した。
「……動くな」
「ひッ!」
すかさず男の首筋にスティレットを突きたてた。切っ先がぷつりと肌を刺した。つうと血の糸が垂れた。
「何者だ?」
「そ、そっちこそ、何なんだ……!」
男が震えると、灌木の陰からレイラが姿を現した。彼女は「仲間か……!」と声をあげた男に微笑むと、躊躇なく松明を奪い取った。
「分かるだろう?」
「冒険者か……? どうして、こんな所に」
「質問しているのはこっちだ」
ウェイグは、わずかに刃を押しこむ。
男は痛みに呻くと、口を噤んだ。
「仲間はいるか?」
「いる、いるとも。二人だ。林の外に二人。だが、待ってくれ。わたしは冒険者じゃない」
「下手な嘘は身を亡ぼすぞ。その身なり猟師以外の何だというんだ?」
「待て、本当に違う! わたしは庶猟士だ!」
「庶猟士だと?」
ウェイグが目を眇めると、レイラが額に手を当て嘆息した。
「なるほど、そういうことでしたか」
「まさか、本当に……?」
ウェイグは嫌な予感を覚えながら、男の横顔を睨みつけた。
「ウェイグさん、すぐ解放することになると思います。今しばらくは、そのままで」
「はぁ……」
当惑しつつも警戒は解かなかった。刃を突き立てたまま、男の息遣いにまで注意した。
レイラが男の荷物を検め始めた。
すると、すぐに「これですね」の呟き。胸のポケットに手を突っ込み、取りだされたのは黒いT字型の物体だった。
男があからさまに狼狽したので短剣を押しこむと、レイラは首を振った。
「もう放してあげてください」
「いいんだね……?」
「はい。これを」
言われた通り男を放し、レイラの掲げた物体を覗きこんだ。
案の定、それは表面に「マッカラ」の名が彫られた印章だった。底部のカバーを外してみると、同じく「マッカラ」の名と細かな数字が刻まれている。
「あー、なるほどぉ……」
歔欷として泣き始めた男に、ウェイグは憐憫の眼差しを向けた。
そして深い罪悪感とともに、その肩を叩き印章を差しだした。
「も、申し訳ない……。早とちりでした。本当に庶猟士だったとは……」
「……ムゥン!」
男は印章をぶんどった。
「だから、そう言ったじゃないかぁ……。わたしはマッカラ専属の狩人なんだ!」
資格をもたぬ野良の狩人が猟師と呼ばれるのに対し、領主によって資格を認められた狩人は庶猟士と呼ばれる。
印章は庶猟士の証だ。然るべき手続きを行えば返却もできるが、所有する間は、決められた以外の土地で狩りを行えば責を問われる。
ゆえに、この男が流浪の身とは考えづらかった。
「恐ろしい目に遭わせてしまい、本当にすみませんでした……」
「もういい!」
庶猟士の男は、子どものように拗ねてそっぽを向いてしまう。
「アタシからも……ホントにごめんなさい」
そこへレイラが歩み寄り、上目遣いに覗きこんだ。
男は頬を膨らませ反抗心をあらわにしたが、初めてレイラの美しさに気付いたらしい。ちらちらと見やってから「もう済んだことだし、いいよ」と深く息をついた。
「寛大な御心に感謝します」
「それより、あんたたち何でこんな所に?」
「先を急ぎたかったので」
そう言って頭を掻いたレイラの姿は可愛らしいが、男はさすがに呆れた様子を見せた。
「それで襲われちゃたまらない。獣を獲られちゃ、わたしたちの取り分も損なわれるし……。第一ここは、あまり易しい土地じゃないぞ。もうしばらく南へ行けば、穴だらけで土も柔らかくなる」
「街道を進んでいったほうが、早く南へ行けますか?」
「まあ、ここを通れば多少の短縮にはなるだろうさ。だが、体力的には辛いぞ。まっすぐ突っ切るつもりなら、まだ十マイルほどもあるしな」
「なるほど」
もとより体力的な負担は覚悟している。魔獣の血痕が残った道を通りたくもなかった。
「なるほどって……」
庶猟士は怪訝に腕を組んだ。どうしてそこまで急ぐのか、理解できない様子だった。
