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No.8 夢はいつまでも夢のままで
1.メッセンジャーが来るまで
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月のきれいな夜は酒の回りが早い。
初めて唇を濡らしたときは痺れるようだったスタウトの苦味も、今では喉の奥でほんのりと滲むばかりだ。
「ハハっ……」
コウナー・ハーセンは乾いた笑いをはきだし、頭のすぐ上に垂れさがった陰気な照明を見上げた。充血した目には、それが三重に揺らいで見える。そう、きれいな月などではない。むしろ、怪物の眼とでも言ったほうがしっくりくる。彼女は独りきりの円卓に突っ伏して、自嘲的な笑いをはき直した。
「おばさん、ずいぶん酔ってるね?」
コウナーの意識はすでに夢の中か。
鼓膜を撫ぜたのは、影の多い古びたバーには不釣り合いな若い女の声だった。
重い頭をなんとか持ちあげ顎で支えると、照明の橙にぬれてカクテルグラスを掲げる少女がいた。グラスの中身は黒くない。カクテルに安スタウトなどあり得ない。名も知らぬピンクの液体が闇をあらうように泡立っていた。
「ここ、あんたみたいな若い娘が来る場所じゃないわよ」
少女は――どう見ても少女だ。おそらく十四、五だろう。線がほそく、淑女らしい色気は感じられない。頬骨の上にはそばかすが散って、ニッと笑った口許からは前歯が一本欠けて見えた。
「エヘヘ、あたしね、ここのバーテンの娘。お客さんじゃないんだよ!」
「へぇ……。客かどうかはともかくその手にあるのは酒でしょ? 子どもが酒飲むと脳みそが溶けるわよ」
老婆心がてら忠告すると、少女は「エヘヘ」と意味不明な笑いをかえした。どうやら脳みそはすでに溶けているらしい。なるほど、前歯はシンナーのせいか。コウナーは面倒になって、大仰に欠伸をした。
ところが少女は、あろうことかコウナーの正面へと腰をおろす。ピンクの液体を舐めるように飲むと、懐から陶器の灰皿を取りだしてテーブルの中央へ置いた。
「なにしてんの?」
「キャンドルを焚くの」
「ハア?」
少女の言動はまったくもって要領を得ない。だが、酔っているせいか無理に追い払う気は起きなかった。むしろこの頭のイカれた少女が、これ以上のどんな奇行を披露するのか興味が湧いた。
そして少女は、その唇からこぼした言葉どおり灰皿に蝋燭をたてマッチを擦って火をつけた。次いで照明の傘に手をつっこんで明かりを消す。灰皿は無骨で、にじり消したマッチを蝋燭の足許に放置する品のなさだが、こうして周囲の影が肥え、中央に明かりが灯るとなんとなく様になる。心なしか少女のあどけない相貌まで、蠱惑に謎めいて見えた。
バーにぽつぽつ残った呑兵衛たちは、おかしな少女を呆れの目で一瞥すると静かに晩酌を再開する。
「どう、照明よりキレイでしょ?」
「まあね」
「よかった! あたし、この明かりが大好きなの。気に入ってもらえたら嬉しい」
少女はニコニコと笑って前後に身体を揺らす。その様がますます幼く見えて、コウナーは鬱陶しさより切なさを感じた。
わたしたちにも子どもがいれば、こんな一夜があったのかしら。
急速に酔いの醒める気配がむねを満たす。
少女はそれを斟酌したように、灰皿の下から半分に折られた紙片をすべらせて寄越した。
コウナーは大きく瞬きおもむろに起き上がると、紙片と少女とを怪訝に見比べた。
少女はニコニコ笑んだまま。
返ってくるのは理解不能の頷きだ。
「……」
しかし、それはコウナーだけに意味の解る仕種だった。
いや、コウナーはその意味を悟ったのだ。
なぜなら彼女は今宵、心地よい酩酊をもとめて来たわけではないからだ。酒は死神の使者が来るまでの暇つぶしに過ぎなかった。
コウナーは少女への一瞥をくり返しながら、折られた紙片をゆっくりとひらく。
そこにはこう書かれていた。
『いらっしゃいませ、コウナー・ハーセン様。死神の酒場〝コッキング〟へようこそ』
と。
それを目にした瞬間、沸々と昂揚がみなぎった。
紙片から視線をあげれば、未だニコニコと笑みを崩さぬ少女の姿。コウナーにはそれが悪戯好きな小悪魔のように映った。
「エヘヘ」
少女は例の笑いをこぼすと、不意に身をのりだす。コウナーの手許から紙片を摘まみあげ、キャンドルの暗い炎と接吻させた。紙片はたちまちメラメラと燃えあがり、熱いあつい炎の華を咲かせる。その寿命はひどく短く、灰の花弁が皿の底をよごすのだった。
「ますますキレイだよね……」
少女は恍惚として目をほそめる。
いっそ淫靡にすら思える眼差しと、ほんの一瞬交わった。
コウナーは無意識にうなずいていた。
それがメッセンジャーなりの合図だったのか。
少女はおもむろに席をたった。
