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No.3 そして明日はやって来る
1.大人がクソなら、神もクソだ
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肩のうえから毛布を羽織る、三つの小さな人影がある。
襤褸めいた毛布に痩せた人肌を集めただけでは、冬の夜をしのぐのは厳しく、彼らは互いに皮下の凍てついた蛆を殺し合った。
三人の眼間に揺れるのは、弱々しいキャンドルの炎。
いつ消えるとも知れない小さな命が、けれど三人の希望だった。
マロウは可哀想な義妹の肩を抱きながら「お前はエラい」、「よく我慢した」と慰めを闇に融かす。
しかし義妹のすすり泣きはとまらない。涙をぬぐう仕種がひどく痛ましかった。
鎮めていた怒りや憎しみが、その姿を一瞥するだけで胸のなかに再燃する。
窓がカタカタと泣けば、炎もまた揺れた。
「……大丈夫。大丈夫だ。オレがもうすぐ終わらせてやるから。あのクソどもに目にもの見せてやるから」
「そうだよ、マロウを信じて」
そう優しく囁きかけるのは、女子年長のサヘラだった。
「わたしたち、そのためにずっと頑張ってきた。もう少しの辛抱だよ。地獄はいつまでも続かない。この寒い夜も」
義兄と義姉の温もりに包まれながら、少女はかろうじて頷いた。そばかすの上に伝った涙を拭い、洟をすすって、闇のなかに光る義兄の眼差しを見上げる。
「おニイちゃん、独りで大丈夫……?」
「大丈夫さ。オレは強いから」
そう言うとマロウは、誇らしげに脇腹を撫でた。今朝殴られたばかりのそこは、青々とした痣になったばかりでまだ痛んだけれど、彼は努めて殊勝な笑いをつくった。
「それじゃ、そろそろ行ってくるよ。サヘラの言うことをちゃんと聞くんだぜ?」
「うん。気を付けてね、おニイちゃん」
「気を付けて。必ず帰って来てね」
義妹たちの声を受けて、マロウは「もちろんだ」と深く頷いた。
おもむろに立ちあがり、いっぱいに伸びをしてくすんだ窓の外を睨んだ。
暗闇。
あえかな月明かりが、ぼんやりと木々の陰影を描きだすばかりの夜。
時折、闇を裂く刃のような光は、守衛の懐中電灯が放つ目だ。
だが、このホーマー孤児院での生活も長い。見張りのパターンくらいとうに覚えた。子どもを臆病なバカだと信じ切っている大人は、その子どもによって破滅のときを迎えるだろう。
慎重に窓を押しあげ、すぐさま猫のようなしなやかさで庭へおりたつ。義妹たちへは振り返らない。あれ以上の挨拶も不要だ。また彼女たちの憂う眼差しを受けてしまったら、今度こそ出発の機会を逃してしまうから。
この敷地から逃れて、クソったれ孤児院の内情を告発する。そうすれば、きっと自分たちを苦しめてきたすべてが終わる。愛する義兄弟たちと会うことは二度とできなくなるかもしれないけれど。
……いいさ。
マロウは木陰に身をすべらせ懐中電灯の一閃を避けながら、つるりとした十五フィートもの塀を見上げた。樹を登れば越えられない高さではない。だが、あの頂上には有刺鉄線が張り巡らされている。強引に外へ出ようとすれば、それだけで身体中が襤褸同然になるだろう。まるで監獄。これが孤児院。
笑わせんな、クソどもめ……!