実際、〈ガラスの靴〉探索者など博打うちのようなものだ。堅実に日々を生きる庶猟士にとっては、なおさら胡乱な存在に映っても仕方がない。
「まあ、気を付けるこった」
庶猟士はそう言い残し、さっさとこの場をあとにしようとした。
そこへ、すかさずレイラが歩み寄った。「お詫びです」と何か手に握らせた。
すると庶猟士は、とたんに表情を綻ばせた。
「へぇ、クマの胆嚢かい。いいもん持ってんじゃねぇか」
庶猟士はそれを袋へしまうと、今度こそ踵を返した。
ところが、十と進まぬうちに振り返る。なぜか眉根を寄せた不安げな表情で。
「……さっきの釣り銭代わりに教えとくが、この先は近頃気味が悪い。日が昇ってからの移動をおススメするぜ」
「ええ、ご忠告感謝します」
レイラはその意味を訊ねず、淡白に返した。
ウェイグは、それを意外に感じた。
庶猟士は、おそらく夜の丘や山を恐れて言ったのだ。
死の神モロバーロの時と、その庭を恐れて言ったのだ。
しかしレイラは、その信仰的恐怖を歯牙にもかけない様子だった。
猟師とは信心深い人種なのだろうと思っていたが、どうやらそうではないらしい。
「……」
ウェイグも神話や迷信の類は信じていなかった。
なのに何故だろう。
庶猟士の曖昧な物言いが、いつまでも胸の端のほうに引っかかっていた。
いつしか松明の明かりは遠ざかり、闇がたっぷりと緑を濡らしていた。
時折吹きつける風は、葉をくすぐって歪な笑い声のような音を鳴らした。
――
休息をとった二人は、日の出とともに移動を再開した。
庶猟士の忠告通り、道は徐々に険しくなっていった。
南へまっすぐ進もうとしても、巨大な穴があらわれて迂回を強いられ、ペースを上げれば泥濘に足が沈んだ。
周囲の木々は太く頑丈そうだったが、それを支えに登ることは、レイラから禁じられた。なんでもヘビや毒虫の潜んでいる恐れがあるとか。実際、木々には無数の瘤や洞があり、様々な生き物の往来が見て取れた。
「うはあぁ……」
丘の頂上へ到達する頃には、靴の中は泥だらけで、息も荒くなっていた。
「やっとひらけた場所に出ましたね」
一方、レイラの横顔は涼しいものだ。同じ道を歩いてきたはずなのに、泥もあまり付いていない。山道を登った際には、さすがに汗をかいていたが、今は汗の煌めき一つなかった。
一体、あの華奢な身体のどこに力が秘められてるんだ?
ウェイグは畏敬の眼差しで女猟師を見つめた。
「街道へ戻るまで、もうひと踏ん張りです。昼になる頃には、次の街へ着くでしょう」
街。
今夜はゆっくりベッドの上で眠れるらしい。
安堵も喜悦も湧いてきそうなものだったが、反してウェイグの胸には黴のような不安が根を張っていた。
「……ここなんか妙じゃないかい?」
「ええ。やけに見晴らしがいいですね」
不気味なのだ。
獣が集っていたり、毒草が繁茂したりした様子はない。決して岩がちでなく旅には易しそうな地勢だ。
ところが、群生する樹木がないわけではないのだ。
ことごとく倒れ伏しているのだ。
倒木と切り株ばかりが痛々しい姿で残されているのだ。
ウェイグは切り株の一つに歩み寄り、その表面を見下ろした。
そして愕然と目を見開いた。
「これは、どうなってるんだ……? この切り株、断面が抉れてる。まるで、巨大なスプーンで中をかき出したみたいだ」
隣に立ったレイラも大きく首を傾げた。
「たしかに奇妙ですね……」
切り株の断面は、一見すれば腐食して朽ちたように見える。色が悪く、繊維は崩れていて、人の手で切られた様子はない。
だが、明らかに不自然な損傷がある。
ウェイグは最初それを匙に喩えたが、次第に別のもののように感じられてきた。
抉れが五つ並んでいたり、鏃型のものがあったりする。
これは匙というより――、
「……獣の足型か?」
『この先は近頃気味が悪い――』
庶猟士が言っていたのは、この事だったのか?
