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第二部 恐竜母胎カツヤマ
十五、必死
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「あっ」
ハシモトが声をあげた次の瞬間、アサクラの頭を巨大なクチバシが呑みこんだ。下顎の袋状になったそこに、くっきりとアサクラの顔が浮かび上がる!
「フブゥ! フゥッ!」
アサクラが暴れだした!
事前に示し合わせていた合図はなかったものの、緊急事態であることは疑いようがなかった!
「だ、だめだ……ぁ!」
しかしハシモトもマスナガも、銃口を右へ左へさまよわせるばかり。一向に狙いが定まらない!
予想していた以上に、プテラノドンが激しく暴れているからだ。下手に撃てば、アサクラにまで風穴を開ける恐れがあった。翼を撃って痛みを与えようにも、屋根が死角になってしまっていた。
「フムゥ! ムウゥゥゥンッム!」
そうこうしている間にも、苦悶の声は大きくなっていく!
「アサクラさんッ!」
ハシモトは脚立を駆けあがった。屋根に手をかけ、足腰を駆使し天板を蹴った。しかしハシモトは雪国の出身ではない。足腰の力が足りないのだ!
「うわっ!」
「行け……!」
だが、そこにマスナガが駆けつけ、ハシモトの身体を下から押し上げた。
ハシモトは顔を真っ赤にし、懸垂の要領で屋根の上にまで這いあがる。
そして、ショットガンの代わりに、へしこの入ったバケツを掴んだ。そのまま糠水ごと、プテラノドンへとぶちまける!
「ガガガ、ガガッ!」
プテラノドンが反応し、アサクラを放した。へしこを捕らえようと顔を斜めに傾けたのだ!
その瞬間、マスナガも屋根にのぼり、暗い銃口で、プテラノドンの眉間を捉えた!
「撃つなァ!」
ところが、そこにアサクラが悲痛な叫びが轟いた!
マスナガは、引金のあそびの部分でかろうじて指を止めた。
へしこを食べようとしたプテラノドンが、アサクラの胴体に前後から噛みついた!
「いっでッ!」
悲鳴!
「アサクラさぁん!」
「大丈夫だ、問題ねぇ……!」
アサクラは痛みに顔をしかめながらも、片手をあげ笑った。
「えっ?」
「こいつ、人を食っちまうような力はないみてぇだ!」
屋根に落ちたへしこを掴みあげたアサクラは、最初やっていたように、プテラノドンの喉の奥へ腕ごとそれを押しこんだ。
「イイ子だ。うまいか?」
「ガガ、ガガァ……!」
甘えるような声を出すプテラノドン。
未だアサクラに噛みついてはいるが、そこに攻撃的な意思は感じられなかった。
「おお、うまいかぁ。お前はホントにイイ子だなぁ、サトちゃん」
「サト、ちゃん……?」
振り上げたバケツをゆっくりと下ろしつつ、ハシモトは眉をひそめた。
すると、アサクラは満面の笑みで振り返り、こいつの名前だと答えるのだった。
「イカしてるだろ?」
と言えば、その頭をふたたびクチバシが呑み込んだ。
「フッ! フゥン! フウウゥンッフ!」
危機感など微塵もないようだった。自ら下顎の袋におし付けた顔は、皮膜ごしにもだらしない笑みの形に緩んでいた。
イカれてる。
しばらく忘れていた嫌悪感が胸に蘇り、ハシモトはその場に崩れ落ちた。バケツが屋根を転がって地上に落ちた。ガランガランと鳴り響くそれを、狂人と恐竜の戯れる声が塗りつぶした。
――
カツヤマ市に来てから、およそ二週間が経った夜。
ハシモトたちは、まだパチンコ店に潜伏していた。
サトちゃんは、すっかりアサクラに馴染んだものの、怪我の影響で飛ぶことはできなかった。〈オオノ〉へ逃れるには、まだしばらくの時間が必要だった。
「餌やりに行ってくるわ」
バケツ片手に、アサクラが出て行った。パチンコ店には、ハシモトとマスナガだけが残された。
「……」
賑やかしのアサクラがいなくなると、とたんに店内は静かになった。
受け身体質のふたりである。課題がなければ自ら話し出すのは稀だった。最初のうちは沈黙に気まずさを感じもしたが、近頃はそれもなくなっていた。
無理に話さなくても良い、という理解が互いの心に生まれたがゆえだった。
だが、それは互いに秘めたるものがあることの裏返しでもある。