マロウは塀伝いに歩き、やがてこんもりと盛り上がった草むらを見つける。それをかき分けると、アーモンド型に穿たれた穴があった。そう、穴だ。そこにはクソどもの手も有刺鉄線もない。ただひらけた自由だけがある。
マロウは土だらけの手をさきに外へだすと、続けて泳ぐように穴をくぐった。沈黙する街灯の群れが、自由の道標のごとく延々と続いて見えた。
ところが、
「クソっ、通れよ……!」
穴が小さかったのか、臀部が引っかかりなかなか外へ抜けてくれない。地面を掻き歯を食いしばるも身体が熱をもつだけだった。
「おい、誰だ! 何してる!」
そこへ守衛の怒号が轟いた。
ドサドサ土をふむ足音がつづく。
「ちくしょう! 抜けろよっ!」
熱くなった身体が急速に冷えていくのを感じた。
伸ばした手を、悪戯な神にふり払われるような心地がした。
「逃がさんぞ、クソガキめ!」
「おいおい、何があった?」
足音が重なり、騒ぎとともに膨れあがる。
そしてマロウの細い足首を、大人のおおきな手が掴んだ。
「ふざけるな! ここまで来たのにッ!」
マロウは絶叫し、手を伸ばすのをやめた。平らかな地面をつかみ、その場に踏ん張る。
大人がクソなら、神もクソだ。だからと言って、クソの自由にさせるわけにはいかない。大人も神もない。自分の手でこの好機を築きあげてきた。
ならば邪魔する者をふり払って、また自分の手で切り拓くしかないのだ。
どんなにこの世が無情でも、
『おニイちゃん――』
自分には守るべきものがあるのだから。
「来んな、クソ野郎ぉ!」
マロウは地面をたたき、あえて身体をひっこめた。その勢いでもって、足首を掴んだ守衛の顔面に強烈な蹴りをみまう。
「あぐっ!」
命中だ。
その反動でマロウは再び地をかき、自由の世界へと漕ぎだす。
足首を指がかすめ、地を掴んだ爪が裏返り、痛みに脳が麻痺して。
それでもマロウは足掻きつづけた。
その意志が、覚悟が、決意が、ついに神の琴線に触れたのか。
「……ったあ!」
マロウの身体は穴のなかから吐き出され、塀の外へと転がりだしていた。
「外だ! あのガキ逃げやがった!」
塀の中で怒声が渦巻く。
キリキリ張りつめた空気と無数の跫音。
休んでいる暇はなかった。
荒い息で立ちあがると、夜の街を駆けだした。
襤褸めいた毛布に痩せた人肌を集めただけでは、冬の夜をしのぐのは厳しく、彼らは互いに皮下の凍てついた蛆を殺し合った。
三人の眼間に揺れるのは、弱々しいキャンドルの炎。
いつ消えるとも知れない小さな命が、けれど三人の希望だった。
マロウは可哀想な義妹の肩を抱きながら「お前はエラい」、「よく我慢した」と慰めを闇に融かす。
しかし義妹のすすり泣きはとまらない。涙をぬぐう仕種がひどく痛ましかった。
鎮めていた怒りや憎しみが、その姿を一瞥するだけで胸のなかに再燃する。
窓がカタカタと泣けば、炎もまた揺れた。
「……大丈夫。大丈夫だ。オレがもうすぐ終わらせてやるから。あのクソどもに目にもの見せてやるから」
「そうだよ、マロウを信じて」
そう優しく囁きかけるのは、女子年長のサヘラだった。
「わたしたち、そのためにずっと頑張ってきた。もう少しの辛抱だよ。地獄はいつまでも続かない。この寒い夜も」
義兄と義姉の温もりに包まれながら、少女はかろうじて頷いた。そばかすの上に伝った涙を拭い、洟をすすって、闇のなかに光る義兄の眼差しを見上げる。
「おニイちゃん、独りで大丈夫……?」
「大丈夫さ。オレは強いから」
そう言うとマロウは、誇らしげに脇腹を撫でた。今朝殴られたばかりのそこは、青々とした痣になったばかりでまだ痛んだけれど、彼は努めて殊勝な笑いをつくった。
「それじゃ、そろそろ行ってくるよ。サヘラの言うことをちゃんと聞くんだぜ?」
「うん。気を付けてね、おニイちゃん」