「ひゃ……っ!」
疑念を確信に変えたのは、レイラの悲鳴だった。
「どうした!」
倒木の前に移動した彼女は、慄然と目を剥いていた。
同じものを見下ろすと、ウェイグはたまらず口許を押さえた。
「なんだ、これは……!」
風が吹いた。
それが鼻腔に腐臭を運んできた。
木のにおいではなかった。
生臭かった。
倒木には樹皮の剥がれた箇所がある。そこには本来、木部が覗いていなければならない。腐食して崩れていたり、虫に喰われてなくなっていたりしても、そこに、
「……イノシシ」
の頭部が埋まっているはずはないのだ。
しかもそれは、洞に入ったまま朽ち果てたという風情でもなかった。毛皮と木の繊維が絡まりあって癒合しているのだ。
まるで樹木からイノシシが生えだしたかのように。
「うっ……」
ウェイグは吐き気を堪え、倒木から目を逸らした。
その拍子に、パキと折れ枝を踏んだ。
見下ろしてみて血の気が引いた。
「……こっちはヘビだ」
分かれた枝の一本が、どこからか鱗と化していた。先端には眼球の白く濁ったヘビの頭があった。
「まさか」
と言ったのはレイラだった。近くの倒木に屈みこむと、蒼い顔でウェイグを見上げた。
「……やっぱりです。瘤の半分がトカゲの頭になってます。落ち葉からカエルの肢でしょうか……? あっちの落ち葉には羽毛が生えてる」
「ごめん、もういい……」
ウェイグは、先の言葉を手ぶりで制した。
胃の腑が脈打っていた。胸の中では糸虫が蠢いているかのようだ。
吐きだしたいが、できなかった。えずいた先で、新たな死骸と対面するのが怖かった。
「それより、早くここを出よう。気味が悪い」
「ですね……」
疲れも忘れ、ウェイグのほうが先導して歩きだしていた。
万が一、死骸を踏んだらと思うと足がすくんだが、注意深く見下ろす気にもなれなかった。
結局、一度も下を見ないまま歩いた。
丘を下ると、辺りには生きた樹木が連なり始めた。
鳥の囀りは優しかった。
思えば、丘の頂上では風の音以外の何も聞かれなかった。
恐れは次第に記憶の中へと沈んでいった。
「……まるで神話のようだった」
だから、あれについて話すこともできた。
隣を歩くレイラも、辺りの様子を観察しながら「なんですか?」と、普段通りの声音で返してくれた。
「神々が動物を創造した話。あれに似てると思ってね」
レイラはせり出した枝を除けながら「ああ、魔女の?」と相槌を打った。
「そう。神々は空の筆をはしらせ、大地を打って、海を注いだ。そこに植物を創り、箱庭を仕立てた」
「でも、神様たちはそれだけじゃ退屈だと思ったんですよね」
「うん。だから人を生みだした。人と言っても、俺たちとは違う、魔法の力をもつ人。今では〈闇貌の魔女〉なんて言われるね」
