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No.8 夢はいつまでも夢のままで
3.なぜ選んだのか
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「ターナー、お前は仕事が遅すぎる。もっと要領よくやるんだ。常日頃いってると思うが、必要以上にお客様を待たせるな」
「はい、料理長!」
アルバ・ハーセンは一日の疲労をため込みながら、弟子たちを叱りつけているところだ。
彼はフレンチ〝エスコフィエ〟の料理長にしてオーナーである。店を起ち上げて、もうどれだけの月日を過ごしてきたのかも思い出せない。それだけがむしゃらにやってきた。
だから今では、ここにいる誰よりも――他のどんな料理人よりもその腕前に自信をもっているつもりだが、人を叱りつけるのだけはどうも上達しないままだった。
「バージェ、お前は味に妥協がある。我々が提供すべき料理は、どんな料理だ?」
「昨日よりも、さらにお客様を楽しませられる料理です」
「じゃあ、今日のお前の料理はどうだった?」
「昨日よりも拙いものを出してしまったかと……」
「そうだな。明日は今日と言わず、今までのどんな料理より美味く楽しめるものをだせ」
「はい、料理長!」
実のところ、アルバは弟子たちにほとんど不満を感じていない。本当に不満に思うところもないではないが、毎日反省会をして粗探しするほど、彼らの腕も精神面も未熟でないことは解っている。だからこの反省会は、彼らに向けた言葉というよりも、自分がかく在るべしという戒めに似ていた。
「では、今日はここまでにしよう」
アルバは疲れとともに吐きだす。
シェフの日々は過酷だ。こうしてスタッフを教育し、料理を提供することだけが仕事ではない。食材の原価計算などを行い――利益を追求しなくてはならない。料理店と言えどもあくまでビジネスであり、金の問題からは逃れられないのだ。
ときには、仕入先の業者と良好な関係をきずけることもあれば、逆に取り返しのつかない軋轢に悩まされることもある。今では信用できる業者と取引しているが、だからと言って胡坐をかくことは許されない。信用とは築きあげたあとに、継続させより深みを目指さなくてはならないものだからだ。
だが、そんな事は些細な問題に過ぎない。自分がすき好んで選んだ道だ。厨房に立つ前から覚悟はできている。
真に頭をかかえ、懊悩するところは他にあった。
「はあ……」
妻コウナーのことである。
どうやら彼女は、最近大きな借金を作ったらしい。先日、その件について大喧嘩をした。そうでなくともコウナーは、こちらの顔を見ただけで顔をしかめ、些末なことでいちいち声を荒げるヒステリックなところがある。正直、一緒に住むのはもう限界を感じていた。
「いや……」
もうそんな段階はとうに過ぎている。
旦那がこうして血肉をしぼりながら働いているときに、コウナーはギャンブルで借金を作って帰ってくるのだ。そんな自己管理のできない女を世話するために、彼女を選んだのではなかった。
では、なぜ選んだのか。
いつの間にか厨房に独りになっていることに気付いて、アルバは目頭をもみほぐし呟いた。
「……愛していたんだ」
そう、愛していた。
今では日夜ギャンブルに明けくれ酒に沈む女に過ぎないが、かつてのコウナーは清楚で、ただ平凡な幸せをのぞむ平凡な女だった。
奮発して高級フレンチに誘い、酒にも酔えずガチガチに緊張した若かりし頃の自分は言ったものだった。
『いつかこんな素敵な店をもって、君に最高の料理をふるまうよ。結婚してくれないか、コウナー』
と。
そして彼の夢は半分叶い、もう半分は決して届くことのない沼の底へと沈んでしまった。あの日、熟れた果実のように頬を赤らめ泣いた彼女はおらず、渡した指輪も残っていない。
あるのは明かりの灯らない家と、途方もない憂い。あるいは借金だけだ。
にもかかわらず、この期に及んでまだアルバは迷い、一方的に彼女を責め立てられずいた。
彼女がああなってしまったのは、自分に責任がある。