「気を付けて。必ず帰って来てね」
義妹たちの声を受けて、マロウは「もちろんだ」と深く頷いた。
おもむろに立ちあがり、いっぱいに伸びをしてくすんだ窓の外を睨んだ。
暗闇。
あえかな月明かりが、ぼんやりと木々の陰影を描きだすばかりの夜。
時折、闇を裂く刃のような光は、守衛の懐中電灯が放つ目だ。
だが、このホーマー孤児院での生活も長い。見張りのパターンくらいとうに覚えた。子どもを臆病なバカだと信じ切っている大人は、その子どもによって破滅のときを迎えるだろう。
慎重に窓を押しあげ、すぐさま猫のようなしなやかさで庭へおりたつ。義妹たちへは振り返らない。あれ以上の挨拶も不要だ。また彼女たちの憂う眼差しを受けてしまったら、今度こそ出発の機会を逃してしまうから。
この敷地から逃れて、クソったれ孤児院の内情を告発する。そうすれば、きっと自分たちを苦しめてきたすべてが終わる。愛する義兄弟たちと会うことは二度とできなくなるかもしれないけれど。
……いいさ。
マロウは木陰に身をすべらせ懐中電灯の一閃を避けながら、つるりとした十五フィートもの塀を見上げた。樹を登れば越えられない高さではない。だが、あの頂上には有刺鉄線が張り巡らされている。強引に外へ出ようとすれば、それだけで身体中が襤褸同然になるだろう。まるで監獄。これが孤児院。
笑わせんな、クソどもめ……!
マロウは塀伝いに歩き、やがてこんもりと盛り上がった草むらを見つける。それをかき分けると、アーモンド型に穿たれた穴があった。そう、穴だ。そこにはクソどもの手も有刺鉄線もない。ただひらけた自由だけがある。
マロウは土だらけの手をさきに外へだすと、続けて泳ぐように穴をくぐった。沈黙する街灯の群れが、自由の道標のごとく延々と続いて見えた。
ところが、
「クソっ、通れよ……!」
穴が小さかったのか、臀部が引っかかりなかなか外へ抜けてくれない。地面を掻き歯を食いしばるも身体が熱をもつだけだった。
「おい、誰だ! 何してる!」
そこへ守衛の怒号が轟いた。
ドサドサ土をふむ足音がつづく。
「ちくしょう! 抜けろよっ!」
熱くなった身体が急速に冷えていくのを感じた。
伸ばした手を、悪戯な神にふり払われるような心地がした。
「逃がさんぞ、クソガキめ!」
「おいおい、何があった?」
足音が重なり、騒ぎとともに膨れあがる。
そしてマロウの細い足首を、大人のおおきな手が掴んだ。
「ふざけるな! ここまで来たのにッ!」
マロウは絶叫し、手を伸ばすのをやめた。平らかな地面をつかみ、その場に踏ん張る。
大人がクソなら、神もクソだ。だからと言って、クソの自由にさせるわけにはいかない。大人も神もない。自分の手でこの好機を築きあげてきた。
ならば邪魔する者をふり払って、また自分の手で切り拓くしかないのだ。
どんなにこの世が無情でも、
『おニイちゃん――』
自分には守るべきものがあるのだから。
「来んな、クソ野郎ぉ!」
マロウは地面をたたき、あえて身体をひっこめた。その勢いでもって、足首を掴んだ守衛の顔面に強烈な蹴りをみまう。
「あぐっ!」
命中だ。
その反動でマロウは再び地をかき、自由の世界へと漕ぎだす。
足首を指がかすめ、地を掴んだ爪が裏返り、痛みに脳が麻痺して。
それでもマロウは足掻きつづけた。
その意志が、覚悟が、決意が、ついに神の琴線に触れたのか。
「……ったあ!」
マロウの身体は穴のなかから吐き出され、塀の外へと転がりだしていた。
「外だ! あのガキ逃げやがった!」
塀の中で怒声が渦巻く。
キリキリ張りつめた空気と無数の跫音。
休んでいる暇はなかった。
荒い息で立ちあがると、夜の街を駆けだした。
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