「こんな事を言うと罰が当たるかもしれませんけど、神様ってとても人間的ですよね。退屈だから箱庭を創って、それだけじゃ物足りないから人を創った。魔女に力を与えたのだって、面倒だから創造の手間を魔女に押しつけたわけでしょう?」
明け透けな物言いに、ウェイグは思わず吹き出した。
「そうだね。確かにすごく人間的だ。まあ、人が創った物語なんだから、当然だろうけど」
「ウェイグさんも、なかなか罰当たりな事を言いますね」
「神は寛大な心をお持ちだ。きっと赦してくださる」
二人はカラカラと笑う。
地面からとび出した根を跨いだところで「さっきの場所は」と、レイラが話を継いだ。
「ホントに神話の一場面のようでした。魔女は神を楽しませるために、幾つかの木々を割って、中に動物を孕ませたんですよね」
「そして魔女とは異なる、力ない人間も生まれたってわけだ。人が植物から生まれたなんて、とても信じられないけど、あれを見たら……」
話しながら、腹の底が重くなっていくのを感じた。
あの場所にあったのは、すべて死骸だった。植物から生まれたのではなく、植物となって死んだようだった。
ウェイグは、巨木の幹に自身の虚ろな相貌がはり付いた様を想像し、憂鬱に目を伏せた。
「あれは何だったろうね……」
「魔女の仕業かも」
まさかとウェイグは笑ったが、レイラは生真面目な表情で前を見据えていた。
「神話では、魔女のその後の所在って言及されてないじゃないですか。今もどこかにいるのかなって」
「魔女の命が永劫なら、それもあり得るかもしれないけど」
「魔法の力を持ってるくらいですし、不思議じゃないですよ」
「意外と信心深いんだね」
笑みの裏側で、ウェイグはレイラの仮説を信じたいと思った。
不明であることは恐怖だから。
それが常識を逸脱したものであれば、なおさら。
魔女が今もこの世界に生きている。
それも充分に常識を逸脱した仮説ではある。
けれど、神が自ら創造した魔女であれば、神聖な存在と捉えることもできる。
あれは俺たちにとっての脅威じゃない。
そう言い聞かせ、急場の納得を得ることはできる。
なんだよ……意外に信心深いのは、俺のほうじゃないか?
そう心中で自虐したときだった。
「ギャア、ギャアッ!」
頭上に絶叫が轟いたのは。
はっとして身構えると、二羽の鳥が羽根を散らしながらつつき合っているのが見えた。
間もなく、一方が甲高い声で鳴いた。
その身がびくんと震えあがった次の瞬間、鳥影は力なく落下し、細枝に叩きつけられた。
「うわっ!」
枝が折れ、鳥はウェイグの足許にどさりと転がった。
鳥は痙攣し、やがて動かなくなった。
「うっ……」
ウェイグは思わず後退っていた。
絶命した鳥の首には、折れ枝が突き刺さっていた。
それが本当に突き刺さっているのかどうか、ウェイグには確信がもてなかった。
あの光景を目にしてしまった、今となっては。
どうする……?