外からリィンリィンと聞こえてくる虫の声を、ハシモトは淋しく聞いていた。割れたガラス扉を塞ぐバリケードの隙間、細く射した月明かりが、ふたりを隔てていた。
やがて、虫の声は子守歌のように、ハシモトを夢の入口へと誘っていく。うつらうつらと舟を漕ぎ、まぶたを閉じれば、次第に虫の声もぼやけて、沁み入るような静寂が訪れた。
「生きるとか、死ぬとかじゃないんだな」
そこにマスナガが、そっと声を添えた。無感情であるがゆえに、その声はかえって情緒的に響いて、夢に落ちかけていたハシモトの瞼を心地よく開かせた。
隣のパチンコ台の陰、メガネフレームの青白い明かりを認め、ハシモトは訊ねた。
「どういうことですか?」
「……」
しかし、すぐに答えが返ることはなかった。
マスナガは前に向きなおったかと思えば俯いて、拳を握ったかと思えば開いて。
ひと言、ふた言なにか呟くと、ようやく話し始めた。
「俺は〈クラブラザーズ〉を裏切って、お前たちに付いてきた。組織を裏切れば追われる。追い詰められれば死ぬ。その覚悟をしたつもりで、あの時、差しだされた手を握り返した」
ハシモトはあえて相槌をうたなかった。
乏しくも、かすかなリズムを残したその声音を、自分が乱してはいけないと思った。
「……なのに、プテラノドンを前にして俺は躊躇った。もう長くない命を惜しく思った」
虚空を見つめるマスナガの姿が、不思議と痛々しく見えた。冷静で、まっすぐで、自分なんかよりずっと強くて、遠いところを見据えていると思っていた相手が、今はひどく身近で弱々しく見えた。
「当然ですよ」
ハシモトは思わず口を開いていた。
「誰だって死にたくない。辛いことや苦しいことがあって、すべて投げだしたくなったとしても、本当はきっと誰も死にたくない。消えたくないと思います」
「なら、どうしてお前たちは踏みだせた?」
虚ろで実直な眼差しが、ハシモトを見た。
「ハシモトは橋から逃げるのを止めて、あの怪物を倒した。アサクラは喰われる覚悟で、プテラノドンに挑んだ」
「それは……」
ハシモトは言い淀んだ。腕を組むと、うんうん唸りだした。
だが、やがて観念して、にへらと頼りなげな笑みを浮かべた。
「……えっと、わからないです」
「わからない?」
「なんて説明したらいいのか。他人のことは、なおさら。アサクラさんって、バカそうなくせに何考えてるかわからないし」
「それは、そうだな」
「でも、ぼくに関しては、えっと憶測になりますけど」
「……」
「ひょっとしたら、後悔したくなかったのかもしれません」
自分自身の言葉に、ハシモトは驚いていた。ずっと疼いていたのに見つけられなかった傷口を、ふと見出した気がしたのだ。
言葉はそれからあとも、ハシモトの意思を離れたように、するすると流れ出た。
「ぼくはフクイの外から来ました。恐竜がいたり、メガネが危険な代物だったり、わけが分からなくて最初は逃げだしたかった。実を言えば、今も思ってるんですけど。でも、こっちへ来てから、ぼくは自分の行いに一度も後悔してないような気がするんです」
「一度も?」
「それはちょっと嘘。ほとんど、ですかね。でもフクイの外にいた頃は、ずっとひどかった。ただただ後悔の日々でした――」
何もやりたいことなどなく、誰が決めたかもよくわからない普通なんて尺度に流されて生きてきた。
大学へ進学したのもそう。
親のコネで就職したのも、そんなようなものだった。
「ぼくは何一つとして、自分で決めてはこなかった。自分の人生に向き合ってこなかった。岐路に立てば、誰かにこっちだって指をさしてもらうのを待っていました。それが楽だったから――」
人生には必ず岐路がある。
そして、どちらに進めば、成功が、あるいは失敗が待っているかはわからない。
自分自身で行き先をえらび失敗すれば後悔する。
ハシモトはそう思っていた。
だから、いつも岐路に立つ誰かに決めさせた。
成功が待ち受けていれば喜び、失敗が待ち受けていたときは、その誰かに向けて石を投げつけてきた。
ハシモトは卑怯だった。
『もういいよ、ハシモトくん。これからはね、少し考えて行動して。ね? 今日はね、もう帰りなよ。ね?』
だが、いつしかハシモトは気付いてしまった。
責任を誰かに押しつけ、石を投げたところで、その石はどこにも届かない。あるいは届いたところで、楽になることも、溜飲が下がることもないのだと。
