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No.8 夢はいつまでも夢のままで
4.独りにはさせない
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「コウナー……顔をあげておくれよ」
テーブルに突っ伏し、嗚咽をかみ殺す妻の姿は、ハーセン家へおちた暗い影そのものだった。あの日、あの場所で、終末の時計は動きはじめたのだ。
アルバとコウナーの間には子どもができなかった。二人は愛し合っていたし、自分たちの子どもを強く望んでいたが、避妊をやめ半年が経っても、一年が経っても、なんど夜を過ごしてもコウナーが妊娠することはなかった。
そして検査を受けることになったのだ。
コウナーの身体に異常はなかった。彼女の卵巣はまったくの正常であったし、子宮口の狭窄等も見られず、バイタルも健康そのものだった。
原因は明確だった。
アルバのほうに異常があったのだ。
彼の精液中には、精子が確認できなかったのである。
非閉塞性無精子症。
先天性、あるいは後天的な要因で精液中から精子が確認できなくなる症候群である。
だが無精子症の場合でも、妊娠の希望がついえるわけではない。精巣内精子採取術によって、精巣や精巣上体から精子を回収できる望みがあるからだ。
ところがアルバはTESEによっても、精子を回収できなかった。
泣き崩れるコウナーを前に、アルバにはかける言葉が見つからない。それを探す気力も湧いてこなかった。アルバもまた、二人の子がもてないという事実に、深い悲しみを抱えていたからだ。
だからあの時の彼にできたのは、なにも言わずそっとコウナーを抱きしめることだけだった。それが彼女を慰める唯一の手段である気がしたし、他でもない彼自身が休まる唯一の方法だった。
「……ねぇ、アルバ」
不意にぬくもりが上下し、濡れた双眸に見つめられた。アルバは努めて微笑をつくり、この世で最も愛しい彼女に、最上の優しさで「なんだい?」と返した。
するとコウナーは、どういうわけか瞳にたっぷりの不安を湛えるのだった。
「あなたは、わたしとずっと一緒にいてくれる?」
「当たり前じゃないか。君と出逢った日から、ぼくは君だけのものだ」
「わたしもあなただけのものかしら?」
「もちろんだとも。如何なる難事が降りかかろうと、ぼくは君を独りにはさせない」
「本当に……?」
「ああ、本当だとも。そんなウソ、道端の煙草ほどの価値もないよ」
一片の嘘偽りもなく告げたあと、アルバはコウナーの前髪を梳いて、額に柔い口づけをした。それからたっぷりと潤んだ瞳を見つめ、今度はかるい接吻を交わした。
しかしあの時の約束を、アルバは果たせなかった。
彼の夢の成就は、二人の未来をこわす最後の引き金でしかなかった。
シェフの夜はおそく、朝は早い。〝エスコフィエ〟を起ちあげ、経営が隆盛に向かいはじめると、アルバはコウナーの傍にいてやることができなくなっていった。彼女のことを想う時間さえ減っていった。アルバは自分の店に自信をもち、やりがいを感じ、ゆえに多忙だったからだ。
一方で、コウナーを満たしてくれるものは何もなかった。アルバの夢が〝エスコフィエ〟であるなら、コウナーの夢はアルバとの幸せすべてだった。彼女はあまりに純粋に過ぎ、幼すぎた。ゆえに壊れていった。孤独に耐えかね即物的になり、金を求めギャンブルにはしった。
破滅の道をあゆみ始めれば、堕落は早いものだった。
アルバは〝エスコフィエ〟と過去を愛し、コウナーは金しか愛せなくなっていったのだ。
テーブルに突っ伏し、嗚咽をかみ殺す妻の姿は、ハーセン家へおちた暗い影そのものだった。あの日、あの場所で、終末の時計は動きはじめたのだ。
アルバとコウナーの間には子どもができなかった。二人は愛し合っていたし、自分たちの子どもを強く望んでいたが、避妊をやめ半年が経っても、一年が経っても、なんど夜を過ごしてもコウナーが妊娠することはなかった。
そして検査を受けることになったのだ。
コウナーの身体に異常はなかった。彼女の卵巣はまったくの正常であったし、子宮口の狭窄等も見られず、バイタルも健康そのものだった。
原因は明確だった。
アルバのほうに異常があったのだ。
彼の精液中には、精子が確認できなかったのである。
非閉塞性無精子症。
先天性、あるいは後天的な要因で精液中から精子が確認できなくなる症候群である。
だが無精子症の場合でも、妊娠の希望がついえるわけではない。精巣内精子採取術によって、精巣や精巣上体から精子を回収できる望みがあるからだ。
ところがアルバはTESEによっても、精子を回収できなかった。
泣き崩れるコウナーを前に、アルバにはかける言葉が見つからない。それを探す気力も湧いてこなかった。アルバもまた、二人の子がもてないという事実に、深い悲しみを抱えていたからだ。
だからあの時の彼にできたのは、なにも言わずそっとコウナーを抱きしめることだけだった。それが彼女を慰める唯一の手段である気がしたし、他でもない彼自身が休まる唯一の方法だった。
「……ねぇ、アルバ」
不意にぬくもりが上下し、濡れた双眸に見つめられた。アルバは努めて微笑をつくり、この世で最も愛しい彼女に、最上の優しさで「なんだい?」と返した。
するとコウナーは、どういうわけか瞳にたっぷりの不安を湛えるのだった。
「あなたは、わたしとずっと一緒にいてくれる?」
「当たり前じゃないか。君と出逢った日から、ぼくは君だけのものだ」
「わたしもあなただけのものかしら?」
「もちろんだとも。如何なる難事が降りかかろうと、ぼくは君を独りにはさせない」
「本当に……?」
「ああ、本当だとも。そんなウソ、道端の煙草ほどの価値もないよ」
一片の嘘偽りもなく告げたあと、アルバはコウナーの前髪を梳いて、額に柔い口づけをした。それからたっぷりと潤んだ瞳を見つめ、今度はかるい接吻を交わした。
しかしあの時の約束を、アルバは果たせなかった。
彼の夢の成就は、二人の未来をこわす最後の引き金でしかなかった。
シェフの夜はおそく、朝は早い。〝エスコフィエ〟を起ちあげ、経営が隆盛に向かいはじめると、アルバはコウナーの傍にいてやることができなくなっていった。彼女のことを想う時間さえ減っていった。アルバは自分の店に自信をもち、やりがいを感じ、ゆえに多忙だったからだ。
一方で、コウナーを満たしてくれるものは何もなかった。アルバの夢が〝エスコフィエ〟であるなら、コウナーの夢はアルバとの幸せすべてだった。彼女はあまりに純粋に過ぎ、幼すぎた。ゆえに壊れていった。孤独に耐えかね即物的になり、金を求めギャンブルにはしった。
破滅の道をあゆみ始めれば、堕落は早いものだった。
アルバは〝エスコフィエ〟と過去を愛し、コウナーは金しか愛せなくなっていったのだ。
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