とはいえ、悠長にはしていられない。
逃げるか、隠れるか、迎え撃つか。
何一つとして妙手とも思えぬ中、判断を迫られる。
「……?」
その時、とんと肩を叩かれパートナーを見返すと、彼女は林の奥を指差していた。
あっちへ行くぞということだろうか。
真意を確かめる間もなく、レイラは姿勢を低くして歩きだしてしまう。従うしかない。ウェイグはあとを追った。
この辺りは灌木が多いようだ。残念ながら葉は密に茂ってはおらず、身を隠すには不充分だ。
しかし風に揺れる枝葉の動きにまぎれられたのか、明かりの主に気付かれた様子はない。
ちょうど人一人身を隠せそうな灌木の陰で、レイラは足を止めた。
そして、先にそびえる樹木を指差した。
ウェイグはすぐさま意図を察し、独り、指し示された樹木の陰に急いだ。
心臓がドクドクと鼓動を打っていた。あり得ないと解っていても、明かりの主に聞かれてはいまいかと気を揉んだ。
逸る気持ちを抑え、葉擦れを避ける。足許に注意を凝らし、這う這うの体で進んだ。
すぐにも跳び込んでしまいたい欲求を堪え、やっとの思いで木陰に入った。こめかみに浮いた汗を拭い、しかし間違っても吐息をつかぬよう息を潜める。
……よし。
これで樹木が明かりを隔てる形となった。
身を低くしたまま、ウェイグは近付く影を窺った。
一人か。
松明を手にした、顔の彫りの深い男だった。引き締まった身体をしているが、背は高くない。羽織っているのはコートやローブでなくケープで、足許がよく見える。帯剣はしていない。精々が短剣を携行している程度か。おそらく猟師だろう。
男は注意深く辺りを見渡しながら、ゆっくりと歩み寄ってくる。
やがてウェイグたちが寝床にしていた枝の屋根を見やるや、怪訝そうに眉をひそめた。
「これは……」
男は屋根に近付き屈みこんだ。
枝を固定した杭をしげしげと眺めはじめる。
ここだ。
ウェイグは腿の短剣を抜き、木陰からとび出した。
「……動くな」
「ひッ!」
すかさず男の首筋にスティレットを突きたてた。切っ先がぷつりと肌を刺した。つうと血の糸が垂れた。
「何者だ?」
「そ、そっちこそ、何なんだ……!」
男が震えると、灌木の陰からレイラが姿を現した。彼女は「仲間か……!」と声をあげた男に微笑むと、躊躇なく松明を奪い取った。
「分かるだろう?」
「冒険者か……? どうして、こんな所に」
「質問しているのはこっちだ」
ウェイグは、わずかに刃を押しこむ。
男は痛みに呻くと、口を噤んだ。
「仲間はいるか?」
「いる、いるとも。二人だ。林の外に二人。だが、待ってくれ。わたしは冒険者じゃない」
「下手な嘘は身を亡ぼすぞ。その身なり猟師以外の何だというんだ?」
「待て、本当に違う! わたしは庶猟士だ!」
「庶猟士だと?」
ウェイグが目を眇めると、レイラが額に手を当て嘆息した。
「なるほど、そういうことでしたか」
「まさか、本当に……?」
ウェイグは嫌な予感を覚えながら、男の横顔を睨みつけた。
「ウェイグさん、すぐ解放することになると思います。今しばらくは、そのままで」
「はぁ……」
当惑しつつも警戒は解かなかった。刃を突き立てたまま、男の息遣いにまで注意した。
レイラが男の荷物を検め始めた。
すると、すぐに「これですね」の呟き。胸のポケットに手を突っ込み、取りだされたのは黒いT字型の物体だった。
男があからさまに狼狽したので短剣を押しこむと、レイラは首を振った。
「もう放してあげてください」
「いいんだね……?」
「はい。これを」
言われた通り男を放し、レイラの掲げた物体を覗きこんだ。
案の定、それは表面に「マッカラ」の名が彫られた印章だった。底部のカバーを外してみると、同じく「マッカラ」の名と細かな数字が刻まれている。
「あー、なるほどぉ……」
歔欷として泣き始めた男に、ウェイグは憐憫の眼差しを向けた。
そして深い罪悪感とともに、その肩を叩き印章を差しだした。
「も、申し訳ない……。早とちりでした。本当に庶猟士だったとは……」
「……ムゥン!」
男は印章をぶんどった。