むしろ、それはハシモトを日々イラつかせてきた、小憎らしい同僚たちと同じ行為でしかなかった。
ハシモトは次第に、自分を責めるようになった。
どうしてあの時――。
そう後悔するようになった。
自分が嫌いになっていった。自分には誇りも自信も何もないのだと気付かされた。
同僚にも、上司にも、だから何も言いだせなかった。
誰かが悪いのではない。
すべて自分が悪いのだ、と――。
「でも、フクイでは自分を責めてる余裕なんかない。流されてちゃ、本気にならなきゃ生きていけない。そうやって、必死にえらんで踏みだして行けば後悔しないんだって、やっとわかってきたような気がするんです。もちろん、アサクラさんにも、マスナガさんにも助けてもらってるんですけどね」
ありがとうございます、とハシモトははにかんだ。
その顔を神妙に見つめて、マスナガはこう言った。
「お前は、その本気を信じているんだな」
急に恥じらいがこみ上げてきて、ハシモトは目を逸らした。
「信じるしかない、みたいな感じなのかもしれませんけど」
「きっと、それでいいんだ。ハシモトの話を聞いて、俺はまだ必死になりきれていないんだと気付いたよ。ふたりに付いてきて、前を向いたつもりでいたのに、怯えていた」
「そう、なんでしょうか……? ぼくは、マスナガさんってすごい人だなぁって思ってたんですけど」
「そうでもない。俺は元々、臆病な人間だ。プテラノドンのこともそうだが、組織のことだって未だに怖い」
「〈クラブラザーズ〉は、みんな怖いですよ」
カニ人間になって襲ってくるような連中だ。恐ろしくないはずがなかった。
そうかもしれない、とマスナガも認めた。
だが、すぐにこう付け加えた。
「実を言えば、組織そのものは、あまり恐れていない」
「え、そうなんですか」
「だが、組織の中に、本当に怖い奴がいる」
「それはどんな……?」
「とにかく上に立たれるのが嫌いで、自分より下の人間をいたぶるのが好きな奴だ。前の組長はあいつに殺された。そして今は、あいつが長の椅子に座っている」
「聞いてるだけで怖いですよ……」
怯えるハシモトに、マスナガはだろうと乾いた相槌を返した。
そして目許を覆ったフレームに指を這わせた。
「メガネ移植者になったきっかけも、あいつなんだ。長の座を奪った直後、あいつは俺の前に現れた。目の前で仲間を殺すと言ったんだ。役に立てって。それだけな。あの日のことを、まだ夢に見るよ。実を言えば、さっきも見たんだ」
無感情な述懐だったが、ハシモトは胸を痛ませた。表情がなくとも、抑揚がなくとも、その恐怖は十分伝わってきた。
ハシモトは何を言うべきか迷い、何を言えば、その恐怖をとり除いてやれるのか悩んだ。
しかしマスナガの中で、すでに答えは出ているようだった。
「でも、もう怯えるのは止めだ。生きるとか、死ぬとか、そんな尺度でものを考えるのは無駄だとわかった。俺はいま生きているんだし、死は死ぬときにやって来るしな。俺はただ、俺として前に進むことを選ぶ。必死に」
その時、外がにわかに騒がしくなった。夜の虫を踏みちらそうとでもように、無数の足音が近づいてきたのだ。
ハシモトはパチンコ台の陰から身をのり出して訊ねた。
「こ、この足音、アサクラさんじゃありませんよね?」
「……だろうな。良いタイミングで来るじゃないか」
マスナガがすっくと立ち上がった。
ハシモトは生唾を呑みこんで、その横顔を見上げた。
「……」
表情はないのに、不思議と涼しく感じられる顔つきだった。
ハシモトは場違いに見惚れた。
「見たってぇのは――だよな?」
「いいの――こんな時に」
「――とき、だからこそ――しめが、団結を――」
そこに、何者かのやり取りが聞こえてきた。
詳細なことはわからなかったが、もはや疑いようもなかった。
「おい、ゴラァ!」
ついに、来たのだ。〈クラブラザーズ〉の追手が。
「ひぃ……ッ!」
いざとなると、ハシモトは慄き頭を抱えた。
マスナガは拳銃のセーフティを解除し、その音をカチャリと闇に沁みわたらせた。
ハシモトが声をあげた次の瞬間、アサクラの頭を巨大なクチバシが呑みこんだ。下顎の袋状になったそこに、くっきりとアサクラの顔が浮かび上がる!