コウナーは夢幻を追うように、少女の華奢な歩幅へとつづいた。
酒場へ集った客たちは、まだ酔いの中に溺れている。
初めて唇を濡らしたときは痺れるようだったスタウトの苦味も、今では喉の奥でほんのりと滲むばかりだ。
「ハハっ……」
コウナー・ハーセンは乾いた笑いをはきだし、頭のすぐ上に垂れさがった陰気な照明を見上げた。充血した目には、それが三重に揺らいで見える。そう、きれいな月などではない。むしろ、怪物の眼とでも言ったほうがしっくりくる。彼女は独りきりの円卓に突っ伏して、自嘲的な笑いをはき直した。
「おばさん、ずいぶん酔ってるね?」
コウナーの意識はすでに夢の中か。
鼓膜を撫ぜたのは、影の多い古びたバーには不釣り合いな若い女の声だった。
重い頭をなんとか持ちあげ顎で支えると、照明の橙にぬれてカクテルグラスを掲げる少女がいた。グラスの中身は黒くない。カクテルに安スタウトなどあり得ない。名も知らぬピンクの液体が闇をあらうように泡立っていた。
「ここ、あんたみたいな若い娘が来る場所じゃないわよ」
少女は――どう見ても少女だ。おそらく十四、五だろう。線がほそく、淑女らしい色気は感じられない。頬骨の上にはそばかすが散って、ニッと笑った口許からは前歯が一本欠けて見えた。
「エヘヘ、あたしね、ここのバーテンの娘。お客さんじゃないんだよ!」
「へぇ……。客かどうかはともかくその手にあるのは酒でしょ? 子どもが酒飲むと脳みそが溶けるわよ」
老婆心がてら忠告すると、少女は「エヘヘ」と意味不明な笑いをかえした。どうやら脳みそはすでに溶けているらしい。なるほど、前歯はシンナーのせいか。コウナーは面倒になって、大仰に欠伸をした。
ところが少女は、あろうことかコウナーの正面へと腰をおろす。ピンクの液体を舐めるように飲むと、懐から陶器の灰皿を取りだしてテーブルの中央へ置いた。
「なにしてんの?」
「キャンドルを焚くの」
「ハア?」
少女の言動はまったくもって要領を得ない。だが、酔っているせいか無理に追い払う気は起きなかった。むしろこの頭のイカれた少女が、これ以上のどんな奇行を披露するのか興味が湧いた。
そして少女は、その唇からこぼした言葉どおり灰皿に蝋燭をたてマッチを擦って火をつけた。次いで照明の傘に手をつっこんで明かりを消す。灰皿は無骨で、にじり消したマッチを蝋燭の足許に放置する品のなさだが、こうして周囲の影が肥え、中央に明かりが灯るとなんとなく様になる。心なしか少女のあどけない相貌まで、蠱惑に謎めいて見えた。
バーにぽつぽつ残った呑兵衛たちは、おかしな少女を呆れの目で一瞥すると静かに晩酌を再開する。
「どう、照明よりキレイでしょ?」
「まあね」
「よかった! あたし、この明かりが大好きなの。気に入ってもらえたら嬉しい」
少女はニコニコと笑って前後に身体を揺らす。その様がますます幼く見えて、コウナーは鬱陶しさより切なさを感じた。
わたしたちにも子どもがいれば、こんな一夜があったのかしら。
急速に酔いの醒める気配がむねを満たす。
少女はそれを斟酌したように、灰皿の下から半分に折られた紙片をすべらせて寄越した。
コウナーは大きく瞬きおもむろに起き上がると、紙片と少女とを怪訝に見比べた。
少女はニコニコ笑んだまま。
返ってくるのは理解不能の頷きだ。
「……」
しかし、それはコウナーだけに意味の解る仕種だった。
いや、コウナーはその意味を悟ったのだ。
なぜなら彼女は今宵、心地よい酩酊をもとめて来たわけではないからだ。酒は死神の使者が来るまでの暇つぶしに過ぎなかった。
コウナーは少女への一瞥をくり返しながら、折られた紙片をゆっくりとひらく。
そこにはこう書かれていた。
『いらっしゃいませ、コウナー・ハーセン様。死神の酒場〝コッキング〟へようこそ』
と。
それを目にした瞬間、沸々と昂揚がみなぎった。
紙片から視線をあげれば、未だニコニコと笑みを崩さぬ少女の姿。コウナーにはそれが悪戯好きな小悪魔のように映った。
「エヘヘ」
少女は例の笑いをこぼすと、不意に身をのりだす。コウナーの手許から紙片を摘まみあげ、キャンドルの暗い炎と接吻させた。紙片はたちまちメラメラと燃えあがり、熱いあつい炎の華を咲かせる。その寿命はひどく短く、灰の花弁が皿の底をよごすのだった。
「ますますキレイだよね……」
少女は恍惚として目をほそめる。
いっそ淫靡にすら思える眼差しと、ほんの一瞬交わった。
コウナーは無意識にうなずいていた。
それがメッセンジャーなりの合図だったのか。
少女はおもむろに席をたった。
コウナーは夢幻を追うように、少女の華奢な歩幅へとつづいた。
酒場へ集った客たちは、まだ酔いの中に溺れている。
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