「だから、そう言ったじゃないかぁ……。わたしはマッカラ専属の狩人なんだ!」
資格をもたぬ野良の狩人が猟師と呼ばれるのに対し、領主によって資格を認められた狩人は庶猟士と呼ばれる。
印章は庶猟士の証だ。然るべき手続きを行えば返却もできるが、所有する間は、決められた以外の土地で狩りを行えば責を問われる。
ゆえに、この男が流浪の身とは考えづらかった。
「恐ろしい目に遭わせてしまい、本当にすみませんでした……」
「もういい!」
庶猟士の男は、子どものように拗ねてそっぽを向いてしまう。
「アタシからも……ホントにごめんなさい」
そこへレイラが歩み寄り、上目遣いに覗きこんだ。
男は頬を膨らませ反抗心をあらわにしたが、初めてレイラの美しさに気付いたらしい。ちらちらと見やってから「もう済んだことだし、いいよ」と深く息をついた。
「寛大な御心に感謝します」
「それより、あんたたち何でこんな所に?」
「先を急ぎたかったので」
そう言って頭を掻いたレイラの姿は可愛らしいが、男はさすがに呆れた様子を見せた。
「それで襲われちゃたまらない。獣を獲られちゃ、わたしたちの取り分も損なわれるし……。第一ここは、あまり易しい土地じゃないぞ。もうしばらく南へ行けば、穴だらけで土も柔らかくなる」
「街道を進んでいったほうが、早く南へ行けますか?」
「まあ、ここを通れば多少の短縮にはなるだろうさ。だが、体力的には辛いぞ。まっすぐ突っ切るつもりなら、まだ十マイルほどもあるしな」
「なるほど」
もとより体力的な負担は覚悟している。魔獣の血痕が残った道を通りたくもなかった。
「なるほどって……」
庶猟士は怪訝に腕を組んだ。どうしてそこまで急ぐのか、理解できない様子だった。
実際、〈ガラスの靴〉探索者など博打うちのようなものだ。堅実に日々を生きる庶猟士にとっては、なおさら胡乱な存在に映っても仕方がない。
「まあ、気を付けるこった」
庶猟士はそう言い残し、さっさとこの場をあとにしようとした。
そこへ、すかさずレイラが歩み寄った。「お詫びです」と何か手に握らせた。
すると庶猟士は、とたんに表情を綻ばせた。
「へぇ、クマの胆嚢かい。いいもん持ってんじゃねぇか」
庶猟士はそれを袋へしまうと、今度こそ踵を返した。
ところが、十と進まぬうちに振り返る。なぜか眉根を寄せた不安げな表情で。
「……さっきの釣り銭代わりに教えとくが、この先は近頃気味が悪い。日が昇ってからの移動をおススメするぜ」
「ええ、ご忠告感謝します」
レイラはその意味を訊ねず、淡白に返した。
ウェイグは、それを意外に感じた。
庶猟士は、おそらく夜の丘や山を恐れて言ったのだ。
死の神モロバーロの時と、その庭を恐れて言ったのだ。
しかしレイラは、その信仰的恐怖を歯牙にもかけない様子だった。
猟師とは信心深い人種なのだろうと思っていたが、どうやらそうではないらしい。
「……」
ウェイグも神話や迷信の類は信じていなかった。
なのに何故だろう。
庶猟士の曖昧な物言いが、いつまでも胸の端のほうに引っかかっていた。
いつしか松明の明かりは遠ざかり、闇がたっぷりと緑を濡らしていた。
時折吹きつける風は、葉をくすぐって歪な笑い声のような音を鳴らした。
――
休息をとった二人は、日の出とともに移動を再開した。
庶猟士の忠告通り、道は徐々に険しくなっていった。
南へまっすぐ進もうとしても、巨大な穴があらわれて迂回を強いられ、ペースを上げれば泥濘に足が沈んだ。
周囲の木々は太く頑丈そうだったが、それを支えに登ることは、レイラから禁じられた。なんでもヘビや毒虫の潜んでいる恐れがあるとか。実際、木々には無数の瘤や洞があり、様々な生き物の往来が見て取れた。
「うはあぁ……」
丘の頂上へ到達する頃には、靴の中は泥だらけで、息も荒くなっていた。
「やっとひらけた場所に出ましたね」
一方、レイラの横顔は涼しいものだ。同じ道を歩いてきたはずなのに、泥もあまり付いていない。山道を登った際には、さすがに汗をかいていたが、今は汗の煌めき一つなかった。
一体、あの華奢な身体のどこに力が秘められてるんだ?