「フブゥ! フゥッ!」
アサクラが暴れだした!
事前に示し合わせていた合図はなかったものの、緊急事態であることは疑いようがなかった!
「だ、だめだ……ぁ!」
しかしハシモトもマスナガも、銃口を右へ左へさまよわせるばかり。一向に狙いが定まらない!
予想していた以上に、プテラノドンが激しく暴れているからだ。下手に撃てば、アサクラにまで風穴を開ける恐れがあった。翼を撃って痛みを与えようにも、屋根が死角になってしまっていた。
「フムゥ! ムウゥゥゥンッム!」
そうこうしている間にも、苦悶の声は大きくなっていく!
「アサクラさんッ!」
ハシモトは脚立を駆けあがった。屋根に手をかけ、足腰を駆使し天板を蹴った。しかしハシモトは雪国の出身ではない。足腰の力が足りないのだ!
「うわっ!」
「行け……!」
だが、そこにマスナガが駆けつけ、ハシモトの身体を下から押し上げた。
ハシモトは顔を真っ赤にし、懸垂の要領で屋根の上にまで這いあがる。
そして、ショットガンの代わりに、へしこの入ったバケツを掴んだ。そのまま糠水ごと、プテラノドンへとぶちまける!
「ガガガ、ガガッ!」
プテラノドンが反応し、アサクラを放した。へしこを捕らえようと顔を斜めに傾けたのだ!
その瞬間、マスナガも屋根にのぼり、暗い銃口で、プテラノドンの眉間を捉えた!
「撃つなァ!」
ところが、そこにアサクラが悲痛な叫びが轟いた!
マスナガは、引金のあそびの部分でかろうじて指を止めた。
へしこを食べようとしたプテラノドンが、アサクラの胴体に前後から噛みついた!
「いっでッ!」
悲鳴!
「アサクラさぁん!」
「大丈夫だ、問題ねぇ……!」
アサクラは痛みに顔をしかめながらも、片手をあげ笑った。
「えっ?」
「こいつ、人を食っちまうような力はないみてぇだ!」
屋根に落ちたへしこを掴みあげたアサクラは、最初やっていたように、プテラノドンの喉の奥へ腕ごとそれを押しこんだ。
「イイ子だ。うまいか?」
「ガガ、ガガァ……!」
甘えるような声を出すプテラノドン。
未だアサクラに噛みついてはいるが、そこに攻撃的な意思は感じられなかった。
「おお、うまいかぁ。お前はホントにイイ子だなぁ、サトちゃん」
「サト、ちゃん……?」
振り上げたバケツをゆっくりと下ろしつつ、ハシモトは眉をひそめた。
すると、アサクラは満面の笑みで振り返り、こいつの名前だと答えるのだった。
「イカしてるだろ?」
と言えば、その頭をふたたびクチバシが呑み込んだ。
「フッ! フゥン! フウウゥンッフ!」
危機感など微塵もないようだった。自ら下顎の袋におし付けた顔は、皮膜ごしにもだらしない笑みの形に緩んでいた。
イカれてる。
しばらく忘れていた嫌悪感が胸に蘇り、ハシモトはその場に崩れ落ちた。バケツが屋根を転がって地上に落ちた。ガランガランと鳴り響くそれを、狂人と恐竜の戯れる声が塗りつぶした。
――
カツヤマ市に来てから、およそ二週間が経った夜。
ハシモトたちは、まだパチンコ店に潜伏していた。
サトちゃんは、すっかりアサクラに馴染んだものの、怪我の影響で飛ぶことはできなかった。〈オオノ〉へ逃れるには、まだしばらくの時間が必要だった。
「餌やりに行ってくるわ」
バケツ片手に、アサクラが出て行った。パチンコ店には、ハシモトとマスナガだけが残された。
「……」
賑やかしのアサクラがいなくなると、とたんに店内は静かになった。
受け身体質のふたりである。課題がなければ自ら話し出すのは稀だった。最初のうちは沈黙に気まずさを感じもしたが、近頃はそれもなくなっていた。
無理に話さなくても良い、という理解が互いの心に生まれたがゆえだった。
だが、それは互いに秘めたるものがあることの裏返しでもある。
外からリィンリィンと聞こえてくる虫の声を、ハシモトは淋しく聞いていた。割れたガラス扉を塞ぐバリケードの隙間、細く射した月明かりが、ふたりを隔てていた。
やがて、虫の声は子守歌のように、ハシモトを夢の入口へと誘っていく。うつらうつらと舟を漕ぎ、まぶたを閉じれば、次第に虫の声もぼやけて、沁み入るような静寂が訪れた。