口論のたびに、アルバは自分の身体のことを思わずにはいられなかった。
「ぼくたちに子どもがいれば、今ごろ、あの家にも明かりが灯ったろうか……」
「はい、料理長!」
アルバ・ハーセンは一日の疲労をため込みながら、弟子たちを叱りつけているところだ。
彼はフレンチ〝エスコフィエ〟の料理長にしてオーナーである。店を起ち上げて、もうどれだけの月日を過ごしてきたのかも思い出せない。それだけがむしゃらにやってきた。
だから今では、ここにいる誰よりも――他のどんな料理人よりもその腕前に自信をもっているつもりだが、人を叱りつけるのだけはどうも上達しないままだった。
「バージェ、お前は味に妥協がある。我々が提供すべき料理は、どんな料理だ?」
「昨日よりも、さらにお客様を楽しませられる料理です」
「じゃあ、今日のお前の料理はどうだった?」
「昨日よりも拙いものを出してしまったかと……」
「そうだな。明日は今日と言わず、今までのどんな料理より美味く楽しめるものをだせ」
「はい、料理長!」
実のところ、アルバは弟子たちにほとんど不満を感じていない。本当に不満に思うところもないではないが、毎日反省会をして粗探しするほど、彼らの腕も精神面も未熟でないことは解っている。だからこの反省会は、彼らに向けた言葉というよりも、自分がかく在るべしという戒めに似ていた。
「では、今日はここまでにしよう」
アルバは疲れとともに吐きだす。
シェフの日々は過酷だ。こうしてスタッフを教育し、料理を提供することだけが仕事ではない。食材の原価計算などを行い――利益を追求しなくてはならない。料理店と言えどもあくまでビジネスであり、金の問題からは逃れられないのだ。
ときには、仕入先の業者と良好な関係をきずけることもあれば、逆に取り返しのつかない軋轢に悩まされることもある。今では信用できる業者と取引しているが、だからと言って胡坐をかくことは許されない。信用とは築きあげたあとに、継続させより深みを目指さなくてはならないものだからだ。
だが、そんな事は些細な問題に過ぎない。自分がすき好んで選んだ道だ。厨房に立つ前から覚悟はできている。
真に頭をかかえ、懊悩するところは他にあった。
「はあ……」
妻コウナーのことである。
どうやら彼女は、最近大きな借金を作ったらしい。先日、その件について大喧嘩をした。そうでなくともコウナーは、こちらの顔を見ただけで顔をしかめ、些末なことでいちいち声を荒げるヒステリックなところがある。正直、一緒に住むのはもう限界を感じていた。
「いや……」
もうそんな段階はとうに過ぎている。
旦那がこうして血肉をしぼりながら働いているときに、コウナーはギャンブルで借金を作って帰ってくるのだ。そんな自己管理のできない女を世話するために、彼女を選んだのではなかった。
では、なぜ選んだのか。
いつの間にか厨房に独りになっていることに気付いて、アルバは目頭をもみほぐし呟いた。
「……愛していたんだ」
そう、愛していた。
今では日夜ギャンブルに明けくれ酒に沈む女に過ぎないが、かつてのコウナーは清楚で、ただ平凡な幸せをのぞむ平凡な女だった。
奮発して高級フレンチに誘い、酒にも酔えずガチガチに緊張した若かりし頃の自分は言ったものだった。
『いつかこんな素敵な店をもって、君に最高の料理をふるまうよ。結婚してくれないか、コウナー』
と。
そして彼の夢は半分叶い、もう半分は決して届くことのない沼の底へと沈んでしまった。あの日、熟れた果実のように頬を赤らめ泣いた彼女はおらず、渡した指輪も残っていない。
あるのは明かりの灯らない家と、途方もない憂い。あるいは借金だけだ。
にもかかわらず、この期に及んでまだアルバは迷い、一方的に彼女を責め立てられずいた。
彼女がああなってしまったのは、自分に責任がある。
口論のたびに、アルバは自分の身体のことを思わずにはいられなかった。
「ぼくたちに子どもがいれば、今ごろ、あの家にも明かりが灯ったろうか……」
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