ウェイグは畏敬の眼差しで女猟師を見つめた。
「街道へ戻るまで、もうひと踏ん張りです。昼になる頃には、次の街へ着くでしょう」
街。
今夜はゆっくりベッドの上で眠れるらしい。
安堵も喜悦も湧いてきそうなものだったが、反してウェイグの胸には黴のような不安が根を張っていた。
「……ここなんか妙じゃないかい?」
「ええ。やけに見晴らしがいいですね」
不気味なのだ。
獣が集っていたり、毒草が繁茂したりした様子はない。決して岩がちでなく旅には易しそうな地勢だ。
ところが、群生する樹木がないわけではないのだ。
ことごとく倒れ伏しているのだ。
倒木と切り株ばかりが痛々しい姿で残されているのだ。
ウェイグは切り株の一つに歩み寄り、その表面を見下ろした。
そして愕然と目を見開いた。
「これは、どうなってるんだ……? この切り株、断面が抉れてる。まるで、巨大なスプーンで中をかき出したみたいだ」
隣に立ったレイラも大きく首を傾げた。
「たしかに奇妙ですね……」
切り株の断面は、一見すれば腐食して朽ちたように見える。色が悪く、繊維は崩れていて、人の手で切られた様子はない。
だが、明らかに不自然な損傷がある。
ウェイグは最初それを匙に喩えたが、次第に別のもののように感じられてきた。
抉れが五つ並んでいたり、鏃型のものがあったりする。
これは匙というより――、
「……獣の足型か?」
『この先は近頃気味が悪い――』
庶猟士が言っていたのは、この事だったのか?
「ひゃ……っ!」
疑念を確信に変えたのは、レイラの悲鳴だった。
「どうした!」
倒木の前に移動した彼女は、慄然と目を剥いていた。
同じものを見下ろすと、ウェイグはたまらず口許を押さえた。
「なんだ、これは……!」
風が吹いた。
それが鼻腔に腐臭を運んできた。
木のにおいではなかった。
生臭かった。
倒木には樹皮の剥がれた箇所がある。そこには本来、木部が覗いていなければならない。腐食して崩れていたり、虫に喰われてなくなっていたりしても、そこに、
「……イノシシ」
の頭部が埋まっているはずはないのだ。
しかもそれは、洞に入ったまま朽ち果てたという風情でもなかった。毛皮と木の繊維が絡まりあって癒合しているのだ。
まるで樹木からイノシシが生えだしたかのように。
「うっ……」
ウェイグは吐き気を堪え、倒木から目を逸らした。
その拍子に、パキと折れ枝を踏んだ。
見下ろしてみて血の気が引いた。
「……こっちはヘビだ」
分かれた枝の一本が、どこからか鱗と化していた。先端には眼球の白く濁ったヘビの頭があった。
「まさか」
と言ったのはレイラだった。近くの倒木に屈みこむと、蒼い顔でウェイグを見上げた。
「……やっぱりです。瘤の半分がトカゲの頭になってます。落ち葉からカエルの肢でしょうか……? あっちの落ち葉には羽毛が生えてる」
「ごめん、もういい……」
ウェイグは、先の言葉を手ぶりで制した。
胃の腑が脈打っていた。胸の中では糸虫が蠢いているかのようだ。
吐きだしたいが、できなかった。えずいた先で、新たな死骸と対面するのが怖かった。
「それより、早くここを出よう。気味が悪い」
「ですね……」
疲れも忘れ、ウェイグのほうが先導して歩きだしていた。
万が一、死骸を踏んだらと思うと足がすくんだが、注意深く見下ろす気にもなれなかった。
結局、一度も下を見ないまま歩いた。
丘を下ると、辺りには生きた樹木が連なり始めた。
鳥の囀りは優しかった。
思えば、丘の頂上では風の音以外の何も聞かれなかった。
恐れは次第に記憶の中へと沈んでいった。
「……まるで神話のようだった」