「生きるとか、死ぬとかじゃないんだな」
そこにマスナガが、そっと声を添えた。無感情であるがゆえに、その声はかえって情緒的に響いて、夢に落ちかけていたハシモトの瞼を心地よく開かせた。
隣のパチンコ台の陰、メガネフレームの青白い明かりを認め、ハシモトは訊ねた。
「どういうことですか?」
「……」
しかし、すぐに答えが返ることはなかった。
マスナガは前に向きなおったかと思えば俯いて、拳を握ったかと思えば開いて。
ひと言、ふた言なにか呟くと、ようやく話し始めた。
「俺は〈クラブラザーズ〉を裏切って、お前たちに付いてきた。組織を裏切れば追われる。追い詰められれば死ぬ。その覚悟をしたつもりで、あの時、差しだされた手を握り返した」
ハシモトはあえて相槌をうたなかった。
乏しくも、かすかなリズムを残したその声音を、自分が乱してはいけないと思った。
「……なのに、プテラノドンを前にして俺は躊躇った。もう長くない命を惜しく思った」
虚空を見つめるマスナガの姿が、不思議と痛々しく見えた。冷静で、まっすぐで、自分なんかよりずっと強くて、遠いところを見据えていると思っていた相手が、今はひどく身近で弱々しく見えた。
「当然ですよ」
ハシモトは思わず口を開いていた。
「誰だって死にたくない。辛いことや苦しいことがあって、すべて投げだしたくなったとしても、本当はきっと誰も死にたくない。消えたくないと思います」
「なら、どうしてお前たちは踏みだせた?」
虚ろで実直な眼差しが、ハシモトを見た。
「ハシモトは橋から逃げるのを止めて、あの怪物を倒した。アサクラは喰われる覚悟で、プテラノドンに挑んだ」
「それは……」
ハシモトは言い淀んだ。腕を組むと、うんうん唸りだした。
だが、やがて観念して、にへらと頼りなげな笑みを浮かべた。
「……えっと、わからないです」
「わからない?」
「なんて説明したらいいのか。他人のことは、なおさら。アサクラさんって、バカそうなくせに何考えてるかわからないし」
「それは、そうだな」
「でも、ぼくに関しては、えっと憶測になりますけど」
「……」
「ひょっとしたら、後悔したくなかったのかもしれません」
自分自身の言葉に、ハシモトは驚いていた。ずっと疼いていたのに見つけられなかった傷口を、ふと見出した気がしたのだ。
言葉はそれからあとも、ハシモトの意思を離れたように、するすると流れ出た。
「ぼくはフクイの外から来ました。恐竜がいたり、メガネが危険な代物だったり、わけが分からなくて最初は逃げだしたかった。実を言えば、今も思ってるんですけど。でも、こっちへ来てから、ぼくは自分の行いに一度も後悔してないような気がするんです」
「一度も?」
「それはちょっと嘘。ほとんど、ですかね。でもフクイの外にいた頃は、ずっとひどかった。ただただ後悔の日々でした――」
何もやりたいことなどなく、誰が決めたかもよくわからない普通なんて尺度に流されて生きてきた。
大学へ進学したのもそう。
親のコネで就職したのも、そんなようなものだった。
「ぼくは何一つとして、自分で決めてはこなかった。自分の人生に向き合ってこなかった。岐路に立てば、誰かにこっちだって指をさしてもらうのを待っていました。それが楽だったから――」
人生には必ず岐路がある。
そして、どちらに進めば、成功が、あるいは失敗が待っているかはわからない。
自分自身で行き先をえらび失敗すれば後悔する。
ハシモトはそう思っていた。
だから、いつも岐路に立つ誰かに決めさせた。
成功が待ち受けていれば喜び、失敗が待ち受けていたときは、その誰かに向けて石を投げつけてきた。
ハシモトは卑怯だった。
『もういいよ、ハシモトくん。これからはね、少し考えて行動して。ね? 今日はね、もう帰りなよ。ね?』
だが、いつしかハシモトは気付いてしまった。
責任を誰かに押しつけ、石を投げたところで、その石はどこにも届かない。あるいは届いたところで、楽になることも、溜飲が下がることもないのだと。
むしろ、それはハシモトを日々イラつかせてきた、小憎らしい同僚たちと同じ行為でしかなかった。