だから、あれについて話すこともできた。
隣を歩くレイラも、辺りの様子を観察しながら「なんですか?」と、普段通りの声音で返してくれた。
「神々が動物を創造した話。あれに似てると思ってね」
レイラはせり出した枝を除けながら「ああ、魔女の?」と相槌を打った。
「そう。神々は空の筆をはしらせ、大地を打って、海を注いだ。そこに植物を創り、箱庭を仕立てた」
「でも、神様たちはそれだけじゃ退屈だと思ったんですよね」
「うん。だから人を生みだした。人と言っても、俺たちとは違う、魔法の力をもつ人。今では〈闇貌の魔女〉なんて言われるね」
「こんな事を言うと罰が当たるかもしれませんけど、神様ってとても人間的ですよね。退屈だから箱庭を創って、それだけじゃ物足りないから人を創った。魔女に力を与えたのだって、面倒だから創造の手間を魔女に押しつけたわけでしょう?」
明け透けな物言いに、ウェイグは思わず吹き出した。
「そうだね。確かにすごく人間的だ。まあ、人が創った物語なんだから、当然だろうけど」
「ウェイグさんも、なかなか罰当たりな事を言いますね」
「神は寛大な心をお持ちだ。きっと赦してくださる」
二人はカラカラと笑う。
地面からとび出した根を跨いだところで「さっきの場所は」と、レイラが話を継いだ。
「ホントに神話の一場面のようでした。魔女は神を楽しませるために、幾つかの木々を割って、中に動物を孕ませたんですよね」
「そして魔女とは異なる、力ない人間も生まれたってわけだ。人が植物から生まれたなんて、とても信じられないけど、あれを見たら……」
話しながら、腹の底が重くなっていくのを感じた。
あの場所にあったのは、すべて死骸だった。植物から生まれたのではなく、植物となって死んだようだった。
ウェイグは、巨木の幹に自身の虚ろな相貌がはり付いた様を想像し、憂鬱に目を伏せた。
「あれは何だったろうね……」
「魔女の仕業かも」
まさかとウェイグは笑ったが、レイラは生真面目な表情で前を見据えていた。
「神話では、魔女のその後の所在って言及されてないじゃないですか。今もどこかにいるのかなって」
「魔女の命が永劫なら、それもあり得るかもしれないけど」
「魔法の力を持ってるくらいですし、不思議じゃないですよ」
「意外と信心深いんだね」
笑みの裏側で、ウェイグはレイラの仮説を信じたいと思った。
不明であることは恐怖だから。
それが常識を逸脱したものであれば、なおさら。
魔女が今もこの世界に生きている。
それも充分に常識を逸脱した仮説ではある。
けれど、神が自ら創造した魔女であれば、神聖な存在と捉えることもできる。
あれは俺たちにとっての脅威じゃない。
そう言い聞かせ、急場の納得を得ることはできる。
なんだよ……意外に信心深いのは、俺のほうじゃないか?
そう心中で自虐したときだった。
「ギャア、ギャアッ!」
頭上に絶叫が轟いたのは。
はっとして身構えると、二羽の鳥が羽根を散らしながらつつき合っているのが見えた。
間もなく、一方が甲高い声で鳴いた。
その身がびくんと震えあがった次の瞬間、鳥影は力なく落下し、細枝に叩きつけられた。
「うわっ!」
枝が折れ、鳥はウェイグの足許にどさりと転がった。
鳥は痙攣し、やがて動かなくなった。
「うっ……」
ウェイグは思わず後退っていた。
絶命した鳥の首には、折れ枝が突き刺さっていた。
それが本当に突き刺さっているのかどうか、ウェイグには確信がもてなかった。
あの光景を目にしてしまった、今となっては。
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