ハシモトは次第に、自分を責めるようになった。
どうしてあの時――。
そう後悔するようになった。
自分が嫌いになっていった。自分には誇りも自信も何もないのだと気付かされた。
同僚にも、上司にも、だから何も言いだせなかった。
誰かが悪いのではない。
すべて自分が悪いのだ、と――。
「でも、フクイでは自分を責めてる余裕なんかない。流されてちゃ、本気にならなきゃ生きていけない。そうやって、必死にえらんで踏みだして行けば後悔しないんだって、やっとわかってきたような気がするんです。もちろん、アサクラさんにも、マスナガさんにも助けてもらってるんですけどね」
ありがとうございます、とハシモトははにかんだ。
その顔を神妙に見つめて、マスナガはこう言った。
「お前は、その本気を信じているんだな」
急に恥じらいがこみ上げてきて、ハシモトは目を逸らした。
「信じるしかない、みたいな感じなのかもしれませんけど」
「きっと、それでいいんだ。ハシモトの話を聞いて、俺はまだ必死になりきれていないんだと気付いたよ。ふたりに付いてきて、前を向いたつもりでいたのに、怯えていた」
「そう、なんでしょうか……? ぼくは、マスナガさんってすごい人だなぁって思ってたんですけど」
「そうでもない。俺は元々、臆病な人間だ。プテラノドンのこともそうだが、組織のことだって未だに怖い」
「〈クラブラザーズ〉は、みんな怖いですよ」
カニ人間になって襲ってくるような連中だ。恐ろしくないはずがなかった。
そうかもしれない、とマスナガも認めた。
だが、すぐにこう付け加えた。
「実を言えば、組織そのものは、あまり恐れていない」
「え、そうなんですか」
「だが、組織の中に、本当に怖い奴がいる」
「それはどんな……?」
「とにかく上に立たれるのが嫌いで、自分より下の人間をいたぶるのが好きな奴だ。前の組長はあいつに殺された。そして今は、あいつが長の椅子に座っている」
「聞いてるだけで怖いですよ……」
怯えるハシモトに、マスナガはだろうと乾いた相槌を返した。
そして目許を覆ったフレームに指を這わせた。
「メガネ移植者になったきっかけも、あいつなんだ。長の座を奪った直後、あいつは俺の前に現れた。目の前で仲間を殺すと言ったんだ。役に立てって。それだけな。あの日のことを、まだ夢に見るよ。実を言えば、さっきも見たんだ」
無感情な述懐だったが、ハシモトは胸を痛ませた。表情がなくとも、抑揚がなくとも、その恐怖は十分伝わってきた。
ハシモトは何を言うべきか迷い、何を言えば、その恐怖をとり除いてやれるのか悩んだ。
しかしマスナガの中で、すでに答えは出ているようだった。
「でも、もう怯えるのは止めだ。生きるとか、死ぬとか、そんな尺度でものを考えるのは無駄だとわかった。俺はいま生きているんだし、死は死ぬときにやって来るしな。俺はただ、俺として前に進むことを選ぶ。必死に」
その時、外がにわかに騒がしくなった。夜の虫を踏みちらそうとでもように、無数の足音が近づいてきたのだ。
ハシモトはパチンコ台の陰から身をのり出して訊ねた。
「こ、この足音、アサクラさんじゃありませんよね?」
「……だろうな。良いタイミングで来るじゃないか」
マスナガがすっくと立ち上がった。
ハシモトは生唾を呑みこんで、その横顔を見上げた。
「……」
表情はないのに、不思議と涼しく感じられる顔つきだった。
ハシモトは場違いに見惚れた。
「見たってぇのは――だよな?」
「いいの――こんな時に」
「――とき、だからこそ――しめが、団結を――」
そこに、何者かのやり取りが聞こえてきた。
詳細なことはわからなかったが、もはや疑いようもなかった。
「おい、ゴラァ!」
ついに、来たのだ。〈クラブラザーズ〉の追手が。
「ひぃ……ッ!」
いざとなると、ハシモトは慄き頭を抱えた。
マスナガは拳銃のセーフティを解除し、その音をカチャリと闇に沁みわたらせた。
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